パンフレットモデルコース別写真

Aコース

真土山

真土山は、和歌山県橋本市にある旧跡である。
真土山は、標高約120m、葛城連峰の最南端にあり、対岸に恋野の山地が迫り、その間を紀ノ川が流れる景勝の地である。
国道24号線の南側に、万葉の道、真土山の石碑がある。
奈良からの旅では、この真土山を越えれば、あさもよし(枕詞)紀の国であり、万葉集では八首の歌が読まれている。
紀伊国名所図会に、真土山の風景が描かれている。
中央に真土山とあり、たくさんの松と桜が描かれた小山となっている。
右に大和側の「真土峠」、「真土川」(落合川)とあり、現在の極楽寺は「薬師」となっている。
上欄には歌が書かれている。
江戸時代の国学者で、松坂の本居宣長、養子の大平の作品である。

多ひなれハ 多れ加者王を 満川ちやま ゆふこえゆきて や登者とふとも
(旅なれば 誰かは我を 真土山 夕越え行きて 宿は問うとも)
雪と見亭 釣やな川まむ 白妙尓 尓保ふ 真土の 山さくら者那
(雪とみて 釣やなつまん 白妙に におう 真土の 山さくら花)
紀州より大和国尓修行せしみぎり 両国のさ可ひ真土山尓てよミ侍(はべ)る
きのく尓の さ可ひをしらハ 真土山 よしの川登も これよりそいふ  遊行地阿

本居宣長は、享和8年(1800年)から2年間、紀州藩を訪れ、紀伊国名所図会の執筆者、伊達千広や加納諸平、紀伊続風土記の仁井田好古等に国学の講義をしている。

  

隅田八幡神社

隅田八幡神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
社伝によれば、859年の建立という。
祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、丹生都比売神(にうつひめがみ)、瀬織津比女神(せおりつひめがみ)で、中世には隅田荘の領主、石清水八幡宮の別宮であった。
正月15日の管祭り(くだまつり)は粥占神事として、管竹三本の束「舟」を小豆粥に入れて稲作の豊凶を占うもので、橋本市の無形民俗文化財に指定されている。
三本の竹筒は、穴一つが早稲(わせ)、穴二つが中稲(なかて)、穴三つが晩稲(おくて)で、小豆粥の釜に舟をつけ、神殿に供えた後、いずれの筒に多く米が入っているかを確かめ、参拝者に稲の作柄を宣言する。
神社に伝わる青銅鏡として、国宝の人物画像鏡がある。
江戸時代後期に、現在の橋本市妻で刀剣や土器とともに発見されたと伝えられ、我が国最古の金石文の一つして知られている。
直径19.9センチの国宝は東京国立博物館に寄託されており、境内では、国宝記念碑で拡大したものを見ることが出来る。
平成9年には、神社正遷宮の境内整備によって、隅田八幡神社経塚が発見された。
約5m四方の範囲に3基の経塚が確認され、うち1基は当時の姿をほぼ残していると見られており、墨書銘で長寛2年(1164年)に書写されたものであることが確認され、和歌山県指定文化財に指定されている。
JR和歌山線隅田駅下車徒歩20分。(Y.N)

 

B コース

利生護国寺

利生護国寺は、和歌山県橋本市下兵庫にある真言律宗の寺院である。
寺伝等によると、聖武天皇が行基に命じて建てた畿内四十九院の一つである。
その後寺は荒廃したが、弘安年間(1278-88)に最明寺(北条)時頼、叡尊(興正菩薩)が再建した。
利生護国寺文書によると、弘安8年(1285年)、沙弥願心が兵庫荒野並びに田畑等を寄進した。
また永仁6年(1298年)関東祈祷諸寺注文では、鎌倉幕府の祈祷寺34か寺の一つにあげられ、鎌倉幕府の信仰を得ていたことがわかる。
利生とは、「利益(りやく)衆生」の意味で、仏・菩薩が衆生に利益を与えること、またその利益を指す。
覚王山利生院と号し、通称で大寺さんと言えば、伊都地方ではこの寺を指す。
中世には地名に因んで兵庫寺などとも呼ばれ、隅田一族の氏寺として栄えた。
本尊は行基作と伝えられる木造大日如来像で、和歌山県の重要文化財に指定されている。
本堂は、一重寄棟造、本瓦葺き、朱塗りの建物で、南北朝期の天授年間(1375-81)に再建されたもので国の重要文化財に指定されている。
本堂北側に、裏山の斜面から移転した隅田一族の墓石群があり、「元中元年(1384年)」銘の墓石もある。
本堂前には、太閤駒繋松があり、「紀州名所図会」には、次のように記されている。
 「馬繋松 境内をおほへる大樹なり。文禄三年豊太閤高野参詣のとき、帰路当寺に止宿し給へるとき、馬を繋ぎしにより此名ありとぞ。(後略)」
太閤記の「高野詣之事」には、次のように記されている。
 「秀吉公(中略)下山し給ふて、兵庫之寺に御泊候ひしが、(後略)」
2年に一度、大茶碗でお茶をいただく「大茶盛」が開催される。
JR和歌山線下兵庫駅下車、徒歩5分。本堂北側には、参拝者用の駐車場がある。

   

闇峠(くらがりとうげ)

闇峠(くらがりとうげ)は、和歌山県橋本市下兵庫にある。
大和街道は伊勢街道とも呼ばれ、室町時代の末期から、伊勢神宮へ庶民が参拝するようになり、各地に伊勢講が組織された。
橋本においても、道筋に茶店ができ、向副の二軒茶屋や下兵庫の「闇坂」が知られている。
闇坂茶店の土産物として「まんじゅう」が有名で、数年に一度の講参の時には、欠かすことのできない土産物であった。
紀伊名所図会には、「闇饅頭屋(くらがりまんじゅうや)」として当時の様子が次のように描かれている。
参宮の往来ここで茶を飲み、懐中の銭を探るところの黒暗嶺(くらがりとうげ)
名物の夫婦饅頭うまし、草津の姥ガ餅(うばがもち)にまけず 唐遣木
現在は、木製の道標が建てられている。

  

C コース

恋し野の里中将姫旧跡

恋し野の里中将姫旧跡は、和歌山県橋本市にある。
中将姫の父は、藤原豊成、母は紫の前で天平19年(747年)8月18日に誕生した。
5歳で母と死別し、7歳の時継母の照夜の前を迎えた。
姫は容姿端麗で叡智に富み、何ごとにも優れ、帝から中将の位を授かる。義弟の豊寿丸が誕生した頃から継母は姫を憎み、幾度も姫を殺害しようとするが姫は助かった。
さらに14歳の春、父の留守中に家臣の松井嘉藤太に命じて紀伊と大和の境の雲雀山で殺害させようとしたが、嘉藤太は罪もない姫を助けた。
姫は、十三仏や里人たちの温情に支えられ恋し野の里で二年三か月間様々な苦しみに耐えて、聞くも悲しい生活を送った。そして狩りに来た父と中将倉で涙の再開を果たし、奈良の都に帰った。
17歳の時當麻寺で剃髪し、法如比丘尼(ほうにょうびくに)となって藕糸(ぐうし)曼荼羅を織り、宝亀6年(775年)卯月14日29歳で波乱の生涯を静かに閉じた。

糸の懸け橋

中将倉でさびしい日々を送っていた姫がかの雲雀山に来て、天国の母様を慕い、或いは恋し野の里で里人と戯れ、草花を摘みに去年川(こぞがわ)の渓谷を毎日渡るのに困ってかけた橋である。
この橋は、糸の懸橋であって、昭和初期まで県道の橋であったが、朽ちて流されていたのを中将姫旧跡保存委員会で昭和56年に復元した。
両橋詰に十三仏の中の阿閦如来(あしゅくにょらい)と地蔵菩薩が祀られている。
JR和歌山線隅田駅から徒歩20分。

 

雲雀山旧跡(太刀捨て山)

雲雀山旧跡は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が14歳の時、継母の照夜の前の命令で、家臣の松井嘉藤太(かとうた)が、姫を板張りの輿にのせて、奈良の都からこの雲雀山に連れ出し殺害しようとした。
中将姫は、「これ嘉藤太や、私は日に六巻のお経を唱えている。このお経が終わればどうぞ首を討ちとってください。」と言って、西に向かってお経を唱えた。
松井嘉藤太は、その姫の姿を見て振り上げていた太刀を捨て、姫を守ることを決意した。その故事で雲雀山は、別名「太刀捨て山」と呼ばれる。
嘉藤太は、麓を流れる去年川(こぞがわ)の奥の岩陰に草庵を作って、妻のお松とともに2年3か月間隠れ住んだ。
謡曲「雲雀山」では、「大和紀の國の境なる、雲雀山にて」と、中将姫の物語が謡われている。
現地には、田林義信和歌山大学名誉教授の次の和歌が記されている。
「母を恋ひ 中将姫が揚雲雀 聞きけむ山ぞ 秋は紅葉す」
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩20分

 

D コース

応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
天正15年(1587)に応其上人は古佐田村の荒れ地を開き、ここに草庵を作った。
この草庵が現在の応其寺で、旧名を惣福寺といった。中興山普門院応其寺と呼ばれる。

応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
高野山奥の院には、「興山応其上人廟」、興山上人一石五輪塔がある。また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。山門南に参拝者用の駐車場がある。

  

E コース

織田秀信終焉の地

織田秀信終焉の地は、和歌山県橋本市にある史跡である。
織田秀信(岐阜中納言)は、織田信長の嫡孫(信忠の長子)で、幼名は三法師と呼ばれた。
天正10年(1582年)に本能寺の変で、信長、信忠死去の後、清洲会議で織田家の家督を継いだ。
文禄元年(1592年)に岐阜城主となり、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは西軍に味方して敗れ、岐阜の円徳に入って剃髪した。
その後、高野山に入ったが、山徒は快く迎えなかったので下山して、相賀荘向副村に閑居した。
「濃陽将士伝記(濃陽諸士伝記)」には、「紀州高野山に登り給ひしが、岐阜中納言殿は、(高野)聖を成敗なされ給ひしとて、高野に入れ申さざるに付、麓におはしける」と記されている。
その後、銭坂城主生地新左衛門尉 阪上真澄の娘「町野」を妻として、一子恒直をもうけたが、入山後2年で病気となり、慶長10年(1605年)に向副村で死去した。
江戸時代の「紀伊續風土記」には、「秀信卿の墓は高野山光台院の後の山に五輪塔ありて銘文も明なり、然して當寺(善福寺)にあるは此に居住せし故なるべし」と記されている。
位牌は、向副観音寺(明治25年に善福寺と合併)に祀られており、善福寺跡には、秀信の墓所と伝える自然石の墓石があり、織田秀信顕彰碑(「織田秀信公碑」)、松山タケノ頌徳碑が建てられている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩10分。

  

定福寺

紫雲山定福寺は、和歌山県橋本市賢堂にある高野山真言宗の寺院である。
当寺は高野山参詣道の黒河道のスタート地点に位置しており、黒河道は平成27年(2015年)10月に国の史跡に指定され、平成28年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された。
本尊木造阿弥陀如来坐像は像高88cmで、両手を腹前で組んで上品上生(弥陀定)印を結んでいる。
檜材の一木造りのこの像は、腹部の丸みに合わせて刳り込んだ一材の両膝を矧(は)ぎ寄せる手法で作られ、平安時代中期(10~11世紀)の作品である。
均整のとれた頭体で、和歌山県の有形文化財に指定されている。
境内下にある九重塔(橋本市指定文化財、砂岩、総高244cm)は、相輪部九輪の六段目以上と塔身部第八層目が欠損しているが、基礎部の銘から弘安8年(1285年)に建立された石造層塔である。
「伊都郡学文路村誌」には、「何の為に建立されたものかに就いては異説紛々、或は朝鮮より渡来せりといひ、容易に判定し難いが、塔の下には、石棺を埋めてあると言はれ、『一村大飢饉の際に非ざれば発掘すべからず』との伝えがあるとて、人々畏怖して手を触れず」と記されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩9分、JR和歌山線及び南海高野線橋本駅から徒歩25分。(Y.N)

  

三軒茶屋大常夜燈籠 

三軒茶屋大常夜燈籠は、和歌山県橋本市の旧高野街道にある史跡で、市の文化財に指定されている。
高野街道は、京都・大阪・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内川(橋本川)河口付近から紀の川を渡ってこの地に至り、学文路から高野山へ登っていく道が開かれた。
この道は、町石道に比べて距離も短くなったことから、室町時代後期には、高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587年)応其上人は、紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(236m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟による有料の横渡(よこわたし)が行われるようになった。
しかし、増水時の割増運賃や営業時間を巡ってのトラブルもあり、元禄10年(1697年)から、高野山と紀州藩、関係村々が費用を出して「無銭横渡」となった。無銭横渡は常夜の営業で両岸の燈籠に灯がともされ、旅人の目印であった。
元は石燈籠二基が相対して建てられていたが、近年の道路拡幅工事で東側の一基が北へ約5m移動された。
この石灯籠には、宝暦2年(1752年)「高野山興山寺(現在の金剛峯寺の前身)領」の銘が刻まれている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれている。
現在紀ノ川北岸には、東家渡場大常夜燈籠が残されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩8分。

  

F コース

学文路天満宮

学文路天満宮は、和歌山県橋本市にある神社である。
社名は天満神社で、現在は学文路地区全域の氏神となっている。
祭神は、菅原道真公で本殿中央に祀り、左側に天穂日命(あめのほのひのみこと)、御父君 菅原是善卿(すがわらこれよしきょう)、御母君 園文字姫(そのもしひめ)の3柱、右側に旧学文路村内の55柱を祀っている。
創建について、「天満神社御縁起」では、「天満神社は、人皇第75代崇徳天皇の天治元年(1124年)9月25日、紀伊国伊都郡当時相賀の荘の今の地に御勧請、<中略>当神社は京都北野神社御建立の際、時の帝第62代村上天皇の天暦元年(947年)、日本国中一郡に大社小社に不限必ず一社の鎮座を被仰出たるに依る」とされている。
元弘3年(1333年)の後醍醐天皇の綸旨、いわゆる元弘の勅裁により、相賀荘は「相賀荘河北」「相賀荘河南」と、紀ノ川の河北と河南で領有が二分された。
相賀荘河北は、これまでどおり根来寺領、相賀南荘は、高野山寺領となった。相賀大神社を「河北惣社」と呼ぶのに対し、天満神社は、南荘の総鎮守となって、「河南天神」ともいわれて、崇敬された。
明治6年(1873年)に村社、明治40年(1907年)に神饌幣帛供進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定された。
伊都地方唯一の天満宮として、学業成就、受験合格の参拝者が多く訪れている。
祭礼は、1月25日(初天神)、8月25日、10月第4日曜日に行われており、初天神には学文路地区の小中学生の書初め展がある。
南海高野線学文路駅下車、徒歩20分。参拝者用駐車場がある。(Y.N)

  

学文路苅萱堂

学文路苅萱堂(西光寺)は、和歌山県橋本市にあるお堂である。
苅萱道心、石童丸物語の舞台として知られている。
石童丸物語は、中世以来高野聖の一派である萱堂聖によって語られてきた苅萱親子の悲哀に満ちた物語で、
江戸時代には、説経節「かるかや」、浄瑠璃「苅萱桑門筑紫𨏍(かるかやどうしんつくしのいえづと)」(1735年大阪豊竹座初演)や琵琶歌となって、広く世に知られた。
出家した父道心を探して、高野山を目指した石童丸と母千里ノ前は、女人禁制のため母を玉屋旅館に残し、石童丸が一人で高野山に登った。
道心は出家の身で、「あなたの父は、すでに亡くなられた。」と偽って、石童丸を学文路へ帰したが、母はすでに亡くなっていた。
石堂丸は再び高野へ上り、苅萱道心の弟子となったが、二人は親子の名乗りをすることなく仏道修行した物語である。
堂内には、苅萱道心、石童丸、千里ノ前、玉屋主人の像が安置され、千里ノ前の遺品とされる人魚のミイラや如意宝珠、石童丸の守り刀などが残されている。
これらは、「苅萱道心・石童丸関係信仰資料」として、橋本市の指定民俗文化財となっている。
平成5年(1993)には、千里ノ前の塚(名号「健泰妙尊大姉(けんたいみょうそんだいし)」)が供養のため旧玉屋屋敷跡から苅萱堂本堂南側に移された。
毎年3月には千里ノ前の法要が行われる。
学文路苅萱堂保存会では、明治40年刊行の「苅萱親子一代記」をもとに、平成8年(1996)に「石童苅萱物語」を発行して、石童丸物語の伝承に努めている。
南海高野線、学文路駅下車、徒歩10分。 → 苅萱堂苅萱堂跡 石堂地蔵(苅萱地蔵)

  

G コース

養叟庵

養叟庵は、和歌山県橋本市矢倉脇にある禅僧養叟の旧跡である。
室町時代中期の禅僧養叟宋頣(1376-1458)は、京都の出身で、近江堅田の禅興庵で「孤高の禅僧」といわれた華叟宋曇について禅の修行を積んだ。
大徳寺の一休宗純とは、共に華叟の教えを受けた先輩(法兄)にあたる。
正長元年(1428年)師の華叟が入寂すると、養叟は京都紫野大徳寺大用庵に、一休は同・如意庵に住まいした。
文安2年(1445年)臨済宗の本山大徳寺の第26世となり、南禅寺同様に紫衣勅許の出世道場とした。
長禄元年(1457年)に、後花園天皇から「宋慧大照禅師」の勅号を賜っている。
養叟が、矢倉脇に来たのは享徳3年(1454年)前後で、平将門の子孫 牲川次郎左衛門将房(にえかわじろうざえもんまさふさ)は、宝形山徳禅寺を建立して養叟を迎えた。
養叟は、この地で晩年を過ごし、83歳で入寂した。
その後、徳禅寺は兵火で焼失し、場所もわからなくなっていたが、天保8年(1837年)に、紀伊藩と大徳寺が合同で調査した結果、養叟の旧跡であることが確認され、嘉永元年(1848年)に徳禅寺再建が発願され養叟庵が建立された。
元は少し離れた髙山にあったが、明治32年に現在地に移築され、平成時代には養叟苑として花がみられる庭園が約50m西に作られている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩5分。(Y.N)

  

地蔵寺 矢倉脇

宝形山延命院地蔵寺は、和歌山県橋本市矢倉脇にある真言宗の寺院である。
本尊は地蔵菩薩で、脇仏として不動明王、毘沙門天を祀っている。本堂には天井絵が描かれている。
紀見村郷土誌によると、元は西方高山の頂上にあったものである。
平将門の末裔 贄川将房がこの地に迷い込み、高山七郎という老人の敬愛を受けて、長藪城(橋本市城山台)の城主となった。
高山七郎の宅地を改めて、本堂、護摩堂、山王権現、摩利支天法幢等の堂塔伽藍を建立しこれを宝形山と号した。
高山七郎が剃髪して、隆阿と名を改めて、将房の武運を祈ったという。
その後15世紀後半に、第9代将軍足利義尚の兵乱で堂宇を焼かれた。
現在地には天文10年(1541年)に再建された。庫裏は平成3年(1991年)に改築されている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩5分。
(Y.N)

  

葛城神社(柱本)

葛城神社は、和歌山県橋本市柱本にある神社である。
祭神は、素戔嗚命で、境内社として、若宮殿と猿田彦神社がある。また飛地社として愛宕神社ほか末社四殿がある。
勧請についての詳細は不明で、古老の言い伝えによれば、正平4年(1349年)頃、戦火により旧記等ことごとく焼失したという。
当神社は、牛頭天王社とも称し、疫病神としての京都祇園社(八坂神社)が総社である。牛頭天王は、もとはインドの釈迦や弟子の僧坊である祇園精舎の守護神であった。
京都祇園社の紋が胡瓜の切り口に似ているところから、祇園さんの紋を食べるのは恐れ多いとされ、最近まで胡瓜を食べなかったと云う。
六十年毎に本殿の造営が行われ、現在の建造物は、昭和55年に、氏子によりすべての建物が寄進された。
古くから当神社を管理し守るための宮ノ講という座中による輪番で毎年元旦から1年間神主を務めて祭事を司っている。
元旦には神主を司るものが、重さ20kgの大松明2基による道案内で、神社東側の宮川の滝壺に入り、精進潔斎の禊を行う。
境内には、橋本市指定文化財のムクロジがある。ムクロジ科の落葉高木で、6月頃淡緑色5弁の小花を大きな円錐花序につけ、実(果実)は球で硬く羽子(はご)の球に使われる。
また果皮はサポニンを含むので石鹸の代用とされた。漢名は、無患子、木患子。和名のムクロジは、モクゲンジの漢名「木樂子」の誤用とされている。
平成9年指定当時、高さ29.7m、胸高幹回4.2mと大きく、和歌山県の調査によると、高知県須崎市大谷の勢井白王(伊気)神社境内のものに次いで、全国2番目の規模といわれる。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。(Y.N)

   

慶賀野蛭子神社

慶賀野蛭子神社は、和歌山県橋本市慶賀野にある神社である。
祭神は、事代主命である。いわゆる「えべっさん」の愛称で、一村の産土神として崇敬されている。
紀伊續風土記には、「衣美須神社」とあり、当神社の南東にある長薮城跡は、古く平安時代に坂上田村麻呂がここに砦を築き、その後、平将門の九代の子孫 牲川将房がここに籠り、戦に勝ち戦勝の祝いをしたところから「慶賀野」の地名が生まれたと伝えられている。
このことから、その当時に祀られたものではないかと言われている。
現存している資料として、「永享6年(1434年)奉造営蛭子大明神玉置丹治重政」の棟札がある。
例祭は1月1日、1月9日・10日、10月15日である。
1月の宵えびす、本えびすの両日には、福笹、・縁起熊手を求める参拝者で賑わい、婦人会の慶賀野お焼きも販売される。
神社の立地場所は、舌状の台地の先端で、鳥居からは、東西南方向の田園風景が望める。
南海高野線林間田園都市駅下車、徒歩10分。(Y.N)

   

H コース

小峯寺

小峯寺は、和歌山県橋本市境原にある高野山真言宗の寺院である。
宝雲山宝蓮院と号し、本尊は馬頭観音である。
紀見村郷土誌には、「役行者の開基にして、山伏の行所なり」と記され、鎌倉時代初期の「諸山縁起」に当寺が記載され、南北朝時代は金剛山転法輪寺(現奈良県御所市)配下で、修験寺院として栄えた。
現在も本堂前に、葛城根本道場の石碑が建てられている。
かつては、寺中に五坊があったが、天正年間(1573-92)の兵火で焼失したと言われている。
境内には、天授5年(1696年)銘の宝篋印塔があり、橋本市指定文化財となっている。
また、境原村の檀那寺、東光寺(明治維新で廃寺)の本尊であったと伝えられる、木造薬師如来坐像がある。
南海高野線林間田園都市駅からバスで初芝橋本高校前下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。(Y.N)

    

不動山の巨石

不動山の巨石は、和歌山県橋本市杉尾にある。
不動山は金剛山地の一峰、神福山(792m)の南西約1㎞、大阪府(河内長野市)、奈良県(五條市)、和歌山県(橋本市)の三府県境から南西に開けた東谷川の南側に続く標高480mの尾根の突端に位置する。
不動山には古くから巨石群の存在が知られ、昔、役行者が葛城山から金峰山に橋を架けようとして石を集めた跡と伝えられ、巨石下には、不動明王、金剛童子、八大竜王が祀られている。
また、巨石に空いた穴に耳を当てると不思議な音が聞こえるため、平成8年には、環境省から日本の音風景百選に選ばれている。
巨石の南側には、楠木正成が腰かけたと言われる大楠公腰掛石がある。
南海高野線林間田園都市からバスで橋本市民病院前下車、徒歩約100分。麓の明王寺横に駐車場があり、駐車場からは、635段の階段を上るルートと、まわり道のルートがある。

    

I コース

普賢寺 

延命山普賢寺は、和歌山県橋本市菖蒲谷にある真言宗の寺院で、隣接する熊野権現社と大夫宮(たゆうのみや)の別当寺と伝えられている。
寺伝によると、天平9年(737年)春、行基菩薩が当地方へ巡錫の際に、この地を浄所と定めて、自ら資材を運び、仏像を彫刻した。
福徳を授かるよう、断食の誓願、修行の祈請21か日の後、本尊を安置したといわれている。かつては延命寺と称し(「紀伊続風土記」)、のち観音寺となり、さらに普賢寺と変わっていった。

本尊普賢延命菩薩は4頭の白象に乗った二十臂像として表現されており、行基作と伝えられている。
本来普賢菩薩は、あまねく一切処(いっさいしょ)に現れて賢者の功徳を示す菩薩とされ、6牙(が)の白象に乗った姿で表される。
文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍(わきじ)となるが、単独で信仰される場合も多い。
また、普賢菩薩は延命の徳があるとされ、密教では延命法の本尊として普賢延命菩薩が信仰された。
本尊は、檜材による寄木造り、漆箔(しっぱく)仕上げで、等身大(像高94cm)の像である。
藤原仏(平安時代後期)の典型的な作品であるが、普賢延命菩薩像の現存するものとしては、奈良・法隆寺の像に次いで日本では二番目に古い貴重なもので、平成84月に和歌山県文化財に指定されている。
なお、平成10年〜11年度に保存修理が行われ、漆箔で仕上げられたかつての姿がよみがえっており、毎年415日の春の大祭に開帳される。
境内には、應永二年(1395)乙亥の銘のある小宝篋印塔がある。
本堂の西側には、熊野神社がある。祭神は、伊邪那岐命と伊邪那美命である。当社は、聖武天皇天平九年の創祀と伝えられ、一村の産土神として現在に至る。明治64月に村社となった。
境内には、当地子供会の一行が大阪港で遭難した「やそしま丸」乗船者19名の慰霊碑が建てられている。

南海電鉄高野線御幸辻駅下車、徒歩18分。参拝者用の駐車場がある。

    

子安地蔵寺

易産山護国院地蔵寺は、和歌山県橋本市にある高野山真言宗の寺院である。
天平9年(737年)に東大寺建立に関わった僧行基によって開かれたと伝えられている。
本尊の地蔵菩薩立像は、一切女人安産守護のため僧行基が安置したものである。
堂宇は、天正9年(1581年)の織田信長の高野攻めの際に焼失したが、本尊は人里離れた山中に難を逃れ、のちに村人に発見された。
その地は、「かくれがた」と呼ばれ、現在も残っている。
慶安3年(1650年)紀州徳川家初代藩主徳川頼宣により復興され、以来紀州徳川家の安産祈願所として、篤く信仰されてきた。
安産子授祈願の参拝者が多く、通称「子安地蔵」と呼ばれている。
近年は、「紀伊ノ国十三佛」、関西花の寺霊場第24番札所「藤の寺」としても知られている。
樹齢百年の古木を含め、8種類二十数本ある藤の開花時期(4月下旬から5月上旬)には、多くの参拝客で賑わう。
また、1月24日は初法会で本尊の地蔵菩薩立像の開帳を兼ね、安産や子授けの祈願が行われる。
南海高野線御幸辻駅下車、徒歩約30分。藤の季節には、有料の参拝者駐車場が開設される。(Y.N)

  

J コース

六郷極楽寺 

六郷極楽寺は、和歌山県橋本市神野々にある寺院である。
神野々七墓(こののななはか)(周辺六地区の共同墓地)前に建つ阿弥陀堂で、14世紀初めの史料に出ている。
本尊阿弥陀如来坐像は、下品中生の説法印を結ぶ数少ない例で、鎌倉時代の作品として和歌山県指定文化財となっている。
境内には、正平七年七月一五日(南朝年号1352年 本堂に向かって左側)、正平一三年の五輪塔(いずれも橋本市指定文化財)が建ち、一字一石経も発見されている。
阿弥陀堂とその背後の山際斜面の七墓、そして頂上の熱田社に至るラインは、古代の霊魂山中他界説に基づいている。
日本人は死者が行く世界は三つあると考えていた。「山中他界」「地中他界」「海上他界」である。
地中の他界は「黄泉の国」、海上他界は「常世の国」と呼ばれる。
そのため、お盆には精霊は山(山中他界)から帰ってきて、常世の国(海上他界)に去っていくと考えられ、精霊流しが行われた。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。

  

西光寺 柏原文書

西光寺は、和歌山県橋本市柏原にある。
阿弥陀堂と証誠権現社が残されており、下記の柏原文書(かせばらもんじょ)の説明板が設置されている。
柏原文書は、橋本市柏原区に伝わる古文書で、「柏原西光寺文書」「柏原区有文書」ともいわれる。
鎌倉時代の寛文2年(1244年)から安土桃山k時代の文禄3年(1594年)に至る約350年間の古文書約140点が残されており、当時の様子をうかがうことが出来る。
柏原文書の内容は、多くは西光寺を中心とした土地の売渡状や寄進状で、その他には正月行事の朝拝に関する取り決め、銭や米の請取状、本人の意思を後のために書き置く置文などがある。
登場人物では、西光寺の僧をはじめ生地代官衆、大平殿などの土豪層、周辺各地に遺品を残す柏原鋳物師と考えられる「カナヤ」という職名を記したもののほか、庶民百姓たちの素朴なカタカナ交じりの文書も見られる。
柏原文書の特徴は、柏原村西光寺阿弥陀堂や証誠権現(熊野権現)社に関わったものが多く見られ、当時の村人たち庶民の新区生活が描き出されている。
本文書は、当地の中世農村を明らかにするものとして、橋本市の指定文化財となっている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。

  

銭坂城跡 

銭坂城跡は、和歌山県橋本市野にある史跡である。
銭坂城は、野の北方、標高60mの小丘にあった生地(恩地)氏の居城である。生地(おんじ)城、相賀(おうが)新城ともいう。
紀伊續風土記によると、生地氏は本姓坂上氏で、坂上氏は相賀荘下司である。
承久年間(1219-22)坂上朝澄の時、軍功によって「禿村東岡」(現在の学文路)に畑山城を築いた。
その後、生地氏は伊都郡司として楠木正成と婚姻関係を結び、河内千早・赤坂城などの戦いに加わり、以降も南朝に属して没落した。
応永年間(1394-1428)畠山基国に属し、足利義満から旧地を与えられ、永享年間(1429-41)畑山城をこの地(相賀荘)に移し、相賀新城と称して、居城としたのが始まりである。
日本城郭全集では、坂上田村麻呂の子孫 生地俊澄が築いた城とされている。
畠山氏滅亡後は織田・豊臣両氏に属したという。
城の規模は、紀伊續風土記によれば、「周三百五十間、東南北は高さ九間、西は平地、四間余の空堀あり」と記されている。
城跡は「城の内」にあり、土塁・空堀の一部が残っている。
また、城跡の北の尾根を「馬場の尾」と称し、方150mほどの平地で、出城跡といわれている。
吉田亘氏の「郷土・橋本市の城」によると、同城は、紀の川とその支流山田川にはさまれた台地の先端部に設けられた館城で、城域の北は、山田川に向かって、東は台地末端の、南は紀の川に臨んで三方が約八米の切り立った断崖状をなしていた。
城西側の土塁は、今も「鈴ケ森」と呼ばれ、小さな社が鎮座する台形の土木構築物として残され、その外側(西側)には、堀の跡が草木に覆われて残っている。
北の祠の前には、生地石見守の石碑が建てられている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。

  

K コース

高野口駅

高野口駅は、和歌山県橋本市高野口町にある。
明治34年(1901)3月29日に紀和鉄道名倉駅として開業した。
明治36年(1903)1月1日に高野口駅に改称された。
紀和鉄道は、明治29年(1896)に設立された鉄道会社で、五条和歌山間を建設運行していた。
その後、明治37年(1904)に関西鉄道に買収され、さらに明治40年鉄道国有法により国有化された。
明治から大正時代にかけて、同駅は高野山参詣の表玄関となり、駅前には旅館が建ち並び、人力車が行列をなして参詣登山口の九度山まで往復した。
大正4年(1915)4月1日から5月20日までの50日間、「高野山開創千百年記念大法会」が執行された。
その時の高野登山者の紀和鉄道での各駅の乗降者は次のとおりである。
  高野口駅 27万1855人  橋本駅 8万5290人
  妙寺駅   1万5179人  笠田駅 1万7883人
約7割の参詣者が高野口駅経由で、椎出、神谷の新高野街道を使って高野山に登っていた。
その後、大正14年(1925)に大阪から高野山への登山鉄道が開通し、参詣者は鉄道利用に変わっていった。
JR和歌山線高野口駅下車。

 

葛城館

葛城館は、和歌山県橋本市高野口駅前にある。
木造3階建て、入母屋造りの旅館で延べ約323㎡で、明治時代後期の建築である。
千鳥破風と軒唐破風を3階本屋根の正面に取り付け、銅板葺の庇と正面が総ガラスとなっている。
内部は旅館営業当時そのままに残されており、明治大正時代の常連が残した看板(講中札)や竈などがある。
高野口は、明治34年(1901)に紀和鉄道名倉駅の開業以来、高野参詣の入り口となり、
葛城旅館のほか、東雲旅館、高島館、大仲館、水野館、富久屋、守内席、平野屋、増田屋、盛進楼、
九重館、全盛楼、笠本館、下村屋、福の屋、東屋、桃山館、橋詰館、布袋屋などが営業していた。
葛城館は、平成13年11月20日に国の登録有形文化財に指定されている。
JR和歌山線高野口駅下車すぐ。



高野口パイル織物資料館 

高野口パイル織物資料館は、和歌山県橋本市高野口町にある
パイル織物は、「アザラシの毛皮に似た布地」ということから、別名シール織物、シールメリヤスとも呼ばれ、織物の基布に、毛(パイル糸)が織り込まれている特殊な有毛布地である。
この資料館は、高野口周辺のパイル織物の歴史や現代の織物について紹介する施設で、紀州繊維工業協同組合が、パイル織物誕生110周年を記念して昭和61年(1986年)に開館した。
伝統工芸の「再織(さいおり)」やシールメリヤスなどのほか、新幹線のシートカバーなどの製品が展示されている。
再織は、パイル織物のルーツで、明治10年高野口の前田安助によって考案された。
明治20年代には、神戸の外国商館からカーテン、テーブルクロス、壁掛等の注文を受け、アメリカに輸出して好評を博した。
その後機械化の波に推され衰退したが、昭和58年から先端技術の導入した近代化が進み、あらたな再織として、ファッション雑貨、インテリア用品などが作られている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩2分。

  

前田邸 

前田邸は、和歌山県橋本市高野口町にある前田家の店舗兼住宅として代々承継されてきた建物である。
江戸時代から薬種商を営み、大庄屋もつとめたこともある町家である。
屋号は、「辻本屋」で、これは旧大和街道と旧高野街道が交差する場所に建てられていたことに由来する。
初代 前田嘉助(1746-1815)は、薬種商で当時流行の石門心学を学び、その普及に努めた。
二代 前田文治郎(俳号・文鵲 1762-1847)は、先代の心学を継承するとともに、紀州俳諧の中興の祖とされる松尾塊亭の門人として「双松」の標号をうけたため、前田邸は「双松舎」とも呼ばれている。
六代 前田友次郎(1871-1935)は、奈良の出身で高野口郵便局長となり、地元の人々から敬愛された。
友次郎は、徳富蘇峰と親交があり、日露戦争に従軍記者として出向いた志賀重昂(しがしげたか)とも友人であった。
その縁で、日露戦争当時の乃木希典司令官が、「二〇三高地」の攻防で書いた「爾霊山」の詩が保存されている。
日曜日に内部が無料公開され、土蔵の中には、江戸・明治時代の生活を偲ばせる品々が展示され、主屋と書院も見学できる。
主屋(江戸時代)、中書院(明治時代)、新書院(大正時代)の三棟が、国の有形登録文化財に指定されている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩5分。西側に見学者用の駐車スペースがある。

    

L コース

信太神社(信太五社大明神)

信太神社(信太五社大明神)は、和歌山県橋本市高野口町九重にある。
祭神は、天照大神、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)、饒速日尊(火明命)(にぎはやひのみこと)、神日本磐余彦尊(神武天皇)(かむやまといわれびこのみこと)、岩長比賣命(いわながひめのみこと)である。
大字田原、上中、下中、九重の総氏神で、神社の祭祀は四か村が分担して行っている。
創建については詳らかでないが、古文書では、天武天皇の白鳳三年(674年)に、役行者が葛城山で修行の際に、当社の塔内で誦経されたとある。
天元2年(979年)に拝殿、御供所、神庫、楼門を改造したという伝えがあり、このことから1300年前には、すでにこの神社が創建されていたと考えられている。
内鳥居に掲げられていた「信太神宮」の額面は、弘法大師空海の筆によるものと伝えられ、応永2年(1395年)まで神庫に保存していたというが、現在は紛失して不明である。
この神社は「おんごろ(土龍(もぐらのこと))の宮として近郷に名高く、神社の北隣にあった別当寺(神宮寺)から土龍(もぐら)封じの護符が出されていたが、寛政6年(1794年)の火災で別当寺が焼失して、このとき神社の宝物や古文書が失われた。
むかしから氏子の四か村には、土龍(もぐら)が生息していないと言い伝えられている。
境内には推定樹齢400年の樟樹の大木(樹高約25m)があり、昭和34年に和歌山県の天然記念物に指定されている。
この木は、江戸時代に書かれた紀伊続風土記にも書かれており、根元から胸高周囲が2.1mのクロガネモチの大木が癒合し、神秘性を現わしている。
JR和歌山線高野口駅から徒歩約45分。

  

嵯峨谷の六地蔵六面石幢

嵯峨谷の六地蔵六面石幢(せきとう)は、和歌山県橋本市にある石塔である。
地蔵は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)のそれぞれにあって、その世界の衆生を救う仏とされる。
六地蔵は墓地の入口に六体並べられることが多いが、当地のものは六角柱の幢身側面の各面に仏像や梵字が刻まれている。
六面石幢には、六角柱の幢身に笠を載せただけの単制のものと、石燈籠型のものがある。
単制のものは鎌倉時代頃から見られるようになるが、石燈籠型のものは室町時代以降に見られる。
嵯峨谷の六地蔵六面石幢は砂岩製で、幢身に笠を載せた単制である。
幢身が長く背の高いものが一般的であるのに対して、当地の塔は総高89.8cm(うち幢身は70cm)で背が低く、笠は大きく外に開いて六角形の各隅には方立風隅飾が立ち上がるため、全体としてはそれほど重量感は感じさせない。
幢身の各面には高さ52cmの光背が彫られており、中に像高38cmの地蔵菩薩立像が浮き彫りになっている。
南北朝時代北朝年号の貞和5年(1349年)の年紀が読み取れ、橋本市の文化財に指定されている。
JR和歌山線高野口駅駅下車、徒歩約2時間。

   

M コース

紀見峠

紀見峠は、和歌山県と大阪府の境にある標高400mの峠である。
紀伊国と河内国の境で、高野街道の宿駅として栄えたところで、峠の旧街道脇に「高野山六里道標石」が建てられている。
また、文化勲章を受章した数学者岡潔博士(1901年-1978年)は、少年時代を含め生涯3度紀見峠に居住していたことから、「岡潔生誕の地」の石碑がある。
博士の顕彰活動に取り組む「橋本市岡潔数学WAVE」が、岡博士の散策した道を「情緒の道」と名付け、この地に博士の筆跡を写し取った文字で標柱が建てられている。
峠の民家裏に「一結衆二十七人墓、元中三年三月」銘の石造五輪塔がある。これらの古碑は、南都復興のために、この地で戦死した武士や住人を祀ったものと考えられている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩約40分。

    

Q コース

明神ケ田和 

明神ケ田和は、和歌山県橋本市国城山の東の峠で、高野参詣道「黒河道」にある。
一般に明星ケ田和と呼ばれ、紀伊續風土記には「明神ケ彎」と記されている。
彎とは、弓に矢をつがえて弦を引くこと、弓のような形の曲線を描いてまがることを意味する。
数戸の人家があり、山麓から賢堂を経て、五軒畑を過ぎて登ってくると、道は明神ケ田和で分岐し、右に行けば紀伊清水駅、中央の道は国城山、左の道は黒河道でわらん谷(藁谷)から市平橋、一番左は青渕へと続く。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩約80分。

  

国城神社(国城五社大明神)

国城神社(国城五社大明神)は、和歌山県橋本市国城山(標高552m)にある神社である。
社伝によると、大和時代(千数百年前)にこの地域の開発者(国主)の神が、国城山頂の大樹に姿を変えて現れたため、神の鎮まる浄域として社を創建した。
伝説によると、坂上田村麻呂将軍が勅命によって奥州に出征したが、
戦況思うに任せず苦慮していた夜に、「国城神社の山林に自生する竹を用いて矢竹とすれば大勝利を得る」と夢のお告げを受け、
当社に参拝して20日間籠った後、矢竹を武器に戦い大勝利を得たという。
その神託に感謝して御神楽が奉納され、今日まで連綿として奉納が続けられている。
毎年4月23日と11月23日には、例祭が行われる。また春の桜が美しく、桜ウォークも開催される。
国主の神を祭祀する意味から「国城神社」と呼ばれ、清水、西畑、南馬場の産土神として崇敬されている。
祭神は、天照皇大神、八幡大菩薩、春日大明神、愛宕大明神、荒神で、「国城五社大明神」と呼ばれるようになった。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩約2時間、鳥居前には駐車用のスペースがある。

   




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