令和5年度紀州語り部県外研修会
東寺(教王護国寺)は、京都市南区にある真言宗総本山の寺院である。
山号は、八幡山、本尊は薬師如来で、寺院の正式名称は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」である。
昭和9年(1934年)に史跡に指定され、平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録された。
平安遷都の時に、羅城門の東に開創(796年)して、西の西寺(現在は廃寺)とともに平安京の二大官寺とされた。
弘仁14年(823年)に、嵯峨天皇が弘法大師空海に下賜されて、真言密教の道場となった。
天長2年(825年)に空海が講堂を築造して、教王護国寺となり、翌3年には五重塔が建立されている。
講堂内には、大日如来を中心とした五智如来をはじめ、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の21躯の仏像が配置されている。
これは、弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅で、わが国の密教美術の代表作(16躯が国宝)といわれる。
講堂の位置づけは、「(境内を)5千分の1に縮小すると東西、南北ともに5センチほどになる。この大きさに紙を切り、東西南北と書き、まず東西を合わせて折る。
おなじように南北も折る。・・・そして十字が交わる中心点に真言密教の主尊、大日如来が安置されている。」
京都のシンボルにもなっている現在の五重塔は、寛永2年(1643年)、徳川家光による造営で、金堂とともに国宝に指定されている。
最高部の相輪頂まで総高56.2mで、現存する木造塔として日本一の高さを誇る。
この五重塔と対象の位置にある灌頂院では、伝法灌頂や後七日御修法の儀式が行われる。
2023年には、「真言宗立教開宗1200年慶讃(けいさん)大法会」が営まれる。
近鉄京都線東寺駅下車、徒歩5分。
正月元日から3日間又は1週間、国家の繁栄、五穀豊穣を祈る法会として、修正会が行われる。
「修正会」は、中国に始まった行事であるが、日本では神護景雲2年(768)に初めて行われたといわれる。
この法会が宮中に持ち込まれると、1日から7日まで(前七日という)は神事を、8日から14日までは仏事を行うこととなった。
後七日御修法(ごしちにちみしほ)は、承和元年(834年)空海が、国家安泰、玉体安穏、万民豊楽を祈って宮中真言院で行ったのが始まりである。
その後、宮中で長年にわたって執り行われ、廃仏毀釈の影響による明治4年(1871年)の廃止まで続けられた。
明治16年(1883年)の復活後は、場所が東寺の灌頂院に移されている。
真言宗最高の秘儀とされ、真言宗各派の代表が集まり、1月8日から14日まで、宮内庁から勅使を迎えて行われる。
初日には、勅使が捧持してきた御衣(ぎょい)が、灌頂院の内堂に安置され、結願の日には、勅使に対する御衣奉還の儀式が行われる。
期間内は、灌頂院前で、各代表が厳かに進む姿を参観できる。
城南宮は、京都市伏見区にある神社である。
祭神は、国常立尊(くにとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)である。
社伝によると、延歴13年(794年)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い創祀されたもので、城南宮とは、平安城の南に鎮まるお宮の意味である。
応徳3年(1086年)に白河上皇が鳥羽殿(鳥羽離宮)を造営すると、鎮守社となり、城南祭では流鏑馬や競馬(くらべうま)が行われた。
承久の乱(1221年)では、後鳥羽上皇がこの地に「流鏑馬の武者揃え」と称して兵を集め、討幕を図ったことはよく知られている。
離宮は、当時盛んに行われた熊野詣での参詣の際に、上皇方の方除けの精進所となり、旅の安全が祈願された。
それ以来、方除けの大社城南宮として崇敬され、普請、造作、交通安全の神として篤く信仰されている。
神苑「楽水苑」は、「源氏物語 花の庭」と呼ばれ、春秋には王朝風俗を再現する「曲水の宴」(4月29日、11月3日)が行われる。
曲水の宴は、境内の曲折した遣水に朱の杯を流し、その杯が流れてくるまでに、平安王朝の衣装の歌人が和歌を詠み比べ、酒杯をいただくという雅やかな行事である。
近鉄京都線、京都市営地下鉄烏丸線の竹田駅下車、徒歩15分。来場者用の駐車場がある。
智積院は、京都市東山区にある真言宗智山派の総本山である。
五百佛山(いおぶさん)と号し、大日如来を本尊とする。
もと紀州根来山の学頭寺智積院(ちしゃくいん)であったが、豊臣秀吉の焼き討ちにあった。
学頭玄宥僧正(1525-1605)は、難を京都に避け、後に徳川家康の帰依を受けて慶長6年(1601)に豊国神社境内の坊舎と土地を与えられ、智積院を再興した。
その後、祥雲禅寺を拝領し、現在に至っている。
祥雲禅寺は、豊臣秀吉が長男鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建立した寺で、当時は東山第一といわれた。
収蔵庫にある豪華な襖絵は、長谷川等伯とその一門の筆といわれ、桃山時代の代表的壁画として、国宝に指定されている。
張即之筆金剛経(国宝)、南画の祖といわれる王維の龍図(重要文化財)などの寺宝を有する。
大書院の庭(智積院庭園、国名勝)は、利休好みの庭といわれ、築山と苑池からなる観賞式林泉で、京洛名園の一つに数えられている。
境内本堂前には、中興の祖の玄宥僧正像がある。
JR京都駅からバスで東山七条下車、徒歩3分。
知恩院は、京都市東山区にある浄土宗の総本山である。
この地は、法然上人が比叡山から下り、草庵(吉水の草庵という)を結び、初めて浄土の教えを宣布した所である。
法然上人の死後、文暦元年(1234年)に弟子勢観房源智(せいかんぼうげんち)が廟所を整えて華頂山知恩教院大谷寺と号し、自ら当寺第2世となった。
応仁の乱の当時には一時兵火を近江に避けたが、のち徳川家康の手厚い帰依を受け、広大な寺地の寄進を受けて寺観を整えた。
三門は徳川秀忠が、元和元年(1621年)に建立した日本最大の木造二重楼門で、国宝に指定されている。
悟りの境地に至る「空門(くうもん)」「無想門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」(三解脱門)を表わすことから三門といわれる。
本堂(御影堂みえいどう 国宝)は寛永16年(1639年)、大方丈・小方丈(いずれも重要文化財)は、寛永18年(1641年)の建築である。
大鐘楼(重要文化財)の大鐘は高さ3.3m、口径2.8m、重さ70トンで、日本三大梵鐘の一つとして広く知られている。
僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は、京都の冬の風物詩として有名である。
知恩院の北の入口にある黒門は、慶長年間(1596-1615)に伏見城に建てられ、その後知恩院に移されたといわれており、京都府指定文化財となっている。
寺宝として、阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)ほか多数を有している。
鴬張りの廊下、抜け雀など、知恩院の七不思議も良く知られている。
京都市営地下鉄東西線東山駅下車、徒歩8分。京都市バス知恩院前下車、徒歩3分。参拝者駐車場がある。→ 方丈庭園 友禅苑 法然上人御廟 千姫の墓 濡神大明神
方丈庭園は、京都市東山区の知恩院境内にある池泉回遊式の庭園である。
江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧 玉淵(ぎょくえん)によって作庭されたと伝えられる情緒あふれる庭園で、京都市指定名勝となっている。
「二十五菩薩の庭」は、知恩院所有の国宝「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」を基にしたもので、臨終の時に、念仏を称えれば阿弥陀如来と二十五菩薩が浄土へ迎えてくれる様子を描いたものである。
庭に配置されている石は、阿弥陀如来と二十五菩薩を、植え込みは来迎雲を表わしている。
奥の門をくぐった石段上には、徳川家康、秀忠、家光三代の霊を祀る権現堂(「権現様影堂」)がある。
知恩院友禅苑は、京都市東山区にある。
京友禅の始祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して、翁在世のゆかりの地に銅像を建立し遺徳を顕彰する庭園である。
広さは約4千坪(12,000㎡)あり、東山の清流を配した池泉式庭園と、枯山水の庭(鹿谷苑)とが、上下二段に分かれ、昭和の名園といわれている。
池泉庭園の補陀落池の中央にある聖観音菩薩像は、知恩院第76世立誉行戒上人を顕彰するために建てられた記念塔で、彫刻家高村光雲が制作したものである。
苑内には、禹門(うもん)、華麓庵、白寿庵、宮崎友禅斎像、友禅斎謝恩碑等がある。
法然上人御廟は、京都市東山区知恩院境内にある。
浄土宗の開祖、法然(1133-1212)は、美作国久米(現、岡山県久米郡)の出身で、15歳から比叡山へ入り、出家修行生活を送った。
法然房源空と名乗り、43歳で「専修念仏(南無阿弥陀仏と唱えると極楽往生できる)」を広めようと、比叡山から出て吉水を布教活動の拠点とし、禅房で示寂(しじゃく)した後、御廟が作られた。
御廟には、法然上人の御遺骨が奉安されている。方三間の宝形造本瓦葺きで、周囲には唐門のある玉垣がめぐらされている。
現在の廟堂は、慶長18年(1613年)常陸国土浦城主、松平伊豆守の寄進を得て改築されたもので、京都府の文化財に指定されている。
廟堂の周囲には、「雲に龍」「霧に鳳凰」「梅に鶯」「雲に麒麟」「松に鶴」「桜に鳥」「牡丹に鳳凰」など、桃山様式の華麗な彫刻が施されている。
参拝者は、隣接する拝殿から参拝する。
千姫の墓は、京都市東山区知恩院境内にある。
千姫(1597-1666)は、二代将軍 徳川秀忠の長女で、幼くして豊臣秀吉の息子 秀頼に嫁いだ。
大坂夏の陣で徳川家に保護され、その後姫路城主 本田忠政の嫡男 忠刻と再婚した。
本田忠刻が病死した後は、出家して天樹院と号して、江戸城の竹橋御殿で余生を過ごした。
墓所は、小石川傳通院(伝通院)と茨城県の天樹院弘経寺にあるが、徳川家が帰依した知恩院に分骨され宝塔に納められた。
また、高野山奥の院には、天樹院千姫供養塔が建てられている。
京都市営地下鉄東西線東山駅下車、徒歩15分。京都市バス知恩院前下車、徒歩10分。参拝者駐車場がある。
濡髪大明神は、京都市東山区知恩院境内にある。
濡髪大明神は、寛永10年(1633年)3代将軍徳川家光が焼失した知恩院を再建した際に造営された。
祭神の白狐は知恩院を火災から守る濡髪大明神(濡髪童子)で、知恩院の守護神ともいわれている。
また、濡髪という名のため、祇園の芸妓衆の信仰を集め、縁結びの神さまとして知られている。
毎年11月25日午後2時から、濡髪大祭(お火焚き)で、護摩焚きが厳修される。
伝承によると、御影堂ができたために住家を追われたキツネが、知恩院第三十二世雄誉霊厳上人にお願いして、代わりに用意してもらったものが、この濡髪大明神で、
濡髪という名前は童子に化けていた時に髪が濡れていたことに由来すると言われている。
聖護院は、京都市左京区聖護院中町にある天台宗系の単立寺院で、本山修験宗の総本山である。
もと天台宗寺門派の大本山で、円満院、実相院とともに天台三門跡の一つである。
本尊は不動明王である。
智証大師円珍の開創と伝えられ、はじめ常光院と称した。
平安時代の寛治4年(1090)に、白河上皇が紀州の熊野三山を参詣する際、修験者(山伏)として有名であった増誉(ぞうよ)大僧正(1032-1116)が先達をつとめた功績により、上皇の勅願で中興し、聖体護持の意味から聖護院と寺名を改めた。
修験道は、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教などが結び付いて平安末期に成立した宗教で、役小角(役行者神変大菩薩)を開祖とする。
増誉大僧正のあと、4代目の門主に後白河天皇の皇子 静恵法親王(じょうえほっしんのう)がなってからは宮門跡となり、以降歴代親王が継承し、園城寺(おんじょうじ)長吏、熊野三山別当職を兼ねるようになった。
応仁の乱をはじめ、度重なる火災に逢い、谷地を転々とした後、延宝4年(1676)後水尾天皇の皇子、道寛法親王の時に再興されたのが現在の主な建物で、書院(重要文化財)は京都御所の御殿を移したものである。
天明8年(1788)と安政元年(1854)の御所炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時、仮皇居として使用したため、昭和11年に「聖護院旧仮皇居」として、国の史跡に指定されている。
京都市バス熊野神社前下車、徒歩5分。
熊野神社は、京都市左京区聖護院山王町にある。
我が国最初の夫婦神である伊弉冉尊(いざなみのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と、天照大神、速玉男尊、事解男尊(ことさかのをのみこと/こととけのをのみこと)の五柱の神を祀り、縁結び、安産、健康長寿の御利益があるとして信仰されている。
平安時代の弘仁2年(811)に修験道の日圓(にちえん)上人が国家守護のため、紀州熊野大神を勧請したことに始まるといわれている。
寛治4年(1090)に創立された聖護院は、当社を守護神として別当職をおいて管理された。
熊野信仰が盛んだった平安時代末期、後白河法皇は度々熊野御幸(熊野詣で)を行うとともに、当社を厚く崇敬し、紀州の土砂や樹木を用いて社頭の整備に力を注いだ。
室町時代には足利義満から広大な社地を寄進され、社域は鴨川までに及んだ。
応仁、文明の乱で荒廃したが、江戸時代の寛文6年(1666)聖護院宮 道寛法親王によって再興された。
天保6年(1835)には大修造が行われ、現在の本殿は、そのときに下鴨神社の旧本殿を移築したものである。
大正元年(1912)の市電丸太町線の開通、昭和元年(1926)の東大路通の拡幅などにより、社地が削られ、現在の社域となっている。
毎年、5月16日に例祭、4月29日に神幸祭が行われる。
境内には、八ツ橋発祥之地石碑が建立されている。
東山の若王子(にゃくおうじ)神社(左京区若王子町)、今熊野(いまくまの)の新熊野(いまくまの)神社(東山区今熊野梛ノ森(なぎのもり)町)とともに、京都三熊野の一つである。
京都市バス熊野神社前下車すぐ。
八ツ橋発祥之地石碑は、京都市左京区熊野神社境内にある。
石碑には、次のように刻されている。
八ツ橋発祥之地
梅原 猛
石碑横には、西尾為治の銅像があり、中央の説明板には次のように記されている。
八ッ橋発祥之地
西尾為治は、明治十二年(1879)山城国愛宕郡 聖護院村の八ッ橋屋に生まれ、以来昭和三十七年(1962)一月に永眠するまで、八十四年の生涯を八ツ橋の発展のために心血をそそぎました。
後年中興の祖と言われ、元禄からの古法を基調に改良に改良を重ね”京に八ツ橋あり”とその名声を拡げました。
平安建都千二百年を記念し、八ッ橋発祥の地「聖護院の森」に石碑並びに銅像を建立しました。
熊野神社
聖護院西側の「西尾八ッ橋の里」の庭園には、次の説明板がある。
八ッ橋の由来
平安初期(842年)、三河の国に羽田玄喜という医者がおり、若くして死したが家財豊かでなく、妻は山に薪を、海では藻を刈るなどで遺児を養育していた。
ある日、妻はいつものように向岸に海苔を採りに出かけた。
だが、子供は母の跡を慕い河流で溺れ亡くなる。
母は嘆き悲しみ、無量寿寺(八橋寺)に入り髪を剃り師孝尼(しこうに)と号し朝夕子供の冥福を祈り、一心本尊祈願。
ある夜のお告げに遵(したが)い入江の浦に漂う木材を村人の助けを借りて拾い、蜘蛛の手のごときに流し橋を架けた。その数八つに及んだので世人これを八ッ橋と称した。
元禄二年(1689年)、我が家祖為次郎、この逸話を聞き師孝尼の志を憐(あわ)れみ、子を思う親心を広く且つ永く伝えたいと八ッ橋を模して菓子を作り、八ッ橋と名付けた。
それ以来数百年、八つ橋作りが国内外の愛顧に依(よ)るのは、一重(ひとえ)に師孝尼の美事(びじ)との神縁と感謝す。
本家西尾八ッ橋
十六代 西尾為和
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