京大坂道不動坂ウォーク
高野参詣道京大坂道は、高野七口の一つ不動坂に至る高野参詣道で、京都・大坂・堺からの道が河内長野で合流し、
紀見峠を越えて橋本で紀の川を渡り、清水、学文路(かむろ)から河根(かね)、神谷(かみや)を経て高野山女人堂に至る。
なかでも堺からの西高野街道は近世に大いに栄え、今も堺の大小路(おおしょうじ)橋から女人堂まで一里毎に道標石が残る。
これらは、「南無大師遍照金剛」の文字とともに、女人堂までの里程が記され、高野参詣の人々はこれを見るたびに一里ずつ近づく高野の姿を思い描いた。
これらは、いずれも江戸時代末期の安政4年(1857年)茱萸木(くみのき)村(大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立された。
不動坂は、京大坂道の終点である女人堂の手前、距離約2.7km、高低差310mの急峻な坂道で、京大坂道のなかで最難所である。
学文路苅萱堂は、和歌山県橋本市にあるお堂である。
寺号は仁徳寺で、苅萱道心、石童丸物語の舞台として知られている。
石童丸物語は、中世以来高野聖の一派である萱堂聖によって語られてきた苅萱親子の悲哀に満ちた物語で、江戸時代には、説経節や浄瑠璃「苅萱桑門筑紫𨏍」となって、広く世に知られた。
出家した父道心を探して、高野山を目指した石童丸と母千里ノ前は、女人禁制のため母を玉屋旅館に残し、石童丸が一人で高野山に登った。
道心は出家の身で、「あなたの父は、すでに亡くなられた。」と偽って、石童丸を学文路へ帰したが、母はすでに亡くなっていた。
石堂丸は再び高野へ上り、苅萱道心の弟子となったが、二人は親子の名乗りをすることなく仏道修行した物語である。
堂内には、苅萱道心、石童丸、千里ノ前、玉屋主人の像が安置され、千里ノ前の遺品とされる人魚や、石童丸の守り刀などが残されている。
これらは、「苅萱道心・石童丸関係信仰資料」として、市の指定民俗文化財となっている。
南海高野線、学文路駅下車、徒歩5分。
杖の梅天神は、和歌山県橋本市学文路の高野参詣道京大坂道沿いにある。
弘法大師空海が、讃岐(香川県)から杖として突いてきた梅の木を、この地に差し置いたのが芽吹いたものと伝えられ、
梅の縁により小さな社を設け、天神を祀ったと伝えられている。
南海高野線学文路駅下車、徒歩15分。
旧玉屋屋敷跡は、和歌山県橋本市学文路にある。
玉屋は石童丸物語の千里の前、石童丸母子が止まった宿として知られている。
紀伊国名所図会の(学文路)苅萱堂の項に次のように記されている。
(略)昔の妻 千里の前、(加藤左衛門尉)繁氏の母より傳へ持ちたる石を懐中して、(略)出産ありし男子に石堂丸(石童丸)と名(なづ)け、十四歳のとし、母諸共に(略)此里にきたり。
昔筑紫にて玉田與藤次(たまだよとうじ)といへる浪人の、今は此里にて、玉屋與次(たまやよじ)といへる者の宿にて、病の床に伏し、終に永萬元年酉三月二十四日の朝の露と消失せられしを、健泰妙尊大姉と戒名を授けて葬るとなむ。
南海高野線学文路駅から徒歩10分。
学文路三叉路道標石は、和歌山県橋本市学文路にある。
この道標は、寶暦8年(1758)に建立されたもので、高野街道に建てられた13本の里程石(1857年)より100年前の建立である。
京大阪から高野山に至る高野街道は、紀ノ川を渡り清水、南馬場から学文路に入ると、村の中ほどで南に直角に折れる。
すると間もなく南進して高野山に向かう道と、西折れして慈尊院に向かう道に分かれる三叉路となっていた。
紀伊国名所図会にこの道標石が描かれている。
現在は交差点となっている南側に、北を向いて学文路三叉路道標石が建っており、次のように刻まれている。
(西面) 寶暦戊寅年四月建立
(北面) 梵字 右 慈尊院みち 是より一里
左 高野みち 女人堂迄 三里
(東面) 堺北材木町 白峯法師
施主 青木氏
(南面) (刻字なし)
昭和56年(1981)に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線学文路駅から徒歩10分。
興山寺領御国領境界標石は、和歌山県橋本市学文路にある。
江戸時代に京大坂から高野街道を進み、紀ノ川を渡り三軒茶屋の大常夜燈籠に至ると、高野山興山寺領(行人派)となる。
三軒茶屋から高野街道は西へ進み、向副、賢堂、清水、南馬場の興山寺領を経て、学文路に至る。
学文路は紀伊藩領地(御国領)であったため、興山寺領の南馬場との境界に、この境界標石が設置されたと考えられている。
現在この標石は学文路郵便局前に建てられているが、当初は現在の学文路小学校前の、南馬場と学文路の境界の大谷川に架かる土居橋付近に建てられていた。
その後、土地区画整理などのため抜き去られ、一時は郵便局から約200m東の民家で排水溝壁に使われていた。
当時の学文路郵便局長が偶然これを見つけて譲り受け、現在地に保存したものである。
境界標石には次のように刻まれている。
「(北)定杭是ヨリ 北興山寺領
(南)是ヨリ 南御国領」
昭和56年(1981)に橋本市の文化財に指定されている。
郵便局前西側には、「右 京大坂堺伊勢」と書かれた標石がある。
南海高野線学文路駅から徒歩10分。
かむろ地蔵は、和歌山県橋本市学文路にある。
地蔵前の由緒書に次のように記されている。
弘法大師が高野山を開いたとき、「かむろ」は桜の名所として名高く「香室(かむろ)」と書いていた。
この香室の里に、自らを物狂道士と称する高徳の士が隠棲していた。
この人が謡曲「高野物狂」の主人公高師(たかし)四郎で、その善行美徳は遠くまで感化を及ぼしていた。
殊に学問の道の教導に力を尽くしたため、この地方では字の読めない者が一人もいなかったということで、当時としては珍しいことであった。
こうしたことから「香室」を「学文路」と書くようになった。
弘法大師も深く道士をめでていたので、道士がこの地で大往生を遂げた時、菩提のために読経をした。
その時、弘法大師が腰かけた石がこの垣内正面に安置されている石で、その後これをお大師さんの腰かけ石と呼んで祀るようになった。
後に地蔵三基が次々に寄進され、現在のかむろ地蔵となった。
このためこの地蔵尊は、子供たちの守護の地蔵であるとともに、特に「学問のお地蔵さん」として信仰されている。
紀伊国名所図会巻之四には、次のように記されている。
〇物狂石 学文路村内、左側にあり。石上に小堂を安ず。〔禿物狂〕といふ謡曲に出ず。
南海高野線学文路駅から徒歩10分。
旧高野街道 高野山三里道標石は、和歌山県橋本市学文路にある。
高野山へ向かう街道で最も古く、多くの人々に利用されたのが東高野街道である。
この街道は、京都から八幡、枚方を経て、生駒山西麓を南下し、河内長野から紀見峠を越え、町石道から高野山に至るもので、平安時代後期に開かれたといわれている。
その後、堺からの西高野街道、平野からの中高野街道がひらかれ、河内長野で合流して高野山に登ることができるようになった。
なかでも、西高野街道は近世に大いに栄えて、現在でも堺の大小路(おおしょうじ)橋を起点に高野山女人堂まで、一里毎に道標石が残されている。
これらはいずれも幕末の安政4年(1857)茱萸木村(大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立され、すべてが現存している。
この三里道標石は、元は学文路小学校の北の土井川の橋の袂にあったが、移設された。
標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 南無大師遍照金剛
(正面) 是ヨリ 高野山女人堂 江 三り
(左面) 安政四丁巳九月
河州錦部郡
下岩瀬村 中村甚右ヱ門
下天見村 大谷十兵ヱ
下天見村 川見惣兵ヱ
上岩瀬村 田中藤〔兵ヱ〕
(裏面) 孫海
河州 小左ヱ門
五兵ヱ
昭和56年(1981)に橋本市の文化財に指定されている。
学文路天満宮は、和歌山県橋本市にある神社である。
社名は天満神社で、現在は学文路地区全域の氏神となっている。
祭神は、菅原道真公で本殿中央に祀り、左側に天穂日命(あめのほのひのみこと)、御父君 菅原是善卿(すがわらこれよしきょう)、御母君 園文字姫(そのもしひめ)の3柱、右側に旧学文路村内の55柱を祀っている。
創建について、「天満神社御縁起」では、「天満神社は、人皇第75代崇徳天皇の天治元年(1124年)9月25日、紀伊国伊都郡当時相賀の荘の今の地に御勧請、<中略>当神社は京都北野神社御建立の際、時の帝第62代村上天皇の天暦元年(947年)、日本国中一郡に大社小社に不限必ず一社の鎮座を被仰出たるに依る」とされている。
元弘3年(1333年)の後醍醐天皇の綸旨、いわゆる元弘の勅裁により、相賀荘は「相賀荘河北」「相賀荘河南」と、紀ノ川の河北と河南で領有が二分された。
相賀荘河北は、これまでどおり根来寺領、相賀南荘は、高野山寺領となった。相賀大神社を「河北惣社」と呼ぶのに対し、天満神社は、南荘の総鎮守となって、「河南天神」ともいわれて、崇敬された。
明治6年(1873年)に村社、明治40年(1907年)に神饌幣帛供進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定された。
伊都地方唯一の天満宮として、学業成就、受験合格の参拝者が多く訪れている。
祭礼は、1月25日(初天神)、8月25日、10月第4日曜日に行われており、初天神には学文路地区の小中学生の書初め展がある。
南海高野線学文路駅下車、徒歩20分。参拝者用駐車場がある。
大畑才蔵勝善(おおはたさいぞうかつよし)(1642年-1720年)の墓は、和歌山県橋本市学文路にある史跡である。
利水の先覚者大畑才蔵勝善は、寛永19年(1642年)学文路で生まれた。
18歳で杖突(つえつき 庄屋の補佐役)、28歳で高野内聞役(こうやないぶんやく 高野山の情報を藩に伝える役)と、若年で要職に就き、各層から厚い信望を集めた。
元禄9年(1696年)55歳の時「和歌山会所詰御用」を命じられて藩に出仕し、以降大畑才蔵の優れた才能は紀州藩の事業を通して大きく開花した。
大畑才蔵が手がけた大水利事業は、元禄11年(1698年)からの伊勢一志郡の新井(しんゆ)施工完成、紀州では元禄13年藤崎井(ふじさきい)、宝永7年(1710年)小田井竣工の二大灌漑事業がある。
特に小田井は根来(岩出市)に至る大規模なもので、県下随一を誇る農業用水であった。その長さは9里8町(約36㎞)に及び、およそ1000町(約9.9㎢)の田に水を導いた。
これらの水路には、サイフォン方式や「かけひ」方式など天才的な設計技法が随所に用いられている。
その後、才蔵のたずさわった仕事は、名高浜(なだかはま)の塩田、亀池(海南市)、引の池、河瀬(こうぜ)新地(橋本市)など多数に及ぶ。
享保5年(1720年)9月24日に79歳で没し、戒名は「浄岸慈入居士」とつけられた。墓石は、紀ノ川側から3列目の左から4つ目である。
「才蔵日記」等の記録類も残されており、墓地とともに和歌山県指定文化財となっている。
墓地からは、紀ノ川を望むことが出来る。
南海高野線学文路駅下車、徒歩18分。かむろ大師の参拝者駐車場がある。
ヒロ画廊(Hiro Art Gallery)は、和歌山県橋本市学文路にある。
2018年12月7日から12月23日まで銅版画の坪内好子展が開催された。
2019年7月5日から7月14日まで杉田修一の世界展が開催されている。
南海高野線学文路駅下車、徒歩5分。
京奈和自動車道橋本インターチェンジから車で10分。専用駐車場がある。
高野街道六地蔵第二(橋本市指定文化財)は和歌山県橋本市南馬場にある。
江戸時代の後半、高野山参詣者の安全を祈願して、清水から桜茶屋までの六か所に地蔵堂が建立され「高野街道六地藏」と呼ばれていた。
堂内には、中央に地蔵菩薩、右に観音菩薩、左に不動明王の三体が祀られているが、左右の二体は後から祀られたといわれる。
紀伊続風土記の清水村の項に次のように書かれている。
「地蔵堂 境内周二十二間丁田にあり 六地蔵の第二なり」
堂前の里程石には、次のように記されている。
「東 高野山女人堂迄三里
地蔵尊 弘法大師御作
弘法大師御母公御廟所
慈尊院村江一里是ヨリ十丁程先別道有
南 橋本町東家舩渡シ江一里
伊勢江三十六里吉野江七里
大坂江十二里堺江九里」
平成26年11月、国道370号線の拡幅により約7メートル西北西に移設されたため、里程石の基部の色が違っている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩20分。
戸谷新右衛門の墓地は、和歌山県橋本市南馬場にある和歌山県の指定史跡である。
戸谷新右衛門は、貞享3年(1686年)高野山領の南馬場に生まれ、その性格は正義剛直の人であったと伝えられる。
当時、高野山領の年貢は、寛文9年(1669年)に幕府が制定した「京桝」を使わず、大きな「讃岐枡」を使用し、さらに付加税(年貢米1石について2升の差口米(さしぐまい))も加わって、領内農民は窮乏していた。
これを見かねた興山寺領清水組庄屋の新右衛門は、享保5年(1720年)江戸の寺社奉行に直訴し、その結果訴えが聞き入れられ、不正枡の破棄と付加税の廃止が実現した。
越訴(おつそ)の罪で3年間入牢した後、赦免されて故郷に戻ったが、興山寺の怒りを買い、高野山の蛇柳で石籠詰(いしごづめ)の刑に処せられて、36年の生涯を閉じた。
積まれている墓石は、新右衛門が直訴に出かける前、密かに造って竹藪の中に隠してあったものといわれている。
大菩薩峠の作者として知られる中里介山は、小説「高野の義人」で戸谷新右衛門とその子新九郎の物語を描いている。
戸谷新右衛門伝承は、立証資料がないものの、明治時代に掘り起こされた義民伝承の一つで、昭和34年には高野山を背に大きな石碑が建てられ、顕彰されている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩20分。
成就寺(大師堂)(福成就寺)は、和歌山県橋本市南馬場にある高野山真言宗の寺院である。
瑜伽山遍照院と号する。本尊は、厄除弘法大師像である。
寺由緒によると、空海が開基したと伝えられている。
境内には、本堂、坊舎、新右衛門堂、山門(内部に鐘楼あり)、船越喜右衛門之碑等がある。
寺宝として、露盤宝珠(寛永年間高野山千手院長泉房良弁作)、棟札(寛永20年作)、石像(如意輪観音)がある。
船越喜右衛門は、文政元年(1822年)学文路に生まれ船頭をしていた。ふるまいは大胆で、義侠心に富み、あだ名は「滅法喜右衛門」といわれた。
嘉永5年(1852年)7月に紀の川に大洪水が発生し、清水と丁田の間の堤防が決壊し、丁田の村人は村の東の大師堂に逃れていた。
船越喜右衛門が危険も顧みず、学文路から船を出して多くの村人を救った功績を称えて、石碑が建てられている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩15分。
焼けん地蔵は、和歌山県橋本市清水にある。
かつて、火事で清水の村が焼けてしまったが、この地蔵だけは焼けなかったので、
焼けん(焼けない)地蔵と呼ばれるようになった。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩15分。
清水不動寺(鎌不動堂)は、和歌山県橋本市清水にある。
天保年間(1830-43)に造営された。本尊は、鎌不動尊(地蔵菩薩)といい、弘法大師が民家の鎌を以て作られたという。
御鏡、「不動尊」の額(大和高取藩主 植村氏の寄進とある)、高野玉川新四国霊場第5番の額等がある。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩7分。
社皇王神社は、和歌山県橋本市清水にある神社である。
社伝によると、大同2年(807年)平城天皇の時代に勧請されたといわれる。
祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神、熊野夫須毘命、尾船豊受姫神、尾船夫夫能智神、手置帆負神、彦狭知神である。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
當社は、荘(相賀荘)中の大社にして、當村(清水村)の古き氏神なり
里人相傳へて、市脇村三部明神の姉君といふ
三部明神の祭禮の時 神主幷神子當社前に来り 湯立し祝詞をあけて帰り
後三部明神の神輿渡御の事を取行ふを舊例とす
神名或は 尺王子とも書しといふ
相賀荘の成立により、総鎮守として根来から三部明神が勧請され、相賀大神社となった。
相賀大神社から当社に神輿渡御が行われていたという。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩20分。
萱野家は、和歌山県橋本市にある。
清水の古い町並みは、清水長町と呼ばれており、この景観は1997年に和歌山県ふるさと建築景観賞を受賞している。
萱野家は、高野山領行人方の大庄屋を勤めてきており、高野山の高僧が下山したときの宿泊所、お宿となった屋敷である。
紀伊続風土記には、旧家として 地士萱野孫四郎が記されている。
江州佐々木義秀の一族佐々木左大夫の末裔で、この家の庭には真田幸村(信繁)から贈られた柊と手水鉢がある。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩10分。
清水三井(しみずさんせい)は、和歌山県橋本市清水にある。
昔から弘法大師空海の加持水とする井が、三か所あって、それぞれ石井、薦(こも)池井、清水井と呼んできた。
石井は社皇神社の南にあって、応永年間(1394-1427)に、石井入道(佐々木右近太夫重綱)の邸宅内にあったという。
薦池は社皇神社の東にあったが、現在は潰れている。
清水井は、紀伊清水駅の北、河川敷に隣接した場所にあり、現在もなお水が湧き出ている。
紀伊続風土記には、「(清水の)村名も此清水あるに因りて名つくるなり」と書かれており、
清水の地名は、この清水井に由来するといわれている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。
正覚山永楽寺は、和歌山県橋本市清水にある。
永楽寺の「略縁起」によると、「弘仁7年弘法大師高野山に伽藍を創建し、三冬厳寒を避けんが為、此地に一宇を結んで、高野山政所支所支庁とす、是則紀州伊都郡清水村正覚院永楽寺と言う。」と記されている。
本尊は、薬師如来像である。
高野玉川新四国霊場の第4番となっている。
当寺の鰐口は、慶長8年(1603年)橋本市内旧柏原(かせばら)村の九郎左衛門が、旧清水村定福寺の什物として鋳造寄進したもので、柏原の鋳物師の数少ない遺作として、橋本市の文化財に指定されている。
定福寺は、当永楽寺の旧名で、明治時代末期、旧永楽寺を廃し村役場、庁舎に転用し、定福寺に合併して寺号を永楽寺と改められたといわれている。
南海電鉄高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。
高野街道六地蔵第一(橋本市指定文化財)は和歌山県橋本市清水にある。
江戸時代の後半、高野山参詣者の安全を祈願して、当地から桜茶屋までの六か所に地蔵堂が建立され「高野街道六地藏」と呼ばれていた。
「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
「地蔵堂(清水村にあり。この堂より山上まで、六地蔵とて六体あり。その一なり。)」
第一は清水、第二が橋本市南馬場、第三が九度山町繁野、第四が同町河根(かね)峠、第五が高野町西郷の作水(さみず)、第六は同町桜茶屋にそれぞれ祀られている。
当時どのような規模で祀られていたか、明らかでないが、信仰の道に残された跡は、かつての高野山信仰を今日に伝える文化遺産である。
当地に西行庵がある。
「紀伊続風土記」の清水村の項には、
「地蔵堂 村の東端にあり 高野街道六地藏第一といふ堂内に西行の像あり
長七寸許坐像にて包を背に背負へり」
と書かれている。
平安時代末期の歌人西行が、一時止住したと伝えられ、西行像とされる像が堂内に残されており、西行ゆかりの地として
「正覚山永楽寺西行庵」と呼ばれている。
「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
西行上人像 堂内に安ず。坐像。背に包みを負へり。長七寸許。西行此地にすみしといふ。
西行松 堂の側にあり。
西行の 草履もかゝれ 松の露 芭蕉
衣掛櫻 堂の前にあり。光厳院法皇の御衣をかけたまへる。櫻の古木の枯れたるあとなりとて。
今さくらの小樹を植ゑたり。
とりかけし御衣の雫かしこみて 今も涙のちる櫻かな 橘 可折
また、太平記巻39には、光厳法皇が紀の川を渡る時に、橋から落ちて辻堂で衣を変えたことが次のように記されている。
紀伊川を渡らせ玉へば、--- 法皇は橋の上より推し落とされ玉ひて、水に沈ませ玉ひけり。
--- 御衣は水に漬りて --- 辻堂へ入れ進らせて、御衣を解ぎ替へさせ ---
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。
三軒茶屋大常夜燈籠は、和歌山県橋本市の旧高野街道にある史跡で、市の文化財に指定されている。
高野街道は、京都・大阪・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内川(橋本川)河口付近から紀の川を渡ってこの地に至り、学文路から高野山へ登っていく道が開かれた。
この道は、町石道に比べて距離も短くなったことから、室町時代後期には、高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587年)応其上人は、紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(236m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟による有料の横渡(よこわたし)が行われるようになった。
しかし、増水時の割増運賃や営業時間を巡ってのトラブルもあり、元禄10年(1697年)から、高野山と紀州藩、関係村々が費用を出して「無銭横渡」となった。無銭横渡は常夜の営業で両岸の燈籠に灯がともされ、旅人の目印であった。
元は石燈籠二基が相対して建てられていたが、近年の道路拡幅工事で東側の一基が北へ約5m移動された。
この石灯籠には、宝暦2年(1752年)「高野山興山寺(現在の金剛峯寺の前身)領」の銘が刻まれている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれている。
現在紀ノ川北岸には、東家渡場大常夜燈籠が残されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩8分。
橋本橋は和歌山県橋本市の紀の川に架かる橋梁である。
北岸西側に「橋本橋竣工記念碑」(和歌山県知事 仮谷志良書)が建てられ、裏面に橋本橋の沿革と工事概要が記されている。
橋本橋の沿革
日本最多雨地帯の大台ケ原を水源とする紀の川のこの地に、天正十三年(一五八五年)橋本開基の名僧
木食応其上人によって、はじめて長さ二三五メートル(一三〇間)の橋が架けられた。
以降、高野参詣者の往路として利用され、宿場や塩市が開けて、橋本市発祥の源となった。
しかし、たび重なる水害により、この橋も流失し それから後は渡し船が往来して、人々に親しまれてきた。
昭和七年に本格的な鉄骨造りの橋が架設され、文化、産業、交通などの要路として重要な役割を果たしてきたが、
このたび紀の川堤防改修工事と並行して、近代的な橋の架け替え工事により、昭和五三年八月に完成した。
工事概要
事業名称 国道三七一号線橋本橋橋梁整備事業
工事位置 橋本市一丁目橋本市向副地内
総事業費 九億一千万円
橋梁延長 二五六メートル
橋梁幅員 全幅員十一メートル 車道七メートル 歩道各二メートル
工事期間 着工 昭和四六年 月 竣工 昭和五三年八月
事業主体 和歌山県
工事担当 橋本土木事務所
飛び込み岩は、和歌山県橋本市の紀ノ川にある。
前畑秀子と古川勝は、ともに橋本市出身の水泳選手で、オリンピックで金メダルを獲得するなど輝かしい業績を残した選手である。
大正年間、昭和初期は、紀ノ川の水量は今よりも多く、子どもたちは紀ノ川で泳いでいた。
前畑秀子(1914-1995)の生家は、紀ノ川北岸で、この飛び込み岩付近で水泳の練習をしていた。
小学校4年生で水泳部に入部し、高等科1年生(現中学1年生)で100m平泳ぎの日本新記録を樹立している。
その後、室内プールを完備した名古屋の椙山高等女学校に編入し、昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
4年後の昭和11年(1936)のベルリンオリンピック200m平泳ぎで、日本人女性初となる金メダルを獲得し、ラジオ中継で「前畑ガンバレ」と、ガンバレを23回連呼した伝説のアナウンスは後世にも語り伝えられている。
古川勝(1936-1993)は伊都郡橋本町(現在の橋本市)で生まれ、紀ノ川に潜って幼少期を過ごした。
中学校の水泳大会で優勝し、前畑秀子から平泳ぎに専念するように指導を受けた。
その後、橋本高等学校、日本大学で水泳を続け、昭和31年(1956)のメルボルンオリンピック200m平泳ぎで優勝し、水泳競技で戦後初の金メダリストとなった。
前畑秀子資料展示館
前畑秀子資料展示館は、和歌山県橋本市にある。
前畑秀子(1914-1995)は、日本人女性初のオリンピック金メダリストで、昭和11年(1936年)ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで優勝した。
NHKラジオ実況中継で、「前畑がんばれ!」と23回連呼した河西三省アナウンサーの実況音声が良く知られている。
前畑秀子は、大正3年(1914年)に橋本市紀ノ川近くの豆腐屋の長女として生まれた。
当時は、橋本橋の上流付近の紀ノ川で水泳の練習をしていた。
大正14年(1925年)には、11歳で50m平泳ぎの日本学童新記録を出し、13歳で100m平泳ぎの日本新記録を樹立するなど早くから注目されていた。
昭和4年(1929年)に愛知県の椙山女学園に編入し、昭和7年(1932年)には、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
現役引退後も、積極的に水泳に関わり、後進の指導に努め、53歳の時に日本初の「ママさん水泳教室」を開校した。
前畑秀子資料展示館は、橋本市まちの歴史資料保存会付属の橋本まちかど博物館の展示として一般公開されている。
資料館では、「前畑がんばれ」の実況音声の録音を聴くことが出来る。また、オリンピック優勝の瞬間の写真(白黒写真からカラー写真に補正)なども展示されている。
御剱大明神神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
かつては代官所跡にあった伊都地方事務所や橋本町役場の前にあったが、
区画整理事業に伴い、紀陽銀行は橋本支店の西側に移転した。
いつ頃からこの地に奉祀されたか、文献もなく明らかでないが、
一対の燈籠の竿部に「嘉永元年(1848)戊申(ツチノエサル)十一月日 一色孫左衛門義隆」
「嘉永元年(1848)戊申十一月日 木村喜太郎永成」の銘が刻まれている。
一色家と木村家は東家に住んでおり、この二人が浄財を寄進したものである。
また一対の狛犬台座に「嘉永二年己酉(ツチノトトリ)五月」の銘があり、施主等の名が刻まれている。
高野山を往還したり、橋本町と取引のあった大阪の人々も名を連ねている。
当地は伊都郡の代官所(橋本御殿)のあったところである。
神社は、大正初期に古佐田の丸山公園に移されたが、昭和初期に信仰者の有志によって現在地に戻され、
昭和20年(1945)に戦後の復興と橋本町の発展を祈念して、当時の橋本町長平野熊太郎などの努力で、新しい社を造り、盛大な遷宮式が挙行された。
南海高野線橋本駅下車、徒歩10分。
橋本戎神社は和歌山県橋本市川原町にある。
えびすは、生業を守護し福利をもたらす神として、日本の民間信仰の中で広く受け入れられている。
語源は定かでないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃い。
現在一般にえびすの神体として考えられている烏帽子をかぶり鯛と釣り竿を担いだ神像からうかがえるように、
元来は漁民の間でより広範に信仰されていたものが、海産物の売買により市の神、商売繁盛の神として、次第に商人や農民にも受け入れられた。
七福神の一つとして、大黒天と並び祀られることが多い。
橋本戎神社は、古くは「市戎(いちえびす)」と呼んでいたもので、元々市脇で行われていた塩市を橋本町へ移し塩市発展の神として祀ってきたものである。
紀伊続風土記の橋本町の項に、次のように記されている。
〇市衣比須社
町内にあり 昔此地に一六三八の日市ありしとそ 今猶塩市あり 故に土人市夷といふ
現在は、「川原のえべっさん」と呼び、周辺の商店で順番を決めて祀っている。
1月9日の宵戎には、福笹を求めて多くの人がお参りする。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。
旧橋本町道路元標は和歌山県橋本市にある。
道路元標は、道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物である。
旧道路法により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるとしていた。
大正11年(1922)の内務省令は、その材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、
正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していた。
現行の道路法では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などの定めはない。
和歌山県では、県下各市町村に設置され、全部で200基余り作られたが、現在では17基を残すのみである。
橋本町道路元標は、かつて紀陽銀行橋本支店前の交差点西側に設置されていたが、国道24号線の拡幅整備により撤去されていた。
平成元年、この道路元標が交差点北西に放置されているのが発見され、本来の設置場所に近い、紀陽銀行橋本支店前に再び設置された。
平成9年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。
応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
天正15年(1587)に応其上人は古佐田村の荒れ地を開き、ここに草庵を作った。
この草庵が現在の応其寺で、旧名を惣福寺といった。中興山普門院応其寺と呼ばれる。
応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
高野山奥の院には、「興山応其上人廟」、興山上人一石五輪塔がある。また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。
日本聖公会橋本キリスト教会は、和歌山県橋本市にある。
日本聖公会は、プロテスタント教会の一宗派で、英国国教会の系統をひいている。
安政6年(1859)米国の宣教師ウィリアムズとリギンズによって伝道を開始した。
明治20年(1887)に米国監督協会、英国の宣教協会および福音宣布協会の三派が合同して日本聖公会を創立した。
当地では土曜日午後7時30分から夕の礼拝、日曜日午前9時30分から朝の礼拝が行われている。
新礼拝堂の東側に牧師の住まいを兼ねた旧礼拝堂の建物がある。
この旧礼拝堂は、奈良県吉野地方にあった農家を明治33年(1900)に現在地に移築して教会としたもので、
大棟、隅棟には十字架を刻した鬼瓦がある。
旧礼拝堂は、平成17年(2005)に国の登録有形文化財に指定されている。
鎌倉大将軍社は、和歌山県橋本市にある。
西隣には、廃浄泉寺延命地蔵尊と塩市仲間の石燈籠がある。
紀伊続風土記の古佐田村の項に、次のように記されている。
〇小祠四社
大将軍社 森周三十三間
若宮三社
〇浄泉寺 浄土宗西山派名草郡梶取村総持寺末
鐘楼 鎮守社
村の南にあり 縁起に本尊地蔵尊は延暦中田村将軍奥州征伐の時 守本尊とし深く祈請して遂に夷賊を退治し
大同中此地に七堂伽藍を建立して此本尊を安置すといへり
恵心僧都か書けりといふ阿弥陀像信誉上人の六字名號あり
大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)とは陰陽道の八将神(八将軍)の一つで、金曜星の神格である。
3年同じ方位に留まるため三年塞がりといい万事に大凶である。
鎌倉の意味は不明である。当地の利生護国寺の改修や血縄の説話で知られる、鎌倉幕府執権の北条時頼(1227-1263)のことを指しているのではないかとの説もある。
元浄泉寺塩市の燈籠は、古佐田の浄泉寺境内にあったとされ、明治43年(1910)に浄泉寺が廃寺となった際に、丸山公園内の庚申堂前に移された。
その後、延命地蔵尊が新しく建てられたのを機に当地に移された。
各面には次のように刻されている。
東面 正徳五乙未年六月廿四日
古佐田村陵山浄泉寺義建代
南面 奉寄進地蔵前石灯籠
西面 橋本町塩市仲間
橋本町の塩市は、天正15年(1587)応其上人が橋本町を開き、豊臣秀吉に願い出て永代諸役免除と塩市の特権が与えられたことに始まる。
当初、一と六のつく日に市が開かれる一六塩市が行われ、のち徳川頼宜の紀州入国(1619年)以降、
現在の和歌山市にあった三葛村の塩舟関係者からの願いにより、月6回の塩市が12回に増やされた。
橋本町塩市仲間が寄進し、当地が紀の川中流の塩市として栄えたことを示すもので、橋本市の文化財に指定されている。
太神社(だいじんじゃ)と一里塚(一里松)は、和歌山県橋本市にある。
江戸時代に旅人の便宜を図るために、街道の両側に一里(約4㎞)毎に土を盛り、里程の目標として塚を築いて「一里塚」と呼んでいた。
その広さは五間四方(約81㎡)とかなり大きく、塚の代わりに榎や松を植えたところもあった。
紀州藩では、和歌山城下の京橋北詰を起点に紀の川に沿って1里(約4㎞)毎に設けられていた。
当地は11里目にあたり、10里の松は高野口町名古曽、12里は隅田町中島にあったとされているが、現存していない。
多くの一里松が失われた中で、当地の一里松は戦前まで残っていたが、現在は一里松を再現した松が植えられ、近くに一里塚の石柱が建てられている。
江戸時代初期から当地は川原町と呼ばれ、船宿や紀の川を行き来する川船仲間の舟運業者が軒を並べていた。
太神社は天正年間(1573-92)に木食応其上人が松ケ枝橋の東詰に勧進したものと伝えられ、
地元では「ゴウシンサン」と呼ばれている。
祠前にはほぼ同型同規模の二基の石灯籠が建ち、右側(東)の石灯籠一基は、寛政8年(1796)当地川船仲間が神前に奉納したもので、橋本市の文化財に指定されている。
竿部には次の通り刻まれている。
右、東面 寛政八丙辰十二月 日
正、南面 太神社夜灯
左、西面 橋本川船仲間中
拝殿に向かって左側には、16年後に建てられた石灯籠がある。
竿部に次の銘文がある。
右、東面 文化九年壬申九月吉日
正、南面 太神社
左、西面 町内中
小林家住宅は、和歌山県橋本市古佐田にある。
橋本駅西側踏切から南下する道と駅前から西進する上本町通りが交差するT字路に東に面して建てられている。
平成16年に国の登録有形文化財に指定された。
屋敷地周囲は、低い土塀が設置されている。
屋敷両端には主屋と向かい合って、三つの土蔵が建っている。
主屋は入母屋造桟瓦葺の2階建てで江戸時代末期(嘉永3年頃)の建築である。
玄関から通り土間を経て、背後の炊事場へと続いている。
通り土間北側床上部は田の字形に4室が設けられている。
1階正面に繊細な格子を、2階には虫籠窓を入れ、軒裏は塗り込められ、正面裾には犬矢来が設置されている。
土蔵は、三棟が一体となった切妻造りで明治時代中期の建物である。
橋本電気株式会社発電所跡は、和歌山県橋本市古佐田にある。
レンガ造りの建物は、明治時代に建てられたもので、橋本市で最初の発電所である。
平成11年に村木聰男氏家屋解体中に、発電所建設に関する資料が発見された。
電気事業経営の逓信大臣からの許可書と命令書、電燈設置目論見書、竣工祝いの記念写真などである。
発電許可書は、明治43年(1910)2月23日付のもので、橋本電気株式会社宛てに出されたもので、命令書で、6カ月以内に施工認可申請を出し、認可日から1年以内に営業を開始するよう定められた。
約2万2千円の工事費で、500戸分の電燈に必要な電力を発電していた。
橋本駅前万葉歌碑は、和歌山県橋本市にある。
万葉時代の宮廷人たちは、紀伊国に深い憧れを持っていたといわれる。
大和には海がないため、黒潮踊る紀伊国の風景には殊の外感動することが多かった。
万葉集の中には橋本に関する和歌が10首収められており、橋本市内各地に万葉歌碑が建立されている。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅前には、次の歌碑がある。
白栲(しろたへ)に にほふ信土(まつち)の 山川に
わが馬なづむ 家恋ふらしも 作者不詳 巻7-1192
(意味)信土山の川で 私の乗る馬が行き悩んでいる(難渋している)。家人が私を思っているらしい。
右側の歌碑説明文には、次のように記されている。
第8回橋本万葉まつり と併せて
JR和歌山線全線の開通百周年を記念し
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者
文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」より
その遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ
2000年11月 第8回橋本万葉まつり実行委員会
紀ノ川の万葉の文章は次のとおりである。
こんにちは草ぼうぼうになった古い小道をくだると、
土地の古老らが神代の渡り場と称している落合川(真土川)の渡り場に出る。
ふだんは水の少ない涸川(かれがわ)だから、
大きな石の上をまたいで渡るようになっている。
ここがおそらく古代の渡り場であったろう。