橋本駅から五軒畑まちめぐり資料 


橋本駅前万葉歌碑

橋本駅前万葉歌碑は、和歌山県橋本市にある。
万葉時代の宮廷人たちは、紀伊国に深い憧れを持っていたといわれる。
大和には海がないため、黒潮踊る紀伊国の風景には殊の外感動することが多かった。
万葉集の中には橋本に関する和歌が10首収められており、橋本市内各地に万葉歌碑が建立されている。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅前には、次の歌碑がある。

白栲(しろたへ)に にほふ信土(まつち)の 山川に
 わが馬なづむ 家恋ふらしも  作者不詳 巻7-1192
(意味)信土山の川で 私の乗る馬が行き悩んでいる(難渋している)。家人が私を思っているらしい。

右側の歌碑説明文には、次のように記されている。
第8回橋本万葉まつり と併せて
JR和歌山線全線の開通百周年を記念し
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者
文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」より
その遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ
 2000年11月 第8回橋本万葉まつり実行委員会

紀ノ川の万葉の文章は次のとおりである。
こんにちは草ぼうぼうになった古い小道をくだると、
土地の古老らが神代の渡り場と称している落合川(真土川)の渡り場に出る。
ふだんは水の少ない涸川(かれがわ)だから、
大きな石の上をまたいで渡るようになっている。
ここがおそらく古代の渡り場であったろう。



橋本広域観光案内所  前畑秀子 古川勝資料展示コーナー

橋本広域観光案内所、前畑秀子、古川勝資料展示コーナーは、和歌山県橋本市にある。
観光案内所内には、和歌山県伊都郡の観光情報や物産展示がある。
また、令和3年(2021)1月からは、橋本市出身で日本人女性初の五輪金メダリスト前畑秀子や古川勝の功績を伝える資料展示コーナーが設置された。
これは、「前畑秀子・古川勝資料展示館」が閉館となったため、場所を移して展示されているものである。
南海高野線及びJR和歌山線橋本駅下車徒歩1分。橋本駅前の有料駐車場を利用できる。




小林家住宅

小林家住宅は、和歌山県橋本市古佐田にある。
橋本駅西側踏切から南下する道と駅前から西進する上本町通りが交差するT字路に東に面して建てられている。
平成16年に国の登録有形文化財に指定された。
屋敷地周囲は、低い土塀が設置されている。
屋敷両端には主屋と向かい合って、三つの土蔵が建っている。
主屋は入母屋造桟瓦葺の2階建てで江戸時代末期(嘉永3年頃)の建築である。
玄関から通り土間を経て、背後の炊事場へと続いている。
通り土間北側床上部は田の字形に4室が設けられている。
1階正面に繊細な格子を、2階には虫籠窓を入れ、軒裏は塗り込められ、正面裾には犬矢来が設置されている。
土蔵は、三棟が一体となった切妻造りで明治時代中期の建物である。



日本聖公会橋本キリスト教会

日本聖公会橋本キリスト教会は、和歌山県橋本市にある。
日本聖公会は、プロテスタント教会の一宗派で、英国国教会の系統をひいている。
安政6年(1859)米国の宣教師ウィリアムズとリギンズによって伝道を開始した。
明治20年(1887)に米国監督協会、英国の宣教協会および福音宣布協会の三派が合同して日本聖公会を創立した。
当地では土曜日午後7時30分から夕の礼拝、日曜日午前9時30分から朝の礼拝が行われている。
新礼拝堂の東側に牧師の住まいを兼ねた旧礼拝堂の建物がある。
この旧礼拝堂は、奈良県吉野地方にあった農家を明治33年(1900)に現在地に移築して教会としたもので、
大棟、隅棟には十字架を刻した鬼瓦がある。
旧礼拝堂は、平成17年(2005)に国の登録有形文化財に指定されている。


鎌倉大将軍社 延命地蔵尊 元浄泉寺塩市の燈籠

鎌倉大将軍社は、和歌山県橋本市にある。
西隣には、廃浄泉寺延命地蔵尊と塩市仲間の石燈籠がある。

紀伊続風土記の古佐田村の項に、次のように記されている。
〇小祠四社
 大将軍社 森周三十三間
 若宮三社
〇浄泉寺 浄土宗西山派名草郡梶取村総持寺末
 鐘楼 鎮守社
村の南にあり 縁起に本尊地蔵尊は延暦中田村将軍奥州征伐の時 守本尊とし深く祈請して遂に夷賊を退治し
大同中此地に七堂伽藍を建立して此本尊を安置すといへり
恵心僧都か書けりといふ阿弥陀像信誉上人の六字名號あり

大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)とは陰陽道の八将神(八将軍)の一つで、金曜星の神格である。
3年同じ方位に留まるため三年塞がりといい万事に大凶である。
鎌倉の意味は不明である。当地の利生護国寺の改修や血縄の説話で知られる、鎌倉幕府執権の北条時頼(1227-1263)のことを指しているのではないかとの説もある。

元浄泉寺塩市の燈籠は、古佐田の浄泉寺境内にあったとされ、明治43年(1910)に浄泉寺が廃寺となった際に、丸山公園内の庚申堂前に移された。
その後、延命地蔵尊が新しく建てられたのを機に当地に移された。
各面には次のように刻されている。
 東面 正徳五乙未年六月廿四日
     古佐田村陵山浄泉寺義建代
 南面 奉寄進地蔵前石灯籠
 西面 橋本町塩市仲間

橋本町の塩市は、天正15年(1587)応其上人が橋本町を開き、豊臣秀吉に願い出て永代諸役免除と塩市の特権が与えられたことに始まる。
当初、一と六のつく日に市が開かれる一六塩市が行われ、のち徳川頼宜の紀州入国(1619年)以降、
現在の和歌山市にあった三葛(みかずら)村の塩舟関係者からの願いにより、月6回の塩市が12回に増やされた。
橋本町塩市仲間が寄進し、当地が紀の川中流の塩市として栄えたことを示すもので、橋本市の文化財に指定されている。



応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
天正15年(1587)に応其上人は古佐田村の荒れ地を開き、ここに草庵を作った。
この草庵が現在の応其寺で、旧名を惣福寺といった。中興山普門院応其寺と呼ばれる。

応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
高野山奥の院には、「興山応其上人廟」、興山上人一石五輪塔がある。また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。山門南に参拝者用の駐車場がある。


東家の追分石

東家の追分石は、和歌山県橋本市東家にある。
追分とは、道が左右に分かれるところをいう。
伊勢(大和)街道と高野街道が交差する四つ辻に旅人の便宜を図るためにもうけられた道標石である。
東面に「右 京大坂道」、西面に「右 こうや 左 京大坂道」
南面に「南無大師遍照金剛 施主 阿州一楽村 藍屋元次郎 
     世話人 当邑 河内屋次右エ門」
北面に「右 わかやま こかわ
     左 い勢 なら はせ よしの 追分」
と刻まれている。
阿州とは、徳島のことで、徳島県の北の粟の生産地で「粟の国」、南の「長の国」と呼ばれ、大化の改新の後に「粟国」に統一された。
和銅6年(713年)、元明天皇の命により、地名を二字で表記するため、粟は「阿波」に変更された。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。


太神社 一里塚(一里松)  橋本川船仲間中石灯籠

太神社(だいじんじゃ)と一里塚(一里松)は、和歌山県橋本市にある。
江戸時代に旅人の便宜を図るために、街道の両側に一里(約4㎞)毎に土を盛り、里程の目標として塚を築いて「一里塚」と呼んでいた。
その広さは五間四方(約81㎡)とかなり大きく、塚の代わりに榎や松を植えたところもあった。
紀州藩では、和歌山城下の京橋北詰を起点に紀の川に沿って1里(約4㎞)毎に設けられていた。
当地は11里目にあたり、10里の松は高野口町名古曽、12里は隅田町中島にあったとされているが、現存していない。
多くの一里松が失われた中で、当地の一里松は戦前まで残っていたが、現在は一里松を再現した松が植えられ、近くに一里塚の石柱が建てられている。
江戸時代初期から当地は川原町と呼ばれ、船宿や紀の川を行き来する川船仲間の舟運業者が軒を並べていた。
太神社は天正年間(1573-92)に木食応其上人が松ケ枝橋の東詰に勧進したものと伝えられ、
地元では「ゴウシンサン」と呼ばれている。
祠前にはほぼ同型同規模の二基の石灯籠が建ち、右側(東)の石灯籠一基は、寛政8年(1796)当地川船仲間が神前に奉納したもので、橋本市の文化財に指定されている。
竿部には次の通り刻まれている。
 右、東面 寛政八丙辰十二月 日
 正、南面 太神社夜灯
 左、西面 橋本川船仲間中
拝殿に向かって左側には、16年後に建てられた石灯籠がある。
竿部に次の銘文がある。
 右、東面 文化九年壬申九月吉日
 正、南面 太神社
 左、西面 町内中



みそや別館

みそや別館は、和歌山県橋本市橋本1丁目にある。
橋本は、東西に走る伊勢(大和)街道沿いに多数の町家が建ち並び、町並みを形成していた。
みそや別館はこの伊勢街道沿いに建つ町家の一つで、もとは谷口家住宅であったが、今はみそや呉服店となっている。
幕末までは味噌を扱っていたのでこの屋号となっている。
街道沿いの主屋は、切妻造桟瓦葺の建物で、屋根をコの字形にかけ、西半は中庭とし、2階には数寄家風の座敷を設けている。
明治17年(1884)に京都の大工を招いて建てられたもので、緩い起り屋根、虫籠窓風の2階窓など京町家のたたずまいを伝えている。
土地区画整理事業(曳家工法)によって、仮移転を経てほぼ元の位置に戻された。
平成16年に、国の登録有形文化財に指定されている。



火伏医院

火伏医院は、和歌山県橋本市橋本1丁目にある。
伊勢(大和)街道に接して南側に建てられていた。
火伏家は、江戸時代は塩問屋に名を連ね、醤油醸造も業とした。
大正6年(1917)に医院を開業している。
主屋は切妻造り桟瓦葺つし二階建の町家建築である。
西部分を中土間とし、東部分の2室の座敷は落棟で江戸時代末期の改築とみられている。
享保6年の棟札が残り、建築年代が明らかな和歌山県内で最も古い町家である。
主屋の西側に隣接して大正10年(1921)に建てられた木造2階建ての洋館建築があり、医院として用いられている。
外壁は下見板張りの洋館建てで、縦長の窓が設置されている。
高床式の床は、洪水対策のためで、たびたび洪水に見舞われた橋本の町で、当地の特徴が良くあらわれた造りである。
土地区画整理事業(曳家工法)により、現在地に移転した。
平成16年に国の登録有形文化財となっている。


橋本戎神社

橋本戎神社は和歌山県橋本市川原町にある。
えびすは、生業を守護し福利をもたらす神として、日本の民間信仰の中で広く受け入れられている。
語源は定かでないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃い。
現在一般にえびすの神体として考えられている烏帽子をかぶり鯛と釣り竿を担いだ神像からうかがえるように、
元来は漁民の間でより広範に信仰されていたものが、海産物の売買により市の神、商売繁盛の神として、次第に商人や農民にも受け入れられた。
七福神の一つとして、大黒天と並び祀られることが多い。

橋本戎神社は、古くは「市戎(いちえびす)」と呼んでいたもので、元々市脇で行われていた塩市を橋本町へ移し塩市発展の神として祀ってきたものである。

紀伊続風土記の橋本町の項に、次のように記されている。
〇市衣比須社
町内にあり 昔此地に一六三八の日市ありしとそ 今猶塩市あり 故に土人市夷といふ

現在は、「川原のえべっさん」と呼び、周辺の商店で順番を決めて祀っている。
1月9日の宵戎には、福笹を求めて多くの人がお参りする。


旧橋本町道路元標

旧橋本町道路元標は和歌山県橋本市にある。
道路元標は、道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物である。
旧道路法により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるとしていた。
大正11年(1922)の内務省令は、その材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、
正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していた。
現行の道路法では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などの定めはない。
和歌山県では、県下各市町村に設置され、全部で200基余り作られたが、現在では17基を残すのみである。
橋本町道路元標は、かつて紀陽銀行橋本支店前の交差点西側に設置されていたが、国道24号線の拡幅整備により撤去されていた。
平成元年、この道路元標が交差点北西に放置されているのが発見され、本来の設置場所に近い、紀陽銀行橋本支店前に再び設置された。
平成9年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。



令和2年12月閉館 前畑秀子・古川勝資料展示館 

前畑秀子・古川勝資料展示館は、和歌山県橋本市にある。

前畑秀子(1914-1995)は、日本人女性初のオリンピック金メダリストで、昭和11年(1936年)ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで優勝した。
NHKラジオ実況中継で、「前畑がんばれ!」と23回連呼した河西三省アナウンサーの実況音声が良く知られている。
前畑秀子は、大正3年(1914年)に橋本市紀ノ川近くの豆腐屋を営む父、前畑福太郎と母、前畑ミツヱの長女として生まれた。
当時は、橋本橋の上流付近の紀ノ川で水泳の練習をしていた。
大正15年(1926年)には、12歳で50m自由形、100m平泳ぎの日本学童新記録を出し、13歳で100m平泳ぎの日本新記録を樹立するなど早くから注目されていた。
昭和4年(1929年)に愛知県の椙山女学園に編入し、昭和7年(1932年)には、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
現役引退後も、積極的に水泳に関わり、後進の指導に努め、53歳の時に日本初の「ママさん水泳教室」を開校した。

古川勝(1936-1993)は、水泳競技戦後初のオリンピック金メダリストである。
昭和11年橋本町で生まれ、橋本高校を経て日本大学に進学した。
昭和31年メルボルンオリンピックに出場し、200m平泳ぎでオリンピック新記録で優勝した。

前畑秀子・古川勝資料展示館は、橋本市まちの歴史資料保存会付属の橋本まちかど博物館の展示として一般公開されている。
資料館では、日本ポリドールの湯地富雄が録音した「前畑がんばれ」の実況音声を聴くことが出来る。
また、オリンピック優勝の瞬間の写真(白黒写真からカラー写真に補正)なども展示されている。
当初は、前畑秀子資料展示館として開館したが、令和元年(2019)に名称を、橋本市「前畑秀子・古川勝資料展示館」に変更した。
令和2年12月に当地の展示館は土地売却のため閉鎖され、令和3年1月から橋本駅前の橋本広域観光案内所内に場所を移して展示されている。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。



黒河道 

黒河道(くろこみち)は、和歌山県伊都郡にある高野参詣道の一つである。
橋本市賢堂(かしこどう)から高野山千手院谷にある高野七口の一つ黒河口まで通じている。
紀伊續風土記の黒河村の項目には、「黒河は暗谷の義にして狭き谷のことなるへし」と書かれている。
橋本から高野山への近道とされ、また大和からの参詣客がしばしば利用することから、大和口とも呼ばれた。
道が険しいことから、多くの参詣客は黒河道の西方を並行する京大坂道を利用した。
紀伊續風土記によると、文禄3年(1594年)の豊臣秀吉の高野参詣の帰途に、秀吉が千手院谷から久保村・市平村を経て、わらん谷から明星が彎(明神ケ田和)を越え、紀の川を渡って橋本町へ出たとの経路が記されている。
当時の天下人が利用した道で、主要な高野参詣道の一つであったと考えられている。
また周辺の村々の産物を高野山に納める「雑事(ぞうじ)のぼり」にも利用されたと推定されている。
秀吉の利用したルートが復原され、平成27年10月に国の史跡に指定された。
平成28年10月には「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界遺産に登録されている。
南海高野線橋本駅又は高野山駅下車。




橋本橋

橋本橋は和歌山県橋本市の紀の川に架かる橋梁である。
北岸西側に「橋本橋竣工記念碑」(和歌山県知事 仮谷志良書)が建てられ、裏面に橋本橋の沿革と工事概要が記されている。
    橋本橋の沿革
日本最多雨地帯の大台ケ原を水源とする紀の川のこの地に、天正十三年(一五八五年)橋本開基の名僧
木食応其上人によって、はじめて長さ二三五メートル(一三〇間)の橋が架けられた。
以降、高野参詣者の往路として利用され、宿場や塩市が開けて、橋本市発祥の源となった。
 しかし、たび重なる水害により、この橋も流失し それから後は渡し船が往来して、人々に親しまれてきた。
昭和七年に本格的な鉄骨造りの橋が架設され、文化、産業、交通などの要路として重要な役割を果たしてきたが、
このたび紀の川堤防改修工事と並行して、近代的な橋の架け替え工事により、昭和五三年八月に完成した。
    工事概要
事業名称  国道三七一号線橋本橋橋梁整備事業
工事位置  橋本市一丁目橋本市向副地内
総事業費  九億一千万円
橋梁延長  二五六メートル
橋梁幅員  全幅員十一メートル 車道七メートル 歩道各二メートル
工事期間  着工 昭和四六年 月 竣工 昭和五三年八月
事業主体  和歌山県
工事担当  橋本土木事務所



飛び込み岩

飛び込み岩は、和歌山県橋本市の紀ノ川にある。
前畑秀子と古川勝は、ともに橋本市出身の水泳選手で、オリンピックで金メダルを獲得するなど輝かしい業績を残した選手である。
大正年間、昭和初期は、紀ノ川の水量は今よりも多く、子どもたちは紀ノ川で泳いでいた。
前畑秀子(1914-1995)の生家は、紀ノ川北岸で、この飛び込み岩付近で水泳の練習をしていた。
小学校4年生で水泳部に入部し、高等科1年生(現中学1年生)で100m平泳ぎの日本新記録を樹立している。
その後、室内プールを完備した名古屋の椙山高等女学校に編入し、昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
4年後の昭和11年(1936)のベルリンオリンピック200m平泳ぎで、日本人女性初となる金メダルを獲得し、ラジオ中継で「前畑ガンバレ」と、ガンバレを23回連呼した伝説のアナウンスは後世にも語り伝えられている。
古川勝(1936-1993)は伊都郡橋本町(現在の橋本市)で生まれ、紀ノ川に潜って幼少期を過ごした。
中学校の水泳大会で優勝し、前畑秀子から平泳ぎに専念するように指導を受けた。
その後、橋本高等学校、日本大学で水泳を続け、昭和31年(1956)のメルボルンオリンピック200m平泳ぎで優勝し、水泳競技で戦後初の金メダリストとなった。



旧橋本本陣 池永家住宅

旧橋本本陣 池永(洋三)家住宅は和歌山県橋本市橋本2丁目にある。
平成10年に国登録有形文化財に指定された。
国道24号線の南側に接し、紀ノ川との間に建てられている。
国道に接して主屋、表門を挟んで西側に土蔵、その南側に中庭をおいて、紀ノ川を眼下に見下ろす離座敷が配されている。
主屋は入母屋造本瓦葺2階建の建物で、大棟鬼瓦銘から宝暦2年(1752)の建築と推定されている。
1階玄関西側に格子、2階には虫籠窓が入る重厚な建物である。
離座敷は襖の木箱銘から享和3年(1803)の建築と推定され、文化2年(1805)には紀伊藩八代藩主徳川重倫が宿泊した。
弘化3年(1846)2月1日久野丹波守が田丸帰国の際に本陣を務め、離座敷を利用したという。
土地区画整理事業が実施され、曳家工法で当初の位置から南に約6m移転した。


東家渡場大常夜燈籠

東家渡場大常夜燈籠は、和歌山県橋本市東家にある。
高野街道は京都、大阪、堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、
古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して、東家で紀ノ川を渡り学文路から高野山へ登っていく道が開かれ、
室町時代後期にはもっぱらこの道が使われた。
橋本の地名の由来となった橋は、天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが、
3年後に紀ノ川の増水によって流失し、舟による横渡(よこわたし)が行われるようになった。
その紀ノ川北岸渡し場に建てられたのが、この大常夜燈籠である。
この石燈籠が建てられたのは文化11年(1814)で、永く「無銭横渡」の渡し場を伝えてきたが、
その後、河川改修のため現在地に移築された。
元は同型の燈籠2基が相対して建てられていたが、うち1基は紀ノ川の洪水により流失した。
台座四面の銘文によると、阿波国藍商人の連中をはじめ、
京都、難波、堺の商人および和歌山の川舟仲間ほか多人数の講社、信者などの浄財によって建てられたもので、
当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀ノ川渡し場の賑わいを現在に伝えている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれており、対岸には三軒茶屋大常夜燈籠が残されている。
昭和56年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅下車、徒歩約10分。



高野街道四里石

(正)是ヨリ高野山女人堂江 四リ
(左)安政四丁年九月 河洲伏山前田村 辻本幸左エ門 一統中
(右)南無大師遍照金剛
(裏)発起人 茱萸木村 小左エ門 五兵エ

三軒茶屋大常夜燈籠 

三軒茶屋大常夜燈籠は、和歌山県橋本市の旧高野街道にある史跡で、市の文化財に指定されている。
高野街道は、京都・大阪・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内川(橋本川)河口付近から紀の川を渡ってこの地に至り、学文路から高野山へ登っていく道が開かれた。
この道は、町石道に比べて距離も短くなったことから、室町時代後期には、高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587年)応其上人は、紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(236m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟による有料の横渡(よこわたし)が行われるようになった。
しかし、増水時の割増運賃や営業時間を巡ってのトラブルもあり、元禄10年(1697年)から、高野山と紀州藩、関係村々が費用を出して「無銭横渡」となった。無銭横渡は常夜の営業で両岸の燈籠に灯がともされ、旅人の目印であった。
元は石燈籠二基が相対して建てられていたが、近年の道路拡幅工事で東側の一基が北へ約5m移動された。

この石灯籠には、次の銘が刻まれている。
(中台)弘法大師
天下太平 永代常夜燈
永代常光明 真言萬人講
高野山興山寺(現在の金剛峯寺の前身)領
寶暦二壬申年三月廿一日

紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれている。
現在紀ノ川北岸には、東家渡場大常夜燈籠が残されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩8分。


定福寺

紫雲山定福寺は、和歌山県橋本市賢堂にある真言宗の寺院である。
当寺は高野山参詣道の黒河道のスタート地点に位置しており、黒河道は平成27年(2015年)10月に国の史跡に指定され、平成28年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された。
本尊木造阿弥陀如来坐像は像高88cmで、両手を腹前で組んで上品上生(弥陀定)印を結んでいる。
檜材の一木造りのこの像は、腹部の丸みに合わせて刳り込んだ一材の両膝を矧(は)ぎ寄せる手法で作られ、平安時代中期(10~11世紀)の作品である。
均整のとれた頭体で、和歌山県の有形文化財に指定されている。
境内下にある九重塔(橋本市指定文化財、砂岩、総高244cm)は、相輪部九輪の六段目以上と塔身部第八層目が欠損しているが、基礎部の銘から弘安8年(1285年)に建立された石造層塔である。
「伊都郡学文路村誌」には、
「何の為に建立されたものかに就いては異説紛々、或は朝鮮より渡来せりといひ、容易に判定し難いが、塔の下には、石棺を埋めてあると言はれ、『一村大飢饉の際に非ざれば発掘すべからず』との伝えがあるとて、人々畏怖して手を触れず」
と記されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩9分、JR和歌山線及び南海高野線橋本駅から徒歩25分。


五軒畑岩掛観音

五軒畑岩掛観音は和歌山県橋本市の黒河道にある。
学文路西国三十三か所巡りは、橋本市内の清水、西畑、向副、賢堂、南馬場で巡拝するもので、文政13年(1830)に始まる。
五軒畑岩掛観音は、西国巡礼札所14番大津三井寺にあてられており、如意輪観音が祀られている。
橋本市街と和泉山脈を一望に望める。


鉢伏の井戸 

鉢伏の井戸は、和歌山県橋本市賢堂の高野参詣道「黒河道」沿いにある。
紀伊續風土記の「東畑村」の説明では、「鉢覆(ハチブセ)山 村の艮(北東)にあり 山の尾筋に峰を起して その状 鉢を覆(フセ)たるに似たり 因りて名とす (中略) 大師の加持水あり」と書かれている。
一説では、「かつてこの辺りに多くの蜂が群棲して、人々を悩ませていたが、偶々弘法大師が巡錫の途中にこの地を通過し、群がる蜂に対して、大喝叱咤したところ、不思議にも蜂は即座に伏せられて刺力を失った。そのため蜂伏山という。」と言われている。
井戸は、昭和36年(1961年)の第二室戸台風で被害を受け、永らく枯れ井戸となっていたが、平成26年(2014年)に浚って土砂を取り除き、僅かながら湧水が復活したという。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩約40分。


明神ケ田和 

明神ケ田和は、和歌山県橋本市国城山の東の峠で、高野参詣道「黒河道」にある。
一般に明星ケ田和と呼ばれ、紀伊續風土記には「明神ケ彎」と記されている。
彎とは、弓に矢をつがえて弦を引くこと、弓のような形の曲線を描いてまがることを意味する。
数戸の人家があり、山麓から賢堂を経て、五軒畑を過ぎて登ってくると、道は明神ケ田和で分岐し、右に行けば紀伊清水駅、中央の道は国城山、左の道は黒河道でわらん谷(藁谷)から市平橋、一番左は青渕へと続く。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩約80分。


玉川峡

玉川峡は、和歌山県橋本市と九度山町にある名勝地である。
高野山から北流して紀ノ川に入る丹生川中流の約12㎞で、高野町と橋本市の交界点から下流を特に名勝玉川峡と呼ぶ。
丹生川流域は水の浸食作用によって作られた典型的なV字谷で、粘板岩、紅簾(こうれん)片岩の混じる硬砂岩層が見られ、丹生滝や多くの奇岩がある。
ホタルやアユも多く、紅葉や藤の花が見られる。高野山町石道玉川峡県立自然公園に含まれる。
南海高野線橋本駅から乗用車で約20分。



子継峠(粉継峠)

子継峠(粉撞峠)は、和歌山県高野町の黒河道沿いにある。
黒河道は高野七口の一つ黒河口に至る高野参詣道で、橋本市賢堂から高野山の千手院谷に通じている。
橋本から高野山への近道とされ、また大和国からの参詣客がしばしば利用することから、大和口とも呼ばれた。
子継峠の祠には、緑泥片岩製の舟形光背のある地蔵菩薩立像が安置されている。
総高84cm、幅40cmで銘文が左右に彫られている。
向かって右に「十三年 検校重任」、左に「香舂(こつぎ)峠 永正九壬中八月廿二日」と刻されている。
高野山主の検校の重任(ちょうにん)が、室町時代の永正9年(1512年)に造立したものである。
高野山大学図書館課長 木下浩良氏によると、「峠の地蔵」と明らかにする地蔵石仏では、全国でも最古の遺物と見られている。
平成28年の世界遺産登録に際して、この地蔵菩薩が黒河道の文化的遺産の一つとして評価された。
高野山黒河口女人堂跡から徒歩約60分。


古佐田村
こさだむら
[現]橋本市古佐田・古佐田一―四丁目・橋本・橋本二丁目

紀ノ川北岸、大和街道に沿い、東は妻つま村、南は橋本町。「続風土記」は「古佐田古記に小佐田と書す、小狭田こさだの義ならむ、此辺坂上氏に縁ある地なり、姓氏録に佐太ノ宿禰あり、坂上大宿禰の同祖なり、若此地より出し氏にはあらさるか」と記す。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書に「小佐田村」とみえ、相賀大おうがだい神社八月放生会に米一斗を納めている。天正一五年(一五八七)木食応其は当村のうち二七石余を分けて町屋敷とし、橋本町を開いた。

慶長検地高目録の村高一六五石余、小物成一斗。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)には小佐田村とみえ、小物成は茶一六斤半、紙木八束で、家数・人数・牛馬数は橋本町分も含み家数一四八(小佐田本役五など)、人数六五九、馬二四、牛三であった。江戸時代末期には橋本町分を含めて村高二六四石余、家数三九〇、人数九五六と増加している(続風土記)。当村は橋本・東家とうげなどとともに紀ノ川水運の拠点で、天明五年(一七八五)には橋本町とともに大和国五条ごじよう村(現奈良県五條市)との間で「旅人船」について争っている(平林家文書)。「続風土記」は陵山みささぎやま神社について「村の北陵山にあり、妻村、当村及橋本町の産土神とす、浄泉寺より支配す、口の宮は鈴を祀り、奥の宮は鏡を祀る、其鈴今浄泉寺に蔵む、田村将軍神楽を奏せし時の鈴なりといひ伝へたり、土人此社を田村将軍の廟なりといふ」と記す。また浄土宗西山派浄泉じようせん寺、陵山にあった真言宗庚申こうしん寺、小祠四(大将軍社・若宮など)、堂三(地蔵堂・観音堂・念仏庵)、廃観音堂、経塚を記す。

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橋本市
はしもとし
面積:一〇七・八六平方キロ

和歌山県の東北隅に位置する。旧伊都いと郡の東半を割いてできた市で、西流する紀ノ川が市域を南北に二分する。東は落合おちあい川・東ひがしノ川で奈良県五條ごじよう市と境し、北は和泉山脈で大阪府河内長野かわちながの市、西は吉原よしはら川付近で伊都郡高野口こうやぐち町に、南は丹生にう川付近で同郡九度山くどやま町、七霞ななかすみ山で高野町に接する。紀ノ川両岸に河岸段丘、低い洪積台地、氾濫原があり、北に和泉山脈の急な南斜面、南に南部山地の北斜面が広がる。南海道(大和街道)と高野参詣道が交わり、また紀ノ川水運の拠点で、交通上の要衝として発展した。天正一三年(一五八五)木食応其が古佐田こさだ村の一部を再開発し、次いで紀ノ川に一三〇間の橋を架したことから橋本の地名が起こったという。

〔原始〕
縄文時代の遺物は、下兵庫しもひようごの紀ノ川河岸段丘上から縄文時代後期―晩期の土器破片と石器が発見されているだけである。弥生時代の遺物は、紀ノ川流域平坦地の垂井たるい・中下ちゆうげ・上兵庫・下兵庫・上田うえだ・東家とうげ・神野々このの・学文路かむろなどから出土。このうち紀ノ川支流の宮みや川沿いに、中下の血縄ちなわ遺跡、垂井の女房が坪にようぼうがつぼ遺跡・堂本どうもと遺跡・榎塚えのきづか遺跡が連なり、この地域が弥生時代には最も発達していた。古墳の代表的なものは古佐田の陵山みささぎやま古墳、中島なかじまの八幡宮はちまんぐう古墳、市脇いちわきの市脇古墳群で、後期の簡単な竪穴式古墳が垂井・上兵庫・東家・西畑にしはたなどにある。隅田すだ八幡神社には有名な銘文をもつ人物画像鏡が伝存する。

〔古代〕
紀ノ川沿いに走る南海道の交通上の要衝として発達し、「万葉集」にみえる真土まつち山・角太すみだ河原・妻社つまのもり・大我野おおがのなどが市域に比定されている。白鳳期の寺院跡として神野々の河岸段丘上に神野々廃寺跡、古佐田の橋本駅付近に古佐田廃寺跡がある。隅田八幡神社付近の河岸段丘上には条里制の遺構も残る。「和名抄」記載の伊都郡内の郷のうち、賀美かみ郷が隅田地区を中心とした地、村主すぐり郷が市の西端部から高野口町にかけた地に比定される。平安遷都で南海道はしだいに廃れるが、弘仁七年(八一六)の高野山開創はその膝下にある当市域に大きな影響を及ぼしたとみられる。なお九世紀頃、御幸辻みゆきつじ付近に河内国観心寺領近河内ちかごうち庄、山田付近に同寺領大山田おおやまだ庄があったことがわかる。

〔中世〕
一〇世紀以降荘園制が発展し、寛和二年(九八六)ごろ隅田庄が石清水いわしみず八幡宮寺領として成立した。同庄は延久四年(一〇七二)当時荘田二九町にすぎなかったが(石清水文書)、応永八年(一四〇一)には一三二町余の荘田を有する荘園となった(隅田家文書)。鎮守社の隅田八幡宮は荘民の信仰を集め、一二世紀以降、荘内にのち隅田党とよばれる武士団が成長した。武士団の祖藤原忠延は隅田八幡宮の俗別当職、隅田庄の公文職を獲得して在地に勢力を扶植し、のちにこの家は隅田氏を名乗り、荘内の有力住人を一族に組入れつつ、隅田惣領家としての位置を確立させていった。利生護国りしようごこく寺(護国寺)はその氏寺である。鎌倉時代後期、隅田氏は北条氏の被官となり、隅田庄の地頭代職を獲得し、北条氏の側近として活躍する。なお北条氏が深く帰依した南都西大寺の叡尊が、このころ隅田地方を中心に宗教活動を行っている。元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府倒壊の際に隅田惣領家は北条仲時とともに滅んだ。隅田党はこの後、葛原・上田両氏らの有力庶子家が中心となり、一族一揆的な武士団に変貌した。

隅田庄西の相賀おうが庄は長承元年(一一三二)頃、高野山の僧覚鑁の住房密厳院領として成立し、下司には伊都郡の雄族坂上氏が代々補任された。

これらの荘園は「元弘の勅裁」とよばれる後醍醐天皇の裁定で元弘三年、紀ノ川を境に南北に分れ、河北は従来の領主、河南は高野山の支配となった。相賀南庄では応永二年高野山による検注が行われている。この体制は中世末期まで変わらないが、在地諸勢力の成長などで領主の支配力は後退していった。在地武士は隅田党のほか、相賀庄下司で天野あまの社(現伊都郡かつらぎ町)の氏長者を称した坂上氏が学文路の畑山はたやま城に拠っていたが、南北朝頃より生地(恩地)氏を名乗って野の銭坂ののぜんざか城に拠った。また畠山氏にくみした牲川氏が、細川ほそかわに長藪ながやぶ城を築いて付近を領したと伝える。隅田党の居城では垂井の岩倉いわくら城、中島の霜山しもやま城が知られる。しかし戦国末期にこれら諸氏は松永久秀に滅ぼされ、織田信長・豊臣秀吉の紀州侵攻でその配下となった。なお鎮守社や村堂の信仰を中心とした村落の形成が、西光寺文書や隅田家文書などからうかがわれる。

〔近世〕
天正一三年豊臣秀吉は高野山をはじめ諸寺の所領を没収し、紀州平定に最後まで抵抗した根来ねごろ寺(現那賀郡岩出町)をことごとく焼払った。その余勢で高野攻めを沙汰したが、高野山の僧木食応其の仲介で高野山はかろうじて焼打ちを免れ、応其の尽力により秀吉は高野山復興のため三千石の寺領を安堵した。同一九年には高野山は一万石の朱印地を下付され、翌二〇年には一万一千石(応其領を含む)を加増されて計二万一千石となった。橋本市域の内、相賀南庄の村々と丹生川上流の下宿しもやどり村がこの朱印地に含まれる。慶長五年(一六〇〇)浅野幸長が紀伊国に入部し、翌年の検地で市域の高野山領以外の四六ヵ村の高が打出された。徳川氏時代にもそのまま高野山領は認められ、慶安三年(一六五〇)には中道なかどう村が高野山興山こうざん寺東照宮領として、新たに高野山領に編入された。以後、近世を通じて市域は和歌山藩領と高野山領に分れて支配された。

天正一三年応其は紀ノ川北岸の開発を行った。同一五年に開発地は町屋敷として秀吉から免許され、橋本町が成立した。町助成のための塩市の特権も認められ、大和や紀ノ川流域の村々へ搬出される塩は必ず橋本町の塩市で取引することとされた。橋本町は高野街道と伊勢街道(大和街道)の交差点の宿場町・船継場となり、周辺物資の大部分が集められて売買され、物資輸送の川舟が和歌山との間を往復して繁栄し、藩の伝馬所も置かれた。なお応其は橋本町を開いたほか、垂井の岩倉池、南馬場みなみばばの平谷ひらたに池などを築造している。

高野街道は近世になると西の名古曾なごそ(現伊都郡高野口町)からの紀ノ川渡河に代わって、橋本・東家で南岸に渡るのが一般的になった。紀ノ川には無賃の横渡船も設けられ、清水しみず・学文路から河根かね峠(現伊都郡九度山町)を経て高野山に至る不動坂ふどうざか道が表参道とされた。橋本町の発展は紀見きみ峠経由の物資輸送も盛んにし、紀見峠には慶安元年に藩の伝馬所が設置された。市域の特産に霜草しもくさの煙草があり、真土峠の膏薬は土産品として売られていた。「南紀徳川史」によると学文路の名産に牛蒡・小豆があり、橋本では干瓢を製していた。

〔近現代〕
明治二二年(一八八九)の市制町村制施行により、市域に橋本町・紀見村・隅田村・恋野こいの村・学文路村・岸上きしかみ村・山田村が成立。昭和二九年(一九五四)隅田村・恋野村が合併して隅田村となり、翌三〇年一町五ヵ村が合併して橋本市となって現在に至る。

和歌山と伊勢・大和を結ぶ大和街道は国道二四号として整備され、旧道は所々にわずかに残る。紀見峠越の高野街道は昭和四四年に紀見トンネルが開通して国道一七〇号となり、大阪・京都と短時間で結ばれるようになった。両国道とほぼ並行して国鉄和歌山線・南海電鉄高野線が走り、橋本駅は両線の乗入駅で、紀北随一の交通の要衝となっている。市域はかつらぎ高野山系県立自然公園に含まれ、丹生川上流部の玉川たまがわ峡(九度山町分を含む)は県指定名勝。

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賢堂村
かしこどうむら
[現]橋本市賢堂

紀ノ川南岸、国城くにぎ山北麓にあり、東は向副むかそい村。「続風土記」は「旧は向副村の支郷なり」と記す。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の正平二一年(一三六六)頃の御供田作人之事によれば、相賀大おうがだい神社御供田一反が「賢堂城ノウラ」にあった。応永二年(一三九五)一二月一〇日付の相賀庄在家帳(又続宝簡集)に「賢戸」の在家四宇がみえる。古くは密厳院領相賀庄のうちで、後醍醐天皇のいわゆる元弘の勅裁以降、高野山領相賀南庄に属した。

近世は高野山行人領で元和一〇年(一六二四)の地詰清水領高(萱野家文書)によれば村高五八石余、人数は一九二。「続風土記」では村高にほとんど変化がみられず、家数六一・人数二二三で、小祠三(八幡宮など)、定福じようふく寺(高野山真言宗)を記し、村の西の清水は「土人冷水といふ、清水にして旱魃にも減らす」という。定福寺は紫雲山と号し、石造九重塔は刻銘に弘安八年(一二八五)黄善が願主となって建てたとある。同書は同寺の阿弥陀画像を向副・横座よこざ・賢堂三ヵ村が持回りをしていたと記す。

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三軒茶屋
さんげんぢやや
[現]橋本市賢堂

向副むかそい村の西、高野街道沿いにある小名。「続風土記」は「高野街道の茶店なり、村居旧は横座より三軒街道に出て茶店をなせしより名とす」と記す。紀ノ川南岸にあり、対岸の橋本町・東家とうげ村への渡船場で、高野参詣の盛行と、橋本の繁栄に伴って発展した。「続風土記」は便宜上向副村の小名とするが、「高野往来にて便利なるより次第に向副・賢堂・横座より集り来て今は二十五軒ほとの人家となれり。右の村々より集りて地を開き家を建し故、今は村中色々入交りて碁子の黒白相交るか如く田地も人家も交りたりといふ」と記す。現在は賢堂に属する。紀ノ川堤防には宝暦二年(一七五二)に建てられた大石灯籠が二基あり、東家の大石灯籠とともに渡船場の常夜灯であった。

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向副村
むかそいむら
[現]橋本市向副

紀ノ川南岸にあり、対岸は古佐田こさだ村、東は下上田しもうえだ村、西は賢堂かしこどう村。「続風土記」は「向副或は向添と書す、正平九年の文書に仮字にてむかそい村と記せり、川向に添ふ義なるへし」と記すが、「正平九年の文書」については不明。建仁二年(一二〇二)一一月日付の僧極楽田地売券(続宝簡集)によれば、僧極楽が「相賀庄四至内向副字甲斐田」一段を売却している。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の正平二一年(一三六六)頃の御供田作人之事に、御供田一反は「向添村大森ノソバ カイタ島秋夏三斗代」とある。高野山領相賀おうが南庄に属し、応永二年(一三九五)一二月一〇日付の相賀庄在家帳(又続宝簡集)に向副の在家七家がみえる。同三年九月二〇日の相賀南庄田惣目録・相賀南庄畠惣目録(同集)に「向制村」とあり、田数一〇町四反余、分米五二石余、畠数一〇町四反余、分麦豆一八石余であった。

近世は高野山行人領で元和一〇年(一六二四)の地詰清水領高(萱野家文書)によれば村高一五六石余、人数六四七。江戸時代末期の「続風土記」では村高はほとんど変化がないが人数二八一と減少、家数は七〇であった。同書は八幡宮、小祠四(大将軍社・大森稲荷社など)、善福寺、観音寺(高野山真言宗)、地蔵堂、竜王山小祠を記す。善福寺は明治二五年(一八九二)に観音寺に併合された。観音寺には本堂・大日堂・観音堂があり、嘉吉三年(一四四三)の善福寺上棟棟札などを蔵する。善福寺跡地には織田秀信墓と伝える自然石の墓がある。紀ノ川に面する字橋立はしだては、応其が対岸橋本との間に橋を架けた所と伝える。なお当村から富貴ふき・筒香つつが(現伊都郡高野町)への道が通じていた。

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