山の辺の道(天理~奈良)
石上神宮は、奈良県天理市布留町にある。
桜井市の大神神社と並ぶ日本最古の神社で、古くは石上坐布留御魂(いそのかみにますふるのみたま)神社、また布都(ふつ)御魂神社、布瑠社などとも呼ばれた。
祭神は、神武天皇東征のときに国土平定に偉功のあった天剣(平国之剣(くにむけしつるぎ))とその霊威を「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」、
鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あましるしとくさのみづのたから)の起死回生の霊力を「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の威霊を「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」と称え、
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)としている。
相殿に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、白河天皇、市川臣命(いちかわおみのみこと)を配祀している。
記紀によると、神武天皇即位元年、建国にあたって功績のあった天剣の威霊を布都御魂大神として宮中に奉祀したが、
その後の崇神天皇7年11月、物部の祖、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が勅により布都御魂大神を、当地の石上布留高庭(たかにわ)に移し祀ったのを当宮の初めとしている。
以来、物部氏歴代が奉仕するところとなり、垂仁天皇39年に五十瓊敷命が剣1000口をつくり、神倉(ほくら)に納めた。
平安時代後期の永保元年(1081)には、白河天皇が当宮の鎮魂際のため、宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進し、現在の拝殿(国宝)となっている。
中世には、戦乱による社頭の破壊や、社録の没収などで衰微したが、明治期に神祗の国家管理が行われることになり、明治4年(1871)官幣大社となり、明治16年に神宮号復称が許された。
当神宮には、かつては本殿がなく拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていた。
明治7年(1874)に、大宮司(だいぐうじ)菅政友(かんまさとも)が官許を得て禁足地は発掘され、玉類、武具、装飾具など多数の宝物類が発見されて、石上神宮禁足地出土品として重要文化財に一括指定されている。
摂社として、出雲建雄神社(延喜式内社)、天神社、七座社がある。
出雲建雄(いずもたけお)神社の拝殿は、内山永久寺(現在廃寺)の鎮守社の拝殿を同寺廃寺後大正3年(1914)に移築したものである。
中央に一間の「馬道(めどう)」と呼ぶ通路を開く割拝殿(わりはいでん)の典型的なもので、国宝に指定されている。
鏡池のワタカという淡水魚は、草を食べることから馬魚とも呼ばれ、奈良県の天然記念物に指定されている。→ 奈良(天理)の昔話 馬魚 馬の顔をした魚
東回廊には、石上神宮の代表的な宝物である国宝「七支刀(しちしとう/ななつさやのたち)」の写真が掲出されている。
この刀は、刀身の左右に段違いに3本の枝が出ている全長74.8cmの鉄剣で、鉄身両面には金象嵌の銘が刻まれている。
中国の東晋の太和4年(西暦369年)に、百済王が倭王(わおう)に献じたものではないかと考えられている。
JR及び近鉄天理駅から徒歩30分。参拝者用の駐車場がある。
子安山 帯解寺は、奈良市今市町にある華厳宗の寺院である。
地蔵院ともいい、続に帯解地蔵尊の名で知られる。
本尊の木造地蔵菩薩半跏像は、鎌倉時代後期の作で、国の重要文化財となっている。
左手に宝珠、右手に錫杖を持ち左足を踏みさげて岩座上に座している。
また、腹部に結び紐があらわされることから、「腹帯地蔵」として、安産祈願の対象としても信仰を集めている。
寺伝によると、文徳天皇の皇后 染殿(そめどの)(藤原明子(めいし))が、春日明神のお告げにより、勅使を立てて「帯解子安地蔵菩薩」に祈ったところ、惟仁(これひと)親王(のちの清和天皇)が誕生した。
文徳天皇は、これに感謝して、天安2年(858)にこの地に伽藍を建立し、寺号を帯解寺と定めたといわれる。
その後、平重衡、松永久秀による二度の南都焼打ちにより罹災し、焼失した。
江戸期には、2代将軍徳川秀忠正室、お江与(お江)の方が、当寺に祈願したところ、竹千代(のちの3代将軍徳川家光)が誕生したことから、秀忠は本堂の再建を援助し、仏具を寄進したという。
山門を入った南側には、4代将軍徳川家綱寄進の手水鉢がある。
JR桜井線帯解駅下車、徒歩3分。参拝者用の駐車場がある。
菩提山正暦寺は、奈良市菩提山町にある真言宗の寺院で、龍華樹院(りゅうげじゅいん)とも称される。
正暦3年(992年)、一条天皇の勅命を受けて兼俊(けんしゅん)僧正(九条兼家の子)が創建した。
寺号はその年号からつけられた。
創建当初は、堂塔伽藍を中心に86坊の塔頭が菩提仙川の渓流を挟んで建ち並び勅願寺としての威容壮麗さを誇っていた。
しかし、治承4年(1180年)平重衡の南都焼き討ちの際、その類焼を受け全焼し、寺領は没収され一時は廃墟となった。
その後、建保6年(1218年)興福寺一条院大乗院住職信円(しんえん)僧正(関白藤原忠通の子)が、法相宗の学問所として再興した。
また、13世紀初め(建暦年間)の頃に、蓮光(れんこう)法師、法然上人の弟子がこの地に草庵(本殿を安養院、別院を迎接院)を結び、浄土門の法燈を掲げたこともあった。
今は福寿院客殿(国重文)を中心に、わずかな伽藍を残すのみである。
福寿院客殿は、延宝9年(1681年)の建立で、屋根は南面入母屋造、北面切妻造・杮葺き 六間取りの客殿に台所が接する。
客殿内部の襖・欄間には、狩野永納の描いた絵が残され、鎌倉時代の木造孔雀明王坐像(県文化)が安置されている。また客殿の自然風景式庭園は、四季折々に移り変わる景色を見事に演出している。
本尊の薬師如来倚像は、踏み割り蓮華の上に足を置き、台座に腰を掛ける金銅仏で、国の重要文化財に指定されており、下記の期間開扉される。
4月18日~5月8日
11月3日~12月3日
12月22日(冬至の日)
参道入り口には、「日本清酒発祥地」の石碑が建てられている。
近鉄奈良線からバスで柳茶屋下車徒歩約30分。紅葉の季節には正暦寺までの臨時バスが運行される。参拝者用の駐車場がある。
百毫寺は、奈良市高円山の西麓にある真言律宗の寺院である。
寺名の「白毫」というのは、仏の眉間にあって常に光明を発したという白い毛のことで、仏像では珠玉などによってこれをあらわしている。
開基は諸説あるが、天智天皇の第7皇子志貴親王の離宮の跡に建てられたとの説もある。
平安遷都とともに寺勢は衰えたが、鎌倉中期に真言律宗を興した興正菩薩叡尊が再興に力を注いだ。
その後1261年叡尊の弟子道照が、中国から持ち帰った「宋版一切経」を経蔵に納めて、4月の法要でそれをあげたところから、「一切経寺」と呼ばれるようになった。
当時奈良の町では、「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」とうたわれた。
本尊は、木造阿弥陀如来坐像で、木造閻魔王坐像も鋭い眼光と憤怒の形相で宝蔵に安置されている。
境内からは、奈良盆地を一望でき、春には樹齢450年の五色椿の花を鑑賞できる。
近鉄奈良駅から市内循環バス「高畑町」下車、徒歩20分。
覚禅房胤栄の墓は、奈良市白毫寺町にある宝蔵院流槍術創始者の墓である。
覚禅房胤栄は、1521年生まれで、安土桃山時代の興福寺子院の宝蔵院の院主である。
胤栄が、宝蔵院流槍術を創始し、その後胤瞬、胤清、胤風などがこれを受け継ぎ発展に努めた。
宝蔵院流の槍は、鎌槍と称する十文字型の穂先に特徴があり、
「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌、とにもかくにも外れあらまし」と伝えられて、
日本最大の槍術流派へと発展した。
胤栄没後400年にあたる2007年に、「宝蔵院流槍術累代之墓所」の石碑が建立された。
近鉄奈良駅から市内循環バス「高畑町」下車、徒歩15分。
道標に従って墓地内を登っていくと行くと墓所にたどり着く。
南都鏡神社は、奈良市高畑町にある神社である。
社伝によると、遣唐使派遣の祈祷所であった当地に、806年新薬師寺鎮守として創祠された。
祭神は、天照皇大神、藤原広嗣公である。
藤原広嗣公は、大宰府から740年に僧玄昉らを排除しようとして、天皇に上奏文を送ったが、朝廷ではこれを謀反として、広嗣公は討たれた。
その後広嗣公の怨霊があらわれ、唐津市の鏡神社に霊が祭られた。
現在地は、広嗣公の邸宅跡とも伝えられ、新薬師寺復興の際、ここに勧請された。
本殿は、代々春日社社殿を下賜されており、現本殿は1746年に第46次造営の際に、第3殿を賜ったものである。
鏡神社鳥居の東側には、比売神社がある。
古来から、「高貴の姫君の墓」比売塚として伝えられていたところで、
1981年に寺島富郷、キヨコ夫妻から寄進され、十市皇女(といちのひめみこ)が祭神として、祭られている。
近鉄奈良駅から市内循環バス「破石町」下車、徒歩10分。
新薬師寺は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。
新薬師寺は、747年に聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后が建立した勅願寺院である。
建立前、天皇の病気を治すため、都とその近郊の名高い山、清らかな場所で、薬師悔過(やくしけか)が行われ、諸国に薬師如来七躯を造立するよう命じられた。
薬師悔過は、病苦を救う薬師如来の功徳を讃嘆し、罪過を懺悔して天下泰平万民快楽を祈る法要である。
創建当時、新薬師寺(当初は、香山薬師寺、香薬寺とも呼ばれた)の金堂には七仏薬師が祀られていた。
780年に落雷のため、伽藍の大半は焼失し、食堂(現在の本堂で国宝)のみが焼け残った。
この天平時代の本堂のほか、鎌倉時代の東門、南門、地蔵堂、鐘楼などの建物がある。
本尊は、薬師如来座像(国宝)で、体幹部分は一本のカヤの木から掘り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ木して造られている。
本堂内は、円形の土壇が築かれ、中央の本尊の周りを十二神将立像(国宝)が囲んで立っている。
十二神将は、薬師如来を信仰する人を守る夜叉(インド神話で森林に住む精霊)の大将である。
各像とも独特の姿と表情をしており、特に伐折羅(バサラ)大将像の怒髪逆立つ表情はよく知られている。
十二神将立像の建立調査の様子を、ビデオで見ることが出来る。
本堂西南には、香薬師像を詠んだ會津八一の歌碑が建てられている。
近鉄奈良駅、JR奈良駅から市内循環バスで「破石町」バス停下車、徒歩10分。
寺院前に参拝者用の駐車場がある。
入江泰吉記念奈良市写真美術館は、奈良市高畑町にある写真専門美術館である。
入江泰吉は、1905年奈良市生まれの写真家である。
1931年大阪に写真店光芸社を開設し、文楽の写真家として活躍した。
その後、奈良に移り、疎開先から戻される東大寺法華堂四天王像を目撃、アメリカに接収されるとの噂を聞いて、写真に記録することを決意した。
以来、奈良大和路の仏像、風景、伝統行事の撮影に取り組んだ。
その全作品が奈良市に寄贈されたため、1992年4月に写真美術館が開設された。
建物は、周囲の歴史的な環境との調和に重点が置かれ、地上1階地下2階で展示室は地下に埋め込まれている。
入江作品の展示や、企画展、写真講座などが開かれており、
ハイビジョン室の展示では四季の奈良の風景写真などをゆったりと鑑賞できる。
近鉄奈良駅、JR奈良駅から市内循環バスで「破石町」バス停下車、徒歩10分。
美術館から100m南に専用駐車場がある。
志賀直哉旧居は、奈良県高畑町にある白樺派の作家志賀直哉の旧邸宅である。
現在は、国の登録有形文化財で、学校法人奈良学園セミナーハウスとして、一般公開されている。
1925年、志賀直哉は京都山科から奈良の幸町の借家に住居を移した。
彼が奈良への引っ越しを決めたのは、かねてからのあこがれであった奈良の古い文化財や自然の中で、創作を進めたいとの希望からである。
1928年にこの邸宅を自ら設計して建て、1929年から1938年まで住んだ。
春日山の原始林や飛火野の芝生を望める周囲の環境の良さもあり、武者小路実篤や梅原龍三郎など多くの人々がここを訪れ、志賀邸は文化人のサロンのようになり、文化活動の核となった。
1階には、洋風の食堂やサンルーム、数寄屋造りの居間があり、2階には書斎や客間などがあり、周囲も落ち着いた庭が取り囲んでいる。
志賀直哉は、この家で大作「暗夜行路」や「晩秋」「邦子」などの作品を執筆した。
この辺りは、中世から春日大社の社家の邸宅が並んでいたところで、現在も閑静な住宅街である。
周辺には、サロン風の喫茶などもあり、散策時に気軽に立ち寄れる。
近鉄奈良駅、JR奈良駅から市内循環バスで「破石町」バス停下車、徒歩5分。
周辺には、公営駐車場や私営駐車場がある。
春日大社は、奈良県奈良市春日野町にある神社で世界遺産に指定されている。
春日大社は、768年に平城京鎮護のため御蓋山の中腹に4棟の神殿が造営されたのが始まりである。
祭神は、第1殿が武甕槌命(たけみかづちのみこと)、第2殿が経津主命(ふつぬしのみこと)、第3殿が天児屋根命(あめのこやねのみこと)、第4殿が比売神(ひめがみ)である。
武甕槌命は、国譲りを達成した最強の武神で、常陸国鹿島から鹿の背に乗って神山御蓋山にやってきたと伝えられている。
経津主命は建国を支えた大功のある武神、天児屋根命は天照大神が天岩戸に隠れた際に祝詞を奏した司祭神で最高の知恵を持つ神、比売神は天児屋根命の后神で平安時代から江戸時代末期まで天照大神として信仰されていた神である。
常陸国鹿島の神が春日の地に祀られたのは、一説には藤原氏の祖となった中臣鎌足が鹿島に生まれ育ち、飛鳥に移ってのちも鹿島の神を信奉していたからといわれている。
一の鳥居から表参道を約20分歩くと社殿に着く。
中門の中は、春日造りの4棟の本殿が横並びになっている。
国宝の本殿は、20年に一度の式年造替が進められ、2016年11月に正遷座祭が行われた。
春日大社には、国宝351点、重要文化財920点があり、「奇跡のご神宝」とも言われている。
2月節分には、春日大社節分万燈籠、3月13日には勅使参向のもと例祭の春日祭が行われる。
10月には、鹿苑で鹿の角伐りが行われる。
近鉄奈良駅からバスで10分「春日大社本殿」下車、徒歩5分。春日大社参拝者用の駐車場がある。→ 采女神社
若宮は、春日大社の摂社で1135年に社殿が現在地に造営された。
春日の神、天児屋根命と比売神の御子、天押雲根命をまつるので若宮という。
1136年、洪水や飢饉を防ぎ、五穀豊穣を祈るため、藤原忠通によって始められた若宮神社の祭礼が、春日若宮おん祭である。
1979年に国の重要無形民俗文化財に指定された。
毎年12月17日に行われ、一の鳥居を入ってすぐの参道でお渡り行列や稚児流鏑馬が披露される。
興福寺は、奈良市登大路町にある法相宗の大本山である。
天智天皇8年(669年)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するために、夫人の鏡女王(かがみのひめみこ)が京都山科の私邸に建てた「山階寺」を始まりとする。
その後、飛鳥厩坂(現在の橿原市)の地に寺を移し、厩坂寺(うまやざかでら)と称した。
さらに、都が平城京に遷った和銅3年(710年)、藤原不比等が現在地(左京三条七坊)に移転し、興福寺と名付けた。
その後、天皇や皇后、藤原家の人々により堂塔が建てられ、平安時代には春日社と一体化し、わが国最大の勢力を有する寺院に発展した。
各地に荘園を有して、僧兵の武力も持ち、比叡山延暦寺と並んで南都北嶺と呼ばれた。
治承4年(1180年)平重衡の南都焼打ちで伽藍のすべてが焼失したが、その後再建され、鎌倉・室町時代には大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。
明治時代に、廃仏毀釈で春日大社が分離独立し、一時は衰微したが、復興を果たし、1998年には世界文化遺産に登録されている。
境内には、東金堂、五重塔、北円堂、三重塔などの国宝建造物や、中金堂があり、国宝館や諸堂には、阿修羅像を始めとする数多くの寺宝が所蔵、公開されている。
近鉄奈良線奈良駅下車、徒歩5分。参拝者用の有料駐車場がある。→ 興福寺菩提院大御堂(通称 十三鐘)
興福寺中金堂(ちゅうこんどう)は、奈良市興福寺境内にある。
単層裳階付き寄棟造、桁行9間、梁行6間である。
中金堂は藤原不比等(659-720)が興福寺の最初の堂宇として、和銅3年(710)の平城遷都と同時に創建した。
創建当時の規模は奈良朝寺院の中でも第1級であったといわれている。
当初は、藤原鎌足ゆかりの釈迦如来を中心に、薬王・薬上菩薩、十一面観音菩薩二躯、四天王、
さらに養老5年(721)に橘三千代が、夫の藤原不比等の一周忌供養で造立した弥勒浄土の群像が安置されていた。
創建から6回の焼失、再建を繰り返し、平成30年(2018)に再建され、創建当時の様式で復元された。
中金堂創建当初の本尊は、藤原鎌足が蘇我入鹿の打倒を祈願して造立した釈迦如来像と伝えられる。
現在堂内中央には、5代目本尊の木造釈迦如来坐像(像高283.9cm)が安置されている。
また、堂内には、木造薬王、薬上菩薩立像、木造四天王立像、厨子入り木造吉祥天倚像(いぞう)、木造大黒天立像が安置されている。
本尊前の法相柱は、高さ6.8m、周囲2.45mで、無著菩薩を初めとする14人の法相宗の祖師が描かれている。
興福寺菩提院大御堂(通称 十三鐘)は、奈良市高畑町にある。
菩提院(ぼだいいん)とは、現存する興福寺の子院の一つで、法相宗を中国から伝えた玄昉(げんぼう)や平安時代の学僧である蔵俊が住んでいたと言われている。
北側にある案内板には、玄昉僧正(?-746)の菩提を弔う一院として造営されたとものであろうと記されている。
昭和時代に行われた発掘調査の結果、大御堂(おおみどう)が建てられたのは、鎌倉時代に入ってからであることが判明した。
現在の建物は、天正8年(1580)の再建で、正面桁行5間、本瓦葺で、正面には向拝(ごはい)がついている。
大御堂内には、本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)、稚児観音菩薩立像などが安置されている。
鐘楼に掛かる梵鐘は永享8年(1436)の鋳造で、かつて昼夜十二時(とき)(一時は今の二時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ツと六ツの間 午前5時)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘(じゅうさんがね)」の通称でも親しまれている。
大御堂前庭には、春日神鹿をあやまって殺傷した少年 三作(さんさく)を石子詰(いしこづめ)の刑に処したと伝承される塚がある。→ 伝説三作石子詰之旧跡
元禄時代、近松門左衛門がこの伝説に取材して、浄瑠璃「十三鐘」を記している。→ 妄想オムライス 十三鐘
大御堂南側には、ナンジャモンジャの木(正式名 ひとつばたご)が植えられている。
高さ20m以上にもなるモクセイ科の落葉高木で、5月ころ円錐花序に白花(花冠は4深裂し、裂片は、長さ2cmの線形)をつける。
猿沢池は、奈良市登大路町にある。
面積は7200㎡、周囲約300mで、興福寺の放生池(魚などを放して功徳を得る儀式のための池)としてつくられた。
池畔から興福寺五重塔を見上げた景色は、奈良の代表的景色として知られている。
池の北西にある采女神社は、天皇の寵愛を失って猿沢池に身を投げた女官を祀っており、謡曲「采女」の題材ともなっている。
池の南東には、采女が入水するときに着物を掛けたと伝えられる衣掛柳がある。
毎年秋の仲秋の名月の夜には、池に花扇を浮かべて采女祭りが行われる。
池畔の案内板には、猿沢池の七不思議として、「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず藻は生えず、魚七分に水三分」との言い伝えが紹介されている。
また桂米朝氏「米朝ばなし上方落語地図」では、落語「猿後家(さるごけ)」で、この後家さんの前では「さる」が禁句のため、猿沢池を「さむそうの池」として次のように語られている。
「魚半分、水半分、そこは竜宮まで届くような深い池で、だれが見てもゾーとさむけを催しますので”さむそうの池”と。」
采女神社は、奈良市樽井町にある春日大社の末社である。
祭神は、采女命(うねめのみこと)で、奈良時代、天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女(女官)が猿沢池に身を投げ、この霊を慰める為に祀られたといわれる。
猿沢池の東側には、采女が入水する際にその衣をかけたという衣掛柳の石碑がある。
平安時代の歌物語「大和物語」百五十段には、采女の物語が次のように書かれている。
昔、ならのみかどにつかうまつる采女ありけり。かほかたちいみじうきよらにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり。
そのあはぬ心は、みかどをかぎりなくめでたき物になむ思(ひ)たてまつりける。みかど召してけり。
さて、のち又も召さざりければ、かぎりなく心うしとおもひけり。(中略)
なほ世に経(ふ)まじき心ちしければ、夜みそかに、さるさはの池に身を投げてけり。
(出典 校注古典叢書新装版「大和物語」)
「元要記」によると、弘仁年間(810-824)興福寺南円堂鎮壇の時、人夫のなかの青衣の女人が池の方に逃げ去って行方が分からなくなり、藤原久嗣の八男 良世が西向きの社を建立し、興福寺興南院の快祐が勧請したと伝える。
現在でも小祠が西向きに立っており、背後の池側に鳥居がある。
そのため、采女が入水した池を見るのは忍びないと一夜のうちに御殿が背を向けたとも言われている。
その後、室町時代に、采女の物語にちなんだ能「采女」を世阿弥が創作した。
鳥居南側には、「謡曲「采女」と采女への哀悼歌」と題した謡曲史跡保存会の案内板があり、大和物語にも載せられている哀悼歌が紹介されている。
采女への哀悼歌
我妹子(わぎもこ)が 寝くたれ髪を猿沢の
池の玉藻と見るぞかなしき (柿本人麻呂)
(あのいとしい乙女の寝乱れた黒髪を、今猿沢の池の美しい水藻として見るのは、本当に悲しいことだ。)
猿沢の池もつらしな我妹子(わぎもこ)が
玉藻かつかば水もひなまし (帝)
(猿沢の池を見るのは恨めしい。あのいとしい乙女が池の水藻の下に身を沈めたなら、いっそ水が干上がってしまってくれればよいのに。そうすれば采女は死なないですんだろうに。)
「かづく(被づく)」は、頭にかぶるの意味である。
近松半二作の浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」では、初演時の番付などに記された外題の角書に「十三鐘/絹懸柳」と記され、采女伝説が形を変えて巧みに取り入れられており、
二段目 猿沢池の段では、次のように語られる。
世の憂さは尊(たか)き卑(ひく)きも亡き魂の、雲隠れせし思ひ人、采女の局の跡慕ひ、勿体なくも万乗の、帝の嘆き浅からず、(中略)
「この辺りが猿沢池なるか」と仰せに、官女進みより
「この間久我之助清舟奏聞申せし通り、采女様入水の跡、猿沢池にて候」
と申し上ぐれば 今更に朝な夕なに傅(かしづ)きし、采女の事の思はれて、御涙こそ限りなし(後略)
采女神社の例祭 「采女まつり」は、仲秋の名月の日に行われる。
采女神社本殿で祭典が挙行され、月明かりが猿沢の池に映る頃、龍頭船に花扇を移し鷁首(げきしゅ)船と共に二隻の船が幽玄な雅楽の調べの中、猿沢の池を巡る。
近年は、采女の出身地といわれる福島県郡山市から選ばれた采女が、花扇を投げる行事が行われる。
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