女人道ハイキング 高野山大門からろくろ峠を経て中の橋駐車場 


スタート 高野山大門 → (女人道ハイキング) 助け地蔵尊 (女人道ハイキング) → 相浦口女人堂跡 → ろくろ峠 → 大峰口女人堂跡 → 中の橋駐車場 昼食 (終了)
女人道ハイキング 距離 約5km 約2時間

高野山大門

高野山大門は、和歌山県高野町にある高野山の表玄関である。
慈尊院からの町石道を登りきったところにあり、高野山の壇上伽藍の入り口にあたる。
1140年に建てられたもので、それ以前は約500m下の九折谷に一基の鳥居があり、それが一山の総門になっていた。
現在の門は、1705年に再建されたもので、高さ25m、間口21メートル、奥行き8メートルの5間三門開きの朱塗りの楼門である。
両脇の金剛力士像は、江戸時代の仏師康意、運長の作である。大門前広場には木国句碑がある。

主柱に掛けられた対聯(ついれん)には、「日々の影向(ようごう)を闕(か)かさず」「処々の遺跡を検知せん」と記されている。
この2句は、日日影向文(にちにちようごうもん)とも呼ばれ、寛治年間(1087-94)に東寺の定額(じょうがく)僧正勝実(しょうじつ)という僧侶が、讃岐国善通寺において感得したという「御筆の一筆」の次の文から採られたものという。
「居を高野の樹下に卜(ぼく)し、心神を兜卒(とそつ)の天上に遊ばすと雖も、
 日々の影嚮を闕かさず、処々の遺跡を検知せん」
弘法大師は、住まいを高野山奥の院の樹下に選び定め、心は弥勒菩薩が住む兜卒天に赴いているけれども、
毎日姿を現して、縁のある各地に出向き巡検され、衆生の救済に力を注がれている、という意味である。
対聯の書体は、法性寺流(ほっしょうじりゅう)と呼ばれるもので、弘法大師に深く帰依した後宇多上皇の宸筆を写したものといわれている。

南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「大門」下車すぐ。
自家用車の場合は、橋本経由の国道370号ではなく、かつらぎ経由の国道480号の方が運転しやすい。
大門前のT字路を伽藍方向に左折せず直進すると、約300mでお助け地蔵前駐車場がある。





田村木国句碑

田村木国句碑は、和歌山県高野山大門広場の南隅にある。
石碑には次のとおり刻されている。
  山門を出でて秋日の谷深し  木国
高野山大門から西を眺めると、鳴子谷の先に葛城、和泉の山を一望することができる。
特に秋の夕刻には、太陽の沈む姿が美しく、多くの参詣客が静かに見入っている。
木国(もっこく)(1889-1964)は、本名を田村省三といい、新聞記者、俳人として活躍した。
全国高校春夏の野球大会(旧中等学校)創設の功労者として知られる。
田村木国は、明治22年1月1日に和歌山かつらぎ町笠田中で、寺子屋を開いていた文次郎の長男として生まれた。
2歳の時、父の就職に伴い大阪に移り、北野中学から三高に進み、中途退学した。
明治43年(1910)大阪朝日新聞社に入社し、社会部で全国中等学校優勝野球大会を創案し、大正4年(1915)8月18日に豊中球場で第1回大会が開催された。
昭和8年(1933)に大阪毎日新聞社に移り、整理部長、学芸部顧問を歴任した。
俳句においては、大正6年(1917)に高浜虚子に入門し、大正11年創刊の「山茶花(さざんか)」で活躍した。
昭和21年には同名の俳句誌 山茶花を創刊して主宰し、昭和39年に76歳で没した。
毎年夏に開かれる高野山の俳句大会には、選者として37回参加したという。
「秋郊」「大月夜」「山行」などの句集を刊行している。
句碑裏面には、昭和三十二年七月廿一日 総本山金剛峯寺 と刻されている。→ 高野山内の句碑



龍神口

龍神口(龍神口跡)は、和歌山県高野山大門南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、龍神口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路  七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
 (中略)
  龍神口  又湯川口といひ、保田口あるひは簗瀬口ともいふ。
        大門の左に通ず。龍神より十三里餘。
        此道當山坤(ひつじさる)方の入口にして、
        日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると、
        新村にて合して大門に入る。



お助け地蔵尊

お助け地蔵尊は、和歌山県高野町にある地蔵で、「助けの地蔵」とも呼ばれている。
高野山大門の南側、女人道に面した高野七口の一つ龍神口の近くに祠が建てられている。
言い伝えによると、高野山に住んでいたおじいさんが、熊野の辻を歩いていると「助けて」と声が聞こえたという。
声のする方向を探すと、道際の小さな谷に地蔵尊が落ち込んでいたので、道まで引き上げて安置した。
しかし、人通りの少ない寂しい場所であったので、地蔵尊を抱えて高野山まで帰り、龍神口近くに祠を建て、毎日お参りを続けたところ、この地蔵尊がみんなの願いをひとつずつかなえてくれるようになったという。
また、願い事は、一生に一度だけ聞いてくださるとか、お礼参りには丸いものをお供えするとよいとも言われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「大門」下車、徒歩5分。道路を隔てた西側に駐車場がある。



相浦道

相浦道(あいのうらみち)は高野山参詣道の一つで、和歌山県伊都郡高野町にある。
相浦道は、相ノ浦集落から内護山(ないごやま)の東を経て笠松峠から高野山南谷の相ノ浦口に至る道である。
相ノ浦から紀伊山地の山々に続く山道は、東方面へは大瀧を経て熊野道、南方面へは花園新子(はなぞのあたらし)を経由して龍神道に合流する。
相ノ浦集落の北に高野山小学校旧相ノ浦分校があり、隣接して丹生神社が鎮座している。
紀伊国名所図会の佐久間信盛故居の項に、織田信長の重臣 佐久間信盛が天王寺城の城を退けられ、高野山を経て相郷という村に住み着いたと記されている。
豊臣秀吉が信盛の困窮を救うため、使者が金銭を持参するところが描かれている。



相ノ浦口女人堂跡

高野七口のひとつ「相ノ浦口」にあった女人堂の跡である。
相ノ浦口は、龍神、有田から高野槙の産地相ノ浦を経由して高野山に至る相ノ浦道ルートと女人道ルートの交差する地点である。
紀伊続風土記の「総分方巻之十二南谷」には、次のように記されている。
   女人堂  山の堂ともいふ
   本尊 地蔵菩薩 大師の作 南谷六地蔵の其一なり
   六時の辻の南五町餘にあり 参詣の女人此所に宿す
   當山七口の其一にて相浦口といふ
   下乗札あり 花園荘相浦村まで壱里十一町許


大滝口女人堂跡

大滝口女人堂跡は、和歌山県高野町にある。
高野山への七つの参詣道は高野七口と呼ばれ、女人禁制が解かれるまで女性はそこから山内に入れず、各入口には女性のための籠もり堂として女人堂が建っていた。
それらの女人堂を結ぶ道が当時の女性が歩いた道「女人道」として、現在も残っている。
大滝口女人堂跡は、高野七口の一つ「大滝口」にあった女人堂の跡である。
熊野参詣道のひとつ「小辺路」(こへち)の起点であり、高野山から大滝を経由して熊野につながる。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇登山七路  七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。(中略)
  大瀧口 又熊野口といふ。小田原谷に通ず。此道當山東南の入り口なり。
       熊野本宮に詣(けい)し、夫より絶嶮の深山幽谷を経て、凡(およそ)十五里にして高野に至る。(後略)



轆轤峠(ろくろ峠)

轆轤峠(ろくろとうげ)は、大滝口女人堂のあった場所で、女人禁制の頃、この峠付近から高野山内を、首を伸ばして見たという女性たちの姿からその名がついたと言われている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
    轆轤峠  下乗檄あり
  六時鐘の辻より東南へ去る事十町餘 當山七口の一なり
  熊野参詣の路にして大瀧村まで壱里餘




真別処 円通律寺

円通律寺は、和歌山県高野山の蓮華(れんげ)谷から南へ一山越えた清閑な谷間にある。
本堂・坊舎(庫裏)・鐘楼門・宝庫・鎮守社・所化寮などの建物からなる。
霊岳山律蔵院と号し、本尊は釈迦如来(木造坐像、国指定重要文化財)である。。
古くは専修往生(せんじゅおうじょう)院と称し、高野山の別所のうち教懐によって開かれた小田原(おだわら)別所、覚鑁系の徒によって相続された中(なか)別所、明遍による東(ひがし)別所に対して新(しん)別所(真別処)ともよばれた。
別所とは、念仏聖の集まっているところをいう。
空海の十大弟子の一人智泉大徳の開基と伝え、智泉没後荒廃していたのを、文治年間(1185-89)に奈良東大寺再建の大勧進職をつとめた俊乗房重源が再興、専修念仏の道場としたという。
当時、源空や熊谷蓮生房等が登山して重源と好誼を結んだと言われる。
その後、重源が源頼朝の招請に応じて鎌倉に下向したため衰退したが、江戸時代 慶長17年(1612年)、2代将軍徳川秀忠に仕えていた山口修理亮入道重政(剃髪して「深慶」と呼ばれた)は、玄俊とともに重源の跡を慕って再興を図った。
元和5年(1619年)に再興なって、賢俊房良永を中興として招請した。
以後、真政房円忍・恵深房妙瑞・密門房本初・密乗房龍海など戒律堅固の住持に受継がれて今日に至っている。
江戸時代には末寺は大和国六院、和泉国・下総国各一院、摂津国二院、伊予国七院があった(紀伊続風土記)。
近代に入り、長く大会(だいえ)堂(蓮花乗院)が寺務を兼帯していたが、近年金剛峯寺に移管され、同寺座主が住職を兼ねる。
現在、事相講伝所が開設され、修行専門の道場となっており、拝観はできない。
年に一度、旧暦4月8日に花盛祭が行われ、その時には参拝者も入ることができる。
国指定重要文化財の紙本著色十巻抄・紙本白描不動明王二童子毘沙門天図像がある。
2019年4月に本尊を安置する檀の下から「高野山奉納小型木製五輪塔」が見つかった。
2021年2月に国の文化審議会は、五輪塔と関係資料を登録有形民俗文化財とするように答申した。
南海高野線高野山駅からバスで、苅萱堂前下車、徒歩30分。





大峰口女人堂跡

大峰口女人堂跡は、和歌山県高野山女人道23ポイント東側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれ、女人禁制が解かれるまで女性はそこから先の山内には入れず、
各入口には女性のための籠り堂として女人堂が建っていた。
当地は大峰口にあった女人堂の跡である。
大峰山から、洞川、天川を経て高野山に至る約59㎞の参詣道が大峰道と呼ばれた。
現地の案内板には、次のように記されている。
  女人堂跡
 ここには、五大尊堂があり、その脇に東口(大和口又は大峰口)の女人堂があった。
 五大尊堂の本尊は、不動明王、大威徳、降三世、軍荼利、金剛夜叉で、明治時代の中頃までこの場所にあった。

南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩30分。中の橋駐車場から徒歩30分。



高野七口「東口」

高野七口「東口」は、和歌山県高野山女人道にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
   東 口
  大和口又は大峰口ともよばれ、吉野より大峰山、洞川、天川を通り
  高野山へとつながる修験道の道で弘法大師が高野山へと初めて入ったのもこの道です。

吉野から高野山に向かう道は、「弘法大師の道」「高野山発見の道」などと呼ばれる。
「Kobo trail」というトレイルランニングのイベントが行われる。


大峰口

大峰口は、和歌山県高野山中の橋駐車場南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、大峰口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路  七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
 (中略)
  大峰口  又東口といひ、野川口ともいふ。蓮花谷に通ず。大峰より凡そ十五里。
        此道當山東方の入口にして、大峰山上より洞川に下り、天川を経て天狗木より入る。
        俗此道筋を七度半道といふ。一度此道より登詣すれば、功徳七度半にあたるとぞ。






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