心中万年草ゆかりの地


宝永5年(1708)に初演された近松門左衛門作の浄瑠璃「心中万年草」の下之巻 久米之介お梅道行では、
高野山吉祥院の成田粂之助と神谷の雑賀屋の娘 お梅が、この世では実らぬ恋をはかなんで、神谷から不動坂を経て、女人堂で心中する様子が次のように浄瑠璃で語られる。
不動坂にもさしかかり 死出の山路を越ゆるかと 心細しや卒塔婆谷。(中略) 今宵散り行く初桜 児が滝とぞ涙ぐむ。
(中略) 頼む仏の御名問へば 我をば外の不動様 (中略) 一つ回向の水汲めや 手向けの梅の花折り坂 辿り越ゆれば暁の 五障の雲に埋もるゝ 女人堂にぞ着きにける。
(出典 「曽根崎心中 冥途の飛脚 他五篇」 岩波文庫)

兒滝(稚児滝)

兒滝(ちごのたき)は、和歌山県高野町の清不動堂の北約50mにある。
京大坂道(不動坂)を登ると道標のある左手に、林立する樹木の合間から滝が見え、兒滝(稚児滝)と呼ばれている。
滝の名称については諸説あるが、江戸時代後期編集の「紀伊続風土記」には、
「昔兒の捨身せし所といひ傳ふ」とある。

「紀伊名所図会」には、次のように記されている。
兒滝 花折坂の下にあり。昔兒の捨身せし所といひ傳ふ。
一帯の清泉、積翠萬畳(せきすいばんでふ)の中より流失し、
こ々に至りて直下千尺、珠砕け玉踊る天工、言語の及ぶ所にあらず。

また「遥かに見下せば一条の白布ななめに翠壁にかかる」と古書に記された美しい滝である。

南海高野線極楽橋駅下車、徒歩20分。




清不動堂

清不動堂(きよめのふどうどう)は、和歌山県高野町の京大坂道の不動坂にあるお堂である。
古くは、「外の不動堂」と呼ばれていたお堂があり、杉材で作られた像高84cmの不動明王坐像が本尊として祀られていたが、現在は風化による破損が著しいため、高野山霊宝館に収蔵されている。
紀伊名所図会によると、この「外の不動堂」は、もともと弘法大師の草創で、寛文年間(1661-1673)に、備前の国上道郡金岡荘(かみじごおりかなおかのしょう)の野崎家久入道が再建したとされる。
その後、明治16年(1883年)に焼失し、明治20年に大阪伏見町の上田みちという助産婦により再建された。
大正4年(1915年)に不動坂が全面改修され新しいルートとなったため、外の不動堂は荒廃していたが、大正9年(1920年)に大阪の桝谷清吉、寅吉の親子が、新しい不動坂へ修復移転し、清不動堂を建立したものである。
移転前の外の不動堂は、いろは坂とよばれる急坂を登ったところにあったため、高野町の案内板が建てられている。
また、さらに北に歩くと旧不動坂と馬廻道交差点石標が建てられており、次のように記されている。
  右 加ミや まきのを
     い世 京 大坂
  寛政四年壬子年七月立
  南無大師遍照金剛

南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車、徒歩約15分。極楽橋駅から不動坂を徒歩で約30分。



花折坂

花折坂は和歌山県高野町にある。
京大坂道不動坂清不動堂女人堂のほぼ中間に位置する。
紀伊名所図会には次のように記されている。
「花折(はなをり) 女人堂より下にあり。参詣の諸客、此所にて花を折りて、大師に捧ぐるもあり。
又「をりとれば手(た)ぶさにけがるたてながら三世の佛に花たてまつる」とうたひて過ぐるもあり。」
挿絵には巨大な華瓶(けびょう)が2基描かれている。
高野山を目前にした参拝者たちはこの場所で花を摘んで、華瓶に供えた。
和歌山県教育委員会、高野町教育委員会による平成22年からの調査では、華瓶の一つが発見された。
江戸時代初期に製造、建立されたとみられる。正面に「弘法大師御法楽」「四所明神御法楽」と刻されている。
総高97.4cmの砂岩製である。「はじめての「高野七口と参詣道」入門」(入谷和也氏著)では、当時の発見の様子が記されている。
少し南側には石仏と石塔が建てられている。
南海高野線高野山駅からバスで女人堂前下車、徒歩10分。



女人堂

女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。

女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
  施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
  悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
  高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
  菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉の。五月十五日なりしとぞ。

南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社






江戸時代に書かれた紀伊名所図会の「女人堂」の項には、高野山の女人禁制について、次のように記されている。

紀伊名所図会  女人堂

〇女人堂
諸国より参詣の女人投宿する所なり。
七口各(おのおの)堂ありといへども、此堂最大なり。
当山の内院に女人を禁ずる事、古(いにしへ)詳論あり。今具(つぶさに)陳ずるに及ばずといへども、いささか女児の為に其一端を述べむ。
惟(おもんみ)るに大師豈(あに)婦女を忌み給はんや。
其「誥記(こうき)」には、「女はこれ萬姓の本(もと)、氏族を廣め家門を継ぐ」とのたまへり。
然れども是と親近する時は、互に視聴の慾に誘われて、貞良如法(ていりょうにょほう)の弟子といへども、意外の過(あやまち)なきにしもあらず。
故(かるがゆえ)に「是を親むこと厚ければ、諸悪の根源嗷々の本なり」と示したまへり。
且弘仁聖主の勅(みことのり)にも、男の尼寺に入り、尼の僧院に赴く事を制したまふ。
迷源を塞ぎ慾根を断つ、聖慮祖意(せいりょそい)の深き所、其辱(かたじけな)きを察知すべし。
若(もし)有信の女子、一度(ひとたび)登詣してこの堂に宿し、遥(はるか)に伽藍を拝礼し、合絲聚塵(がっししゅじん)の微貨に拘らず、随分の功徳を修せば、
其良縁に因りて、忽(たちまち)長夜の迷室を出で、永く一真の覚殿に入らむ事うたがふべからず。

不動坂口

不動坂口は、和歌山県高野山にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、不動坂口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路  七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
 (中略)
 不動坂口 又京口ともいふ。一心院谷にあり。小田原谷にて大門口より入るものとあふ。神谷辻迄五十町。
        此道登山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えてくるものと、
        清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり。(後略)




紀伊神谷から不動坂口女人堂までのルートは、南海電鉄発行の「京大坂道」に、下記のとおりわかりやすく書かれている。



TOP PAGE  観光カレンダー
TOP PAGE  观光最佳时期(旅游日历)