晩秋の南河内を歩きまくる
流谷八幡神社は、大阪府河内長野市流谷・下天見にある神社である。
祭神は、応神天皇、神功皇后、比売大神である。
長暦3年(1039年)、京都の石清水八幡宮の根本神領であった当地(河内国錦部郡甲斐庄山郷流谷)に八幡神が勧請されたのが起源である。
正式名称は「八幡神社」で、石清水八幡宮別宮と呼ばれ、宮寺として流谷極楽寺も建立された。
当神社に伝えられている鉄製湯釜は、「延元五年辰卯月十五日(中略)勧進法印賢覚」との銘があり、獣脚三足を備えた鋳鉄の釜としては最古の在銘遺品で、大阪府の重要文化財に指定されている。
毎年1月6日、古例祭として「勧請縄かけ」が行われる。
この日に石清水八幡宮の神霊が勧請された伝承に基づき、氏子により社殿前方にある大杉(勧請杉)と、川をはさんだ柿の木の間に二百尺(60m)の注連縄がかけられ、この注連縄がながく保たれると、その年は豊作だと伝えられている。
社殿左には、樹齢400年といわれる「大いちょう」があり、大阪府の天然記念物に指定されている。
南海高野線天美駅下車、徒歩15分。
石造 流谷十三仏像 流谷薬師堂は、大阪府河内長野市にある。
当地の案内板には、次のように記されている。
石造流谷十三仏像
(河内長野市指定文化財)
●十三仏とは---仏教において、初七日から三十三回忌までの13回の追善供養の際に本尊となる13体の仏像です。
●十三仏の石碑---生前に自らの死後の冥福を祈る逆修供養の際に、逆修講の人々により建立される事になりました。
●十三仏の石造側面には---「承応2年(1653)十月十五日」紀年銘と信者20名の名が陰刻されています。
●洗礼名---風化や損傷の為、全ての判読は出来ませんが、「シタニ」「テウロ」「浄金文」の名が刻まれ、「浄金」はヨハキンと読みクリスチャンネームとして多く用いられていたことから、3つの名はキリシタンと考えられる。
●設立の背景---当時の時代背景から考えると、仏教徒を装った隠れキリシタンの人々により設立されたのではないか。更には当時の流谷は隠れキリシタンの部落ではなかったかと言うような推量が出来る。
●指定文化財の理由---洗礼名のある十三仏石碑は流谷以外にその例はなく貴重であるとの事で「昭和63年4月(1988)」河内長野市の指定文化財となりました。
本像はこの流谷集会所(月輪寺跡)に3つに割れた状態で長らく放置されていましたが、平成6年(1994)にひとつに修復され、流谷集会所の小堂にまつられています。像は花崗岩で作られており、高さ88cm、幅35cm、厚さ7cmの舟形板碑で、正面に13仏像が浮き彫りに彫刻されています。
2022年3月
流谷観光(案内)
南天苑本館は、大阪府河内長野市天見にある温泉旅館である。
高野街道は、京都、大阪から高野山への参拝客が古来多く行き来していた。
延元年間(1336-1340)に、近郷の流谷八幡宮の境内にあった極楽寺に湯治場が開かれ、病人や多くの参詣客が入浴し、「極楽風呂」「極楽温泉」と呼ばれていたが、寛延3年(1750年)に神社、温泉共に焼失し、廃湯となった。
その後、大正4年(1915年)に天美駅が開業し、南海電鉄が旅客誘致のため天見温泉の開発が始まった。
天見温泉・南天苑本館は、元々、大正2年(1913年)に阪堺軌道(後に南海鉄道と合併)が、堺市の大浜公園に建設した娯楽施設、「潮湯」の建物の一つ「家族湯」の建物である。
この建物が、昭和9年(1934年)に室戸台風で損壊し、昭和10年に現在の場所に移築されて、大阪市阿部野の料亭「松虫花壇」の別館として営業を始めた。
平成14年9月に「明治建築研究会」により建物調査が行われ、建築界の大御所、辰野金吾博士の辰野片岡建築事務所の設計であることが分かった。
そのため、平成15年(2003年)に国の登録文化財に指定されている。
建物は、和風をベースとしながら諸所に洋風モダンな意匠が取り入れられた、大正昭和初期の建築様式を偲ばせる貴重な建物である。
堺市の大浜公園には、「いにしえの大浜公園」として、当時の潮湯の写真などが紹介されている。
南海高野線天見駅下車、徒歩2分。
松明屋(たいまつや)は、大阪府河内長野市天見にある。
建物南側の道標石には、次のように刻されている。
(東面)弘法大師 おたいまつの木
(北面)施主 大阪 北い組
(南面)施主 大阪 北い組
(西面)明治廿八年五月建立 発起人 池島久兵衛 講元 中野政吉
同施人世話方一統
建物正面の額には、「松明屋」と記されている。
弘法大師空海が松明(たいまつ)を照らして高野山へと向かう道中、この家で休憩、朝食のもてなしを受け、お礼にチマキの製法を教えた。
別れに松明の燃え残りを軒端の地上に突き立て出立し、その後その松明が芽を出して、大木になったといわれている。
その後、松明屋では、粽を作るようになり、病に苦しむ人々がこれを食すると病が治り、高野参詣の人々も「万病の妙薬」としてお土産にしたという。
笹の葉にくるまれた粽は、小指くらいの大きさで、乾燥しているので保存が可能で、お湯に浸して食べたといわれている。
御所の辻 地蔵尊、御所の辻 道標と伊勢講の灯篭は、大阪府河内長野市岩瀬にある。
現地の説明板には、次のように記されている。
御所の辻 地蔵尊
天見川に架かる高橋を渡ると岩瀬に入り、最初の辻が「御所の辻」と呼ばれています。
この辻で火事があり、付近は焼け野原となりましたが、この地藏だけは焼けなかったとも言われています。
地藏の台石には「地蔵尊を信仰する者は火水の災難を免れ五穀成熟」の意味の銘が刻まれています。
この地蔵堂には、高さ約190cmの石造の地蔵がまつられています。
●1148年(久安4年)には、覚法法親王が高野参詣のとき岩瀬(石瀬)で休憩しました。
正平年間(1346~1370)には観心寺によって岩瀬の関(関銭の徴収所)が置かれたこともあります。
●1354年(正平9年)に後村上天皇が天野山金剛寺へ行宮を移すとき、大和(現在の奈良県の賀名生から五条、橋本、紀見峠)を経てこの辻で一夜を明かしたと言われています。
村人たちは光栄と喜びここを「御所の辻」と呼ぶようになったと伝わります。
●1860年(元治2年)の線香立てがあり、全面に菊と桐の紋、「御宝前」の文字が刻まれています。
これには伝説があり、「昔、ある皇族の姫が高野参詣のとき、ここで休憩をとっていたが、突然行方が分からなくなった。付近を探したが見つからず、村人は姫の菩提を弔う為に、お堂を建て地蔵尊を祀った。
こうした由来の線香立てに、菊と桐の紋を用いることが許された」と言われています。
2023年4月(掲示)
上岩瀬地区(案内)
御所の辻 道標と伊勢講の灯篭
御所の辻と呼ばれる高野街道には「右かうや 左ハかうんこうセミち」と方向を指し示した道標がある。
この道標の「かうや」は高野山。「かうんこうセ」は金剛山の古名です。
今も昔も道は変わらず、方向を指し示し、高野山と金剛山への分かれ道となっています。
道標のうしろにある灯篭は、高野街道を利用し伊勢詣りをする人のために伊勢講が建てたもので、そこに刻まれた「大神宮」は伊勢大明神のことです。
地蔵堂の横の道標には、「(カ)右かうやくまのミち 元文六辛酉年三月廿四日立之」とあります。
2023年4月(掲示)
上岩瀬地区(案内)
延命寺は、大阪府河内長野市にある真言宗御室派の寺院である。
弘仁年間(810年-824年)に弘法大師がこの地に葉樹、薬草が多く生えているのを見て、布教の適地として地蔵菩薩を安置し、法羅山宝幛寺としたのが起源と伝えられている。
江戸時代の名僧といわれた浄厳は、この地で誕生し、20年余りの高野山での修行ののち、この寺を再興し、1677年葉樹山延命寺に寺号を改め、本尊も如意輪観音に改められた。
境内には、本堂、護摩堂、釈迦堂、弁財天堂、経蔵、鐘楼などがある。
寺宝、絹本着色兜率天曼荼羅図(とそつてんまんだらず)、木造釈迦如来立像は国の重要文化財に指定されている。
境内は、紅葉の名所としても知られ、特に樹齢1000年といわれるカエデの巨木は、夕日に映える美しさから「夕照のもみじ」と呼ばれ、大阪府の天然記念物に指定されている。
南海電鉄高野線美加の台駅から南海バス「神ケ丘口」下車、徒歩15分。紅葉の季節には、自家用車を美加の台神ケ丘口バス停横の駐車場に止めて、散策する人が多い。
僧浄厳の墓は、大阪府河内長野市にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
市指定文化財 僧浄厳の墓
文化財の種類 記念物 史跡
番号 史二
指定年月日 昭和四十五年十一月二十六日
浄厳は、延命寺を建立した江戸時代を代表する高僧です。
寛永十六年(一六三九)に河内国錦部郡鬼住村(現在の河内長野市神ケ丘)で生まれ、その後、高野山で修行しました。
梵字の研究を行ったり、それまで細かく分かれていた真言宗の儀礼を統一しようとして努力しました。
将軍や大名をはじめ、民衆からも広く尊敬され、第五代将軍徳川綱吉にも仏教の講義を行いました。
元禄一五年(一七〇二)に亡くなり、東京都台東区の妙極院にも墓があります。
墓は無縫塔と呼ばれ、石で造った塔であり、多角形の台座に卵形の塔身をのせています。塔身の形から卵塔ともいわれています。
塔身の頂部は宝珠形をしていますが、このような形の無縫塔は、江戸時代中期から多くなるようです。
多聞丸(楠木正成)大江時親に学ぶ像(多聞丸石像)は、大阪府河内長野市三日市町駅前にある。
楠木正成(1294-1336)は、鎌倉時代末から南北朝時代の武将で、幼名は多聞丸(たもんまる)と呼ばれ、後に兵衛尉(ひょうえのじょう)と称した。
幼名の多聞丸は、両親が信貴山の多聞天(毘沙門天)に祈願して授かったことから名付けられた。
元弘元年(1331)後醍醐天皇の呼びかけに応じて笠置に出向き、のち赤阪城で挙兵した。
建武元年(1334)には、従五位下検非違使に任ぜられ、河内、摂津の守護となった。
建武3年(1336)足利尊氏軍と神戸湊川で激戦を戦ったのち、弟の楠木正季(まさすえ)とともに自刃した。
楠木正成は、少年期に観心寺の僧 龍覚坊から一般教養を学び、その後加賀田の大江時親邸まで約7㎞の道を休むことなく通ったと伝わる。
観心寺から大江家までの道は、後世に楠公通学路と呼ばれ、三日市駅北の跨線橋は楠公通学橋と名付けられた。
楠木正成は、大江時親から日本最古の兵法書「闘戦経」を学び、国と人々の平穏を確立すべきとの教えを受けた。
多聞丸石像は、平成30年(2018)、楠公通学路の中間地点である当地に、地元の三日市小学校区まちづくり協議会が建立した。
南海高野線三日市町駅下車すぐ。→ 楠木正成、正行ゆかりの地
油屋跡は、大阪府河内長野市三日市町の旧高野街道沿いにある。
江戸時代に紀州藩の本陣を務めたこともあり、高野山御用宿として栄えた。
明治時代には、錦渓温泉の温泉宿として、多くの参詣客が宿泊したという。
庭園の水車は元の油しぼり業の名残で有名であった。
昭和4年に発行された「傳説の高野山」という冊子には、油屋の広告が掲載されており、
水車を中心とした庭園の挿絵が描かれ、次のように記されている。
京阪地方から高野御参詣道筋で昔一番賑った三日市の宿場。
その中でも数百年来の歴史と大名宿で知られた當油屋は明治廿三年の七月五日に
畏くも山階宮晃親王殿下から浴室の下を流るる石川両岸の絶佳なる風光を嘉賞せられて
「錦渓温泉」の名称と御宸筆とを賜ったのであります。
客室をめぐらす寂びた大庭園には春は花、秋は紅葉、四季とりどりの花弁艶を競ひ、
鯉魚跳ぬる池面にハラハラと散りゆくさまなど誠に捨てがたき風情があります。
高野御参詣、御下向の道すがらには、是非御立寄りの程を。
=お中食は一圓より=
鮮魚御料理 御団体歓迎 客室三十餘
南海電車高野線三日市町驛より二丁
天然ラヂユーム 錦渓温泉 油屋
電話 長野十四番(略)
油屋は昭和50年に廃業し、現在は油屋本陣天誅組史跡の石碑が建てられている。
幕末の文久3年(1863)天誅組一行は、富田林甲田の郷士 水郷(にごり)善之佑邸に宿泊し、
三日市の当油屋で朝食をとり、観心寺の大楠公の首塚に参拝し討幕を祈願した。
石の扉には次のように刻されている。
天誅組と三日市油屋
文久三年(1863)八月十七日未明、三日市宿に時ならぬ太鼓や鉦が鳴り響いた。
公家、中山忠光を盟主とする尊王攘夷派の志士の一行が、天皇の大和行幸を契機として
討幕の兵を挙げる大和五條に向かうため、油屋に到着したのである。
彼らはここで休憩し、この間に態勢を整えた。
当時、当主の油屋庄兵衛は三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配など、
彼らの世話をしたと語り伝えられている。(略)→ 天誅組ゆかりの地
明治4年(1871)2月には、日本最後の仇討と言われる高野山神谷の仇討では、播州赤穂藩の村上一族も当油屋に宿泊している。
高野山奥の院23町石西側には、三日市錦渓温泉油屋墓所がある。
南海高野線三日市町駅下車徒歩5分。
旧三日市交番は、大阪府河内長野市にある。
京の都と仏教の聖地 高野山を結ぶ高野街道は、平安時代の皇族、公家や、中世から盛んになる武士、庶民の高野山参詣に利用された。
当地の「旧三日市交番」の建物は、西側に通る道路に面し、間口2間、奥行き6間で、建築面積約12坪の木造2階建て建物である。
屋根は、日本瓦葺で寄棟屋根、2階は半切妻屋根で、軒先、軒裏は洋風の納まり、外壁は下見板張り、ペンキ塗り、基礎はコンクリートあるいはレンガ積みで、洋風が導入されている。
一方、小屋根は和式、壁下地には竹小舞(たけこまい)が組まれ、手前の執務室の他は真壁、竿縁天井という和式になっている。
下見板による外観の構成などから、大正10年(1921)の建築とみられるが、河内長野市の記録によると昭和27年(1952)に修理されており、近年一部屋根瓦の葺替え、正面扉がアルミ製引違い戸にかえられるなどの改修部もわかってきている。
そのような改修を経ながら、建築当初の様子をよく留めており、平成19年(2007)まで実際に「おまわりさんの駐在所」として使用された府内最古の木造交番建築物である。
烏帽子形八幡神社は、大阪府河内長野市にある神社である。
祭神は、素戔嗚命、足仲彦命、神功皇后、応神天皇で、周辺の上田、喜多、小塩、楠ケ丘、大師町五地区の氏神として崇敬されている。
神社の創建については詳らかでないが、昔、烏帽子形山に楠氏の一支城があり、楠木小二郎が拠っていたが、その城の鎮護として創建、祭祀されたと言われている。
昭和40年〜41年の解体修理の時に、本殿(重要文化財)は、棟札及び棟束の墨書により、文明12年(1480年)に河内源氏の末裔 石川八郎左衛門尉が創建したことが確認された。
慶長17年(1612年)楠木正儀(まさのり)の子孫 甲斐庄喜右衛門正房(まさふさ)が、大坂の陣の功で二千石を与えられて当地に封じられた。
正房の子 旗本甲斐庄喜右衛門正保は、元和3年(1617年)四天王寺の塔の普請奉行を勤めたが、居城の鎮守であるこの社殿が荒廃しているのを嘆いて、塔普請の余材で修造し、元和8年(1622年)8月上棟したという。
山の形が烏帽子に似ていることからこの名が付いたと言われる烏帽子形山の山頂には、烏帽子形城跡がある。
烏帽子形城跡は「楠木七城」の一つと伝えられ、山城特有の土塁や空濠が残されている。
山頂から北方に伸びる尾根の先端には、烏帽子形古墳があり、6世紀の横穴式石室を持つ直径20m、高さ3mの円墳である。
境内には、本尊に釈迦と聖観音を祀っていた天台宗の正保寺と徳壽院高福寺と称する宮寺があったが、明治時代の神仏分離令により廃寺となっている。
後村上天皇の行宮跡といわれる奈良県賀名生の堀氏宅にある「高福寺鐘」は、楠木正成がこの神社の宮寺のものを持って行ったと伝えられている。
南海高野線三日市町駅下車、徒歩17分。
烏帽子形城跡は、大阪府河内長野市にある。
烏帽子形城跡(えぼしがたじょうあと)は、烏帽子形山の頂上(標高182m)に築かれた山城である。
現在、山頂部付近に東西40m、南北70mの平坦な本丸跡をはじめ、土塁、空濠、郭跡などの遺構がある。
築城年代は不明であるが、伝説では楠木正成が築いた城の一つといわれている。
交通の要衝であった高野街道を眼下に納め、周囲を見渡すことができる優れた眺望を持ち、自然を巧みに活かした構造を持っていたことから、畠山氏をはじめ、織田信長、羽柴(豊臣)秀吉らの城としても利用された。
2012年1月に国史跡に指定された。
南海高野線三日市町駅下車、徒歩20分。
大日寺は、大阪府河内長野市喜多町にある。
融通念仏宗 極楽寺の末寺であったが、明治初年に廃寺となった。
本尊は、大日如来像(石造)で、脇侍に薬師如来(左)、不動明王(右)がある。
喚鐘は、元善福寺のもので、天明4年(1784)田中喜久次の作である。
石造物のヤソ地蔵があり、近隣にヤソブ(耶蘇部)の地名が残っているため、教会堂がたっていたとの伝承がある。
境内南側には、「高野街道 大日寺(だいにちでら)」と記した案内板がある。
横山豊氏は、「西高野街道に遊ぶ」において、高野街道は旧西条橋を渡るとすぐ右に採って国道へ出るのではなく、別久坂(べっくさか)を登り大日寺にお参りして行った、と記している。
大日寺古墳は、大阪府河内長野市喜多町の長野中継ポンプ場敷地内にある。
当地の案内板には、次のように記されている。
大日寺古墳(古墳時代後期)
大日寺古墳は、当ポンプ場建設工事の際□発見され、この場所に移築しています。
古墳は7世紀の始め頃に造られたもので、横穴式石室を埋葬施設としています。
横穴式石室は上半分が破壊されており、下半分しか残っていませんでした。
石室は棺を安置する玄室とそこに至る通路である羨道からなっています。
幅が広い部分が玄室で長さが0.88m幅0.84mありました。
平成15年6月30日 大阪府南部流域下水道事務所
副葬された土器の製作年代が異なることから、7世紀から9世紀まで4回にわたり埋葬されたと考えられている。
→ 大日寺
長野神社は、大阪府河内長野市にある旧長野、古野を氏地とする神社である。
創建年代は不明だが、江戸時代中期の頃までは、木屋堂宮(こやどのみや)、牛頭天王宮ともいわれ、1868年に長野神社に改称された。
祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)で、疫病除災の神である。
本殿は国の重要文化財に指定されており、一間社流造、正面に千鳥破風と軒唐破風をつけた檜皮葺で室町時代末期の建築と考えられている。
秋祭りの10月11日には古くから伝わる松明神事がとり行われる。
神社境内に用意された直径1.5m、高さ約5mの大松明に点火する荘厳な祭りで、この地に祭神を勧請する際、闇夜で鎮座の地を間違えないように地元の民が灯明をともして知らせたことに由来するといわれている。
境内の一角にある「かやのき」は、幹回り約4m、高さ約17mと大阪府下最大級で、大阪府天然記念物に指定されている。
南海高野線及び近鉄長野線の河内長野駅下車徒歩5分。神社北東側に商業施設の駐車場がある。
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