源氏物語 京ある記 ①

渉成園(枳殻邸)

渉成園は、京都市下京区にある真宗本廟(東本願寺)の庭園(飛地境内地)である。
この土地は、第十三代宣如上人が三代将軍徳川家光から寄進を受け、承応2年(1653)に自らの隠居所とし、中国の詩人陶淵明の「帰去来辞」の一節をとって「渉成園」と名付けたのがはじまりである。
周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれている。
池泉回遊式庭園で、石川丈山の作庭と伝えられている。
嵯峨天皇の皇子左大臣源融が奥州塩釜の風景を偲んで難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の趣向を取り入れている。
江戸時代に二度にわたる大火で建物は焼失したが、明治初期に復興され、昭和11年(1936)に国の名勝に指定されている。
JR京都駅から徒歩10分。来園者用の駐車場がある。



六道珍皇寺

六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、京都市東山区にある寺院である。
大椿山(たいちんざん)と号する建仁寺の塔頭で、正しくは「六道珍皇院(ろくどうちんのういん)」といい、通称は六道さん、古くは愛宕(おたぎ)寺とも呼ばれた。
この付近は、かつて死者を鳥辺野(とりべの)へ葬送する際の野辺送りの場所で「六道の辻」と呼ばれ、現世と冥界との境と言われていた。
六道とは、仏教ですべての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界のことで、本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王に仕えた小野篁(おののたかむら)が冥土へ通った入口であるという伝説が残されている。
創建については、弘法大師の師である大安寺慶俊説、弘法大師説、小野篁説のほか、承和3年(836年)山城淡海(おうみ)らによって国家鎮護所として建立されたなどの諸説がある。
平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛したが、その後火災に遭うなどで衰退した。
室町時代に建仁寺の僧 良聡(りょうそう)によって再興され、現在は臨済宗建仁寺派に属する。
薬師堂に本尊の木造薬師如来坐像(重要文化財)を安置し、閻魔・篁堂に小野篁作と伝わる閻魔大王像と等身大の小野篁像、弘法大師が祀られている。
毎年、8月7日から10日までの4日間は、「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す「迎え鐘」を撞く参拝者が多く訪れる。
京阪電車清水五条駅下車、徒歩5分。



八坂神社

八坂神社は、京都市東山区にある神社である。
祭神は、素戔嗚命(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)である。
祇園社、祇園感神院(ぎおんかんじんいん)、祇園天神社、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)などと呼ばれたが、明治元年に現在の社名となった。
全国にある約三千の八坂神は、当社を勧請したものである。
社伝によると、斉明2年(656年)に高麗から来朝した伊利之(いりし)(八坂始祖)が、新羅国牛頭山の素戔嗚の神霊を八坂郷に祀り、天智6年(667年)に感神院としたと伝える。
日本紀略には、延長4年(926年)修行僧が祇園天神堂を建てたと記している。
平安時代の天禄3年(972年)に初めて御霊会(ごりょうえ)が行われて以来、古くから疫病除けの神として崇敬されている。
四条通に面する西楼門を入ると、蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)を祭神とする疫神社がある。
むかし祖神が諸国を巡って日暮れに宿を請うたところ、巨旦将来(こたんしょうらい)は、富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来は貧しかったけれども、粟殻で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしたので、
「われはハヤスノヲの神なり」といい、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば、災厄から免れしめると約束されたという。
例年1月19日の例祭で茅の輪くぐりが行われており、祇園祭で授与されるちまきには「蘇民将来之子孫也」と書かれている。
現在の社殿は、承応3年(1654年)四代将軍徳川家綱が寄進したもので、祇園造りといわれ、正面5間、側面2間で朱塗りに飾り金具を多用した豪壮な建築である。
1月3日には、「かるた始め式」が行われる。祭神、素戔嗚命が詠んだ歌が、和歌の起源とされるのにちなんだ行事である。
能舞台の上で、色鮮やかな平安装束に身を包んだ男女が、百人一首の手合わせを披露する。
京阪本線祇園四条駅下車、徒歩5分。

祇園祭

祇園祭は、正しくは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)、略して祇園会(ぎおんえ)と呼び、八坂神社の例大祭である。
7月1日から約1か月に及ぶ祭礼で、東京の神田祭、大阪の天神祭りと合わせて、日本三大祭りといわれる。
特に7月15日の宵々山から7月17日の山鉾巡行では、「コンチキチン」の祇園囃子とともに京都の街が祇園祭一色となる。
祇園祭の始まりは、平安時代に遡る。貞観11年(869年)、都を中心に全国的に疫病が流行した。→ 祇園神社
これは、牛頭天王の祟りであるとして、祇園社司(ぎおんしゃつかさ)卜部日良麻呂(うらべひらまろ)の命で、6月7日、当時の国の数66か国に準じて、長さ二丈の鉾66本を建て、
14日には都の男児や近郷の農民が神輿を担いで神泉苑に出向き、疫病退散の神事を行った。
この祇園会は、疫病の流行の時だけ行われたが、元禄元年(970年)から、毎年6月14日に行われるようになり、現在まで続いている。

おけら詣り

12月31日の深夜から1日にかけ、神社で吉兆縄に白朮(おけら)火をいただいて消えないようにまわしながら持ち帰り、この火で神前に燈明をつけ、雑煮をたき、一年の無病息災を願う。
白朮は漢方の薬草で、独特の匂いがあり、疫病を追い払うといわれている。



法成寺跡

法成寺跡(ほうじょうじあと)は、京都市上京区荒神町にある。
寛仁3年(1019)、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、
鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に落慶供養、以降10年ほどかけて金堂、薬師堂、釈迦堂、五重塔など壮麗無比な諸堂を建立した。
平安京外の東一帯に位置することから、「北東院」とも呼ばれ、鴨川から望むその姿は宇治川から見える平等院のモデルともいわれている。
度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきたが、14世紀前半にはかなりすたれ、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅した。
当地には、寺跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑がある。→ 誠心院
発掘調査では法成寺跡の遺構は見つかっていないが、鴨沂(おうき)高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦(りょくゆうがわら)が出土している。
「源氏物語ゆかりの地」として、平成20年(2008)3月に京都市が案内板を設置している。



天台圓浄宗 大本山 廬山寺

天台圓浄宗 大本山 廬山寺は、京都市上京区にある。
天慶元年(938)、比叡山第十八世座主 元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)(慈恵大師)が京都の北、船岡山南麓に開いた與願金剛院(よがんこんごういん)に始まる。
寛元3年(1245)法然上人に帰依した住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ケ寺を兼務した明導照源(みょうどうしょうげん)上人によって廬山寺が與願金剛院に統合された。
この時から寺名を廬山天台講寺と改め、圓、密、戒、浄の四宗兼学道場となった。
その後、応仁の乱や家事により類焼し、当時の再建勧進には、
「此の地は洛中の叡山、日本の虎渓(中国の江西省の廬山にあった谷の名称)なり、誰かこれを帰敬せざらん」
と記されている。
元亀3年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅命を受けて、現在地(紫式部邸宅址)に移転した。

現在の本堂は、宝永5年(1708)、天明8年(1788)に、世にいう「宝永の大火」、「天明の大火」で相ついで焼失した後、
寛政6年(1794)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の下賜をもって改装されたものである。
また当寺は、明治時代初期の廃仏毀釈により廃された御黒戸四箇院(おくろどしかいん)(宮中の仏事をつかさどる四ケ寺、二尊院(にそんいん)、般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)、遣迎院(けんげいいん)、廬山寺)の一寺院である。

明治5年9月、太政官布告で総本山延暦寺に附属した。
昭和23年(1948)圓浄宗として元の四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり、今日に至っている。




紫式部邸宅址  源氏庭

当地は、紫式部の曾祖父にあたる中納言 藤原兼輔(877-933)から叔父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であった。
それは鴨川の西側の堤防の西に接していたため「堤邸」と呼ばれ、それに因んで兼輔は「堤中納言」の名で知られていた。
紫式部は百年ほど前に兼輔(かねすけ)が建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたといわれ、この邸宅で藤原宣孝(のぶたか)との結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたいこ)(大弐三位(だいにのさんみ))を育てた。
婚姻生活は、約三年で宣孝が病死したために終わったが、この夫との別れをきっかけに「源氏物語」を執筆し始めたとされる。
右大臣の藤原道長が源氏物語の評判を聞きつけ、紫式部を娘の中宮 彰子の女房に推薦した。
紫式部が、女房として宮仕えをしながら全54巻、登場人物500人を超える世界最古の長編恋愛小説を当地で書き上げており、門前には「紫式部邸宅址」の石碑がある。
この邸宅址は、昭和40年(1965)に考古学者角田文衛博士によって考証され、新村出博士揮毫の紫式部邸顕彰碑がある。
本堂南には、白砂と苔及び紫のキキョウを配した「源氏庭」があり、慶光天皇廬山寺陵の前には、彰子が法成寺境内に建立した東北院のものと伝える「雲水ノ井(くもみずのい)跡」がある。
平成7年(1995)には、紫式部 大貮三位 歌碑が建立された。







紫式部 大貮三位 歌碑

紫式部 大貮三位 歌碑は、京都市上京区廬山寺境内にある。

平成7年(1995)9月に紫式部顕彰会が建立した石碑には、次のように刻されている。

 大貮三位
有馬山 ゐなの
ささ原 風吹けば
いでそよ人を 忘れ
やはする

 紫式部
めぐりあひて みしや
それとも わかぬまに
雲かくれにし
夜半(よは)の月影

いずれの和歌も小倉百人一首に収められている。

後拾遺集 恋ニ 七〇九 小倉百人一首第五八番
有馬山 猪名の川原 風吹けば
 いでそよひと人を 忘れやはする 大弐三位
(解説)
後拾遺集の詞書に「離れ離れ(かれがれ)になる男の、おぼつかなくなど言ひたるに詠める」とある。
作者のもとへ通ってくることも途絶えがちになってきた男が、「あなたが心変わりしたのではないかと気がかりです」などと言ってきたのでこの歌を詠んだという。
(歌意)
有馬山に近い猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音をたてる。さあそのことですよ。
お忘れになったのはあなたのほう、私はどうしてあなたのことを忘れられるでしょうか。

新古今和歌集 雑上 一四九九 小倉百人一首第五七番
まぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
 雲がくれにし 夜半(よわ)の月影<月かな(百人一首)> 紫式部
(解説)
新古今和歌集の詞書に「早くより童友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆき逢ひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきはひて帰り侍りければ」とある。
久し振りに再会できた幼友達が、ほんのわずか会っただけで、雲に隠れる月と競うように帰りましたので詠んだという歌である。
(歌意)
めぐり逢って見た月が、前に見た月であったかとも分からないうちに、雲に隠れてしまった夜中の月の光よ。
ーめぐり逢って見た人が、その人であったかとも分からないうちに、姿を隠してしまった人よ。

歌碑横の説明板には次のように記されている。
紫式部 大貮三位 歌碑
 大貮三位
作者は名を賢子と言い、父は右衛門權佐・藤原宣孝、母は紫式部。
長保二年(一〇〇〇年)に出生、永保二年(一〇八二年)に薨じた。
親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母(めのと)となり、従三位奥侍に昇進した。
三位であると共に太宰大貮・高階成章と結婚したため、宮廷では大貮三位(だいにのさんみ)と呼ばれた。
歌人としては母親に匹敵するほどの才媛で、歌集「大貮三位集」を遺した。
きわめて聡明で人徳があり、乳母典侍として、後冷泉朝の宮廷文化の昂揚に大きく寄与した。

 紫式部
紫式部は、越後守・藤原為時の娘で、名は香子(たかこ)と言ったらしい。
生年は天延元年(九七三年)頃、没年は長元四年(一〇三一年)頃と推定される。
夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰子に仕えた。
中古三十六歌仙のひとりとされ、大作「源氏物語」のほか「紫式部日記」「紫式部集」といった作品がある。
その文名は遍く知られており、ユネスコによって、「世界の偉人」のひとりに選定されている。
   平成七年(一九九五年)九月
       文学博士 角田文衛 撰




土御門第跡

土御門第跡は、京都市の京都御苑内にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
  土御門第跡(つちみかどていあと)
平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。
道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇のお后となり、里内裏(さとだいり)である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。

紫式部日記で描かれる土御門第と源氏物語

紫式部日記の寛弘五年(1008年)霜月(十一月)一日の条。
一条天皇の中宮彰子が出産した第二皇子敦成親王の五十日の祝いが藤原道長の土御門邸で催された。
祝宴もたけなわとなり、許されて中宮の前に参上した公卿たちが女房たちにたわむれかかる。
左衛門の督すなわち藤原公任もふざけて
「このあたりに若紫はおられますか
(あなかしこ、此(この)わたりに、若紫やさぶらふ)」
と呼びかける。
それを聞いた紫式部
「源氏ににているような人もお見えにならないのに、ましてあの紫の上がどうしてここにいらっしゃるのだろう」と心に思う。
(「源氏物語千年紀展」紫式部日記絵巻の解説 参照)
この紫式部日記の記述が、源氏物語の成立に関する第一次資料として認められている。




枇杷殿跡

枇杷殿跡は、京都市上京区の京都御苑内にある。
現地に設置された駒札(案内板)には、次のように記されている。
  枇杷殿跡(びわどのあと)
このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経から三男 仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。
一〇〇二(長保四)年以降、藤原道長と二女 姸子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、一〇〇九(寛弘六)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。
一〇一四(長和三)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます。

紫式部集(補遺)にある枇杷殿で詠まれた和歌

紫式部集(補遺)には、次の歌が載せられている。
  一条院の御事の後、上東門院、枇杷殿へ出で
  たまうける日、詠み侍りける
 ありし世を夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲しかりける
(解説)
寛弘8年(1011)6月22日に一条天皇が崩御され、中宮 彰子(万寿3年(1026)出家して上東門院と称した)が一条院内裏を引きはらい、
寛弘8年10月16日に枇杷殿(当時 藤原道長が伝領)へ移御された日に詠んだ
(歌意)
帝の御在世時を、はかない夢だったと思いなして御所を立ち去りますが、帝の御影は申すに及ばず、ながす涙さえもがとまらない、
この仮の宿のような御所が悲しく思われることです。
(新日本古典文学大系24 土佐日記 紫式部日記ほか 参照)




真珠庵

真珠庵は、京都市北区紫野大徳寺町にある大徳寺の塔頭である。
一般拝観は受け付けていない。
永享年間(1429-1441)、一休禅師(宗純)を開祖として創建されたが、応仁の乱で焼失し、延徳3年(1491)、堺の豪商 尾和宗臨(おわそうりん)によって再興された。
方丈は寛永15年(1638)の建立で、木造一休和上坐像(国重文)が安置されている。
方丈内部の水墨画「山水図」、「花鳥図」は室町時代の曽我蛇足の作、障壁画「商山四皓図(しょうざんしこうず)」「蜆子猪頭図(げんすちょとうず)」は、桃山時代の長谷川等伯の作といわれている。

書院の通僊院(つうせんいん)は、正親町(おおぎまち)天皇の女御(にょうご)の化粧殿(けわいどの)を移築したものといわれ、金森宗和(かなもりそうわ)好みの茶室、庭玉軒(ていぎょくけん)が付属している。
庭園(国の史跡及び名勝)は、方丈の東庭、南庭及び通僊院庭園があり、東庭は室町時代の作とされ、石組の配列から「七五三の庭」と呼ばれている。

寺宝として、大燈国師墨蹟(だいとうこくしぼくせき)(国宝)、紙本著色苦行釈迦像、墨溪(ぼっけい)筆の紙本墨画達摩像、紙本墨画竹石白鶴図(ちくせきはっかくず)(京博保管)など、多数の文化財を有している。
また、境内には、茶道の祖、村田珠光(じゅこう)の墓、紫式部産湯の井戸がある。

杉田博明氏「源氏物語を歩く」では、紫式部産湯の井戸について、写真とともに、次のように紹介されている。
おもしろいのは、一方、大徳寺真珠庵に現存する紫式部のうぶ湯の井戸であろう。
真珠庵は一休禅師を開祖とする大徳寺塔頭中随一の寺。
井戸は方丈北、茶の村田珠光が遺愛といわれる手水鉢の横、正親町天皇皇后化粧所の前に、わずか一メートル四方の井戸が暗い口をあけている。
井戸には、和泉式部のうぶ湯の井戸の伝説もある。かつてこの地が彼女の夫藤原保昌の邸宅地だったことからであろうか。もとより真偽のほどはわからない。

京都市バス大徳寺前下車、徒歩5分。





雲林院

雲林院は、京都市北区にある臨済宗大徳寺派の寺院である。
平安時代には、この付近 紫野は、広大な荒野で、狩猟も行われていた。
淳和天皇(在位823-833)は、この地に離宮 紫野院を造り、度々行幸した。
桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も開かれている。
その後、紫野院は、仁明(にんみょう)天皇、その皇子 常康(つねやす)親王に伝領され、
貞観11年(869)に僧正遍照(そうじょうへんじょう)を招き雲林院と呼ばれ、官寺となった。

平安時代中期には、雲林院で開かれる菩提講が世に知られていた。
歴史物語「大鏡」は、この菩提講で出合わせた二人の老人 大宅世継(おおやけのよつぎ)と夏山繁樹(なつやましげき)の昔語りという趣向で展開される。
「源氏物語」「伊勢物語」にも、雲林院が登場し、「古今集」以下歌枕としても有名で、謡曲「雲林院」はそうした昔をしのんで作られている。

鎌倉時代には、雲林院の敷地に大徳寺が建立された。
現在の観音堂は宝永4年(1707)に再建され、十一面千手観音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像を安置している。
京都市バス大徳寺前下車、徒歩3分。




小野篁卿墓、紫式部墓所

小野篁卿墓、紫式部墓所は、京都市北区紫野西御所田(ごしょでん)町にある。
堀川通から西に入ると、向かって右側に小野篁卿墓、左側に紫式部墓が並んでおり、紫式部顕彰会の石碑が建立されている。

当地から西方にある雲林院には、「源氏物語ゆかりの地」の案内板があり、京都市の記した案内文には、墓所について次のように紹介されている。
「ここより東方三六〇mの堀川通の西側には紫式部と小野篁の墓伝承地がある。」

倉本一宏氏は、紫式部の墓所について、次のように記している。(「紫式部と平安の都」)
さて、「源氏物語」のあまりの名声ゆえに、後世、紫式部が観音の化身だったという伝説が生まれた。
その逆に、色事を中心とした絵空事を書いて人々を惑わしたというので、仏教の五戒の一つである「不妄五戒(ふもうごかい)」を破ったとして、紫式部が地獄に堕ちて苦しんでいるという伝説も生まれた。(「宝物集(ほうぶつしゅう)」「今物語」「雨月物語」)
それと関連して、地獄とこの世を行き来する冥官(めいかん)説話のある小野篁によって地獄から助け出されたという伝説も生まれ、紫野にある二つ並んだ土盛りが、「紫式部の墓・小野篁の墓」と称されている。
この「紫式部の墓」は、すでに室町時代初期に著わされた「河海抄(かかいしょう)」にも、紫式部の墓は雲林院の塔頭である白毫院の南にあると記されているから、この土盛りのことを指している可能性がある。
堀川通の北大路から下った島津製作所の北隣にあり(現京都市北区紫野西御所田町)、「紫式部顕彰会」(角田文衛会長)による顕彰碑が建っている。
もちろん、もとより伝説の世界の話である。

小野篁(おののたかむら)(802-852)は、平安時代の漢詩人、歌人。小野妹子の子孫で、父は「凌雲集」の選者 小野岑守(みねもり)。
参議に任ぜられて、野宰相(やさいしょう)、野相公(やしょうこう)などと呼ばれ、冥官(みょうかん)とする蘇生説話などで知られる。

紫式部は、平安中期の物語作者、歌人。「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」の作者。生没年及び本名は未詳。
父は、当時有数の学者、詩人であった藤原為時。長徳2年(996)越前守となった父とともに北陸に下り、翌々年帰京。
父の同僚であった山城守右衛門佐の藤原宣孝と結婚、翌年賢子(のちの大貮三位(だいにのさんみ)を産んだ。
長保3年(1001)宣孝が病死し、その後「源氏物語」を書き始め、寛弘2年(1005)一条天皇の中宮 彰子のもとに出仕した。
はじめ「藤式部」やがて「紫式部」と呼ばれるようになる。紫は源氏物語の女主人公 紫の上にちなみ、式部は父 為時の官職 式部丞による。





引接寺(千本ゑんま堂)

引接寺(千本ゑんま堂)は、京都市上京区閻魔前町にある。
光明山歓喜院引接寺と号する高野山真言宗の寺院で、本尊として閻魔法王を祀り、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれている。

開基は小野篁(おののたかむら)卿で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之庁(えんまのちょう)に仕えたと伝えられ、朱雀大路頭(すざくおおじかしら)に閻魔法王を安置したことに始まる。

その後、寛仁元年(1017)叡山恵心僧都の法弟、定覚上人が「諸人化導引接佛道(しょにんけどういんじょうぶつどう)」の意を以って当地に「光明山歓喜院引接寺」を開山した。

本堂には丈六の閻魔王坐像と司命、司録の像、地蔵菩薩立像が安置され、壁面には狩野光信筆と伝える「冥府の図」が描かれており、閻魔王宮を模している。
小野篁は「お精霊(しょうらい)迎え」の法儀を授かり、塔婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場とした。
精霊迎えの法とは、閻魔王から現世浄化のために、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法で、のちに盂蘭盆会に発展する法儀である。

境内北側にある名桜「普賢象桜(ふげんぞうさくら)」は咲いた時に双葉を持ち、花冠のまま落ちる珍しい桜である。
往時、この地に桜が千本あったことと、葬送地としての蓮台野の入口にあたり供養の卒塔婆が無数に並び建っていたことに由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。

毎年5月1日から4日間、境内の狂言堂で千本ゑんま堂大念仏狂言が演じられる。定覚上人によって始められたと伝えられ、鎌倉時代に明善によって再興された。
京都では壬生(みぶ)、神泉苑とともに大念仏狂言として知られている。
鰐口、太鼓、笛で囃すのは他の狂言と同様であるが、無言ではなく有言劇として演じられ、京都市無形民俗文化財に指定されている。
京都市バス乾隆校前下車、徒歩2分。




引接寺塔婆 紫式部供養塔

境内東北隅にある、圓阿上人作の引接寺塔婆は、高さが6.1mの十層の多重石塔で「至徳三年(1386)」の刻銘があり、国の重要文化財に指定されている。
九重塔に裳階をつけたとも、二重の宝塔の上に多層塔の残欠八重を積み上げたもいわれる珍しい石塔である。
円形基礎の周囲に14体の地藏小像が彫刻され、一重目には四方に石仏が配され、二重目には四本柱の中に円柱の軸部を置き、三面には鳥居、もう一面には連座上の月輪を刻み、それぞれの中に胎蔵界四仏の梵字を表している。
三重目から上には反り返りの良い八個の笠石を置き鎌倉時代の特徴を備えている。
この石塔は、もとは紫野の白毫院にあったともいわれ、紫式部供養塔と称されている。





片山御子神社

片山御子神社は、京都市北区の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の第一摂社である。
現地の案内板には、次のように記されている。

賀茂別雷神社 第一攝社 片山御子神社
 祭神 玉依比賣命 一柱一座
 延喜式内の古社である。
「延喜式」には、「片山御子神社 大、月次 相嘗、新嘗」と載せている。
賀茂縣主族の祭祀の権を握って居られた最高の女性、本宮御祭神別雷神を感得せられた神で、常に別雷神の御側に待ってお仕え申し上げておられたのである。
よって現在にあっても本宮恒例の祭祀には、先づ当神社に祭を行う例となっている。
それは只今より御奉仕申し上げる本宮のお祭は、御祭神の御名によって、お仕え申し上げる由を、予め奏上せんとする意味から行うのである。
 古来第一攝社と崇められている。
事情かくの如くであるので、皇室の御崇敬も厚く、本宮へ行幸、御幸等の場合は当社へも奉幣あらせられることが縷々あった。天正十九年六月十一日正一位を奉られている。
古く当社の後ろに「よるべの水」を湛えた甕が三個あったが、天正年中汚穢の禍を懼れて地下に埋没したという。

片山御子神社は、片岡社とも呼ばれており、縁結び、子授け、安産の神様として知られている。
源氏物語の作者である紫式部は、当社に参拝祈願した際に下記の和歌を詠んでいる。
  賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほととぎす鳴かなむと申しけるあけぼの、
  片岡の梢おかしく見え侍ければ
 ほととぎす 声まつほどは 片岡の
   もりのしづくに 立ちやぬれまし
       (「新古今和歌集」巻第三 夏歌)
(通釈)
 ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待っている間は、
  この片岡の杜の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう
 ※ホトトギスと共に片岡の杜もまた素晴らしいという意味

当社南側にある「岩上」の隣 灯篭脇には、京都北ライオンズクラブの奉納した上記和歌の歌碑がある。



紫式部歌碑(上賀茂神社)

紫式部歌碑(上賀茂神社)は、京都市北区にある。
歌碑横の説明板には、次のように記されている。
  紫式部歌碑
ほととぎす 声まつほどは 片岡の
 もりのしづくに 立ちやぬれまし
  揮毫 後藤西香先生
  石材 鞍馬石
  奉納 京都北ライオンズクラブ
 平成二十年十月十八日

歌碑北側にある片岡社(片山御子神社)に紫式部が参拝した時に詠んだ歌で、新古今和歌集に収められている。




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