真田幸村ゆかりの地  真田家ゆかりの地

真田庵

真田庵は、和歌山県伊都郡九度山町にあり、正式には、善名称院という高野山真言宗の寺院である。
伽羅陀山と号し、本尊は地蔵菩薩が祀られている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに敗れた真田昌幸・幸村父子が配流された屋敷跡と伝承されており、門には、真田家の紋である六連銭と結び雁金が彫られている。
寛保元年(1741年)に、九度山出身の僧大安上人が真田昌幸の墓所を寺にしたのが始まりとされている。
大安上人は、盛んに土砂加持信仰を行い、清浄な小石を納める土砂堂を創建し、江戸時代に再建された宝形造の三間堂がある。
本堂は、八棟造と呼ばれる建物で、桃園天皇から許しを得た菊の紋が瓦に彫られている。
真田昌幸の宝篋印塔が残り、真田安房守昌幸墓地として、九度山町の文化財に指定されている。
5月には、真田庵を中心に真田幸村をしのぶ真田祭りがおこなわれ、真田十勇士などの武者行列が出る。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩5分。南側道路沿いに、町営駐車場がある。




真田古墳

真田古墳は、和歌山県九度山町にあり、「真田の抜け穴」伝説を持つ古墳である。
和泉山脈の南に位置し、紀ノ川と丹生川とによって開析された段丘状台地の中腹にある。
古墳時代後期の円墳であるが、墳丘は削られており、石室の天井石が失われているため、地下式石室を覗くことが出来る。
石室は、南向きの横穴式で、割石積みの側壁と平石を用いた奥壁及び天井とをもって構成されている。
羨道は長さ1.4m、幅1.7m、高さ1.2mで、玄室は長さ3m、幅1.8m、高さ1.7mの大きさである。
羨道と玄室との境界に柱石を設け、玄室の扉石として使用されたといわれている。
遺物として、玄室内から須恵器杯、高杯脚部、土師器皿、円盤状石製品などが出土している。
真田庵から東180mに位置し、大坂夏の陣で六文銭の旗印で戦った真田幸村が草庵をむすんだゆかりの地と言われている。
大きな石で囲まれた玄室は、抜け穴の入口のように見えるため、この古墳は「真田の抜け穴」と伝承されていた。
紀伊続風土記には「当村風呂垣内といふ所には、古墳の跡あり、(中略)、里人は真田の穴と呼ふ」と記されている。
南海高野線九度山駅下車、徒歩10分。





真田紐研究会

真田紐研究会の工房は、和歌山県九度山町にある。
真田紐は、縦糸と横糸を使い平たく織った織物の紐である。
関ケ原の戦いの後、九度山に蟄居していた真田信繁(幸村)が、真田紐を製作し、生計をたてていたともいわれる。
真田紐研究会の工房は、平成28年に開館した。
真田紐の作り方を見学、体験でき、真田紐を使ったストラップなども販売している。
南海高野線九度山駅下車、徒歩約10分。




九度山・真田ミュージアム 

九度山・真田ミュージアムは、和歌山県九度山町にある。
真田昌幸・幸村(信繁)・大助 三代の物語を長く後世へと語り継ぐことを目的として、平成28年(2016年)3月に開館した。
真田昌幸(1547-1611)は、信濃国上田城を本拠地に、上杉、徳川、北条の勢力に囲まれながらも、智謀を駆使して戦国時代を生き抜いた武将として知られる。
徳川の大軍を二度破ったが、関ケ原の戦いで西軍に与したため、高野山蓮華定院に配流となり、九度山で生涯を閉じた。
真田幸村(1567-1615)は、真田昌幸の次男として生まれ、上杉家や豊臣家で人質として過ごした。関ケ原の戦いで父ともに蟄居となり、九度山で14年間を過ごした。
大坂冬の陣では、真田丸を築いて活躍したが、大坂夏の陣では、壮絶な最期を遂げた。徳川家康をあと一歩のところまで追い詰め、「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。
真田大助(1603-1615)は、九度山で生まれ、幸村とともに大坂の陣に参戦し、豊臣秀頼とともに大坂城で切腹した。
ミュージアムでは、九度山での真田三代の雌伏の生活を紹介するとともに、上田時代、大坂の陣、真田伝説などがパネルや映像で紹介されている。
また平成28年放送のNHKドラマ「真田丸」に因んで、大河ドラマ展が開催された。
南海電車高野線九度山駅下車、徒歩10分。道の駅「柿の郷くどやま」の駐車場を利用できる。




萱野家

萱野家は、和歌山県橋本市清水にある。
清水の古い町並みは、清水長町と呼ばれており、この景観は1997年に和歌山県ふるさと建築景観賞を受賞している。
萱野家は、高野山領行人方の大庄屋を勤めてきており、高野山の高僧が下山したときの宿泊所、お宿となった屋敷である。
紀伊続風土記には、旧家として 地士萱野孫四郎が記されている。
江州佐々木義秀の一族佐々木左大夫の末裔で、この家の庭には真田幸村(信繁)から贈られた柊と手水鉢がある。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩10分。



蓮華定院

蓮華定院は、和歌山県高野町一心谷にある真言宗の別格本山である。
本尊は、阿弥陀如来(仏工春日作)である。
行勝上人(1130-1217)が、晩年念仏三昧修行に入った奥坊念仏院がはじまりといわれ、建久年間(1190-99)に建立された。
真田昌幸、幸村親子が、関ケ原の戦いに敗れて蟄居を命じられ、最初に身を寄せた場所である。
院内の至る所に、真田氏の旗印六文銭があしらわれている。
その後、妻子との生活が許されたため、当時女人禁制であった高野山から寺領の九度山に移った。
当院には、室町後期から近世末に至る約150通の文書が伝わる。
多くは宿坊証文で、信濃伴野庄の伴野氏、同真田郷の真田昌幸などの文書があり、近世末まで信濃の諸地域の宿坊となっていた。
またキリシタン大名として知られる有馬晴信や浅野幸長の書状なども残されている。
寺宝の藤原国広作の剣は、応其上人(1536-1608)が作らせて蓮華定院に寄進したもので、国の重要文化財に指定されている。
真田幸村自筆書状(焼酎の文1巻、天野詣りことわり状2通)は、幸村が九度山に閑居していた時の書状で、和歌山県の文化財に指定されている。
南海高野山ケーブル高野山駅からバスで「一心口」下車、徒歩1分。




信州真田家供養塔

信州真田家供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院28町石東の高麗陣敵味方戦死者供養碑北側にある。
現地の案内標柱には、信州真田旧伯爵家累代墓所と書かれている。
向かって左端の五輪塔は信州埴科藩第2代藩主 真田信重の供養塔である。
真田信重(1599-1648)は、信濃松代藩主真田信之の三男である。
寛永16年(1639)に兄の真田信政が支藩上野(こうずけ)沼田藩に移ったため、埴科藩主となった。
慶安元年10月25日に50歳で死去、嗣子がなかったので、領地は幕府の承認を得て松代藩に返された。
松代藩真田家の家督は、真田信政が継ぎ、明治維新まで存続し、子爵を経て伯爵となった。




越前福井(北ノ庄)藩主 松平忠直供養塔

越前福井(北ノ庄)藩主 松平忠直供養塔は、和歌山県高野山奥の院30町石西にある。
千姫供養塔の南側に松平忠直正室の勝姫(天崇院)供養塔があり、隣接して松平忠直供養塔がある。
鳥居上部の扁額には、西巖院とあり、五輪塔の地輪には次のように刻されている。
従三位宰相源朝臣
忠直公爲御菩提
慶安三庚寅年九月十日
      西巖院殿
(梵字)爲
      相誉蓮友大居士
施主孝子越後國高田
城主従三位兼松平
越後守源朝臣光長公

松平忠直(1595-1650)は、徳川家康の二男 結城秀康の長男として生まれた。→ 高野山奥の院 結城秀康霊屋
慶長12年(1607)父秀康の領地 越前国福井藩(67万石)を相続し、慶長16年(1611)2代将軍徳川秀忠の三女 勝姫を娶った。
元和元年(1615)大坂夏の陣では、家臣の鉄砲組頭 西尾宗次が真田幸村を討つなど戦功を挙げたが、従三位参議に叙せられただけであったので、幕府に不満を抱き、その後家臣の成敗など乱行を繰り返したため、元和9年(1623)豊後萩原に配流された。(越前騒動)
小説家菊池寛は、配流先の竹中采女正重次が幕府の土井利勝に送った「忠直卿行状記」に言及しつつ、大正7年(1918)に自身の小説「忠直卿行状記」を著している。
当地の五輪塔は、長男の松平光長が建立した。→ 周辺石塔の案内



三光神社

三光神社は、大阪市天王寺区にある神社である。
祭神は天照大神、月読命、素戔嗚尊である。
創建は、第18代反正天皇の時代で、かつては姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)と呼ばれた。
創建時神職であった武内宿祢の末裔武川氏が86代にわたって奉仕した神社である。
全国で唯一の中風病除の神として知られ、6月1日から7日まで祈願大祭が行われる。
七福神の一つ寿老神(武内宿祢)を祀り、毎月7日に大阪七福神巡りが行われている。
この地は、大坂城の出城(真田丸)があった場所と言われ、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、真田幸村が偃月城と名付けた出城を造り、本城からこの地まで抜け穴を掘らせたと伝えられる。
本殿前石段横に、真田幸村像と「史蹟真田の抜穴跡」の石室状の横穴があり、11月第1日曜日に開放されている。
大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車、徒歩3分。JR大阪環状線玉造駅下車、徒歩5分。




安居神社 

安居神社は、大阪市天王寺区にある神社である。
祭神は、少彦名神(すくなひこなのかみ)と菅原道真公である。
少彦名神を奉祀したのは、古文書が散逸したため詳らかでないが、非常に古い時代であると伝えられている。
この神は、医薬禁厭(医術・薬方・まじない)智慧の祖神として知られている。
菅原道真公は、大宰府に左遷される途上、海上の浪荒く暫くこの地に立ち寄って憩われた所以で、天慶5年(942年)此処に神霊を祀ったといわれている。
また、大丸の業祖 下村彦右衛門は当神社を厚く信仰したため、大丸天神と称される。
大阪夏の陣において、真田幸村が徳川家康の直前まで迫るも取り逃がし、この地で力尽きて戦死したと伝えられ、体を休める真田幸村像と戦死跡の石碑が建てられている。
4月25日には、例祭が行われ、5月には幸村祭が行われる。
大阪市営地下鉄四天王寺夕陽丘前下車、徒歩6分。




心眼寺 真田幸村墓所

真田山心眼寺は、大阪市天王寺区にある浄土宗の寺院である。
本尊は、阿弥陀仏座像で、大阪新四十八願所阿弥陀巡礼の一つとなっている。
元和8年(1622年)白牟和尚が戦国武将真田幸村父子の冥福を祈り、堂宇を建立した。
創建からの寺の定紋は真田家家紋の六文銭で、現在の山門扉にも浮き彫りになっている。
真田幸村が大坂冬の陣で戦った真田出丸が築かれた場所と言われ、門前には、「真田幸村 出丸城跡」の石碑が建てられている。
院内には、真田幸村の墓所があり、四百回忌に建立された墓石には、「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と記されている。
真田幸村の名は、死後100年以上たった徳川時代中頃(18世紀)に流布したもので、現存最後の書簡にも「左衛門之佐信繁(さえもんのすけのぶしげ)」と署名されている。
豊臣姓は、秀吉が創始したもので、秀長などの親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠などの有力大名も称していた。
大阪市営地下鉄玉造駅下車、徒歩5分。




平野郷樋尻口門跡 樋ノ尻口地蔵

平野郷樋尻口門跡及び樋ノ尻口地蔵は、大阪市の平野環濠都市遺跡の一つである。
戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態で、周囲には自治と自衛のための濠がめぐらされていた。
濠のあいだには大小13の木戸があり、八尾、古市、堺などに道路が放射状にのびていた。
樋ノ尻口門は、八尾久宝寺につながる大きな木戸で、門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があった。
樋ノ尻口地蔵も当時の名残である。郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事は、この入口で退散させようとした祈願のあらわれである。
大坂夏の陣の元和元年(1615年)5月7日、徳川家康の樋ノ尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛け大坂城へ引き揚げた。予想通り家康が来て、ここで休憩したが、ちょっと座を外した時に地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説がある。
現在、全興寺に祀られている首地蔵は、この時の爆発で吹き飛んできた樋ノ尻地蔵の首と伝えられている。
これらの門は、明治12年のコレラ流行の時は閉じられ、通行人の出入りを制限したという。門は、この時より後に撤去された。
JR大和路線平野駅から徒歩16分。





全興寺

全興寺は、大阪市平野区平野本町にある真言宗の寺院である。
野中山と号する。開基は聖徳太子で、野の中にこの薬師堂が建てられ野堂と呼ばれた。
ここから人が住み始め平野の町が次第に広がっていったと言われ、旧町名の平野野堂町の起源となっている。
本尊は聖徳太子自作といわれる薬師如来像で、本堂に上がる階段上の蟇股(かえるまた)にタコの彫刻があるため、蛸薬師と呼ばれる。
現在の本堂は、1576年坂上利治によって再建されたもので、1614年の大坂冬の陣では、徳川秀忠の陣所となった。
当寺には、真田幸村樋ノ尻口地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという「首の地蔵尊」が安置されており、1月8日の初薬師と9月の観月会には、本尊とともに公開される。
また、杭全神社の奥の院と仰がれ、毎年7月14日には「みこし渡御」の神事が行われる。
JR大和路線平野駅から徒歩12分。




南宗寺

龍興山南宗寺は、堺市堺区南旅籠町東にある臨済宗大徳寺派の禅宗寺院である。
初めは南宗庵と称して、正覚普通国師の隠棲の地だったが、国師に深く帰依した三好長慶が寄進し、父元長の霊を弔うため、1557年に大林宗套(だいりんそうとう)を迎え寺を創建した。
当初は宿院町南方にあったが、1615年に大坂夏の陣で他の寺院とともに焼失したため、1617年に当時の住職澤庵宗彭(たくあんそうほう)が現在地に再建した。
第二次世界大戦の空襲にも罹災したが、古田織部作といわれる枯山水の庭園、八方睨みの龍の描かれた仏殿、山門、唐門などが残り、本堂、客殿なども再建され、堺市第一の禅寺として多くの参拝客が訪れる。
茶道とのゆかりが深く、境内には、武野紹鷗や千利休一門の供養塔、当時茶の湯の発展に尽くした津田家、半井家一門の墓所がある。
1963年には、利休好みの茶室「実相庵」が再建され、前庭には利休の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」や武野紹鷗が愛したとされる「六地蔵石燈籠」が置かれている。
また、境内には、徳川家康の「墓」があり、家康が大坂夏の陣で真田幸村の奇襲を受けて、後藤又兵衛の槍で突かれて、南宗寺で絶命したとの伝説がある。
元和9年(1623年)7月10日二代将軍秀忠が、つづいて8月18日に三代将軍家光がそれぞれ南宗寺に詣でて、参拝したといわれる。
この元和9年は、7月に秀忠が将軍職を辞し、家光が三代目を継いだ年で、この墓に報告に来たのではないかといわれている。
阪堺電気軌道阪堺線の「御陵前」下車、徒歩5分、参拝者用の無料駐車場がある。






龍安寺 

龍安寺は、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
山号は、大雲山。本尊は釈迦如来で、平成6年(1994年)に世界文化遺産に登録された。
もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450年)に細川勝元が、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて、禅院としたものである。
玄承は、その師 日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を開山として、自らは創建開山となった。
応仁の乱で焼失したが、明応8年(1499年)に細川政元が再興し、最盛時には塔頭23を数えた。→ 龍興寺
その後、寛政9年(1797年)に火災に遭い、現在の姿となっている。
方丈庭園(国の史跡及び特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水式石庭の代表作である。
東西25m、南北10mの空間に白砂を敷き詰め、15個の石を配置して、一木一草も使わず象徴的に自然を映し出している。
あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えることから、「虎の子渡し」とも呼ばれる。
方丈の北には、茶室蔵六庵(ぞうろくあん)があり、徳川光圀寄進の「吾唯足知(われただたるをしる)」と刻まれた石造りの手水鉢がある。
方丈南側の塔頭大珠院に真田幸村の墓がある。幸村の女婿石川光吉が、大珠院を再興した縁によるものである。
山門北側の鏡容池(きょうようち)は、平安時代に円融天皇の御願寺としてこの地に建てられた円融寺の園地といわれ、その後藤原実能(さねよし)が山荘を営んでいた場所で、鏡容池を含む龍安寺庭園(38,400㎡)が名勝に指定されている。
龍安寺背後の山には、一条、後朱雀、後三条天皇等の陵があり、龍安寺七陵と呼ばれる。
平成30年(2018年)に、123年前に流失した17世紀初めの芭蕉図襖絵が、龍安寺に買い戻された。
この芭蕉図は、金地にバショウを描いたもので、狩野派または海北派の作と言われる。
京都市バス龍安寺前下車すぐ。参拝者用の駐車場がある。







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