小峯寺 不動山巨石 周辺ハイキング

小峯寺と不動山巨石の周辺ハイキング案内です。

小峯寺

小峯寺は、和歌山県橋本市境原にある高野山真言宗の寺院である。
宝雲山宝蓮院と号し、本尊は馬頭観音である。
紀伊名所図会、紀見村郷土誌には、「役行者の開基にして、山伏(山臥)の行所なり」と記され、鎌倉時代初期の「諸山縁起」に当寺が記載され、南北朝時代は金剛山転法輪寺(現奈良県御所市)配下で、修験寺院として栄えた。
現在も本堂前に、葛城根本道場の石碑が建てられている。
かつては、寺中に五坊があったが、天正年間(1573-92)の兵火で焼失したと言われている。
境内には、天授5年(1696年)銘の宝篋印塔があり、橋本市指定文化財となっている。
また、境原村の檀那寺、東光寺(明治維新で廃寺)の本尊であったと伝えられる、木造薬師如来坐像がある。
南海高野線林間田園都市駅からバスで初芝橋本高校前下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。



不動山の巨石

不動山の巨石は、和歌山県橋本市杉尾にある。
不動山は金剛山地の一峰、神福山(792m)の南西約1㎞、大阪府(河内長野市)、奈良県(五條市)、和歌山県(橋本市)の三府県境から南西に開けた東谷川の南側に続く標高480mの尾根の突端に位置する。
不動山には古くから巨石群の存在が知られ、昔、役行者が葛城山から金峰山に橋を架けようとして石を集めた跡と伝えられ、巨石下には、不動明王、金剛童子、八大竜王が祀られている。
また、巨石に空いた穴に耳を当てると不思議な音が聞こえるため、平成8年には、環境省から日本の音風景百選に選ばれている。
巨石の南側には、楠木正成が腰かけたと言われる大楠公腰掛石がある。

江戸時代後期に刊行された「紀伊名所図会」には、次のように紹介されている。
不動山(ふどうさん)
杉尾村明王寺の後(うしろ)より登る事六町許(ばかり)にて、茂樹(もじゅ)枝をまじへ、峻嶺(しゅんれい)晝(ひる)暗し。
傴僂(くい)して登るべし。巓(いただき)に大石磊落(らいらく)として重畳(ちょうじょう)し、或は散置す。
葛城久米石橋の類(たぐい)なるべし。不動明王・金剛童子・八大龍王を祀る。

南海高野線林間田園都市からバスで橋本市民病院前下車、徒歩約100分。麓の明王寺横に駐車場があり、駐車場からは、635段の階段を上るルートと、まわり道のルートがある。



明王寺(杉尾)

法輪山明王寺は、和歌山県橋本市杉尾にある。
本尊は、正観世音菩薩像である。
寺の東側には、不動山の巨石まで続く635段の急階段が整備されている。
不動山の巨石群は、明王寺の奥の院と言われる。



横手八幡神社

横手八幡神社は、和歌山県橋本市境原にある神社である。
不動山の巨石と横手道ハイキングコース沿いにある。
現地にある説明用石碑には、次のように記されている。
     横手八幡神社
南北朝時代(約六五〇年前)隅田荘に属せし土地の豪族葛原家が栄し頃
一族の守り神として祀られたが 昭和初期子孫この地を去り 
祭主なきあと朽ち果てし社を 住民の総意で復興 横手八幡神社と名称し再祀するに当たり
篤行者 柿本豊輔氏 左記地籍を境内用地として寄贈される
   昭和六十三年五月吉日
                  記
      境原横手垣内七七一番地   三〇四平方米
           同  七五七番地   一二二平方米
           同  七五八番地   一九八三平方米

南海電鉄高野線紀見峠駅下車徒歩1時間。



芋谷の棚田 

芋谷の棚田は、和歌山県橋本市柱本にある棚田、段々畑である。
橋本川支流の芋谷川沿いの谷あいに棚田が続いている。
平成25年(2013年)時点で田5.4ha(138枚)、畑0.8ha(9枚)あり、約450年前の室町時代に開拓されたと伝わっている。
棚田の石垣や水路は、芋谷川の石が使われている。
柱本田園自然環境保全会など地元農家を中心に保全活動や体験学習に取り組んでおり、ひまわりも植えられている。
平成26年(2014年)に、わかやまの美しい棚田・段々畑として認定され、平成28年(2016年)に、わかやまの棚田、段々畑サミットが開催された。
東側には、紀見温泉ホテル跡がある。
南海電鉄高野線林間田園都市駅から、南海りんかんバスで紀見ヶ丘下車、徒歩20分。



葛城神社(柱本)

葛城神社は、和歌山県橋本市柱本にある神社である。
祭神は、素戔嗚命で、境内社として、若宮殿と猿田彦神社がある。また飛地社として愛宕神社ほか末社四殿がある。
勧請についての詳細は不明で、古老の言い伝えによれば、正平4年(1349年)頃、戦火により旧記等ことごとく焼失したという。
当神社は、牛頭天王社とも称し、疫病神としての京都祇園社(八坂神社)が総社である。牛頭天王は、もとはインドの釈迦や弟子の僧坊である祇園精舎の守護神であった。
京都祇園社の紋が胡瓜の切り口に似ているところから、祇園さんの紋を食べるのは恐れ多いとされ、最近まで胡瓜を食べなかったと云う。
六十年毎に本殿の造営が行われ、現在の建造物は、昭和55年に、氏子によりすべての建物が寄進された。

古くから当神社を管理し守るための宮ノ講という座中による輪番で毎年元旦から1年間神主を務めて祭事を司っている。
大晦日の深夜には神主を司るものが、重さ20kgの大松明2基による道案内で、神社東側の宮川の滝壺に入り、精進潔斎の禊を行う。
「宮ノ講と葛城神社年越し行事」として、無形民俗文化財に指定されている。
また、令和2年(2020)6月19日に日本遺産に認定された「葛城修験-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地-」のストーリー構成文化財となっている。

境内には、橋本市指定文化財のムクロジがある。ムクロジ科の落葉高木で、6月頃淡緑色5弁の小花を大きな円錐花序につけ、実(果実)は球で硬く羽子(はご)の球に使われる。
また果皮はサポニンを含むので石鹸の代用とされた。漢名は、無患子、木患子。和名のムクロジは、モクゲンジの漢名「木樂子」の誤用とされている。
平成9年指定当時、高さ29.7m、胸高幹回4.2mと大きく、和歌山県の調査によると、高知県須崎市大谷の勢井白王(伊気)神社境内のものに次いで、全国2番目の規模といわれる。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。



極楽寺 柱本

日光山極楽寺は、和歌山県橋本市柱本にある高野山真言宗の寺院である。
紀伊西国第7番札所で、本尊は大日如来(胎蔵界)が祀られている。
紀伊西国三十三所観音巡礼は、少なくとも太平洋戦争末期まで、橋本市及び九度山町の「紀伊西国霊場会」で行われていた。
昭和8年発行の紀見村郷土誌には、次のように記されている。
「極楽寺 柱本に在り
境内除地交れり 域内本堂及び経堂あり 本尊は大日佛なり
嘗て記録等盗難にかゝりし事あり 依りて由来不詳
現住職は和田廣島樂師なり」
当寺に残り、現在も使われている「鰐口」には、次の銘が彫られている。
「伊都郡谷内柱本極楽寺寛文拾庚戌夫五月吉辰日」(1670年)
この銘と上棟板に記された「元禄十六年」(1703年)「極楽寺大日堂建立」という旧本堂が建てられた年、さらに本尊大日如来横の「観世音菩薩」光背に記された「二世安楽」の銘から、当寺に住職が常住し始めたのが、寛文十年頃で、それ以前は「大日如来」を安置した無住のお堂だったと考えられている。
これは、江戸時代初期、寛文5年(1665年)に交付された「諸宗寺院法度」から5年後にあたり、各宗派の寺院がそれぞれ「本山・末寺」として整理され、地域の主な末寺にも住職が常住化した時期とも合致している。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。(Y.N)



慶賀野蛭子神社

慶賀野蛭子神社は、和歌山県橋本市慶賀野にある神社である。
祭神は、事代主命である。いわゆる「えべっさん」の愛称で、一村の産土神として崇敬されている。
紀伊續風土記には、「衣美須神社」とあり、当神社の南東にある長薮城跡は、古く平安時代に坂上田村麻呂がここに砦を築き、その後、平将門の九代の子孫 牲川将房がここに籠り、戦に勝ち戦勝の祝いをしたところから「慶賀野」の地名が生まれたと伝えられている。
このことから、その当時に祀られたものではないかと言われている。
現存している資料として、「永享6年(1434年)奉造営蛭子大明神玉置丹治重政」の棟札がある。
例祭は1月1日、1月9日・10日、10月15日である。
1月の宵えびす、本えびすの両日には、福笹、・縁起熊手を求める参拝者で賑わい、婦人会の慶賀野お焼きも販売される。
神社の立地場所は、舌状の台地の先端で、鳥居からは、東西南方向の田園風景が望める。
南海高野線林間田園都市駅下車、徒歩10分。


大福寺

實登山大福寺は、和歌山県橋本市にある高野山真言宗の寺院である。
本尊は不動明王が祀られている。
紀伊續風土記には、次のように記されている。
「大福寺 實登山松樹院 村の南にあり。本尊不動如意輪観音、空海像あり。皆古物なり。」
かつての高野街道沿いに建立された寺である。
南海高野線林間田園都市駅下車、徒歩10分。(Y.N)






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