徳川家康① 天下を取る

真宗本廟(東本願寺)

真宗本廟(東本願寺)は、京都市下京区にある。
「お東さん」の呼び名で親しまれている東本願寺は、正式名称を「真宗本廟」といい、全国に約8800ヶ寺を有する真宗大谷派の本山である。
親鸞聖人(1173-1262)を宗祖とし、慶長7年(1602)に本願寺が東西に分かれた際、現在地に誕生した。
境内で一番大きな御影堂は、親鸞聖人の御真影(ごしんえい)(御木像)が安置されている、世界最大級の木造建築である。
左側にある、御本尊を安置している阿弥陀堂と共に明治28年(1895)に再建された。
寺宝として、開祖親鸞真筆の聖典「教行信証」(国宝)などを有している。
現在も、報恩講(11月21日-28日)をはじめとする諸行事に、多くの門信徒が訪れている。
JR京都駅から徒歩10分。→ 大谷祖廟



知恩院

知恩院は、京都市東山区にある浄土宗の総本山である。
この地は、法然上人が比叡山から下り、草庵(吉水の草庵という)を結び、初めて浄土の教えを宣布した所である。
法然上人の死後、文暦元年(1234年)に弟子勢観房源智(せいかんぼうげんち)が廟所を整えて華頂山知恩教院大谷寺と号し、自ら当寺第2世となった。
応仁の乱の当時には一時兵火を近江に避けたが、のち徳川家康の手厚い帰依を受け、広大な寺地の寄進を受けて寺観を整えた。
三門は徳川秀忠が、元和元年(1621年)に建立した日本最大の木造二重楼門で、国宝に指定されている。
悟りの境地に至る「空門(くうもん)」「無想門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」(三解脱門)を表わすことから三門といわれる。
本堂(御影堂みえいどう 国宝)は寛永16年(1639年)、大方丈・小方丈(いずれも重要文化財)は、寛永18年(1641年)の建築である。
大鐘楼(重要文化財)の大鐘は高さ3.3m、口径2.8m、重さ70トンで、日本三大梵鐘の一つとして広く知られている。
僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は、京都の冬の風物詩として有名である。
寺宝として、阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)ほか多数を有している。
鴬張りの廊下、抜け雀など、知恩院の七不思議も良く知られている。
京都市営地下鉄東西線東山駅下車、徒歩8分。京都市バス知恩院前下車、徒歩3分。参拝者駐車場がある。



金戒光明寺(くろ谷)

紫雲山金戒光明寺(通称 くろ谷)は、京都市左京区黒谷にある浄土宗大本山である。
寺伝によると、承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。
以降、浄土宗の念仏道場として栄え、後光厳天皇(1338-1374)から「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至った。

山門楼上の勅額「浄土真宗最初門」は、後小松天皇の宸翰で、元祖法然上人が最初に浄土の教えの真実義を弘められた念仏発祥の地との意を賜った(1428年)もので、東西本願寺などの宗派名ではない。
御影堂(大殿)は、昭和19年(1944)に再建されたもので、内陣正面には宗祖法然上人七十五歳三昧発得(さんまいはっとく)の御影(座像)が奉安されている。
また脇壇には、吉田寺(廃寺)の旧本尊と伝えられる千手観音立像(吉備観音)と中山文珠が安置されている。
吉備観音は、千二百余年前、遣唐使吉備真備の難を救った観音として知られている。
運慶作と伝えられる獅子に乗った文珠菩薩像は、今は無き中山宝幢(ほうとう)寺の本尊であったことから、中山文珠と呼ばれる。
平敦盛を討った熊谷直実が法然のもとで出家したことから、御影堂前には、熊谷直実 鎧掛けの松がある。
阿弥陀堂は、慶長十年(1605)豊臣秀頼により再建された。本尊は、恵心僧都源信の最終作で、源信が彫刻に必要なノミを納めて仏像彫刻を止めたというので、「ノミおさめ如来」と称されている。
御廟には法然上人の分骨が納められており、廟前には熊谷蓮生坊(直実)と平敦盛の供養塔二基が建てられている。→ 須磨寺 熊谷直実、平敦盛供養塔
三重塔は、徳川秀忠公の菩提を弔うため建立された。

寺宝として、山越阿弥陀図や地獄極楽図等の屏風、伊藤若冲の鶏図、法然上人直筆の一枚起請文など多くの文化財を有している。
法然上人鏡の御影は、法然上人の弟子で絵が得意であった勝法房が、上人の姿を描き賛を求めたとき、
法然がこれを見て、鏡二面を左右の手に持ち、水鏡を前にして姿を映し、似ていないところを直して返したとの逸話が残っており、毎年4月25日の命日法要で内拝ができる。

墓地内には、五劫思惟佛、筝曲開祖八橋検校の墓、お江(徳川秀忠夫人崇源院)供養塔徳川忠長供養塔春日局供養塔などがある。
境内北東には、会津墓地があり、幕末の会津藩の戦死者たちが祀られている。西墓地には、徳川家康三女の正清院(振姫)供養塔がある。
京都市内主要ターミナルから京都市バスで岡崎道下車、徒歩10分。参拝者用の駐車場がある。



京都御所

京都御所は、京都市上京区京都御苑内にある天皇の明治維新までの居所である。
延歴13年(794年)、桓武天皇が平安京に遷都し、大内裏の中ほどに天皇の住まいである内裏(皇居)があった。
内裏が火災にあうと、天皇は摂関家など貴族の邸宅に仮皇居として住み、これを里内裏(さとだいり)と呼ばれた。
平安時代後期以降は、内裏が次第に使用されなくなり、里内裏が実質的な政治の中心となった。
内裏は、安貞元年(1227年)に焼失した後は再建されず、内野と呼ばれる荒野になった。
現在の京都御所は、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)といわれた里内裏が発展したものである。
光厳天皇が元弘元年(1331年)ここで即位して以来、明治2年(1869年)に明治天皇が東京へ遷るまで皇居とされた。
その間にも建物は焼失・再建があり、現在の御所の建物のほとんどは、安政2年(1869年)に再建されたものである。
京都御所は、高い築地塀に囲まれた東西250m、南北450m、面積約11万㎡の規模で、紫宸殿、清涼殿など平安時代以来の寝殿造りや、庭園などを見ることが出来る。
春と秋に期間限定で一般公開されていたが、平成28年(2016年)7月から通年で一般公開されている。
京都市営地下鉄丸太町駅、今出川駅下車、徒歩5分。




二条城

二条城は、京都市中京区にある史跡である。
東西500m、南北400mの城地総面積は275,000㎡で、世界文化遺産に指定されている。
慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるに際し、その居館として造営された。
その後、寛永2年(1626年)に三代将軍家光が、後水尾天皇の行幸に際し、大規模普請が実施された。
現在残る二の丸御殿(国宝)は、この時出来上がったもので、武家風書院造の代表的な御殿建築である。
南に唐門があり、内側に遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行型に並んでいる。
建築面積は3,300㎡、部屋数は33で、内部の障壁画は狩野探幽、尚信により各部屋の目的に応じて描かれたもので、重要文化財に指定されている。
二の丸庭園は、小堀遠州の作と伝えられ、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した書院造庭園で、国の特別名勝となっている。
慶応3年(1867年)15代将軍徳川慶喜が、二の丸御殿大広間に諸藩の重臣を集め、大政奉還の意思を発表した。
このため奇しくも二条城は、徳川幕府の最初と最後の舞台となったといわれている。
その後二条城は、新政府によって接収され、京都府庁として活用された後、明治17年(1884年)に二条離宮と改称したが、昭和14年(1939年)に京都市の所管となり、二条城に復称した。
現在も「史蹟舊二条離宮 二条城」の石碑が東大手門に残っている。
京都市営地下鉄東西線二条城前駅下車、徒歩2分。堀川通に面して来場者用の駐車場がある。






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