明智光秀供養塔

明智光秀供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある五輪塔である。
奥の院内24町石から約30m東に参道を進むと、右側に「右光秀公之墓」の石碑があり、約20m先に「明智光秀墓所」「菩提寺恵光院」の表示がある。

江戸時代の紀伊名所図会には、次のように記されている。
  〇明智碑(あけちのひ)
   同上(かみにおなじ) 世俗(せぞく)日向守光秀(ひうがのかみみつひで)の墓といふ。
   梵字のゆがめるを以てその名を負(おふ)せたるならむ。
   是全(これまったく)光秀の碑にはあらざれども、不忠を誡(いまし)むるに足るべし。
明治30年刊の高野山独案内名霊集には、次のように記されている。
  明智光秀墓
   中の橋に程近き。道邊に割れし五輪あり。童子(わらべ)までも云ひ傳ふ。
   主人を殺せし天罰に。その身は土民の手に罹り。最後を遂げしのみならず。
   菩提の為と建てられし。石塔さへも粉な微塵。割れて悪名残すとぞ。

明智光秀(1528?-1582)は、安土桃山時代の武将で、通称十兵衛といわれた。
明智氏は美濃土岐の一族であったが、光秀は越前の朝倉義景(よしかげ)に仕え、のち織田信長の家臣となった。
将軍足利義昭と信長の間を取り持ち、公家との交渉にも手腕を発揮した。
元亀2年(1571)近江坂本城主となり、天正3年(1575)惟任(これとう)日向守と称して丹波攻略に着手した。
丹後平定の後、大和、摂津等の諸武将を束ね、近畿を統率する地位となった。
天正10年(1582)、中国地方征伐を命ぜられ、6月1日夜、亀山から出陣したが、「敵は本能寺にあり」として京都に向かい、翌2日に織田信長を襲い自刃させ、織田信忠を二条城で囲んで敗死させた。(本能寺の変)
しかし、予想外の速さで羽柴秀吉が毛利氏と和して東上したため、山崎の戦で敗れ、敗走の途中、小栗栖(おぐるす)で農民に竹槍で刺され、最期を遂げた。
法名は明窓玄智。(西教寺墓、過去帳は秀岳宗光大禅定門。)→ 明智光秀ゆかりの地 

明智光秀供養塔(総高178cm)は、光秀家臣の津田重久(しげひさ)が、山崎から高野山に逃れ、主君光秀の追善供養を依頼して建立されたといわれる。
菩提寺恵光院の過去帳には、「天正十年七月十四日 大瀧寺殿惟任義盛明鑑光秀大禅定門」という明智光秀と思われる戒名が残されている。

また「寛永三年(1626)六月七日 寶亀院賢室艶顔良英大姉」という女性の戒名の横に「俗名 ヲモン 光秀の子」と添え書きされている。
この ヲモンの過去帳は昭和4年(1929)に縁者の長野県須坂市の久田家が、一族の永代供養に恵光院を訪れた時の記録として記されたものである。
「久田家の口伝として、ヲモンは光秀の娘として四歳の時、高野山より鎧櫃の中に入れ、根来の膳椀百人前を添えて信州墨坂の郷へ落とすものなりと云う添え書きを附して久田家へ来たりしものなり」
昭和4年の記録によると、明智光秀が山崎の戦いで敗れた時、娘のおもんは高野山に逃れたが、豊臣秀吉の力が高野山にも及びだしたため、4歳のおもんが須坂の久田家に落ち延びたことがわかる。
久田家に伝えられた膳椀も、昭和初期に恵光院に納められ、現在も保管されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩15分。奥の院前バス停西側の路側帯駐車スペースを利用できる。




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