大坂冬の陣 大坂夏の陣 ゆかりの地

大坂冬の陣 大坂夏の陣 ゆかりの地を紹介します。

大阪城

大阪城は、大阪市中央区にある特別史跡である。
豊臣秀吉が、1583年に当初の大坂城の築城を開始した。
本丸は、完成に1年半を要し、その後二の丸等も建設された。
1615年の大坂夏の陣の後、当初の大坂城は失われたが、1620年から徳川家により再建がはじめられた。
現在の天守閣が作られたのは1931年で、復興費は全額市民の寄付でまかなわれた。
天守閣の中は、近代的な歴史博物館になっていて、豊臣秀吉や大阪城の歴史を学ぶことが出来る。
最上階の展望台からは、大阪の街を一望できる。
大阪城は大阪発展の礎となった城であり、現在の大阪の町名は、大阪城に近いところから、1丁目、2丁目と付けられている。
大阪市営地下鉄谷町線・中央線の谷町4丁目駅下車、徒歩約15分。



豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地・碑 

豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地・碑は、大阪市中央区大阪城の山里丸にある。
豊臣秀頼(1593-1615)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての大名で、太閤・豊臣秀吉の子である。
秀吉の側室 茶々(淀殿)の第2子で幼名は捨て丸と呼ばれた。
慶長20年(=元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀君が、山里丸にあった櫓にひそみ自害したと、多くの記録が伝えている。
それに因んで、平成9年(1997年)、現在の山里丸の一画に大阪市が記念碑を建立した。→ 浅井三姉妹ゆかりの地
京阪電車天満橋駅下車、徒歩約20分。



太融寺

佳木山(かぼくさん)太融寺は、大阪市北区にある高野山真言宗の寺院である。
最盛期の寺域は、西は梅田、東は扇町、南は老松町、北は堂山町を結ぶ広大なものであった。
扇町公園がそっくり寺の庭、お堂の合ったところが堂山町、若松が生えていたところが若松町と、町名が寺の境内に由来していることがわかる。
創建は弘仁12年(821)で、弘法大師がこの地を訪れた時、樹林の間から異香を放つ霊木を見つけ、これを切って自ら地蔵、毘沙門の二体を刻み、嵯峨天皇の勅願寺として草建した。
本尊の千手千眼観世音菩薩は、天皇の守り本尊といわれる。
845年に、嵯峨天皇の皇子源左大臣融(とおる)公が、ここに七堂伽藍を建立したころから寺勢は栄え、太融寺の町名は融公に由来する。
境内北西角には、豊臣秀吉の側室 淀殿の墓がある。明治期に大阪城内から移され、戦災に遭ったが、今もひっそりとたたずんでいる。→ 高野山奥の院 淀君、豊臣秀頼五輪塔
また芭蕉の句碑も建立されている。
地下鉄谷町線東梅田駅から徒歩7分、JR大阪駅から徒歩10分。






三光神社

三光神社は、大阪市天王寺区にある神社である。
祭神は天照大神、月読命、素戔嗚尊である。
創建は、第18代反正天皇の時代で、かつては姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)と呼ばれた。
創建時神職であった武内宿祢の末裔武川氏が86代にわたって奉仕した神社である。
全国で唯一の中風病除の神として知られ、6月1日から7日まで祈願大祭が行われる。
七福神の一つ寿老神(武内宿祢)を祀り、毎月7日に大阪七福神巡りが行われている。
この地は、大坂城の出城(真田丸)があった場所と言われ、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、真田幸村が偃月城と名付けた出城を造り、本城からこの地まで抜け穴を掘らせたと伝えられる。
本殿前石段横に、真田幸村像と「史蹟真田の抜穴跡」の石室状の横穴があり、11月第1日曜日に開放されている。
大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車、徒歩3分。JR大阪環状線玉造駅下車、徒歩5分。 → 真田幸村ゆかりの地




心眼寺 真田幸村墓所

真田山心眼寺は、大阪市天王寺区にある浄土宗の寺院である。
本尊は、阿弥陀仏座像で、大阪新四十八願所阿弥陀巡礼の一つとなっている。
元和8年(1622年)白牟和尚が戦国武将真田幸村父子の冥福を祈り、堂宇を建立した。
創建からの寺の定紋は真田家家紋の六文銭で、現在の山門扉にも浮き彫りになっている。
真田幸村が大坂冬の陣で戦った真田出丸が築かれた場所と言われ、門前には、「真田幸村 出丸城跡」の石碑が建てられている。
院内には、真田幸村の墓所があり、四百回忌に建立された墓石には、「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と記されている。
真田幸村の名は、死後100年以上たった徳川時代中頃(18世紀)に流布したもので、現存最後の書簡にも「左衛門之佐信繁(さえもんのすけのぶしげ)」と署名されている。
豊臣姓は、秀吉が創始したもので、秀長などの親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠などの有力大名も称していた。
大阪市営地下鉄玉造駅下車、徒歩5分。




安居神社 

安居神社は、大阪市天王寺区にある神社である。
祭神は、少彦名神(すくなひこなのかみ)と菅原道真公である。
少彦名神を奉祀したのは、古文書が散逸したため詳らかでないが、非常に古い時代であると伝えられている。
この神は、医薬禁厭(医術・薬方・まじない)智慧の祖神として知られている。
菅原道真公は、大宰府に左遷される途上、海上の浪荒く暫くこの地に立ち寄って憩われた所以で、天慶5年(942年)此処に神霊を祀ったといわれている。
また、大丸の業祖 下村彦右衛門は当神社を厚く信仰したため、大丸天神と称される。
大阪夏の陣において、真田幸村が徳川家康の直前まで迫るも取り逃がし、この地で力尽きて戦死したと伝えられ、体を休める真田幸村像と戦死跡の石碑が建てられている。
4月25日には、例祭が行われ、5月には幸村祭が行われる。
大阪市営地下鉄四天王寺夕陽丘前下車、徒歩6分。




平野郷樋尻口門跡 樋ノ尻口地蔵

平野郷樋尻口門跡及び樋ノ尻口地蔵は、大阪市の平野環濠都市遺跡の一つである。
戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態で、周囲には自治と自衛のための濠がめぐらされていた。
濠のあいだには大小13の木戸があり、八尾、古市、堺などに道路が放射状にのびていた。
樋ノ尻口門は、八尾久宝寺につながる大きな木戸で、門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があった。
樋ノ尻口地蔵も当時の名残である。郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事は、この入口で退散させようとした祈願のあらわれである。
大坂夏の陣の元和元年(1615年)5月7日、徳川家康の樋ノ尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛け大坂城へ引き揚げた。予想通り家康が来て、ここで休憩したが、ちょっと座を外した時に地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説がある。
現在、全興寺に祀られている首地蔵は、この時の爆発で吹き飛んできた樋ノ尻地蔵の首と伝えられている。
これらの門は、明治12年のコレラ流行の時は閉じられ、通行人の出入りを制限したという。門は、この時より後に撤去された。
JR大和路線平野駅から徒歩16分。





全興寺

全興寺は、大阪市平野区平野本町にある真言宗の寺院である。
野中山と号する。開基は聖徳太子で、野の中にこの薬師堂が建てられ野堂と呼ばれた。
ここから人が住み始め平野の町が次第に広がっていったと言われ、旧町名の平野野堂町の起源となっている。
本尊は聖徳太子自作といわれる薬師如来像で、本堂に上がる階段上の蟇股(かえるまた)にタコの彫刻があるため、蛸薬師と呼ばれる。
現在の本堂は、1576年坂上利治によって再建されたもので、1614年の大坂冬の陣では、徳川秀忠の陣所となった。
当寺には、真田幸村が樋ノ尻口地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという「首の地蔵尊」が安置されており、1月8日の初薬師と9月の観月会には、本尊とともに公開される。
また、杭全神社の奥の院と仰がれ、毎年7月14日には「みこし渡御」の神事が行われる。
JR大和路線平野駅から徒歩12分。




誉田林古戦場址

誉田林古戦場址石碑は、大阪府羽曳野市誉田八幡宮境内の中ほどにある。
誉田八幡宮の付近は、南北朝、室町、戦国の各時代から江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため、再三戦場の舞台となった。
南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟と南朝方の楠木正行の間で合戦があった。
楠木正行は、金剛山を本拠として、摂津、住吉、天王寺近辺に出陣していたため、将軍足利尊氏が激怒して、細川顕氏を大将にした軍勢を河内に送った。
楠木正行は、金剛山から約30㎞離れた矢尾城を襲うと見せかけて、誉田八幡宮周辺に兵を潜ませて、合戦は後日かと油断した細川勢を急襲した。
太平記巻第25には、合戦の様子が描かれている。
室町時代中期の享徳年間には、畠山政長と義就の間で、何度か誉田合戦が繰り広げられた。
永正元年(1504)には、畠山稙長(たねなが)と義英の間で、合戦後の和議、「誉田八幡宮社前の盟約」が結ばれている。
大坂夏の陣では、豊臣方の武将 薄田隼人正が、誉田八幡宮境内に陣を敷き、当地から出撃して、道明寺近辺で討ち死にした。
近鉄南大阪線古市駅下車、徒歩10分。参拝者用の駐車場がある。


方広寺 

方広寺は、京都市東山区にある天台宗の寺院である。
天正14年(1586年)豊臣秀吉の発願によって着工し、1589年に完成した。
創建当時の寺域は、東西200m、南北240mに及び、高さ19mの木造毘盧遮那仏が大仏殿に安置されたが、慶長元年(1596年)の大地震により倒壊した。
秀吉の死後、豊臣秀頼が金銅製の大仏を再興させたが、慶長19年(1614年)の開眼供養に先立ち、鐘銘中の「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、徳川家に不吉の文であるとされた鍾銘事件から、大坂冬の陣になり、豊臣家滅亡につながった。
この釣鐘がもとで淀君が亡くなったので、釣鐘の中には、淀君の亡霊がいるとの伝説があり、鐘の中の模様が、淀君の顔に見えると言われている。
金銅大仏は、寛文2年(1662年)の地震で倒れ、その後再建された木造大仏等も焼失している。
江戸時代末期の文久3年(1863)8月14日、天誅組の中山忠光以下39名が方広寺に集合し、船で大坂に向かった。
その後8月17日に五條代官所を襲撃して、天誅組の変を起こした。
現在は、本堂、大黒天堂、大鐘楼が残っており、秀頼建立大仏の10分の一の大きさの像が本堂に安置されている。

方広寺大仏殿鐘銘事件について、笠谷和比古氏は、「徳川家康」の中で、次のように解説している。
従来の議論では、徳川方が長大な鐘銘文中に「家」や「康」の文字のあるのを見つけ出し、
「家康」の名前を分断するものというこじつけをなし、豊臣討伐のための口実作りを行った謀略という形で捉えられ、
このような狡智を家康に授けたのは、金地院崇伝とされてきた。
しかしながら、鐘銘に「家康」の文字があるのは、東福寺僧静韓(せいかん)が意図して記したもので、
家康の字を漢詩や和歌などで用いる趣向の「かくし題」にして国家長久の意を表そうとした旨が、史料で残されている。

京阪電車七条駅下車、徒歩10分。


方広寺大仏殿跡

方広寺大仏殿跡は、京都市東山区にある。
天正13年(1585)に関白となった豊臣秀吉は、翌天正14年(1586)奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めた。
大仏の造営を命じられたのは、高野山の客僧であった木食応其(1536-1608)である。
ほどなくこの工事は中止されたが、六波羅の当地に敷地を変更して再開され、文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製金漆塗りの大仏坐像が安置された。
ところが、翌年の大地震で大仏が大破、慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が病没し、8月22日に秀吉の死去を公表しない中で、大仏殿の完成披露が行われた。
その後、豊臣秀頼が金銅に変えて大仏を復興する途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上した。
慶長17年(1612)に大仏が完成したが、その後鋳造された梵鐘の銘文 「国家安康(こっかあんこう) 君臣豊楽(くんしんほうらく)」が、徳川家を呪詛するものであるとして大坂の陣が起こり、豊臣家の滅亡につながった。
その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798)に落雷で炎上するまで、「京の大仏つぁん」として親しまれた。

巨大な石塁(国史跡)が積まれた「大佛殿石垣」は、方広寺東側に現在も残っている。
大仏の伽藍は西向きで、規模は南北約260m、東西約210mと推定されている。
大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が設けられた。
仁王門跡から西へのびる道が、現在「正面通(しょうめんどおり)」と呼ばれることも方広寺に由来している。
「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会である「方広会(ほごえ)」に因むといわれている。
方広寺東側にある大仏殿跡緑地では、大仏殿建物の規模が南北約90m東西55mで現在の東大寺大仏殿をしのぐ壮大さであったことなど、発掘調査の様子が案内板で紹介されている。




清凉寺(嵯峨釈迦堂)

清凉寺は、京都市右京区にある寺院である。
五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。
この地には、一説では「源氏物語」の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融(みなもとのとおる)の山荘 棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺(せいかじ)としたのが当寺の始まりである。
天慶8年(945年)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。
本尊の釈迦如来立像(国宝)は、釈迦37歳の生き姿を刻んだものと言われている。
釈迦が生母である摩耶夫人に法をとくために忖利天(とうりてん)に登ったとき、時の優塡王(うでんのう)や弟子たちは慈母を失った子供のようになげき悲しんだ。
そこで、優塡王は、毘首竭摩(びしゅかつま)に命じて、栴檀の香木で釈迦生身の尊像を作らせた。
90日後釈迦が戻ってきて、自分と寸分違わぬこの像を見て「私が亡きあとはこの像が私に替わって衆生を済度するであろう」と大変喜んだ。
のちにこの像は、インドからヒマラヤを越え中国へ伝えられた。中国に渡った東大寺の僧、奝然(ちょうねん)上人が寛和元年(985年)その像を模刻して日本に持ち帰った。
そして奝然(ちょうねん)上人が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清凉寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算(じょうさん)が清凉寺を建立して像を安置した。
昭和28年(1953年)、背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが納められていた。
本堂は、元禄14年(1701年)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建された。
霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅(きし)像(重要文化財)等、多数の文化財が展示されている。
本堂西横の豊臣秀頼公の首塚は、昭和55年、大阪城三の丸跡地の発掘現場から出土した秀頼公の首を、昭和58年、秀頼公再興の由緒を持つ当寺に納められたもので、首に介錯の跡がある。
境内には、奝然上人、源融の墓、嵯峨天皇・檀林皇后宝塔などがある。
京都市バス嵯峨釈迦堂前下車すぐ。参拝者用の有料駐車場がある。




三寶寺

金映山 妙護国院 三寶寺(さんぼうじ)は、京都市右京区鳴滝松本町にある日蓮宗の寺院である。
周山街道北の白砂山(しらすなやま)の中腹にある。
江戸時代初期の寛永5年(1628)に、右大臣 今出川(菊亭)経季(つねすえ)と中納言 今城(中山)為尚(ためひさ)が後水尾上皇の内旨を受け、日護(にちご)上人を開山として創建した。
以降、両家の菩提寺として繁栄し、最盛期には12の塔頭を有し、千宗旦(せんのそうたん)の弟子 山田宗徧(そうへん)も塔頭の涼池院(りょうちいん)で茶道の研究に努めた。
本堂には釈迦如来像、千体佛堂には六尺坐像の釈迦佛と三寸立像の釈迦佛千体が安置され、ともに日護上人の作と伝えられている。
妙見堂には、開山日護上人自作の北辰妙見大菩薩が祀られており、「鳴滝の妙見さん」と呼ばれ、願いが叶うことから「満願妙見宮」と親しまれている。
本堂脇の桜は、京都御所の旧今出川邸から移植したもので、余りの美しさに帝が車を返したことから「車返しの桜」といわれ、その名のとおり毎年美しい花を咲かせている。
境内には、仁孝天皇の皇子 常寂光院の墓がある。
また妙見宮に登る階段横には、豊臣秀頼、国松丸、淀君の三方の供養塔がある。
この塔を摩(な)でさすれば良縁を得、早く縁づくことができると言われることから、縁結びの塔と呼ばれている。
京都市バス三宝寺下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。




南宗寺

龍興山南宗寺は、堺市堺区南旅籠町東にある臨済宗大徳寺派の禅宗寺院である。
初めは南宗庵と称して、正覚普通国師の隠棲の地だったが、国師に深く帰依した三好長慶が寄進し、父元長の霊を弔うため、1557年に大林宗套(だいりんそうとう)を迎え寺を創建した。
当初は宿院町南方にあったが、1615年に大坂夏の陣で他の寺院とともに焼失したため、1617年に当時の住職澤庵宗彭(たくあんそうほう)が現在地に再建した。
第二次世界大戦の空襲にも罹災したが、古田織部作といわれる枯山水の庭園、八方睨みの龍の描かれた仏殿、山門、唐門などが残り、本堂、客殿なども再建され、堺市第一の禅寺として多くの参拝客が訪れる。
茶道とのゆかりが深く、境内には、武野紹鷗や千利休一門の供養塔、当時茶の湯の発展に尽くした津田家、半井家一門の墓所がある。
1963年には、利休好みの茶室「実相庵」が再建され、前庭には利休の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」や武野紹鷗が愛したとされる「六地蔵石燈籠」が置かれている。
また、境内には、徳川家康の「墓」があり、家康が大坂夏の陣で真田幸村の奇襲を受けて、後藤又兵衛の槍で突かれて、南宗寺で絶命したとの伝説がある。
元和9年(1623年)7月10日二代将軍秀忠が、つづいて8月18日に三代将軍家光がそれぞれ南宗寺に詣でて、参拝したといわれる。
この元和9年は、7月に秀忠が将軍職を辞し、家光が三代目を継いだ年で、この墓に報告に来たのではないかといわれている。
阪堺電気軌道阪堺線の「御陵前」下車、徒歩5分、参拝者用の無料駐車場がある。




安藤正次墓所 

安藤正次墓所は、大阪市平野区にある平野環濠都市遺跡のひとつである。
安藤次右衛門尉正次は、禄高二千石の旗本で、大坂夏の陣には御旗奉行として徳川秀忠に直属し、元和元年(1615年)5月7日の大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常、本田康紀(やすのり)両軍に、敵陣へ肉薄するようとの命令を伝えた。
その時数騎の敵兵に出会い、単身馬を進めて戦い、豊臣方の首級をあげたが、自らも深傷を負い、家来に助けられて戻った本陣で、秀忠から高名したと賞され、宿所である平野の願正寺に送られて傷の療養に努めていたが、再起不能を悟り、19日自刃した。享年51、浄徳院釈了栄とおくり名なされた。
五輪の慕塔は、世子正珍(まさよし)が平野郷を囲む環濠の土居上に建て、願正寺を菩提寺とした。元禄14年(1701年)に曽孫定房が寄進した盥盤は、背面に正次の伝記体を刻した他に例を見ない珍しいものである。
JR大和路線平野駅から徒歩16分。






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