世界遺産登録20周年記念 高野参詣道PRイベント
やどり温泉いやしの湯コース 資料
 


橋本駅

明治31年(1898) 紀和鉄道の終着駅として開業。
明治37年(1904) 紀和鉄道の路線が関西鉄道に譲渡される。
明治40年(1907) 紀和鉄道が国有化され、帝国鉄道庁の駅となる。
大正4年(1915)  高野登山鉄道(後に大阪高野鉄道)が開業。
大正11年(1922) 大阪高野鉄道が南海鉄道と合併し、国鉄と南海鉄道の駅となる。


橋本駅前万葉歌碑

橋本駅前万葉歌碑は、和歌山県橋本市にある。
万葉時代の宮廷人たちは、紀伊国に深い憧れを持っていたといわれる。
大和には海がないため、黒潮踊る紀伊国の風景には殊の外感動することが多かった。
万葉集の中には橋本に関する和歌が10首収められており、橋本市内各地に万葉歌碑が建立されている。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅前には、次の歌碑がある。

白栲(しろたへ)に にほふ信土(まつち)の 山川に
 わが馬なづむ 家恋ふらしも  作者不詳 巻7-1192
(意味)信土山の川で 私の乗る馬が行き悩んでいる(難渋している)。家人が私を思っているらしい。

右側の歌碑説明文には、次のように記されている。
第8回橋本万葉まつり と併せて
JR和歌山線全線の開通百周年を記念し
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者
文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」より
その遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ
 2000年11月 第8回橋本万葉まつり実行委員会

紀ノ川の万葉の文章は次のとおりである。
こんにちは草ぼうぼうになった古い小道をくだると、
土地の古老らが神代の渡り場と称している落合川(真土川)の渡り場に出る。
ふだんは水の少ない涸川(かれがわ)だから、
大きな石の上をまたいで渡るようになっている。
ここがおそらく古代の渡り場であったろう。




橋本広域観光案内所  前畑秀子 古川勝資料展示コーナー

橋本広域観光案内所、前畑秀子、古川勝資料展示コーナーは、和歌山県橋本市にある。
観光案内所内には、和歌山県伊都郡の観光情報や物産展示がある。
また、令和3年(2021)1月からは、橋本市出身で日本人女性初の五輪金メダリスト前畑秀子や古川勝の功績を伝える資料展示コーナーが設置された。
これは、「前畑秀子・古川勝資料展示館」が閉館となったため、場所を移して展示されているものである。
南海高野線及びJR和歌山線橋本駅下車徒歩1分。橋本駅前の有料駐車場を利用できる。



小林家住宅

小林家住宅は、和歌山県橋本市古佐田にある。
橋本駅西側踏切から南下する道と駅前から西進する上本町通りが交差するT字路に東に面して建てられている。
平成16年に国の登録有形文化財に指定された。
屋敷地周囲は、低い土塀が設置されている。
屋敷両端には主屋と向かい合って、三つの土蔵が建っている。
主屋は入母屋造桟瓦葺の2階建てで江戸時代末期(嘉永3年頃)の建築である。
玄関から通り土間を経て、背後の炊事場へと続いている。
通り土間北側床上部は田の字形に4室が設けられている。
1階正面に繊細な格子を、2階には虫籠窓を入れ、軒裏は塗り込められ、正面裾には犬矢来が設置されている。
土蔵は、三棟が一体となった切妻造りで明治時代中期の建物である。


応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
天正15年(1587)に応其上人は古佐田村の荒れ地を開き、ここに草庵を作った。
この草庵が現在の応其寺で、旧名を惣福寺といった。中興山普門院応其寺と呼ばれる。

応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗性は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を断ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が、根来寺攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。

境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木造応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
橋本駅北側にある古佐田・橋本墓地には、木食應其上人供養塔がある。
高野山奥の院には、興山応其上人廟興山上人一石五輪塔がある。また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。山門南に参拝者用の駐車場がある。→ 応其上人ゆかりの地




橋本戎神社

橋本戎神社は和歌山県橋本市川原町にある。
えびすは、生業を守護し福利をもたらす神として、日本の民間信仰の中で広く受け入れられている。
語源は定かでないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃い。
現在一般にえびすの神体として考えられている烏帽子をかぶり鯛と釣り竿を担いだ神像からうかがえるように、
元来は漁民の間でより広範に信仰されていたものが、海産物の売買により市の神、商売繁盛の神として、次第に商人や農民にも受け入れられた。
七福神の一つとして、大黒天と並び祀られることが多い。

橋本戎神社は、古くは「市戎(いちえびす)」と呼んでいたもので、元々市脇で行われていた塩市を橋本町へ移し塩市発展の神として祀ってきたものである。

紀伊続風土記の橋本町の項に、次のように記されている。
〇市衣比須社
町内にあり 昔此地に一六三八の日市ありしとそ 今猶塩市あり 故に土人市夷といふ

現在は、「川原のえべっさん」と呼び、周辺の商店で順番を決めて祀っている。
1月9日の宵戎には、福笹を求めて多くの人がお参りする。


旧橋本町道路元標

旧橋本町道路元標は和歌山県橋本市にある。
道路元標は、道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物である。
旧道路法により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるとしていた。
大正11年(1922)の内務省令は、その材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、
正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していた。
現行の道路法では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などの定めはない。
和歌山県では、県下各市町村に設置され、全部で200基余り作られたが、現在では17基を残すのみである。
橋本町道路元標は、かつて紀陽銀行橋本支店前の交差点西側に設置されていたが、国道24号線の拡幅整備により撤去されていた。
平成元年、この道路元標が交差点北西に放置されているのが発見され、本来の設置場所に近い、紀陽銀行橋本支店前に再び設置された。
平成9年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。



令和2年12月閉館 建物撤去済 前畑秀子・古川勝資料展示館 

前畑秀子・古川勝資料展示館は、和歌山県橋本市にあった。現在は建物は撤去され、駐車場となっている。

前畑秀子(1914-1995)は、日本人女性初のオリンピック金メダリストで、昭和11年(1936年)ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで優勝した。
NHKラジオ実況中継で、「前畑がんばれ!」と23回連呼した河西三省アナウンサーの実況音声が良く知られている。
前畑秀子は、大正3年(1914年)に橋本市紀ノ川近くの豆腐屋を営む父、前畑福太郎と母、前畑ミツヱの長女として生まれた。
当時は、橋本橋の上流付近の紀ノ川で水泳の練習をしていた。
大正15年(1926年)には、12歳で50m自由形、100m平泳ぎの日本学童新記録を出し、13歳で100m平泳ぎの日本新記録を樹立するなど早くから注目されていた。
昭和4年(1929年)に愛知県の椙山女学園に編入し、昭和7年(1932年)には、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
現役引退後も、積極的に水泳に関わり、後進の指導に努め、53歳の時に日本初の「ママさん水泳教室」を開校した。

古川勝(1936-1993)は、水泳競技戦後初のオリンピック金メダリストである。
昭和11年橋本町で生まれ、橋本高校を経て日本大学に進学した。
昭和31年メルボルンオリンピックに出場し、200m平泳ぎでオリンピック新記録で優勝した。

前畑秀子・古川勝資料展示館は、橋本市まちの歴史資料保存会付属の橋本まちかど博物館の展示として一般公開されていた。
資料館では、日本ポリドールの湯地富雄が録音した「前畑がんばれ」の実況音声を聴くことが出来る。
また、オリンピック優勝の瞬間の写真(白黒写真からカラー写真に補正)なども展示されている。
当初は、前畑秀子資料展示館として開館したが、令和元年(2019)に名称を、橋本市「前畑秀子・古川勝資料展示館」に変更した。
令和2年12月に当地の展示館は土地売却のため閉鎖され、令和3年1月から橋本駅前の橋本広域観光案内所内に場所を移して展示されている。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。




御剱大明神神社

御剱大明神神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
かつては代官所跡にあった伊都地方事務所や橋本町役場の前にあったが、
区画整理事業に伴い、紀陽銀行は橋本支店の西側に移転した。
いつ頃からこの地に奉祀されたか、文献もなく明らかでないが、
一対の燈籠の竿部に「嘉永元年(1848)戊申(ツチノエサル)十一月日 一色孫左衛門義隆」
「嘉永元年(1848)戊申十一月日 木村喜太郎永成」の銘が刻まれている。
一色家と木村家は東家に住んでおり、この二人が浄財を寄進したものである。
また一対の狛犬台座に「嘉永二年己酉(ツチノトトリ)五月」の銘があり、施主等の名が刻まれている。
高野山を往還したり、橋本町と取引のあった大阪の人々も名を連ねている。
当地は伊都郡の代官所(橋本御殿)のあったところである。
神社は、大正初期に古佐田の丸山公園に移されたが、昭和初期に信仰者の有志によって現在地に戻され、
昭和20年(1945)に戦後の復興と橋本町の発展を祈念して、当時の橋本町長平野熊太郎などの努力で、新しい社を造り、盛大な遷宮式が挙行された。
南海高野線橋本駅下車、徒歩10分。



黒河道 

黒河道(くろこみち)は、和歌山県伊都郡にある高野参詣道の一つである。
橋本市賢堂(かしこどう)から高野山千手院谷にある高野七口の一つ黒河口まで通じている。
紀伊續風土記の黒河村の項目には、「黒河は暗谷の義にして狭き谷のことなるへし」と書かれている。
橋本から高野山への近道とされ、また大和からの参詣客がしばしば利用することから、大和口とも呼ばれた。
道が険しいことから、多くの参詣客は黒河道の西方を並行する京大坂道を利用した。
紀伊續風土記によると、文禄3年(1594年)の豊臣秀吉の高野参詣の帰途に、秀吉が千手院谷から久保村・市平村を経て、わらん谷から明星が彎(明神ケ田和)を越え、紀の川を渡って橋本町へ出たとの経路が記されている。
当時の天下人が利用した道で、主要な高野参詣道の一つであったと考えられている。
また周辺の村々の産物を高野山に納める「雑事(ぞうじ)のぼり」にも利用されたと推定されている。
秀吉の利用したルートが復原され、平成27年10月に国の史跡に指定された。
平成28年10月には「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界遺産に指定されている。
南海高野線橋本駅又は高野山駅下車。


橋本橋

橋本橋は和歌山県橋本市の紀の川に架かる橋梁である。
北岸西側に「橋本橋竣工記念碑」(和歌山県知事 仮谷志良書)が建てられ、裏面に橋本橋の沿革と工事概要が記されている。
    橋本橋の沿革
日本最多雨地帯の大台ケ原を水源とする紀の川のこの地に、天正十三年(一五八五年)橋本開基の名僧
木食応其上人によって、はじめて長さ二三五メートル(一三〇間)の橋が架けられた。
以降、高野参詣者の往路として利用され、宿場や塩市が開けて、橋本市発祥の源となった。
 しかし、たび重なる水害により、この橋も流失し それから後は渡し船が往来して、人々に親しまれてきた。
昭和七年に本格的な鉄骨造りの橋が架設され、文化、産業、交通などの要路として重要な役割を果たしてきたが、
このたび紀の川堤防改修工事と並行して、近代的な橋の架け替え工事により、昭和五三年八月に完成した。
    工事概要
事業名称  国道三七一号線橋本橋橋梁整備事業
工事位置  橋本市一丁目橋本市向副地内
総事業費  九億一千万円
橋梁延長  二五六メートル
橋梁幅員  全幅員十一メートル 車道七メートル 歩道各二メートル
工事期間  着工 昭和四六年 月 竣工 昭和五三年八月
事業主体  和歌山県
工事担当  橋本土木事務所



飛び込み岩

飛び込み岩は、和歌山県橋本市の紀ノ川にある。
前畑秀子と古川勝は、ともに橋本市出身の水泳選手で、オリンピックで金メダルを獲得するなど輝かしい業績を残した選手である。
大正年間、昭和初期は、紀ノ川の水量は今よりも多く、子どもたちは紀ノ川で泳いでいた。
前畑秀子(1914-1995)の生家は、紀ノ川北岸で、この飛び込み岩付近で水泳の練習をしていた。
小学校4年生で水泳部に入部し、高等科1年生(現中学1年生)で100m平泳ぎの日本新記録を樹立している。
その後、室内プールを完備した名古屋の椙山高等女学校に編入し、昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
4年後の昭和11年(1936)のベルリンオリンピック200m平泳ぎで、日本人女性初となる金メダルを獲得し、ラジオ中継で「前畑ガンバレ」と、ガンバレを23回連呼した伝説のアナウンスは後世にも語り伝えられている。
古川勝(1936-1993)は伊都郡橋本町(現在の橋本市)で生まれ、紀ノ川に潜って幼少期を過ごした。
中学校の水泳大会で優勝し、前畑秀子から平泳ぎに専念するように指導を受けた。
その後、橋本高等学校、日本大学で水泳を続け、昭和31年(1956)のメルボルンオリンピック200m平泳ぎで優勝し、水泳競技で戦後初の金メダリストとなった。




東家渡場大常夜燈籠

東家渡場大常夜燈籠は、和歌山県橋本市東家にある。
高野街道は京都、大阪、堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、
古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して、東家で紀ノ川を渡り学文路から高野山へ登っていく道が開かれ、
室町時代後期にはもっぱらこの道が使われた。
橋本の地名の由来となった橋は、天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが、
3年後に紀ノ川の増水によって流失し、舟による横渡(よこわたし)が行われるようになった。
その紀ノ川北岸渡し場に建てられたのが、この大常夜燈籠である。
この石燈籠が建てられたのは文化11年(1814)で、永く「無銭横渡」の渡し場を伝えてきたが、
その後、河川改修のため現在地に移築された。
元は同型の燈籠2基が相対して建てられていたが、うち1基は紀ノ川の洪水により流失した。
台座四面の銘文によると、阿波国藍商人の連中をはじめ、
京都、難波、堺の商人および和歌山の川舟仲間ほか多人数の講社、信者などの浄財によって建てられたもので、
当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀ノ川渡し場の賑わいを現在に伝えている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれており、対岸には三軒茶屋大常夜燈籠が残されている。
昭和56年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅下車、徒歩約10分。



高野街道四里石

(正)是ヨリ高野山女人堂江 四リ
(左)安政四丁年九月 河洲伏山前田村 辻本幸左エ門 一統中
(右)南無大師遍照金剛
(裏)発起人 茱萸木村 小左エ門 五兵エ


三軒茶屋大常夜燈籠 

三軒茶屋大常夜燈籠は、和歌山県橋本市の旧高野街道にある史跡で、市の文化財に指定されている。
高野街道は、京都・大阪・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内川(橋本川)河口付近から紀の川を渡ってこの地に至り、学文路から高野山へ登っていく道が開かれた。
この道は、町石道に比べて距離も短くなったことから、室町時代後期には、高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587年)応其上人は、紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(236m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟による有料の横渡(よこわたし)が行われるようになった。
しかし、増水時の割増運賃や営業時間を巡ってのトラブルもあり、元禄10年(1697年)から、高野山と紀州藩、関係村々が費用を出して「無銭横渡」となった。無銭横渡は常夜の営業で両岸の燈籠に灯がともされ、旅人の目印であった。
元は石燈籠二基が相対して建てられていたが、近年の道路拡幅工事で東側の一基が北へ約5m移動された。

この石灯籠には、次の銘が刻まれている。
(中台)弘法大師
天下太平 永代常夜燈
永代常光明 真言萬人講
高野山興山寺(現在の金剛峯寺の前身)領
寶暦二壬申年三月廿一日

紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれている。
現在紀ノ川北岸には、東家渡場大常夜燈籠が残されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩8分。



定福寺

紫雲山定福寺は、和歌山県橋本市賢堂にある真言宗の寺院である。
当寺は高野山参詣道の黒河道のスタート地点に位置しており、黒河道は平成27年(2015年)10月に国の史跡に指定され、平成28年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された。
本尊木造阿弥陀如来坐像は像高88cmで、両手を腹前で組んで上品上生(弥陀定)印を結んでいる。
檜材の一木造りのこの像は、腹部の丸みに合わせて刳り込んだ一材の両膝を矧(は)ぎ寄せる手法で作られ、平安時代中期(10~11世紀)の作品である。
均整のとれた頭体で、和歌山県の有形文化財に指定されている。
境内下にある九重塔(橋本市指定文化財、砂岩、総高244cm)は、相輪部九輪の六段目以上と塔身部第八層目が欠損しているが、基礎部の銘から弘安8年(1285年)に建立された石造層塔である。
「伊都郡学文路村誌」には、
「何の為に建立されたものかに就いては異説紛々、或は朝鮮より渡来せりといひ、容易に判定し難いが、塔の下には、石棺を埋めてあると言はれ、『一村大飢饉の際に非ざれば発掘すべからず』との伝えがあるとて、人々畏怖して手を触れず」
と記されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩9分、JR和歌山線及び南海高野線橋本駅から徒歩25分。





賢堂大師堂

橋本市賢堂に位置し、高野玉川新四国霊場 第二番護摩壇「御堂」と書かれている。




五軒畑岩掛観音

五軒畑岩掛観音は和歌山県橋本市の黒河道にある。
学文路西国三十三か所巡りは、橋本市内の清水、西畑、向副、賢堂、南馬場で巡拝するもので、文政13年(1830)に始まる。
五軒畑岩掛観音は、西国巡礼札所14番大津三井寺にあてられており、如意輪観音が祀られている。
橋本市街と和泉山脈を一望に望める。


鉢伏の井戸 

鉢伏の井戸は、和歌山県橋本市賢堂の高野参詣道「黒河道」沿いにある。
紀伊續風土記の「東畑村」の説明では、「鉢覆(ハチブセ)山 村の艮(北東)にあり 山の尾筋に峰を起して その状 鉢を覆(フセ)たるに似たり 因りて名とす (中略) 大師の加持水あり」と書かれている。
一説では、「かつてこの辺りに多くの蜂が群棲して、人々を悩ませていたが、偶々弘法大師が巡錫の途中にこの地を通過し、群がる蜂に対して、大喝叱咤したところ、不思議にも蜂は即座に伏せられて刺力を失った。そのため蜂伏山という。」と言われている。
井戸は、昭和36年(1961年)の第二室戸台風で被害を受け、永らく枯れ井戸となっていたが、平成26年(2014年)に浚って土砂を取り除き、僅かながら湧水が復活したという。
学文路西国三十三ケ所巡り 第十五番札所 十一面観音の祠がある。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩約40分。


明神ケ田和 

明神ケ田和は、和歌山県橋本市国城山の東の峠で、高野参詣道「黒河道」にある。
一般に明星ケ田和と呼ばれ、紀伊續風土記には「明神ケ彎」と記されている。
彎とは、弓に矢をつがえて弦を引くこと、弓のような形の曲線を描いてまがることを意味する。
数戸の人家があり、山麓から賢堂を経て、五軒畑を過ぎて登ってくると、道は明神ケ田和で分岐し、右に行けば紀伊清水駅、中央の道は国城山、左の道は黒河道でわらん谷(藁谷)から市平橋、一番左は青渕へと続く。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩約80分。





市平橋と周辺




市平春日神社のカツラの木

市平春日神社のカツラの木は、和歌山県九度山町市平にある。
高さ約35m、胸高直径1.1mのカツラの木(雌株)で、平成17年に九度山町の天然記念物に指定されている。
明治初年には、この木の周りに18本のカツラが林立し四季折々に変化する葉の色が楽しめたという。
現代は、3月下旬から4月中旬の間に、桃色から緑色、そして黄色に変化する。
南海高野線橋本駅下車徒歩150分。市平橋の駐車スペースから徒歩10分。




玉川峡

玉川峡は、和歌山県橋本市と九度山町にある名勝地である。
高野山から北流して紀ノ川に入る丹生川中流の約12㎞で、高野町と橋本市の交界点から下流を特に名勝玉川峡と呼ぶ。
丹生川流域は水の浸食作用によって作られた典型的なV字谷で、粘板岩、紅簾(こうれん)片岩の混じる硬砂岩層が見られ、丹生滝や多くの奇岩がある。
ホタルやアユも多く、紅葉や藤の花が見られる。高野山町石道玉川峡県立自然公園に含まれる。
南海高野線橋本駅から乗用車で約20分。


丹生の滝

丹生の滝は、和歌山県橋本市彦谷にある。
玉川沿いの宿九度山線から、斜面を約10分登った所に、落差約12mの丹生の滝がある。
現地までの道は、一般のハイキング道ではないので、宿九度山線の車道入り口にも滝の案内表示はない。
山道は、急峻で滑りやすいため、登山用の靴で行くのが望ましい。
滝下流の玉川との合流部分に、車を置けるスペースがある。
南海高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩約3時間。玉川との合流部分から山道を徒歩約10分。





筋石




括石(かちいし)


仮設トイレ



犬戻り(戸立石、橋立、弓張石)

玉川四十八石のうち、「戸立石・橋立・弓張石」の一帯を「犬戻り」と呼ぶ。
川の両岸に巨石がそびえ、犬ですら進めずに戻ってしまうことから名付けられた。



文化財表示看板

「玉川の古き看板朽ち果てて 滝に橋石どこにあるらん」(朋香)
「石の名は見てもさっぱりわからない 古い看板なんとかしてよ」(朋香)



国道371号線合流

稚児の滝


五六の淵園地 

五六の淵園地は、和歌山県橋本市の丹生川沿いにある。
高野山町石道玉川峡県立自然公園内に位置し、すぐ横を清流丹生川が流れ、豊かな緑に囲まれている。
園地には、東屋とベンチが置かれ、周辺には「玉川四十八石」といわれる奇岩や落差30mの「五光の滝」、丹生の滝などがある。
また上流には、地下1,300mから湧き出る温泉と、鮎や猪など山川の幸を楽しめる「やどり温泉いやしの湯」がある。
南海高野線橋本駅から車で約30分。






烏帽子岩



高倉

涼倉

神倉(かみのくら)の伝説

ある日、太陽が欠けてきました。それを見た村人の一人が「日天さん(太陽の神)が病気になった!」と思って慌てて家へ向かいました。
「はやく御膳をあげて祀らなければ、日天さんが死んでしまう」
その村人は家に帰ると、大急ぎでお粥を焚いて、それを持って急な坂を駆け上り、岩の上にお供えして一心不乱に拝みました。
その気持ちが天に届いたのか、日天さんは無事にいつもの太陽に戻りました。
この御膳を供えた岩が「神倉・カミノクラ」と呼ばれる岩で、この伝説は、月天さん(月の神)にも同じ話があります。(出典 やどり自然探訪)



玉川峡の伝説 唐櫃(からと)石伝説

弘法大師が谷に沿って高野山へ登る途中、大きな唐櫃(からびつ)のような箱石を拾われました。そして箱石を背負って谷を登っていきました。
箱石を背負った大師を見て野猿が笑いました。その時大師は「この谷の米を食うてはならぬ」と言いわたされたそうです。
以来今日まで野猿たちは、東隣の四垣内(シカイト)の米は食べても、負谷(オイダニ)の米は食べなかったといわれています。
その谷を唐櫃谷と名付け、箱石を背負って登った谷は、負谷と呼ばれるようになったそうです。
大師の背負い上げられた箱石は、柿迫(カキサコ)山の頂にあったといわれています。(出典 やどり自然探訪)


御手洗ノ滝



五光の滝 

五光の滝は、和歌山県橋本市北宿にある滝である。
落差が約30m、季節を問わず豊かな水量があるため、古くから修験道の行場として知られている。
この滝のある宿(やどり)地区は、明治維新まで高野山の寺領地だった。
弘法大師空海の御廟のある奥の院にも近く、数多くの修行僧や山伏がこの地で悟りの修行を行ったといわれている。
「五光の滝」の名の由縁は、修行僧が滝に打たれる為に沢を上がってきたところ、滝の日の光を受けた五色の虹に包まれ、その神々しさに時を忘れたという故事による。
滝の左側の岸の中腹には、不動明王の像があり、かつてはそれを祀る祠(ほこら)が有ったと伝えられている。
また、ここで修行するものは下流の滝で身を清めたため、その滝は「御手洗の滝(みたらいのたき)」と呼ばれている。
南海高野線紀伊清水駅下車、定福寺から黒河道を市平橋まで歩き、その後国道371号線経由で徒歩約4時間。




猩々岩・箱ノ淵

タヌキの腹に似ていることから、猩々岩と名付けられた。
また猩々岩をはじめとするいくつかの岩が、淵を取り囲んで箱のようになっていることから箱の淵と呼ばれている。


やどり温泉いやしの湯 

やどり温泉いやしの湯は、和歌山県橋本市北宿にある。
地下1,300mから涌く温泉で、風呂付宿泊施設4棟がある。
また地元の食材を使った料理も楽しめる。
毎週火・水・木は休業日で、月曜日と金曜日の宿泊は無い。
営業時間は、午前11時から午後9時まで。
温泉総選挙2018において、ファミリー部門第1位に選ばれた。
南海高野線紀伊清水駅下車、定福寺から黒河道を市平橋まで歩き、その後国道371号線経由で徒歩約4時間。
京奈和自動車道橋本インターチェンジから乗用車で30分。
宿泊2名以上の場合は、最寄駅からの送迎サービスがある。


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