高野山奥の院清浄心院関係墓所

佐竹義重霊屋

佐竹義重霊屋は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院20町石北西に羽後秋田佐竹家墓所があり、それに隣接して北側に佐竹義重霊屋がある。

佐竹義重(1547-1612)は、常陸国(茨城県)の戦国大名である。
一間四方で、屋根は切妻造、檜皮葺きである。
正面向かって右の柱に「常陸国佐竹為義重逆修造立之」
左の柱に「慶長四己亥十月十五日」(西暦1599年)の刻銘がある。
国の重要文化財に指定されており、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産となっている。
外面は、木造の卒塔婆型の角材で、正面、側面、背面と47本建て並べて壁にしており、極めて珍しい霊屋である。
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院口下車、徒歩10分。


羽後秋田佐竹家供養塔

羽後秋田佐竹家供養塔は、和歌山県高野山奥の院20町石西北にある。

佐竹家は、常陸北部に勢力を築いた清和源氏、新羅三郎義光を祖とし、その孫にあたる昌義の時代に久慈郡佐竹郷・大田郷周辺を本拠としたことからこの名を名乗った。
北関東に古くから地盤を持つ一族で、南北朝の合戦において活躍したことで大きく勢力を伸ばした。
その後、混乱の時代を経て、豊臣政権では石田三成と関係が深く厚遇されたが、関ヶ原の戦いで、当主の佐竹義宣が、東軍西軍いずれにも与しなかったこともあり、慶長7年(1602)出羽秋田に減移封された。
江戸時代は、久保田城を藩庁として、20万5800石を領した。出羽国久保田藩で、「秋田」は、明治に入って改名されたものである。

当地の佐竹家墓所は、佐竹義重霊屋の南にあり、大型五輪塔四基と、中型五輪塔二基が建立されている。
石鳥居の扁額には、鑑照院、浄光院、徳雲院と刻されており、正面三基の五輪塔である。
大型五輪塔四基は、次の藩主等の供養塔である。

藩主名  没年  法名  備考 
 初代    佐竹義宣 寛永10年(1633)  浄光院殿傑堂天英  佐竹義重の長男 
 二代    佐竹義隆 寛文12年(1672)  鑑照院  岩城貞隆(佐竹義重の三男)の長男、義宣の養子 
 三代    佐竹義処(よしずみ) 元禄16年(1703)  徳雲院  佐竹義隆の次男 
 三代義処嗣子佐竹義苗(よしみつ) 元禄12年(1699)  乾徳院  佐竹義処の長男 29歳で死去 



北海道松前藩 松前家供養塔

北海道松前藩 松前家供養塔は、和歌山県高野山奥の院22町石南西にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、中型五輪塔2期、小型五輪塔20基、櫛形墓標3基などが墓所内に建立されている。
松前藩は、北海道松前町に居所を置いた藩で、藩主は江戸時代を通じて松前氏が続いた。
上記報告書によると、当地の墓所には、2代松前公広、3代松前氏広、4代松前高広(松前院殿)などの供養塔がある。


下野黒羽大関家供養塔

下野黒羽大関家供養塔は、和歌山県高野山奥の院20町石北西にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、大型五輪塔11基と多数の墓標があるが、現状の配置は後世の改変によると考えられている。

東端の五輪塔は、2代藩主大関政増(まさます)供養塔で、地輪正面には次のように刻されている。
下野国那須黒羽
 主太関土佐守
      顧岑道鑑
(梵字)爲
      大禅定門
于時寛永十一戊年
七月三十日建立之

上記報告書によると、3代藩主 高増、6代藩主 増恒ほかの供養塔がある。




下野大田原家供養塔

下野大田原家供養塔は、和歌山県高野山奥の院20町石北にある。
大田原氏は、下野国の大名 那須氏に属する豪族衆「那須七党」(那須七騎)の一つであった。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐で、大田原晴清が参陣し、7000余石の所領を安堵され、関ヶ原の合戦後徳川家康から5000石を加増され、1万2000石の大名となった。
下野大田原藩は、初代の大田原晴清以降、大田原城(現在の栃木県大田原市)を藩庁として、明治維新まで同家が藩主を務めた。
当地の墓所には、大・中型五輪塔7基、小型五輪塔3基ほか多数の石塔がある。
木下浩良氏の「戦国武将と高野山奥之院」によると、次の供養塔が紹介されている。
大田原晴清供養塔 寛永8年2月5日 「奪勝院殿印国永金大居士」
大田原晴清夫人供養塔(水輪が欠損している) 寛永16年5月16日 「満鏡院殿輝□清光大姉」

淀君、豊臣秀頼五輪塔

淀君、豊臣秀頼五輪塔は、和歌山県高野山奥の院の上杉謙信霊屋西側にある。

二基の五輪塔は、大きく欠損していたが、令和5年(2023)に修復された。

淀君五輪塔の総高は295cmで、墓石には、次のように刻されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)大虞院殿英岩大禅定尼尊儀
 慶長貮十乙卯年五月七日
淀君の墓所は、大阪市北区の太融寺にある。

豊臣秀頼五輪塔は、総高302cmで、銘文は、次のように記されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)嵩陽院殿秀山大居士尊儀
 慶長貮十乙卯年五月七日
秀頼の首塚は、京都市の清凉寺にある。 → 高野山奥の院豊臣家墓所

銘文にある筑波山知足院の僧侶 光誉は、大坂冬の陣、夏の陣の時に、徳川家康の陣にいて戦勝を祈願した陣僧とされている。
豊臣家滅亡の際に、徳川家康は淀君と秀頼の供養のため、筑波山知足院の光誉に命じて、2基の五輪塔を建立したといわれる。

淀君(1567年-1615年)は、豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母である。
父は、近江浅井郡小谷城主の浅井長政、母は織田信長の妹 お市の方である。→ 浅井三姉妹ゆかりの地
天正元年(1573年)に信長に包囲された小谷城から、母妹とともに脱出した。
1582年に柴田勝家に再嫁した母に従い、越前北之庄(福井)城に入った。
1583年に北之庄(福井)城が落城し、豊臣秀吉に庇護された。
その後、秀吉の側室となり、鶴松と秀頼を生み、慶長20年(1615年)に大坂城落城により、秀頼とともに自刃した。





修復前の写真


出羽米澤 上杉家供養塔(2代定勝他)

出羽米澤 上杉家供養塔(2代定勝他)は、和歌山県高野山奥の院22町石北西にある。
上杉謙信霊屋淀君、豊臣秀頼五輪塔の間に位置している。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓域内には下記の大型五輪塔3基と小型五輪塔6基がある。

 写真番号  供養者名  没年  法名  備考
 ① 出羽米沢藩 二代藩主
上杉 定勝
正保2年
(1645)
大上院殿
権大僧都隆心
空輪を欠く
建立年は正保3年 
 ② 出羽米沢藩 三代藩主
上杉 綱勝
寛文4年
(1664)
上性院瑛心 建立年は寛文5年 
 ③ 上杉 綱勝夫人 萬治元年
(1658)
清光院殿 保科正之長女 媛姫 

上杉定勝(1604-1645)は、慶長9年に上杉景勝の子として生まれた。元和9年出羽米沢藩主上杉家2代となる。
正保2年9月10日に死去した。当地の定勝供養塔は正保3年「孝子上杉喜平次(上杉綱勝)」が建立したものである。
墓域内西端には、直江兼続の妻おせん石屋形がある。




上杉謙信霊屋

上杉謙信霊屋は、和歌山県高野山の奥之院22町石北東にある。
上杉謙信と景勝の廟墓(びょうぼ)である。
謙信の名は天正2年(1574年)、45歳で上洛した時、高野山も訪れ、その折贈られた法名であるといわれている。
建屋内部は格子天井を張り、須弥壇上に二基の石碑があり、位牌刻銘には次のように記されている。
(右)為権大僧都法印謙信
(左)為権大僧都法印宗心
霊屋の創建は詳らかでないが、様式手法から江戸時代初期の造営と推定されている。
上杉謙信は、天正6年(1578年)3月13日に死亡した。「高野山文書」の天正7年の頃に「謙信廟前にて晝夜の勤行」とあるので、このころに何らかの廟舎が造られていた。
また、現在合祀されている謙信の子景勝は、元和元年に亡くなり、謙信廟の東隣に廟舎が建てられていたことが紀伊続風土記に記されている。
従って、紀伊続風土記の記された天保年間(1830-1844)までは、2棟が並列していたことがわかる。
その後、合祀され、修理とともに塗装も塗り直されている。以降明治時代にも修理され、昭和になって檜皮屋根が銅板葺に変更された。
昭和40年5月に重要文化財に指定された後、台風の被害で解体修理が行われ、本来の檜皮葺に復した。→ 上杉景勝供養塔






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