高取町家の雛めぐりとお城ハイキング
実施年月日 令和5年3月26日(日) 雨天のため中止
「高取 町家の雛めぐり」 3月1日~31日
電車時刻
(日曜時刻)
駅 名 | 往 路 | 復 路 (料金片道650円) | ||||||
JR橋本駅 | 7:26 | 8:13 | 8:56 | 15:19 | 16:43 | 16:43 | 18:07 | 18:07 |
JR吉野口駅 | 7:56 | 8:42 | 9:25 | 14:49 | 15:49 | 15:49 | 17:39 | 17:39 |
乗換待ち | (16分) | (1分) | (52分) | (28分) | (82分) | (51分) | ||
近鉄吉野口駅 | 8:14 | 8:46 | 9:44 | 14:45 | 15:22 | 15:45 | 16:14 | 16:45 |
近鉄壺阪山駅 | 8:22 | 8:53 | 9:52 | 14:37 | 15:12 | 15:37 | 16:06 | 16:37 |
集合 近鉄壺阪山駅 午前9時
解散 近鉄壺阪山駅 午後3時30分 壷阪寺又は札の辻での途中解散も可能
奈良交通バス時刻(3月平日) 壺阪寺前 → 壺阪駅前 11分 330円
壺阪寺前 発 12:00 13:30 14:35 15:35 16:05
奈良交通バス時刻(3月土日祝) 壺阪寺前 → 壺阪駅前 11分 330円
壺阪寺前 発 12:00 13:00 13:33 14:00 14:35 15:00 15:35 16:05
ウォークルート(概略)(標準時刻) 約10.6㎞
近鉄壺阪山駅(9:10) 🚻 → 天段の雛(雛の里親館)(9:30) 🚻 → 夢創館 🚻 → 札の辻 植村家長屋門 → (俳人阿波野青畝句碑 長円寺)
→ 上子島砂防公園(10:00) 🚻 → 宗泉寺(10:30) → 猿石 → 国見櫓 (11:20)→ 高取城跡 (昼食)(12:00) 🚻 → 天守閣跡取付 🚻
→ 五百羅漢岩 → 壺阪寺(13:30) → お里沢市の墓(信楽寺)→ 天段の雛(雛の里親館)(14:50) → 近鉄壺阪山駅(15:20) 🚻
壺阪山駅
大正12年(1923)12月5日に吉野鉄道の駅として開業、昭和19年近畿日本鉄道吉野線の駅となった。
1日の乗降人員は、約1100人。
子嶋山子嶋寺は、奈良県高市郡高取町観音寺にある真言宗御室派の寺院である。
本尊は大日如来を祀っている。
当初は、子嶋山(こじまやま)寺、平安時代中期以降は観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿(せんじゅ)院と称した。
創建については諸説あるが、寺伝によると孝謙・桓武天皇の病を癒した報恩大徳により、天平勝宝4年(752)に開かれたという。
延暦14年(795)報恩大徳を継いだ2世延鎮(えんちん)は、山城国(京都)東山の霊場で修行中に坂上田村麻呂と出会い、後に二人で東山に清水寺を建立したことが「扶桑略記」に記されており、当時は清水寺が当寺の支坊であった。
永観年間(983-985)に当寺中興の祖とされる真興(しんごう)(935-1004)が来山し、境内に観覚寺という子院を営んだ。
真興は藤原道長が帰依した人物で、もと法相宗の興福寺の僧であったが、のちに吉野の仁賀(にんが)から密教を学んで伝法灌頂を受けており、真興以来、子嶋寺は真言宗子島流の拠点として栄えた。
南北朝時代に兵火を受け堂宇が失われてから、子院の観覚寺を子島山観覚寺と号した。
室町末期には、戦乱で衰退したが、天正年間(1573-92)に高取城主 本多利久が再興した。
江戸時代には、興福寺一乗院の支配下に入り、寛永年間(1624-44)に本堂以下諸堂が再建され、高取城主植村家の祈願所となり、寺号を子嶋山千寿院と改めた。
明治維新後、廃仏毀釈で衰退したが、有志の尽力で庫裏が再建され、明治36年(1903)に旧名の子嶋寺に戻った。
境内には、嘉永年間(1846-54)再建の本堂、高取城二の門が移築された山門などがある。。
寺宝として、子島曼荼羅の名で有名な「紺彩地金銀泥絵(こんあやじきんぎんでいえ)両界曼荼羅図」2幅(国宝、奈良国立博物館寄託)を有する。
両界曼荼羅は、東寺、神護寺と共に日本三大曼陀羅の一つとして知られており、当寺には4分の一の大きさのレプリカがある。
また、平安時代前期の木造十一面観音立像(国重要文化財、東京国立博物館寄託)も寺宝として知られる。
謡曲「田村」の発祥の地として知られている。
田村は、清水寺の縁起に関する謡曲で、後場で清水寺門前の男が、つぎのように語る。
そもそも当寺清水寺と申すは、大同2年の御草創、坂の上の田村丸の御願也、
昔大和国小島寺という所に、賢心といへる沙門、生身の観世音を拝まんと誓いしに、(後略)
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩10分。境内東側約50mに参拝者用駐車場がある。
土佐恵比寿神社(薬祖大神)
伊勢神宮に年越し参りをしたとき、急に恵比寿さまが転げ込んできた。
それを持ち帰り、下土佐領に祀らせることになったとのいわれがある。
毎年1月10日には、土佐えびすが行われる。
土佐街道 土佐町は、奈良県高取町にある。
土佐町大年寄 池田屋伊兵衛 池田邸屋敷跡の石碑横の説明板には、次のように記されている。
土佐町由来
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、
任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。
故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意思は故里の名を今の場所につけることであった。
古代、中世を経て近世に入り植村氏が高取城に入部するに伴い土佐はその城下町として政治、経済、産業の中心となり、
町筋には商家が立ち並び伊勢屋、池田屋、観音寺や、さつまや等が名を連ねた。
細長く続く道筋は、往時の面影を残し、せせらぎの音は訪れる人の心を癒してくれる。
毎年開催されるお城まつりには、高取土佐時代行列保存会による奴行列が当時の模様を再現し好評を博している。
ここ土佐町は有史以来の全時代にかかわってきた町として数少ない貴重な歴史を秘めている。 (古里高取より抜粋改変)
望郷の想ひむなしく役夫らのせめて準う土佐てふその名
町家のひな巡り
例年3月1日から31日まで、高取町で町家の雛めぐりが行われる。
街道筋の町家、商店等にひな人形が展示され、メイン会場雛の里親館には、17段500体の「天段の雛」が飾られる。
壷阪寺においては、本尊十一面千手観世音菩薩と2500体の大雛曼陀羅が公開される。
重要文化財 臼井家(伊勢屋)屋敷跡は、奈良県高市郡高取町にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
重要文化財 臼井家(伊勢屋)屋敷跡地
南朝延元年間(一三三六~一三三九)の頃に、南朝の武士であった臼井は 南北朝の動乱により、三重県伊勢より高取に移住し油・醤油・塩・薬などを扱う商人となった。(屋号「伊勢屋」)
後年、高取藩の公用伝馬の役や大年寄を務めた。伝承お里・沢市物語由縁の伊勢屋である。
現存する臼井家主屋の住宅は元禄年間(一六八八~一七〇三)に建てられた。昭和四九年に国の重要文化財の指定と同時に、奈良県民俗博物館(大和民俗公園)(大和郡山市)に移築され、一般公開されている。
高取城松の門(移築)は、奈良県高市郡高取町札の辻北東の児童公園にある。
当地には、案内板が設置されており、次のように記されている。
松ノ門位置図
高取町の南東部には、標高583.9mの高取山がそびえ、山頂には高取城跡(国指定史跡)があります。
この城は、南北朝時代の元弘2年(1332)ごろ、この地方一帯を治めた豪族・越智氏により築かれた山城で、
その後、本多氏などを経て幕末(1868)まで、植村氏の居城となりました。
城は、城内と郭内に分けられ、城内は約1万㎡、周囲約3㎞。郭内は約6万㎡、周囲約30㎞という広大なものでした。
松ノ門は、城内にあった門のひとつで、切妻造・本瓦葺の建物であったと知られています。
現在、城内の楼閣などは失われましたが、石塁などは昔のままの姿をとどめており、中世から近世までの高取の栄華を今に伝えています。
平成16年度 街なみ環境整備事業 高取町(土佐地区)
松ノ門
松ノ門は、高取城内にあった建築物のひとつで図のような門であったとされています。
明治4年の廃藩置県により高取城が廃城となった際、多くの建築物は取り壊されましたが、数棟は移築されました。
その中のひとつ「松ノ門」は、明治25年に土佐小学校の校門として移築されていました。
しかし、昭和19年の火災により一部が焼失したため、解体されたままとなっていました。
現在の門は、地元の熱い要望と当時材を取得保管されていた臼井氏(金剛力酒造株式会社)からの材の提供により、図の朱色部分について復元したものです。
平成16年度 街なみ環境整備事業 高取町(土佐地区)
下子嶋 田塩家住宅長屋門は、奈良県高取町にある。
通りに面した案内板には次のように記されている。
田塩家住宅長屋門
昭和57年に撮影された下子嶋の長屋門。
下子嶋は十七世紀中頃、山上の城内から藩政の中心となる下屋敷が備えられ、以降順次武家屋敷が建ち並んだところである。
長屋門はほぼ中央に出入り口、その左右に部屋を配している。左右の部屋の腰は下見板張り、その上部は漆喰塗りで仕上げている。
右手の壁面には細格子付の出窓、左手には三連の与力窓が二箇所開けられ、屋根は入母屋造、撮影された当時は桟瓦葺にしていた。
植村藩の武家屋敷であった当時を連想させる長屋門で、かつてはこのような門を持つ屋敷が建ち並んでいたであろう。
植村家長屋門は、奈良県高市郡高取町にある。
文政9年(1826)の建立で、一重入母屋瓦葺造り、門内の東西に各四室の部屋がある。
江戸時代には、高取藩に仕える中間たちが、それぞれの部屋に住んでいた。
当時は城代家老の役宅であったが、現在は旧藩主植村氏の住居となっている。
近世武家屋敷 表門の遺構を残している貴重な建物で、奈良県文化財に指定されている。
俳人 阿波野青畝 生家は、奈良県高取町にある。
阿波野青畝(あわのせいほ)(1899-1992)は、父長治、母かねの五男として、明治32年2月10日高取町上子島で生まれた。
本名は、橋本敏雄で、のち阿波野家を継いだ。
畝傍中学在学中から原田浜人(ひんじん)に俳句を学んだ。
その後、高浜虚子に師事して、昭和初頭、水原秋桜子、山口誓子、高野素十とともに、ホトトギスの四Sと称された。
昭和4年(1929)俳誌「かつらぎ」を創刊して、関西俳壇の重鎮として活躍した。
昭和48年(1973)第7回飯田蛇笏賞、平成4年(1992)日本詩歌文学賞を受賞している。
写生俳句の達人と言われ、句集として、万両(1931)、国原(1942)、春の鳶(1952)、紅葉の賀(1962)、甲子園(1972)、不勝簪(ふしょうしん)(1980)などがある。
高取町の資料によると、100に及ぶ阿波野青畝の句碑が全国に建立されているという。→ 大阪カテドラル聖マリア大聖堂 和歌山県高野山増福院山門前
平成4年(1992)12月22日に93歳で亡くなった。
高取町内には、次の句碑が建立されている。
句碑位置 | 建立年 | 俳句 | 備考 |
長円寺 | 昭和43年 | 供藷眼耳鼻舌身意も無しと | |
高取中学校 | 昭和44年 | 葛城の山懐に寝釈迦かな | 平成16年に高取中央公園に移転された |
青畝生家 | 昭和60年 | 虫の灯に読昂ぶりぬ耳しひ児 | |
上子島砂防公園 | 平成11年 | 満山のつぼみのまゝの躑躅かな | |
夢創館 | 平成12年 | 飯にせむ梅も亭午となりにけり |
長円寺
眞各山宗泉寺(そうせんじ)は、奈良県高市郡高取町上子島にある天台宗の寺院である。
元禄11年(1698)に高取藩四代藩主 植村家敬(いえゆき)公の発願により、藩主下屋敷を改修して菩提寺、祈願所として建立された。
本尊は阿弥陀如来である。
寺号は、初代藩主家政の父 家次の戒名「正覚院殿一山宗泉大居士」から名付けられた。
創建以来幕末まで隆盛していたが、明治維新の廃藩置県と神仏分離、廃仏毀釈運動により衰退した。
第二次世界大戦後に中興され、本堂をはじめとする寺観を整えて、現在に至っている。
高取藩主 植村氏 歴代藩主墓所
本堂裏には、歴代藩主墓所がある。→ 高野山 大和高取藩 植村家供養塔
植村氏は徳川家の譜代家臣で、徳川と称する前の松平氏、三河安祥城の一城主時代以来の家臣で「安祥七譜代」(あんじょうしちふだい)と呼ばれる最古参の家臣である。
家康の祖父の代から身辺警護に仕え、その忠節を称えられて、代々の藩主名に家康の「家」の字を賜った。
戦国時代に当主の早逝、また家康嫡男 信康の切腹によって流浪を余儀なくされるなどしたため、徳川幕府成立時の身分は旗本に留まったが、
三代将軍家光によって高取藩2万5千石の藩主として取り立てられた。
周辺の天領(幕府直轄地)の管理も併せて約10万石をまかされ、「難治の地」大和国また吉野の抑えとして、明治維新まで転封されることなく植村氏の統治が続いた。
岩屋不動
高取城跡への登山道から、120m離れたところに建立されている。
不動石像前の石には、文政六年(1823)癸未十一月八日と刻されている。
高取城跡は、奈良県高市郡高取町にある。
高取町の南東部にある標高583.6mの高取山には、高取城が建てられていた。
城下町の麓(札の辻)からの比高は446mで、近世城郭では日本一の高低差を誇る。
全国屈指の名城と言われ、美濃岩村城、備中松山城とともに、日本三大山城といわれている。
また歴史遺産として文化財の価値が評価され、平成18年(2006)に日本100名城に認定された。
城の歴史は古く、元弘2年(1332)南朝方に属した高取の土豪 越智八郎邦澄(くにずみ)が築城した。→ 光雲寺
安土桃山時代に筒井順慶の後、大和郡山城主となった羽柴秀長は、筒井氏に続いて高取城整備を進め、
その時城主であった脇坂安治(わきざかやすはる)に代わって、本多利久を入城させると、天正17年(1589)に高取城の大改修を命じた。
この本多氏によって、本丸の大小の天守が築かれ、近世城郭として整備された。
三代で本多氏が断絶した後、寛永17年(1640)徳川家譜代の植村家政が高取藩初代藩主(2万5千石)として入城し、明治維新まで14代にわたって植村家が高取藩主を務めている。→ 眞各山 宗泉寺
明治4年(1871)廃藩置県の結果、全国の城郭が廃されることとなり、高取城も明治6年に入札が行われて、大部分が取り壊し又は売却された。
現在は、場外に移築された城の遺構が残るほか、壮大な石垣が残されている。
城の築城用石材として、飛鳥地方の古社寺の礎石や石造物が使われた。
飛鳥の石舞台古墳羨道部先端付近の天井石が欠損しているものや、酒船石の片方も石垣に使われたという。
天守台穴蔵(あなぐら)入口には、転用石が見られる。
天守台石垣では、7月にヤマユリがきれいな花を咲かせる。
天守台石垣前には、神木 天守大杉「芙蓉姫」がある。
幕末の儒学者 森田節斎(もりたせっさい)(1811-1868)は、「高取に過ぎたるものは二つあり 山のお城に谷の昌平」と詠んでいる。
山のお城とは高取城で、「谷の昌平」とは、大和随一の儒学者といわれる谷三山(たにさんざん)(1802-1868)で、嘉永2年(1849)高取藩儒となり、大和八木から高取藩に出向いて儒学を教えていた。
猿 石
高取城二の門外に、高取城指定文化財の猿石(さるいし)がある。
花崗岩製で、高さ85cm、幅75cmで、台石の上に載せられている。
飛鳥の「猿石」と同様に、現在の明日香村平田から掘り出され、築城の際に大手筋と明日香村柏森へ下る道の分岐点に置かれたと考えられている。
八幡宮
天守閣跡取付から階段を上り約5分で八幡宮に着く。
八幡宮に向かって左の急峻な山道を下ると、「史蹟高取城阯」石碑のところで、ハイキング道に合流する。
五百羅漢は、奈良県高市郡高取町壺阪にある石仏群である。
壷阪寺から300mほど東方の壷阪寺奥の院と呼ばれる香高山(こうこうさん)の岩の斜面に、多数の磨崖仏がある。
岩肌に多数の羅漢像が刻まれており、「五百羅漢」と呼ばれている。
また、近代に多数の信者が奉納した地蔵像も並べられている。
近鉄吉野線壺阪山駅から徒歩1時間30分。
壷阪寺として親しまれている壷坂山南法華寺は、奈良県高市郡高取町にある真言宗の寺院である。
703年に元興寺の弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んで祀ったのが始まりという。
本堂八角円堂のご本尊は、十一面千手観世音菩薩で、殊に眼病に霊験あらたかな観音様として知られる。
明治時代には、失明回復祈願にまつわるお里澤市の夫婦愛を描いた浄瑠璃「壺坂霊験記」が評判となり、寺への信仰も広がった。
寺城の山の斜面には高さ20メートルの大観音石像があり、その下には大涅槃石像も安置されている。
また平成19年(2007年)には、インドから大釈迦如来石像「壺坂大仏」が招来された。
近鉄吉野線の壺阪山駅からバスで約15分。参拝者用の駐車場がある。
お里・沢市の墓は、奈良県高市郡高取町信楽寺(しんぎょうじ)にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
お里・沢市の墓
壺阪の 月に杖ひく 夫婦かな
「日本感霊録」に九世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治癒したという話があり、(「壺阪寺古老伝」に記されている)
すでにこの頃から本尊の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。
これは後世のいわゆる盲人開眼「壺坂霊験記」の原型になったものである。
この「お里・沢市」の物語は今より三百年以上も昔(寛文年間)壷阪寺のふもと、
大和国高取郷土佐町に住む沢市という盲人と妻 里の夫婦愛をテーマにした「観音霊場記」に二世豊沢団平と妻の千賀女が加筆したものであり、
浄瑠璃、歌舞伎に浪曲にとこの夫婦純愛物語は日本国中さらに海外にまで知れ渡っている。
この案内にあるように、観音信仰で開眼するという宗教的霊験譚から、生人形、浄瑠璃、歌舞伎、講談、浪花節などの芸能 壺坂霊験記に取り入れられる過程を、
細川明宏氏は、著書「近代芸能文化史における『壺坂霊験記』」で鮮やかに描き出している。
高野山奥の院には、壺阪霊験記作者の二世豊沢団平の墓所(初代豊澤團平墓)がある。
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩20分。
くすり資料館は、奈良県高市郡高取町上土佐にある。
土佐街道沿いに夢創館があり、夢創館(大正時代呉服屋を営んでいた呉服屋を改修)の西隣にくすり資料館がある。
くすりの町高取町として発展してきた歴史や、くすりに関わる道具や看板、置き薬などが蔵の中に展示している。
通称「土佐街道」は、大和王権時代に土佐の国から移り住んできた人が多く居たためこの地名がついたものである。
近鉄吉野線壺阪山駅下車徒歩10分、来館者用の駐車スペースがある。
夢創館(高取町観光案内所)
大正時代、呉服商を営んでいた山崎邸を整備して改修し、町の観光案内やお土産物、地場産品の販売をしている。
藩主下屋敷門(石川医院)
高取藩主下屋敷の表門が移築された重厚な構えの建物で、現在は石川医院として利用されている。
天誅組 鳥ケ峰古戦場は、奈良県高市郡高取町役場西の高取町文化センター前にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
文久3年(1863年)8月17日天誅組は、討幕の狼煙を上げるため五條代官所を襲撃し、26日には日本一の山城高取城を攻撃すべく攻めてきて、
高取藩はここ鳥ケ峰に、城代家老中谷栄次郎を総指揮に防御追撃体勢をととのえ、大砲4門が火蓋を切り天誅組は五條に敗走しました。
近鉄吉野線壺阪山駅下車徒歩5分。すぐ東に隣接して高取町役場前駐車場がある。→ 天誅組ゆかりの地
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