小峯寺 不動山巨石 周辺ハイキング

小峯寺と不動山巨石の周辺ハイキング案内です。

小峯寺

小峯寺は、和歌山県橋本市境原にある高野山真言宗の寺院である。
寶雲山法蓮院と号し、本尊は馬頭観音である。
紀伊名所図会、紀見村郷土誌には、「役行者の開基にして、山伏(山臥)の行所なり」と記され、鎌倉時代初期の「諸山縁起」に当寺が記載され、南北朝時代は金剛山転法輪寺(現奈良県御所市)配下で、修験寺院として栄えた。
現在も本堂前に、葛城根本道場の石碑が建てられている。
江戸時代に鋳造された梵鐘の銘文に「山は五色の霧が山いっぱいにたちこむることから山号を寶雲山と名づく。小峯寺の名称は修験道の霊場大和国大峯山に対比していう」と記されている。
かつては、寺中に五坊があったが、天正年間(1573-92)の兵火で焼失したと言われている。
境内には、天授5年(1696年)銘の宝篋印塔があり、橋本市指定文化財となっている。
役行者の母君 白専女御前の墓所とされる十三重塔が寺領にある。
また、境原村の檀那寺、東光寺(明治維新で廃寺)の本尊であったと伝えられる、木造薬師如来坐像がある。
令和2年(2021)に「葛城修験」が日本遺産に認定され、小峯寺も構成文化財となっている。
南海高野線林間田園都市駅からバスで初芝橋本高校前下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。


明王寺(杉尾)

法輪山明王寺は、和歌山県橋本市杉尾にある。
本尊は、正観世音菩薩像である。
寺の東側には、不動山の巨石まで続く635段の急階段が整備されている。
不動山の巨石群は、明王寺の奥の院と言われる。



不動山の巨石

不動山の巨石は、和歌山県橋本市杉尾にある。
不動山は金剛山地の一峰、神福山(792m)の南西約1㎞、大阪府(河内長野市)、奈良県(五條市)、和歌山県(橋本市)の三府県境から南西に開けた東谷川の南側に続く標高480mの尾根の突端に位置する。
不動山には古くから巨石群の存在が知られ、昔、役行者が葛城山から金峰山に橋を架けようとして石を集めた跡と伝えられ、巨石下には、不動明王、金剛童子、八大竜王が祀られている。
また、巨石に空いた穴に耳を当てると不思議な音が聞こえるため、平成8年には、環境省から日本の音風景百選に選ばれている。
巨石の南側には、楠木正成が腰かけたと言われる大楠公腰掛石がある。

江戸時代後期に刊行された「紀伊名所図会」には、次のように紹介されている。
不動山(ふどうさん)
杉尾村明王寺の後(うしろ)より登る事六町許(ばかり)にて、茂樹(もじゅ)枝をまじへ、峻嶺(しゅんれい)晝(ひる)暗し。
傴僂(くい)して登るべし。巓(いただき)に大石磊落(らいらく)として重畳(ちょうじょう)し、或は散置す。
葛城久米石橋の類(たぐい)なるべし。不動明王・金剛童子・八大龍王を祀る。

南海高野線林間田園都市からバスで橋本市民病院前下車、徒歩約100分。麓の明王寺横に駐車場があり、駐車場からは、635段の階段を上るルートと、まわり道のルートがある。





横手八幡神社

横手八幡神社は、和歌山県橋本市境原にある神社である。
不動山の巨石と横手道ハイキングコース沿いにある。
現地にある説明用石碑には、次のように記されている。
     横手八幡神社
南北朝時代(約六五〇年前)隅田荘に属せし土地の豪族葛原家が栄し頃
一族の守り神として祀られたが 昭和初期子孫この地を去り 
祭主なきあと朽ち果てし社を 住民の総意で復興 横手八幡神社と名称し再祀するに当たり
篤行者 柿本豊輔氏 左記地籍を境内用地として寄贈される
   昭和六十三年五月吉日
                  記
      境原横手垣内七七一番地   三〇四平方米
           同  七五七番地   一二二平方米
           同  七五八番地   一九八三平方米

南海電鉄高野線紀見峠駅下車徒歩1時間。


紀見温泉跡(紀見温泉ホテル跡)

紀見温泉跡(紀見温泉ホテル跡)は、和歌山県橋本市柱本にある。
芋谷の棚田の東約100mのところにある。
かつて温泉が湧いていた所で、現在も鉄分を含んだ黄色の水が湧いている。


芋谷の棚田 

芋谷の棚田は、和歌山県橋本市柱本にある棚田、段々畑である。
橋本川支流の芋谷川沿いの谷あいに棚田が続いている。
平成25年(2013年)時点で田5.4ha(138枚)、畑0.8ha(9枚)あり、約450年前の室町時代に開拓されたと伝わっている。
棚田の石垣や水路は、芋谷川の石が使われている。
柱本田園自然環境保全会など地元農家を中心に保全活動や体験学習に取り組んでおり、ひまわりも植えられている。
平成26年(2014年)に、わかやまの美しい棚田・段々畑として認定され、平成28年(2016年)に、わかやまの棚田、段々畑サミットが開催された。
東側には、紀見温泉ホテル跡がある。
南海電鉄高野線林間田園都市駅から、南海りんかんバスで紀見ヶ丘下車、徒歩20分。



細川柱本トンネル(芋谷の手掘りトンネル)

細川柱本トンネル(芋谷の手掘りトンネル)は、和歌山県橋本市北部にある。
柱本側の入口に次の案内板がある。

細川柱本トンネル(芋谷(いもだに)の手掘りトンネル)
 この細川柱本トンネルは、生糸や葉タバコの一大産地であった隅田地域から、消費地や工場のあった大阪へ物資を運ぶ重要な産業道路であった隅田街道の道路改良事業として整備され、
明治時代中頃に開通し、荷車を引いた馬が通れることになったため、峠越えに比べ、多くの荷物を短時間で運べることで、橋本市の産業を支えた土木遺産です。
 現在は内部の崩落により通行止めとなっていますが、このトンネルは約100メートルの長さがあり、出入口の部分は石積みとなっていますが、
ツルハシやゲンノウなどを用い手作業で堀り進められたため、内部には今も石ノミのあとが残り「手掘りトンネル」と呼ばれ、地域の人々の生活道路として親しまれてきました。
  令和4年3月   柱本地域棚田協議会

紀見村郷土誌第13章人物誌 初代村長 岡貫一郎氏の項に次の記述がある。
ハ、隅田往来改修に関すること
隅田往来は元大阪往来と称し大字柱本より大字細川を経て隅田村に至り大和街道に接する村道なり。
本村道は幅員狭小所々に峻烈なる山坂を見 交通運搬上の至難言語に絶す。
氏 明治十五年有志と相計り改修の急務を立唱し同十六年二月起工、十七年三月改修工事を竣成す。
延長五千四百十七間にして其の工事費八千余円を要したり。
線路中 芋谷の隧道は本県に於ける隧道掘鑿の嚆矢(こうし)なりという。

南海電鉄高野線林間電都市駅からバスで紀見ヶ丘下車、徒歩30分。→ 細川柱本隧道 くるまみち



はしもと里山学校

はしもと里山学校は、和歌山県橋本市柱本にある。
自然環境や農業体験を通して、青少年の健全な育成をめざすとともに、芋谷の棚田を中心とした田園、里山や自然環境の保全に寄与する活動を行っている。
南海電鉄高野線林間田園都市駅からバスで紀見ヶ丘下車、徒歩20分。




葛城神社(柱本)

葛城神社は、和歌山県橋本市柱本にある神社である。
祭神は、素戔嗚命で、境内社として、若宮殿と猿田彦神社がある。また飛地社として愛宕神社ほか末社四殿がある。
勧請についての詳細は不明で、古老の言い伝えによれば、正平4年(1349年)頃、戦火により旧記等ことごとく焼失したという。
当神社は、牛頭天王社とも称し、疫病神としての京都祇園社(八坂神社)が総社である。牛頭天王は、もとはインドの釈迦や弟子の僧坊である祇園精舎の守護神であった。
京都祇園社の紋が胡瓜の切り口に似ているところから、祇園さんの紋を食べるのは恐れ多いとされ、最近まで胡瓜を食べなかったと云う。
六十年毎に本殿の造営が行われ、現在の建造物は、昭和55年に、氏子によりすべての建物が寄進された。

古くから当神社を管理し守るための宮ノ講という座中による輪番で毎年元旦から1年間神主を務めて祭事を司っている。
大晦日の深夜には神主を司るものが、重さ20kgの大松明2基による道案内で、神社東側の宮川の滝壺に入り、精進潔斎の禊を行う。
「宮ノ講と葛城神社年越し行事」として、無形民俗文化財に指定されている。
また、令和2年(2020)6月19日に日本遺産に認定された「葛城修験-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地-」のストーリー構成文化財となっている。

境内には、橋本市指定文化財のムクロジがある。ムクロジ科の落葉高木で、6月頃淡緑色5弁の小花を大きな円錐花序につけ、実(果実)は球で硬く羽子(はご)の球に使われる。
また果皮はサポニンを含むので石鹸の代用とされた。漢名は、無患子、木患子。和名のムクロジは、モクゲンジの漢名「木樂子」の誤用とされている。
平成9年指定当時、高さ29.7m、胸高幹回4.2mと大きく、和歌山県の調査によると、高知県須崎市大谷の勢井白王(伊気)神社境内のものに次いで、全国2番目の規模といわれる。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。



牛頭天王

京都祇園社(八坂神社)の祭神で,本来は祇園精舎の守護神とされるが,日本では行疫神として流布しており,各種の教説がある。
たとえば《備後国風土記》では,牛頭天王を武塔神とも呼び素戔嗚(すさのお)尊と同一視し,有名な蘇民将来(そみんしようらい)の説話を伝え,
《伊呂波字類抄》では,天竺の北方九相国の王で,沙渇羅竜王の娘と結婚して八王子を生み,8万4654の眷属神をもつとする。
また陰陽道の教典の一つである《簠簋(ほき)内伝》では天刑(てんけい)星,吉祥天の王舎城大王,商貴帝,牛頭天王を同一としている。
このほか薬宝賢明王とも呼び,本地を薬師如来とする説もあり,安居院(あぐい)の《神道集》では各種の教説を述べ,その根拠を各種偽経に求めている。
牛頭天王の形相は,《簠簋内伝》では頂頭に黄牛面を戴き両角を持つ忿怒相とされているが,
京都妙法院蔵1350年(正平5・観応1)の神像絵巻では,白牛にまたがり,火焰の光背,3矢,宝珠,宝棒などを持ち三面十二臂の忿怒相で描かれている。


極楽寺 柱本

日光山極楽寺は、和歌山県橋本市柱本にある高野山真言宗の寺院である。
紀伊西国第7番札所で、本尊は大日如来(胎蔵界)が祀られている。
紀伊西国三十三所観音巡礼は、少なくとも太平洋戦争末期まで、橋本市及び九度山町の「紀伊西国霊場会」で行われていた。
昭和8年発行の紀見村郷土誌には、次のように記されている。
「極楽寺 柱本に在り
境内除地交れり 域内本堂及び経堂あり 本尊は大日佛なり
嘗て記録等盗難にかゝりし事あり 依りて由来不詳
現住職は和田廣島樂師なり」
当寺に残り、現在も使われている「鰐口」には、次の銘が彫られている。
「伊都郡谷内柱本極楽寺寛文拾庚戌夫五月吉辰日」(1670年)
この銘と上棟板に記された「元禄十六年」(1703年)「極楽寺大日堂建立」という旧本堂が建てられた年、さらに本尊大日如来横の「観世音菩薩」光背に記された「二世安楽」の銘から、当寺に住職が常住し始めたのが、寛文十年頃で、それ以前は「大日如来」を安置した無住のお堂だったと考えられている。
これは、江戸時代初期、寛文5年(1665年)に交付された「諸宗寺院法度」から5年後にあたり、各宗派の寺院がそれぞれ「本山・末寺」として整理され、地域の主な末寺にも住職が常住化した時期とも合致している。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。



大聖不動明王石碑

大聖不動明王石碑は、和歌山県橋本市柱本の国道371号線東側山裾にある。
西面に、大聖不動明王、北面に、南無地蔵菩薩、南面に、南無弘法大師、東面に、文政八年(1825)為釋良清菩提 と刻されている。
かつての高野街道沿いに建立されている。→ 西高野街道


境原村
さかいはらむら
[現]橋本市境原

細川ほそかわ村の東北、東谷ひがしたに川の上流にあり、「界原」(隅田八幡神社文書)とも書く。中世は隅田すだ庄に属し、隅田一族の葛原氏が居住した。建長六年(一二五四)正月一日付の隅田八幡宮朝拝頭人差定(隅田家文書)に「境原」、元応二年(一三二〇)一〇月二五日付隅田信教譲状写(同文書)に「すたの北の境原」とみえる。応永二二年(一四一五)二月二九日付葛原明観譲状(同文書)によれば、明観が三郎左衛門尉に譲った境原の田畑の地名に「うゑたいら」「さいのかミのまゑ」「西のかいと」「けんないかいと」「へい五郎かいと」などがあった。

慶長検地高目録によると村高一六〇石余、小物成九合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数二九(本役七など)、人数一一八、牛八、小物成は紙木四束、茶六二匁。小峯おみね寺(高野山真言宗)と東光とうこう寺があったが、東光寺は退転し、本尊薬師如来は小峯寺に現存。「続風土記」はほかに小社一をあげ、また小名湯屋野谷ゆやのたにについて「湯屋は浴屋の義なり、湯屋産屋等を村端荘端に置くは昔の風俗なり」と記す。

杉尾村
すぎおむら
[現]橋本市杉尾

境原さかいはら村の北、葛城(和泉)山脈に連なる山に囲まれ、東谷ひがしたに川の水源に位置。古く炭尾すみおと称し、建長三年(一二五一)の隅田北庄検田取帳(葛原家文書)に「炭尾」とみえ、中世は隅田すだ庄に属した。応永二二年(一四一五)二月二九日の葛原明観譲状写(葛原家文書)によれば、明観は「すミのおのくしあし」を三郎左衛門尉に譲っている。慶長検地高目録には墨尾すみお村とあり、村高一〇七石余、小物成七合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数三二(役家八など)、人数一三二、牛一一、小物成は茶六五匁、紙木半束。

明王みようおう寺(高野山真言宗)は本尊観音菩薩で、「続風土記」は「長禄三年の棟札あり鎮守春日社」と記す。北の不動ふどう山は同書によれば女人禁制の山伏の行所で、申の刻以後の登山は禁止されていた。山頂への急坂には大岩が散乱する。役行者が大和の葛城山から金峯山に石橋を架けるため一言主神に集めさせたが、一言主神は醜い容貌を恥じて夜だけしか働かなかったので完成せずに石だけが残ったのだという。頂上の大岩の下に不動明王・八大竜王・金剛童子の小祠があり、明王寺の奥院と伝える。村内にはほかに小祠三社(弁財天社など)があった(続風土記)。


柱本村
はしらもとむら
[現]橋本市柱本

河内国との境、紀見きみ峠の麓にある。高野街道に沿って家や茶店が並び、慶安元年(一六四八)には伝馬所が設けられ往来の人々で賑った。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大おうがだい神社八月放生会に柱本村は米一斗を納めている。慶長検地高目録による村高二〇九石余、小物成三斗三升。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数四七(役家一四など)、人数一五三、牛九、小物成は紙木三三束、桑五二束、茶六斤。またほかに紀見峠新家を記す。近世後期までには当村の家数一一四、人数三八三と増大しており(続風土記)、街村として発展したことがわかる。村人は農閑期に組を組織して河内・和泉をはじめ九州まで屋根葺に出かけ、「紀州屋根屋」とよばれて技術が高く評価されていた(矢野家文書)。

極楽寺(高野山真言宗)は本尊大日如来。葛城かつらぎ神社は素戔嗚命を祀り、若宮わかみや大明神社・四社ししや明神社・猿田彦さるたひこ神社・一言主ひとことぬし神社を末社とするが、「続風土記」には末社として八王子社・波利采女社・蘇民将来社がみえる。同書にはそのほか小祠三社(弁財天社・山王権現社など)を記す。北の葛城山中にある笈掛岩は山伏の行所といわれている。

矢倉脇村
やぐらわきむら
[現]橋本市矢倉脇

橋谷はしたに村の北、紀見きみ峠に続く丘陵地にあり、橋本川の谷に沿って細長く人家が点在。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大おうがだい神社八月放生会に「矢蔵脇村」は米五升を納めている。慶長検地高目録によると村高一四一石余、小物成四升五合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数二四(本役八など)、人数一〇九、馬一、牛四、小物成は茶一斤、紙木七束。寛文一三年(一六七三)の慶賀野と矢蔵脇等五ケ村山出入証文(矢倉脇区有文書)によると、同年三月二八日、慶賀野けがの村の村人が当村根古ねご山に「めかり」刈に来たことから山論が生じ、山の入会について取決めをし、絵図を作成している。

地蔵寺(高野山真言宗)は本尊地蔵菩薩。葛城(和泉)山脈の山腹には養叟が住していた徳禅とくぜん院跡があり、現在養叟ようそう庵と称する小庵となっている。養叟は京都大徳寺の第五世、隠退して当村に来住、土地の有力者贄川氏の援助で徳禅院を建てたという。天保八年(一八三七)の宗恵大照禅師尊像由来記(上垣家蔵)によると、中下ちゆうげ村の慶長検地帳に徳善寺所持田畑として六反七畝二四歩が記されていたようである。天王神社は素戔嗚命を祀り、ほかに八王子社四社があった(続風土記)。根古川上流に唐から滝と孤子こしヶ滝がある。

慶賀野村
けがのむら
[現]橋本市慶賀野・城山台しろやまだい

橋谷はしたに村の東北、紀見きみ峠の南の丘陵地にあり、南北に高野街道が通る。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大おうがだい神社八月放生会に当村は米五升を納めている。慶長検地高目録に「慶賀村」とあり、村高一五〇石余。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数二六(本役一〇など)、人数一〇九、馬二、牛五、小物成は紙木二三束、茶一斤。寛文一三年(一六七三)の慶賀野と矢蔵脇等五ケ村山出入証文(矢倉脇区有文書)によると、矢倉脇やぐらわき村と柱本はしらもと村にある山の入会について慶賀野村と柱本・矢倉脇・橋谷・辻つじ・小原田おはらた五ヵ村が、郡奉行の立会いで入会の場所を取決めている。この山論は慶賀野村の村人が矢倉脇村根古ねご山、柱本村ちごの松まつで「めかり」刈を押留められたことに端を発した。

大福だいふく寺(高野山真言宗)は本尊不動明王。蛭子えびす神社は祭神事代主命で末社に山王権現社・明神社があり、「続風土記」には「一村の産土神なり、永享六年の棟札あり、奉造営蛭児大明神玉置丹治ノ重政とあり」と記す。そのほか廃八王子社と、「高十間許、水勢甚猛にして吼る声雷の如く人語弁しかたし」とされる一の瀬いちのせ滝があった。

細川村
ほそかわむら
[現]橋本市細川・紀見きみ・城山台しろやまだい

胡麻生ごもう村の北、葛城(和泉)山脈中腹を流れる東谷ひがしたに川に沿って集落が散在。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大おうがだい神社八月放生会に細川村は米一斗を納めている。応永二〇年(一四一三)一一月一五日付の葛原明観譲状(隅田家文書)によれば、明観が子息二郎三郎に譲った土地の西境が「ほそかわ」であった。

慶長検地高目録による村高二九九石余、小物成七斗四升九合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)には村高・小物成は上かみ村分と下村分に分けて記される。上村の高一七五石余、小物成は茶一〇斤余、紙木三束、漆二斗余、下村の高一二五石余、小物成は茶一一斤余、紙木一束、桑二束。家数・人数は上下合せて四二家(本役一七・庄屋四・肝煎二など)・一五八人、牛は一六疋であった。「続風土記」も細川上村(現細川)・細川下村(現紀見)に分け、上村は家数三〇・人数一五二、下村は高一三一石余、家数四四・人数一五九とある。上村に新宮しんぐう大明神社、小祠七社、阿弥陀寺(高野山真言宗)、不動院、小堂一宇、下村に小祠四社、不動寺(高野山真言宗)、観音堂があった。新宮大明神(現新宮神社)は熊野新宮を勧請したと伝え、神主職の者一二人が一年交替で神事を勤め、別当寺に神宮じんぐう寺があった(続風土記)。




近隣の場所へのリンク


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