次世代育成事業 奥の院   次世代 伽藍1  次世代 伽藍2  次世代 町石道

高野山奥の院

高野山奥の院は、一の橋から弘法大師御廟までの聖域である。
一の橋から御廟までは、杉や檜の老木に覆われた石畳の約2kmの参道が続いている。
この参道沿いには、国の史跡でもある20万基以上の墓碑や祈念碑、慰霊碑が並んでいる。
豊臣秀吉や徳川家康などの武将のほか、文化人や企業人の墓石を数多く見ることが出来る。
8月13日の夜には、山内に眠る霊を供養する「ろうそく祭」が行われ、暗闇の奥の院に10万本のろうそくが灯される。
南海電鉄高野線高野山駅から南海バス「奥の院口」下車。
自家用車の場合は、山内に無料駐車場がある。



お逮夜 ナイトウォーク

弘法大師が奥の院に入定した旧暦の3月21日に由来し、毎月21日はお大師様の日とされ、前夜を逮夜と称する。
高野山では、(一社)高野町観光協会が主催して、毎月20日の夜に「心の癒し お逮夜ナイトウォーク」が開催されている。
午後7時に高野山一の橋表参道入り口に集合し、奥之院燈籠堂で法話を聞いて、弘法大師御廟に参拝する。
参加費は無料で、当日現地で申し込む。



一の橋

一の橋は、和歌山県高野山奥之院にある。
奥之院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師空海が入定している御廟がある。
一の橋から御廟までの1.9㎞の参道の両側には、老杉がそびえ、20万基を超える各時代の供養塔が並んでいる。
奥之院は川と橋の三重構成となっている。
一番初めが澱河(おどがわ)を隔てて俗に「一の橋」と呼ばれている「大橋」または「大渡(おおわたり)橋」という。
つぎが古谷(こや)橋川とも金の河とも呼ばれる川にかかっている、俗に「中の橋」と呼ばれる「手水(ちょうず)橋」で、
一番奥には御廟川があって、「御廟橋」または「無明の橋」が架かっている。
「高野山秘記」には、澱河に「大渡龍穴(りゅうけつ)」があると記されている。
この龍穴は、水神である龍のいる穴で、日本の民俗信仰では、「穴」は他界、死の世界に通じると信じられており、
秘記には「大師の門(かど)送り」の話が掲載されている。
延喜21年(921)醍醐天皇に夢告があり、弘法大師空海に檜皮色の装束を捧げに来た観賢(かんげん)が、無事その役を果たして下向しようとすると、お伴の唐傘持ちを空海が一の橋まで送ってきた。
観賢が、なぜ身分の低い人に丁寧にされるのかと尋ねると、
空海は、「私はこの人が持っている仏性に対して礼拝したのである。今後どんな末世や後の世になっても、奥の院に参った人は必ずここまで見送りをする。」と答えたという。
橋の袂の和歌山県の世界遺産説明でも、「参詣人をここまで弘法大師空海が送り迎えをするという伝承があり、お参りをする人はここで礼拝をして渡ります。」と記されている。

曽我兄弟供養塔

曽我兄弟供養塔は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院の18町石の東側、法明上人供養塔の西側奥にある。
曽我兄弟は、鎌倉時代初期の武人で、父の仇を討ったことで名高い。
供養塔は3基あり、中央が父親の河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけやす)で、両側に兄の十郎祐成(すけなり)(1172-93)、弟の五郎時致(ときむね)(1174-93)の五輪塔がある。
安元2年(1176年)伊豆奥野の狩りの帰り道、河津三郎は所領争いをしていた一族の武士工藤祐経(すけつね)の刺客に殺された。
その後、母は曽我祐信(すけのぶ)に再嫁したので、兄弟は曽我氏を称した。
建久4年(1193年)5月28日将軍源頼朝が催した富士野の巻狩りで、兄弟は工藤祐経を殺して父の仇を討った。
その後、兄の十郎は、新田忠常に討たれ、翌日弟の五郎も捕えられ殺された。
河津三郎の墓と曽我兄弟の首塚は、伊東市東林寺にある。
また曽我氏の菩提寺である小田原市城前寺には、曽我兄弟、曽我祐信夫妻の墓所がある。
艱難辛苦の末に敵の工藤祐経を討ち果たした事件は、人々の同情と共感を呼んで、後の世に能や歌舞伎でも演じられた。
曽我物語や、吾妻鑑で兄弟の敵討ちが描かれ、赤穂浪士の討ち入り、剣豪荒木又右衛門の活躍で知られる伊賀上野鍵屋ノ辻の仇討ちと並ぶ日本三大敵討ちの一つである。
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院口下車、徒歩5分。→ 三熊山陽龍院権現寺 大磯虎御前の墓

法明上人供養塔

融通念仏宗 法明上人供養塔は、和歌山県高野山奥之院にある。
法明房良尊は、融通念仏宗の大念仏寺の中興の祖として知られ、25歳で出家後、高野山、比叡山で修学した。
晩年には、大阪の法明寺に隠居したといわれる。
南海高野線高野山駅から、バスで奥の院口下車徒歩3分。



関東大震災霊牌堂(供養塔)

関東大震災霊牌堂(供養塔)は、和歌山県高野山奥の院の一の橋東側にある。
大正12年(1923)9月1日午前11時58分に関東地方南部で大震災が起こった。
震源地は相模湾北部、地震の強さは最大震度7、規模はM7.9であった。
ちょうど昼食時であったため、家屋の倒壊に伴い134ヶ所で火災が発生し、9月3日午後2時に鎮火した。
死者9.1万人、行方不明1.3万人で、焼失家屋は40万戸に上った。
当時の東京市長永田秀次郎は、私財を投じてこの霊牌堂を建立して、犠牲者の冥福を祈った。
霊名簿は、一万年保存に耐えるように作成された。
奉祀者は、5万4千5百余人、内皇族3人、外国人2百余人である。
当地には、永田秀次郎の墓所もある。

景教碑

景教碑は、和歌山県高野山の奥の院にある石碑である。
この石碑は、中国西安にある碑林博物館所蔵の「大秦景教流行中国碑」を、イギリスの宗教学者エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人が忠実に再現して、模造碑として明治44年(1911年)に建立したものである。
高さ3.6m、幅1.5mの黒色石灰岩の石碑で、亀趺(亀状の石碑の台)の碑座に建てられている。
ゴルドン夫人は、仏教とキリスト教の根本は同一であるという「仏基一元」の研究者で、高野山奥の院に仏基一元を具現化するため景教碑を建立したといわれている。
景教碑の横には、大正14年(1925年)に京都で死去したゴルドン夫人の墓石がある。自らの遺志で奥の院に埋葬されたもので、側面には、「密厳院自覚妙理大姉」と刻まれている。
781年、唐の長安の大秦寺に立てられた大秦景教流行中国碑は、ネストリウス派のキリスト教が、唐代に中国に流行した状況を記した記念碑で、キリスト教の東方伝道に関する貴重な資料として知られている。
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院口」下車、徒歩10分。国道371号線沿いに参拝者用の無料駐車場がある。(Y.N)


熊谷直実、平敦盛供養塔

熊谷直実平敦盛供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
この供養塔は、源氏の武士熊谷次郎直実が、京都くろ谷の法然上人のもとで出家して蓮生と名前を改め、高野山に在住して一の谷の戦いで自分が手にかけた平敦盛をいとおしく思ってその霊を弔うために建てたといわれている。

平家物語巻第九「敦盛最後」では、次のように描かれている。
熊谷次郎直実は、海岸に向かって馬を進めていたところ、平敦盛が船に逃れようとしているところに遭遇し、取り押さえてみると16,7歳の青年で、自分の子の小次郎と同じくらいであった。
そのため助けてやりたいと思ったが、源氏方の武士も五〇騎ほどが迫っていたため、他のものの手にかかるより直実が手にかけて、後の供養をしようと言って敦盛の首を取った。
その際に錦の袋に入った小枝(さえだ)の笛が腰に差されていたという。

文楽及び歌舞伎の「熊谷陣屋」の段では、平敦盛を助けるために、熊谷直実が、自分の子供小次郎の首を差し出す場面が描かれている。
また、明治時代の小学校唱歌「青葉の笛」では、後鳥羽上皇から賜った「小枝」の笛が歌われ、熊谷直実の父性愛と敦盛の風流の心が描かれた物語が後世の人々に伝えられている。→ 須磨寺
同じ玉籬内には、親鸞聖人宝篋印塔(親鸞聖人圓證兼実覚信尼墓所)がある。

数取り地蔵(授籌地蔵)

数取り地蔵(授籌地蔵)は、和歌山県高野山奥の院にある。
数取り地蔵は、奥の院の御廟に参拝に来た人の数をつけていると言い伝えられている。
この石像は、大きく破損して地中に埋められていたが、延宝年間(1673年-1680年)に
大阪の塗師 多左衛門というものが、霊夢をみて、その場所を知り、掘り出して石像を旧に復したといわれる。
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院口下車、徒歩約10分。21町石と22町石の間に祀られている。



多田満仲墓所

多田満仲墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
源満仲(みなもとのみつなか)(912-997)は、平安時代の武将で、清和天皇から出た清和源氏の家系である。
摂津守(かみ)を契機に、摂津国多田(兵庫県川西市)に居住して多田源氏を称し、多田院を創立して一族郎党を住まわせ、摂津源氏の基を築いた。
現在の川西市にある多田神社(元多田院)は、多田満仲ほか源氏五公が祀られている。
砂岩製の五輪塔には、天禄元年(970)の紀年銘があるが、五輪塔の形態から南北朝時代又は室町時代初期の造立と言われている。
銘文は、「右大臣源朝臣、仲光敬白、満仲法名覚信、天禄元年八月廿七日」と刻まれている。
8月27日は、多田満仲の祥月命日で、多田神社では、萬燈会、一の宮満仲公年次祭が行われる。



高野山奥の院 紀州徳川家供養塔

紀州初代藩主徳川頼宜供養塔

紀州初代藩主徳川頼宣供養塔(墓所)は、和歌山県高野山の奥の院にある。
徳川頼宣(1602-1671)は、徳川家康の第10子で、母は上総(千葉県)の土豪 正木邦時(くにとき)の娘のお万の方(養珠院)である。
慶長7年(1604)3月7日伏見で生まれ、幼名は長福丸、慶長11年(1606)元服して頼将(よりまさ)と名乗った。
元和2年(1616)徳川家康の死後、駿府城主となり、元和3年(1617)加藤清正の娘、八十姫(瑶林院)を正室とした。
元和5年(1619)紀州藩主(55万5000石)となり、頼信と改名し、さらに頼宣と改めた。
和歌山城を整備し、和歌の浦に紀州東照宮を建立した。
寛文11年1月10日和歌山で亡くなり、法名は南龍院とした。
和歌山県海南市の長保寺には、紀州藩歴代藩主の墓がある。
高野山奥の院の墓所は、紀伊続風土記に「南龍院殿石碑」と紹介されている。
この石塔は、花崗岩製で、蓮弁から墓碑まで57cmと他の武将の供養塔と比べて低く造られている。
紀州藩編纂の紀伊続風土記では、
「本州の大祖にて智仁文武の明大将又禮譲謙徳の聞へあり
古老傳に遺命して多田の碑(多田満仲墓所)に幷へて碑を立てしめ給ひ
碑の高さ多田の碑に越させ給はすとそ」
と記されている。
方柱状の墓碑には正面に「南龍院殿」、右側面に「寛文辛亥」、左側面に「孟春十日」、裏面に「二品亜相源頼宣卿」と刻されている。亜相(あしょう)は、大納言の唐名である。
「孟」は、はじめという意で、孟春は「春の初め」、「初春」を表わし、陰暦正月(1月)の異称である。
墓碑が五輪塔の形でなく、方柱状となっているのは、頼宣の生母養珠院と正室瑶林院が、日蓮宗の信者であったためといわれる。
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院口下車、徒歩約10分。



紀州徳川家供養塔(二代光貞、三代綱教、四代頼職、六代宗直)

紀州徳川家供養塔(二代光貞、三代綱教、四代頼職(よりもと)、六代宗直)は、和歌山県高野山奥の院の22町石と23町石の間にある。
各供養塔の墓石には、清渓院殿、高林院殿、深覺院殿、大慧院と刻まれている。
五代吉宗(有徳院)は、江戸で徳川幕府第八代将軍となっている。



紀州七代藩主宗将供養塔

紀州七代藩主宗将供養塔は、和歌山県高野山の奥の院二十二町石の北東にある。
紀州初代藩主南龍院供養塔に合わせた形式で建立されている。
徳川宗将(むねのぶ)(1720-1765)は、徳川宗直の長男で、宝暦7年(1757)に紀伊和歌山藩主となった。
明和2年(1765)2月25日に死去した。(享年46歳)
墓石各面には、菩提心院、仲春廿五日、明和乙酉、三品黄門源宗将卿と刻されている。



紀州徳川家供養塔(八代重倫、九代治貞、十一代斉順、十二代斉彊)

紀州徳川家供養塔(八代重倫、九代治貞、十一代斉順、十二代斉彊)は、和歌山県高野山奥の院の25町石の東南にある。
墓石には向かって右から、観自在院殿、香嚴院、顕龍院殿、憲章院殿と刻まれている。



紀州徳川家供養塔(十代治宝、十四代茂承、十五代頼倫)

紀州徳川家供養塔(十代治宝、十四代茂承、十五代頼倫)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院参道の24町石前の薩摩島津家供養塔の東奥にある。
各墓石には向かって右側から、舜恭院殿、慈承院殿、樹徳院殿と刻まれている。
紀州徳川家第15代当主の徳川頼倫(よりみち)(1872-1925)は、田安徳川家第8代徳川慶頼の六男として生まれ、
明治13年(1880)紀州徳川家第14代当主の徳川茂承の養子となった。
明治29年(1896)イギリスのケンブリッジ大学留学中には、南方熊楠の案内で大英博物館を見学し、帰国後東京の邸内に南葵文庫を設立した。




出典 紀州藩系図 図説和歌山県の歴史

武田信玄勝頼墓所

武田信玄勝頼墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
武田信玄(1521-1573)は、好敵手上杉謙信とともに乱世を生きた戦国武将である。
性格直情の中にも文を学び、神仏に帰依した。
戦国武将らしく簡素な墓石は、上杉家の霊廟に比べて、却って人の心に迫るものがある。
向かって左が武田信玄、右がその子武田勝頼(1546-1582)の供養塔である。
信玄の碑面の表には、恵林寺殿とあり、裏面には天正元年(1573年)4月12日逝去と記されている。
また勝頼の碑面表には法泉院殿と刻まれ、裏面には天正10年(1582年)3月11日逝去と記されている。
菩提所は、成慶院(せいけいいん)で、和歌山県の史跡に指定されている。
南海高野線高野山駅からバスで玉川通下車、徒歩10分。



大師の腰かけ石

大師の腰かけ石は、和歌山県高野山の奥の院にある。
弘法大師空海が、ちょっと休憩にと、腰を掛けた石であるとの言い伝えが残されている。
昔は、「息処石」と書いて、「腰かけ石」と呼んだといわれている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
   息處石  俗腰掛石
授籌地蔵より東六七間参路の右傍杉樹の際にあり
長さ二尺餘地を出ること尺餘石平坦にして青苔の裳滋茂して四時濕露を含む
古老傳に大師上登の時此石上に憩給ふゆへ俗に息處石といふとそ (後略)

南海高野線高野山駅からバスで、奥の院口下車、徒歩約10分。22町石の南側にある。


上杉謙信霊屋

上杉謙信霊屋は、和歌山県高野山の奥之院にある。
上杉謙信と景勝の廟墓(びょうぼ)である。
謙信の名は天正2年(1574年)、45歳で上洛した時、高野山も訪れ、その折贈られた法名であるといわれている。
建屋内部は格子天井を張り、須弥壇上に二基の石碑があり、位牌刻銘には次のように記されている。
(右)為権大僧都法印謙信
(左)為権大僧都法印宗心
霊屋の創建は詳らかでないが、様式手法から江戸時代初期の造営と推定されている。
上杉謙信は、天正6年(1578年)3月13日に死亡した。「高野山文書」の天正7年の頃に「謙信廟前にて晝夜の勤行」とあるので、このころに何らかの廟舎が造られていた。
また、現在合祀されている謙信の子景勝は、元和元年に亡くなり、謙信廟の東隣に廟舎が建てられていたことが紀伊続風土記に記されている。
従って、紀伊続風土記の記された天保年間(1830-1844)までは、2棟が並列していたことがわかる。
その後、合祀され、修理とともに塗装も塗り直されている。以降明治時代にも修理され、昭和になって檜皮屋根が銅板葺に変更された。
昭和40年5月に重要文化財に指定された後、台風の被害で解体修理が行われ、本来の檜皮葺に復した。



淀君、豊臣秀頼五輪塔

淀君、豊臣秀頼五輪塔は、和歌山県高野山奥の院の上杉謙信霊屋西側にある。
淀君(1567年-1615年)は、豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母である。
父は、近江浅井郡小谷城主の浅井長政、母は織田信長の妹 お市の方である。
天正元年(1573年)に信長に包囲された小谷城から、母妹とともに脱出した。
1582年に柴田勝家に再嫁した母に従い、越前北之庄(福井)城に入った。
1583年に北之庄(福井)城が落城し、豊臣秀吉に庇護された。
その後、秀吉の側室となり、鶴松と秀頼を生み、元和元年(1615年)に大坂城落城により、秀頼とともに自刃した。
五輪塔の総高は295cmで、上から3番目の火輪の半分が欠損している。正面には、次のように刻されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)大虞院殿英岩大禅定尼尊儀
淀君の墓所は、京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺にある。
豊臣秀頼五輪塔は、総高302cmで、上部が欠損している。
銘文は、次のように記されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)嵩陽院殿秀山大居士尊儀


伊達政宗供養塔

伊達政宗供養塔は、和歌山県高野山奥の院23町石の北東にある。
伊達政宗(1567-1636)は、安土桃山時代、江戸時代の大名で、仙台藩祖である。
永禄10年(1567)8月3日米沢城主伊達輝宗(てるむね)の長男として誕生した。
母は山形城主最上義守(もがみよしもり)の娘義姫(よしひめ)で、幼名は梵天丸と呼ばれた。
天正5年(1577)元服して藤次郎政宗と称し、天正7年(1579)三春城主田村清顕(きよあき)の娘愛姫(めごひめ)と結婚し、天正12年(1584)に家督を相続した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、徳川家康から刈田(かった)郡を与えられて60万石を領し、翌年仙台城を修築した。
南蛮との通商を行うため、支倉常長をメキシコ、スペイン、ローマに派遣したが、幕府のキリシタン禁教が強化されたため目的を達することができなかった。
寛永13年(1636)5月24日に死去した。墓所は、仙台市瑞鳳殿である。
当地の中央にある五輪塔は、総高4m以上の花崗岩製で、嫡子の伊達忠宗が建立した。
墓石には伊達政宗の法名「瑞岩寺殿貞山利公大居士」が刻まれている。
周囲には、殉死した20名の家臣の五輪塔が建てられている。

石田三成墓所

石田三成墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
石田三成(1560-1600)は、安土桃山時代の武将で、近江国坂田郡石田村(現滋賀県長浜市)出身である。
幼名は佐吉、初名は三也である。
豊臣秀吉の長浜城主時代にその才を認められ、近侍として仕え、天正13年(1585)に秀吉が関白になると、諸大夫12人に選ばれ、治部少輔(じぶしょう)に任ぜられた。
文禄4年(1595)には近江佐和山城主となり、19万石を領した。
慶長5年(1600)9月関ヶ原の戦いで敗れ、10月1日京都六条河原で処刑された。
この墓所には、総高267cmの砂岩製五輪塔が建てられている。
銘文は、天正十八寅庚 宗應 逆修 三月十八日 と記されている。
天正18年(1590)は石田三成30歳の時で、生前に造立されたものである。
石田三成は、奥の院弘法大師御廟東側に、母の菩提を弔うために経蔵を建立している。



明智光秀供養塔

明智光秀供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある五輪塔である。
奥の院内24町石から約30m東に参道を進むと、右側に「右光秀公之墓」の石碑があり、約20m先に「明智光秀墓所」「菩提寺恵光院」の表示がある。

江戸時代の紀伊名所図会には、次のように記されている。
  〇明智碑(あけちのひ)
   同上(かみにおなじ) 世俗(せぞく)日向守光秀(ひうがのかみみつひで)の墓といふ。
   梵字のゆがめるを以てその名を負(おふ)せたるならむ。
   是全(これまったく)光秀の碑にはあらざれども、不忠を誡(いまし)むるに足るべし。
明治30年刊の高野山独案内名霊集には、次のように記されている。
  明智光秀墓
   中の橋に程近き。道邊に割れし五輪あり。童子(わらべ)までも云ひ傳ふ。
   主人を殺せし天罰に。その身は土民の手に罹り。最後を遂げしのみならず。
   菩提の為と建てられし。石塔さへも粉な微塵。割れて悪名残すとぞ。

明智光秀(1528?-1582)は、安土桃山時代の武将で、通称十兵衛といわれた。
明智氏は美濃土岐の一族であったが、光秀は越前の朝倉義景(よしかげ)に仕え、のち織田信長の家臣となった。
将軍足利義昭と信長の間を取り持ち、公家との交渉にも手腕を発揮した。
元亀2年(1571)近江坂本城主となり、天正3年(1575)惟任(これとう)日向守と称して丹波攻略に着手した。
丹後平定の後、大和、摂津等の諸武将を束ね、近畿を統率する地位となった。
天正10年(1582)、中国地方征伐を命ぜられ、6月1日夜、亀山から出陣したが、「敵は本能寺にあり」として京都に向かい、翌2日に織田信長を襲い自刃させ、織田信忠を二条城で囲んで敗死させた。(本能寺の変)
しかし、予想外の速さで羽柴秀吉が毛利氏と和して東上したため、山崎の戦で敗れ、敗走の途中、小栗栖(おぐるす)で農民に竹槍で刺され、最期を遂げた。
法名は明窓玄智。(西教寺墓、過去帳は秀岳宗光大禅定門。)→ 京都市東山区 明智光秀の塚  亀岡市 谷性寺

明智光秀供養塔(総高178cm)は、光秀家臣の津田重久(しげひさ)が、山崎から高野山に逃れ、主君光秀の追善供養を依頼して建立されたといわれる。
菩提寺恵光院の過去帳には、「天正十年七月十四日 大瀧寺殿惟任義盛明鑑光秀大禅定門」という明智光秀と思われる戒名が残されている。

また「寛永三年(1626)六月七日 寶亀院賢室艶顔良英大姉」という女性の戒名の横に「俗名 ヲモン 光秀の子」と添え書きされている。
この ヲモンの過去帳は昭和4年(1929)に縁者の長野県須坂市の久田家が、一族の永代供養に恵光院を訪れた時の記録として記されたものである。
「久田家の口伝として、ヲモンは光秀の娘として四歳の時、高野山より鎧櫃の中に入れ、根来の膳椀百人前を添えて信州墨坂の郷へ落とすものなりと云う添え書きを附して久田家へ来たりしものなり」
昭和4年の記録によると、明智光秀が山崎の戦いで敗れた時、娘のおもんは高野山に逃れたが、豊臣秀吉の力が高野山にも及びだしたため、4歳のおもんが須坂の久田家に落ち延びたことがわかる。
久田家に伝えられた膳椀も、昭和初期に恵光院に納められ、現在も保管されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩15分。奥の院前バス停西側の路側帯駐車スペースを利用できる。

南海電鉄創業者松本重太郎翁の墓

南海電鉄創業者松本重太郎翁の墓は、和歌山県高野山奥之院の中の橋西側にある。
松本重太郎(1844-1913)は、明治時代の実業家である。
弘化元年(1844)に京都府竹野郡間人(たいざ)村に生まれ、10歳で京都の商家に奉公した。
安政3年(1856)には、大阪天満の木綿商、綿谷利八の丁稚となり、仕事の余暇に街の儒家、小田奠陽(てんよう)について漢籍の勉学に励んだ。
23歳で独立し、洋品雑貨の商売で財を成し、明治11年に百三十国立銀行を設立、明治13年に頭取となった。
明治15年には、大坂紡績の操業に参画し、その初代社長を務めた。
明治18年には「阪堺鉄道」(南海電鉄の前身)を創業し、20年間にわたり社長を務めた。
九州鉄道、阪鶴、讃岐、豊川、七尾などの各私鉄の建設にも参画し、「関西の私鉄王」と呼ばれた。
明治29年に衆議院議員となった。本姓は松岡で幼名は亀蔵と呼ばれた。

市川団十郎墓所

市川団十郎墓所は、和歌山県高野山奥の院中の橋西側にある。
「初代市川團十郎供養塔」と表示されている資料(「高野山奥の院の墓碑を訪ねて」)もある。
中央の板碑には、上部に梵字が刻まれ、その下に市川家の家紋「三升」と「供養先祖所」「子孫蕃育」の文字が刻まれている。
蕃育(ばんいく)とは、やしないそだてることを指す。板碑裏面の文字は判読が難しい。

市川団十郎供養句碑
半球形の台座には、供養塔建立の経過に関する次の文と句が刻まれている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
  寶暦三(1753)酉歳二月十九日
  父團十郎五十回忌の
  菩提二代目海老蔵建之
  文政十三(1830)寅二月十九日
  元祖團十郎百二十七廻
  忌相當同年四月十二日
  母十三回忌營追善
   再建七代目團十郎

   雉子啼や
     翁の仰せ
   有る通り        → 芭蕉句碑

左右には花筒があり、向かって右には「市川右團治」左には「市川團蔵」という文字が刻まれている。
市川団十郎は、歌舞伎俳優の名跡で、二代目以降の屋号は「成田屋」である。
元祖(初代)市川團十郎(1660-1704)は、元禄時代(1688-1704)の歌舞伎界を代表する俳優であった。
男伊達と呼ばれていた親分の子 堀越十郎として生まれたが、役者の道を進むことになり、本名の十郎の上に普段の段の字をつけて、段十郎としてデビューした。
その後、京都の名優 坂田藤十郎に認められ、藤十郎の助言で、段の字を團と変えた。
團十郎は、劇作も兼ねて、三升屋兵庫(みますやひょうご)の名前で狂言本を十数編書いている。
元禄17年2月19日に市村座の公演「わたまし十二段」で佐藤忠信を演じていた最中に、同僚役者の生島半六に舞台上で刺殺された。
東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。バス停西側に路側帯駐車枠がある。



奥の院中の橋

中の橋は、和歌山県高野山奥の院にある。
中の橋とその下の川について、昭和4年に高野山金剛峰寺が発行した「高野のしほり」には、次のように記されている。
●中の橋
 一の橋より八町計(ばかり)に在
 是第二橋なり 昔は手水橋と称せり。
 大師曾て此流れに盥嗽(くわんそう)し玉ひしより。手水渓の名を得たりとぞ。
 参詣の者習うて此水に盥(てあら)ひ嗽(くちそゝ)ぎしが、今は其事止みぬ。
●金河(きんか)
 橋下の流の名
 又 美志頭萬利河(みしづまりがは)と称す。
 此奥に嵯峨天皇の御墓(みはか)ある故、御鎮(みしづ)まり、又如来圓寂の傍を流るゝを金河(きんが)といへれば、 倶(とも)に御墓に依りて名づくる所也とぞ。
 又 手水渓とも云へり。其源転軸山に発し、此を過ぎて東流及び玉川の末と混ず。

山口文章氏は、新高野百景Ⅱの中で、金河について次のように説明している。
 また、高野山秘記によれば手水谷は「金河(きんのかわ)」とも呼ばれていました。
 山伏は死ぬことを「金になる」ということから「金河」は「死の河」、つまり三途の川のような存在であり、この河が死の世界との境界であることを意味しています。
 そして中の橋は死の世界をつなぐ道であると信じられてきました。

南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。バス停西側に路側帯駐車枠がある。


汗かき地蔵 姿見の井戸

汗かき地蔵、姿見の井戸は、和歌山県高野山奥の院中の橋の北東にある。

汗かき地蔵について、日野西眞定氏は、「高野山民俗誌 奥の院編」で次のように記している。
  汗かき地蔵は、つねに衆生の苦を代わって受けて汗を流していると信じられている。
  これは、「十輪経」のなかに、地蔵尊は「諸地獄ニ遊戯(ゆうけ)シテ、決定(けつじょう)苦ヲ変リテ受ク」と信じられていることから生まれた信仰である。
  事実、現在の汗かき地蔵尊は、周囲が白い石に五輪が刻してあり、そのなかの黒色の石に地蔵尊が刻まれ、いつも汗をかいているように見える。

紀伊国名所図会では、流汗地蔵、薬井として次のように記されている。

〇流汗地蔵(あせかきじぞう)
 同上。毎朝遍身に汗を出(いだ)す。一切衆生の苦悩に代りて、地獄へ行き給う大悲代受苦なりといふ。
      水無月ばかり流汗地蔵のみまへにて
   焦熱にかはる佛もあるものを 夏なきやまと何思ひけん  易 興
     世をすくふ 汗ありがたき 誓かな             車 光

〇薬井(くすりい)
 同上。御影の井といふ。延喜帝の勅使 少納言平惟扶(これすけ)、曾て悪疾ありしに、大師霊告ありて曰く、
 若人専念遍照尊。一度参詣高野山 無始罪障道中滅。随願即得諸佛土と、因て 勅を奉じて登濟(とうせい)し、
 且此霊水を服せしに、重病忽に治せりといふ。

延喜帝とは、醍醐天皇を指し、「少納言平惟扶」(日本紀略)は、「平維助」とも表記され、平家物語では「少納言資澄(すけずみ)卿」、高野春秋編年輯録では「中納言扶閑(すけずみ)」とも書かれている。
江戸時代には、この井戸を覗き見て、自分の姿が水に映らなければ3年以内の命であるという説が広まり、「姿見の井戸」と呼ばれるようになった。



棺掛桜

棺掛桜(かんがけさくら)は、和歌山県高野山の奥の院にある。
弘法大師入定7年後の承和9年(842年)に第52代嵯峨天皇(786年-842年)が崩御した。
御棺を京都嵯峨野に安置したところ、高野山から天人が輿とともに降り来り、
御棺を担いで、高野山壇上伽藍近くの山上に奉安したという。
弘法大師は、禅定から出て、弟子の実恵、真然らとともに天皇を荼毘に付し、
その御骨を覚鑁坂の西に納め、この桜を植えたと伝えられる。
嵯峨天皇の御陵(嵯峨山上陵)は、京都市右京区北嵯峨にある。
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩5分。



上智禅尼供養塔

上智禅尼供養塔は、和歌山県高野山奥の院の27町石東にある。

現地の案内板には次のように記されている。
   禅尼上智碑(ぜんにじょうちひ)
    県指定史跡
 この供養塔は、高さ約90cmの砂岩製で、梵字が一字と、永和元年(西暦1375年)の北朝の年号が刻まれています。
 昔から、この供養塔に耳をあてると、地獄からの叫び声が聞こえると言い伝えられています。
                                            和歌山県

石碑には、次のように刻されている。
  (正面) 為禅尼上智聖灵
       奉造立沙弥蓮阿
  (左面) 永和元年乙卯七月日

正面上部に地蔵菩薩をあらわす梵字「カ」が刻され、すぐ下の方形に窪んだところには、当初地蔵菩薩像があり、地蔵菩薩は閻魔王の本地仏であるため、地獄の声が聞こえるとの伝承が生じたという。


密厳堂

密厳堂は、和歌山県高野山奥の院にある。
檜皮葺き宝形造りの堂宇には、高野山から離れ新義真言宗を唱え根来寺を起こした覚鑁上人興教大師が祀られている。
覚鑁上人(1095-1143)が祀られていることから、その名をとって、覚鑁堂とも呼ばれている。
覚鑁上人は、平安時代後期に活躍した真言宗中興の祖の一人で、鳥羽上皇の庇護のもと、密厳院と大伝法院という道場を建立し、勉学のための大伝法会を再興した。
その後、大伝法院座主として弘法大師御入定三百年御遠忌大法会を行ったが、
大伝法院を本山扱いすることに、東寺と金剛峯寺から反発を受けて、保延2年(1136)に座主職を解任され、密厳院で4年間の無言の行に入った。
保延6年(1140)には、金剛峯寺側の兵が押し寄せたため、七百人の弟子と共に根来へ移った。
また、この密厳堂の前の御廟への道は、43段の石段になっていて、坂の上に覚鑁堂が建っていることから、覚鑁坂と呼ばれている。



史跡高麗陣敵味方戦死者供養塔

史跡 高麗陣敵味方戦死者供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
慶長4年(1599)に薩摩藩主島津義弘、忠恒の父子が、豊臣秀吉の朝鮮出兵の犠牲者の霊を供養するために建てたもので、日本武士道の博愛精神が示されたものとして知られている。
高さ3.85m、幅81.8cmの位牌形(石造笠塔婆型)の碑の中央に「高麗国の陣中で討ち死にした敵味方の兵士を仏道に入れ令(し)めんが爲也」と記され、
右側の銘文で明の将兵の供養を記し、次いで左の銘文で部下の将兵を供養している。
明治19年(1886)に日本が国際赤十字条約に加盟した時には、戦国武将の赤十字精神として注目された。
供養碑の左奥にある三重塔は、島津氏が琉球から持ってきたものと言われたが、後年の台風で倒壊し再建された。
英文訳の碑は、島津忠重が明治41年(1908)に建立した。
昭和33年4月に和歌山県の文化財に指定されている。



慶長二年八月十五日於全羅道南原表大明國軍兵数千騎被
討捕内至當手前四百二十人伐果畢
同十月朔日於慶尚?泗川表大明人八萬餘兵撃亡畢
爲高麗國在陣之間敵味方鬨死軍兵皆令入佛道也
右於度ゝ戦場味方士卒當弓箭刀伏被討者三千餘人海陸之
 間横死病死之輩具難記矣 薩州嶋津兵庫頭藤原朝臣義弘建之
慶長第四己亥歳六月上澣    同子息忠恆

(紀伊國名所図会と現地写真をもとに作成)
(中央の四行目の字が大きく刻まれ、中央上部には胎蔵界大日如来をあらわす梵字が入っている。)

安芸浅野家供養塔(二番石)

安芸浅野家供養塔(二番石)は、和歌山県高野山奥の院29町石南にある。
浅野長晟夫人の振姫の五輪塔で、奥の院の五輪塔の中で二番目の大きさで「二番石」と呼ばれる。
振姫(1580-1617)は、徳川家康の三女で、天正8年に生まれた。母は、お竹の方である。
文禄4年(1595)会津若松城主蒲生秀行と結婚したが、慶長17年(1612)秀行と死別した。
元和2年(1616)に当時の紀伊和歌山藩主浅野長晟(ながあきら)と再婚して、光晟(みつあきら)を生んだ。
元和3年8月29日38歳で死去した。当地の五輪塔は元和4年8月29日に浅野長晟によって建立された。
元和5年(1619)福島正則の改易により、浅野長晟は安芸国、備後半国42万6千石に加増されて、広島城主となった。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇 二番石塔
  同上。浅野候の碑なり。其大(そのおおき)さ一番石塔に次ぐを以て號(なづ)く。

五輪塔地輪前面には、次のように刻されている。
   大施主浅野但馬守長晟造立拵
      御簾中之追善也
         奉為正清院殿
  (梵字ア) 泰譽興安大禅定尼
         出離生死頓證菩提
      上達法身下及六道
   豈元和三年丁巳八月二九日

振姫(正清院)は和歌山城下の吹上寺で火葬され、墓所は、京都の金戒光明寺につくられ、後に広島の正清寺に改葬された。→ 金戒光明寺の正清院(振姫)供養塔
元和7年(1621)には、紀州藩初代藩主 徳川頼宣(家康十男)が、姉の振姫(正清院(しょうせいいん))の遺骨を、吹上寺から懐岳山正清院光恩寺に改葬した。
奥の院32町石南には、浅野長晟の五輪塔(安芸浅野家供養塔)がある。

天樹院千姫供養塔

天樹院千姫供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
千姫(1597-1666)は、徳川二代将軍秀忠の長女で、母は正室浅井氏お江(崇源院)である。
慶長8年(1603年)7歳の時に、11歳の豊臣秀頼に嫁した。
元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣で、大坂城落城の前夜に坂崎出羽守直盛に救い出され、江戸に送られた。
翌年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁し、忠政が姫路に転封となったので、夫婦で姫路城に移った。
寛永3年(1626年)本多忠刻が病没したので、千姫は江戸城に戻り、落飾して天樹院と称し、竹橋御殿ですごし、墓石にあるように、寛文6年(1666年)に没した。(享年70歳)
五輪塔は、母親の崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔の西側に建てられている。
地輪正面には、次のように刻されている。
 大相國秀忠公御息女也
 天樹院殿栄誉
 源法松山禅定尼
 寛文六丙午天二月六日
千姫の墓所は、東京都小石川伝通院、茨城県常総市天樹院弘経寺、京都市知恩院にある。
大坂城脱出の際、徳川家康は姫を救出したものに千姫を与えると言っていたとして、再嫁のときに坂崎出羽守直盛が騒動を起こし殺害された事件は、よく知られている。
千姫は、大坂城落城の際、豊臣秀頼と側室の間に生まれた天秀尼を助け、天秀尼は鎌倉東慶院で尼僧となり生涯を終えた。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩約15分。中の橋駐車場を利用できる。


崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔

崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院墓石群の中で最も大きい(高さ6.6m)ことから、「一番石」の名で広く知られている。
この供養塔は、徳川秀忠の次男駿河大納言忠長が、母崇源院(江姫)(1573年-1626年)の追善供養のため、寛永4年(1627年)に建立したものである。
地輪正面には、お江の法名「崇源院殿一品太夫人昌誉大禅定尼」が刻まれている。
江姫は、浅井長政と織田信長の妹お市の方の末娘で、豊臣秀吉の側室淀君の妹である。
お江の最初の婚姻相手は、佐治一成で、豊臣秀吉により離縁させられた。
2度目の結婚相手は、秀吉の甥の豊臣秀勝であったが死別した。
その後、徳川二代将軍秀忠の正室として、戦国時代から江戸時代にかけて波乱万丈の人生を送り、寛永3年(1626年)に享年54歳で死去した。
お江は、死後江戸の増上寺で荼毘に付されて埋葬されたが、その荼毘の火は、奥の院燈籠堂の火が使われた。
平成23年のNHK大河ドラマ「江」のヒロインとしてとりあげられている。
菩提所は、高野山の蓮華院で、和歌山県の指定史跡となっている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩約15分。中の橋駐車場を利用できる。



芭蕉句碑

芭蕉句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
松尾芭蕉(1644-1694)が、記した俳諧紀行「笈(おい)の小文」の中で詠んだ次の俳句で、池大雅の字で刻まれている。

ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声

芭蕉は、貞享4年(1687)江戸をたち、郷里伊賀上野、伊勢神宮、吉野を経て高野山に参詣した。
郷里伊賀上野では、貞享5年2月18日に亡き父の三十三回忌法要を済ませた。
父は芭蕉十三歳の時に、また母は芭蕉四十歳の時に他界している。
その後、和歌の浦、奈良、明石までの旅を「笈の小文」としてまとめ、宝永6年(1709)に出版された。
旅中の54句が納められており、高野山について次の2句が載せられている。

ちゝはゝのしきりに恋し雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊(芭蕉門人の杜国)

また、「枇杷園随筆」所載の高野登山端書では、芭蕉は次のように記している。

高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈きゆる時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、
一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、
御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。
此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、
此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、
父母のしきりに恋し雉の声

芭蕉は、雉の声に亡き父母への思慕の情をかきたてられ、この句を詠んだ。季語は雉で春である。
俳句歳時記の解説では、雉について、次のように書かれている。
     雉子 きぎす
  日本の国鳥として書画にも多く描かれている鳥である。雄は羽の色彩が華麗で長い横縞のある美しい尾を持つ。雑木林や原野を生息地とするが、排卵中の雌はあまり飛び立たない。
 留鳥であるが、いかにも哀れ深い声で鳴くので、古くから春のものとされている。早春の野焼きのころに、雉の巣も焼かれることが多い。
 野鳥に共通する本能のため、子を守ってともに命を落とすことから、「焼野のきぎす」として、親の情愛の深さに例えられている。

芭蕉句碑は、紀伊名所図会で、「芭蕉墓(づか)」と紹介され、碑の裏面には、次の碑陰銘が記されている。(高野山詩歌句碑攷)

      雉子塚の銘
ほろ々と。鳴くは山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。
おもひしたへる。いにしへの。良辨のかの。ふるうたに。かよふ心の。十(とお)あまり。
なゝつの文字を。石に今。きざみてこゝに。たつかゆみ(弓)。紀の高野(たかの)なる。法の月。
雪にさらして。すゑの世も。朽ちぬためしを。この國に。この道したふ。沂風(そふう)てふ。
人のまことを。かきぞとどむる。右 東武 雪中菴蓼太
     安永四乙未年十月十二日

この俳句は、行基が高野山で詠んだと伝えられる次の歌を踏まえたものと言われている。
「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ 母かとぞおもふ」(玉葉和歌集)
良辨僧都は、「ほろほろと鳴は山田の雉子の聲 父にやあらん母にやあらむ」と詠んでいる。
撰文を記した雪中菴蓼太(大島蓼太)は、江戸時代中期の俳人で、天明期の俳諧中興に尽くした。

句碑の台石には、次のように刻されている。
  宿坊 
  金剛頂院

  南紀日高郡御坊邑
  鹽路沂風
     建之

この芭蕉句碑は安永四年(1775)に、紀州日高郡御坊村の塩路沂風によって建立された。
塩路沂風は、後に滋賀県義仲寺無名庵六世になった俳人である。芭蕉の墓は義仲寺(滋賀県大津市)にある。
山内潤三氏の高野山詩歌句碑攷によると、芭蕉を崇敬してやまぬ弱冠24歳の塩路沂風が、芭蕉の八十回忌にあたり、高野山にこの芭蕉句碑を建立したという。

高野山奥の院中の橋西にある市川団十郎供養句碑には、「雉子啼や 翁の仰せ 有る通り」と詠まれている。

南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩15分。→ 其角句碑



法然上人(圓光大師)供養塔

法然上人(圓光大師)供養塔は、和歌山県高野山奥の院の32町石西にある。
浄土宗の開祖、法然(1133-1212)は、美作国久米(現、岡山県久米郡)の出身で、15歳から比叡山へ入り、出家修行生活を送った。
法然房源空と名乗り、43歳で「専修念仏(南無阿弥陀仏と唱えると極楽往生できる)」を広めようと、比叡山から出て京都の吉水を布教活動の拠点とした。
水原堯榮氏の「高野山金石図説」によると、五輪塔地輪には、梵字と「源空」の文字が刻されている。

松平(結城)秀康及び同母霊屋

松平(結城)秀康及び同母霊屋は、和歌山県高野山奥の院の越前松平家の墓所にある。
松平秀康(1574-1607)は、越前福井藩の初代藩主である。
徳川家康の二男で、生母は永見吉英の娘 於万(おまん)の方である。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの講話の際に、豊臣秀吉の養子となって羽柴秀康と名乗った。
1590年下総(茨城県)の結城晴朝(はるとも)の養嗣子(ようしし)に入り10万1000石となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功によって、越前68万石へ加増転封され、慶長12年に34歳で病没した。
向かって右の霊屋が、松平秀康を祀るもので、慶長12年(1607年)に、越前福井藩二代目当主忠直によって建立された。
三方の石壁には、二十五菩薩の浮彫仏像が彫刻されており、内部には、一族5人の宝篋印塔がある。
石廟を建立した結城忠直は、乱行が理由で元和5年(1619年)豊後萩原に流罪となり、竹中采女正に預けられ、慶安3年(1650年)に56歳で死去した。
左側は、秀康自身が母公を祀るため、慶長9年(1604年)に建立したものである。
2棟とも越前の笏谷石が用いられ、幅奥行きとも7.5mの二基の石廟が並んだ形で、瓦、壁、柱、扉に至るまですべて石造りとし、木材はほとんど使用されていない。
国の重要文化財に指定されており、世界遺産にも登録されている。


豊臣家墓所

豊臣家墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
この墓所には、豊臣秀吉(1537-1598)とその母、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓がある。
現在、石塔が11基並んでいる。
そのうち、中央の1基(303cm)は、昭和15年(1940年)、豊公会によって造立されたもので、京都の豊国廟から霊土を移したという。
五輪塔の正面には、「豊臣太閤秀吉公之墓」と記されている。
この五輪塔の内部には、秀吉の衣冠束帯姿の古い木造が納められている。

紀伊名所図会には、江戸時代の奥の院が描かれており、そこには10基の石塔が描かれている。
また、宝永4年(1707)に描かれた「奥の院絵図」(金剛峯寺蔵)には、下の写真の通り10基の石塔が描かれ、8基には次の通り石塔名が記されている。
大納言殿北方、大光院殿前亜相、太閤秀吉公、春厳貞松、前関白秀次公、石田治部少輔、三位法印、御上臈

「紀伊国金石文集成」「和歌山県の文化財第一巻」「近世大名墓の成立」「高野山金石図説」「木下浩良氏講演資料」によると、次の石塔が説明されている。
①宝篋印塔 総高 四尺八寸
 (銘文)不明(剥落して文字無し)
②三位後室逆修塔(L3) 豊臣秀吉の姉 豊臣秀次の母 「智(とも)の方」123.5cm → 瑞龍寺(村雲御所) 豊臣秀次の墓(高野山光臺院)、瑞泉寺
 (銘文)天正廿年 ア 三位法印後室 逆修 五月七日
③法性院殿五輪塔 総高六尺 水輪以上の四輪は他石
 (銘文)施主生國相刕住 浅野清兵衛 友重立之
     法性院殿 ア 爲 菩提 接譽得授大姉 慶安四天三月廿一日入寂
④北方慈雲院逆修塔(L1) 豊臣秀長の正室 198cm
 (銘文)大納言殿北方慈雲院 ア 芳室紹慶 逆修 天正十九年五月七日
⑤豊臣秀長塔(R1) 豊臣秀吉の異父弟 総高六尺
 (銘文)大光院殿前亜相 ア 春岳紹榮大居士 天正十九年正月廿二 → 大光院 大納言塚
⑥青厳貞松逆修塔(R2) 豊臣秀吉の母堂 170cm
 (銘文)天正十五年 ア 青厳貞松 逆修 六月廿一日
⑦五輪塔地輪の上に不動明王石仏 勝海院殿 → 安芸浅野家供養塔(浅野長勝 勝海院)
 (銘文)法印隆観 泰春房 寶歴廿?辰 六月三日寂
     勝海院殿 ア 金光居士 天正三乙亥九月八日寂     
⑧樹正院殿五輪塔 秀吉養子息女 豪姫(前田利家四女、宇喜田秀家正室) → 金沢市野田山の前田家墓所
 (銘文)前相國秀吉公御養子 息女 樹正院殿 ア 逆修 命室壽光
     慶長廿年卯月十五日
⑨玉厳麟公神童塔(L2) 豊臣秀吉の長男 鶴松 180cm → 京都市妙心寺 塔頭玉鳳院
 (銘文)天正廿秊 ア 玉厳麟公神童 浅野弾正少弼造之 二月時正
⑩御上臈逆修塔(R5) 豊臣秀吉の側室淀殿 (秀吉正室 ねねとの説もあり) 170cm
 (銘文)天正十七己丑 ア 御上臈 逆修 七月初三日 → 淀君 豊臣秀頼五輪塔 太融寺 高台寺

浅野弾正は、浅野長政(浅野長勝養子)である。 豊臣秀吉の正室高台院も浅野長勝養女であった。→ 高台寺
京都市東山区の阿弥陀ケ峰山頂(標高196m)には、豊臣秀吉の墓所豊国廟がある。
例年、豊臣秀吉命日の8月18日には、当地の豊臣家墓所で、豊太閤忌の法要が行われ、読経に続いて、「南無豊国大明神」という神号が唱えられる。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。



本阿弥七基石塔 (七ツ石)

本阿弥七基石塔(七ツ石)は、和歌山県高野山の奥の院の豊臣家墓所北西にある。
紀伊名所図会には、本阿彌七基石塔として次のように記されている。
「此中に一閑紹鴎居士の碑あり。 弘治元乙卯十月廿九日卒とあり。
其外孫今井宗薫、当山一心院谷福生院に寓居し、建つるところという。
塔毎に空、風、火、水、地の漢字を鐫れり。」
一閑紹鴎は、武野紹鴎(1502-1555)のことで、戦国時代の堺の豪商、茶の湯名人である。
女婿の今井宗久、津田宗久。田中宗易(千利休)などが弟子となった。
高野山文書では「七ツ石」として紹介され、向かって右端が武野紹鴎の五輪塔で、地輪中央に「一閑紹鴎居士」と刻まれている。
7基は全て砂岩製で、17世紀前半に建立された。


織田信長墓所

織田信長墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院御廟橋南西にある五輪塔の高さは、230cmで、銘文には次のように記されている。

天正十年六月二日
総見寺殿
(梵字ア)贈大相國一品
泰巌大居士
御宿坊悉地院

織田信長(1534-1582)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で亡くなっている。
この五輪塔の形式は江戸時代中期のもので、後世建立されたものと言われている。
京都市上京区の阿弥陀寺には、織田信長公本廟がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。



筒井順慶供養塔

筒井順慶供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院御廟橋の南西にあり、織田信長墓所の東に隣接している。

高さ162cmの花崗岩製の五輪塔で、地輪には次のように刻されている。
和刕筒井法印順慶
梵字 ア
天正十二秊甲申八月十一日

文政5年(1822)11月の「南山奥院諸大名石塔記」には、御廟橋と遍照金剛御廟所の間に「筒井法印順慶」との記載がある。

筒井順慶(1549-1584)は、戦国時代の大和の大名で、幼名は藤勝(ふじかつ)、藤政と呼ばれ、永禄9年(1566)得度して陽舜房順慶と称した。
永禄2年(1559)松永久秀が大和に攻め込んだため、筒井城を捨てて東山内などに逃れた。
その後、大和の守護として織田信長に仕え、明智光秀の子を養子に迎えるなどして活躍した。
天正10年(1582)本能寺の変で、明智光秀から誘われたが、大和郡山から動かず、光秀には加勢しなかった。
山崎の合戦後に羽柴秀吉に参じて、大和領有を認められた。
「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」で、山崎の合戦の形勢を眺めて、光秀に味方するか秀吉に加勢するかで日和見をしたとの俗説が有名であるが、実際には大和郡山城で軍議を重ねていたという。
その後、豊臣政権下で小牧長久手の戦いなどに参加したが、天正12年(1584)に36歳で病死した。
墓所は奈良県大和郡山市筒井順慶歴史公園の五輪塔覆堂にある。
筒井家は、養子定次が後を継いだが、徳川政権下で豊臣家に内通したとの疑いで、改易された。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。


水向地蔵

水向地蔵は、和歌山県高野山の奥の院にある。
御廟橋(無明の橋)の東側に玉川(御廟川)に沿って、地蔵菩薩、不動明王、弥勒菩薩、聖観音など15体の金銅仏が並んでおり、すぐ横には、玉川の水行場がある。
日野西真定の「高野山民族誌奥の院編」によると、平安時代に常設の橋がなかった頃は、手足を清める場であったが、室町時代以降、この地に石像仏が建てられはじめ、慶安年中(1648-52)には、石水盤が設置された。
これらの像は、先祖の菩提や逆修(生前の法会)を祈願して寄進者が金銅仏等を建立したものである。
水向地蔵と呼ばれるのは、前に置かれた水盤にある水を柄杓で尊像に手向けて供養することに由来している。
奥の院に参詣する多くの人々が、御供所で水向塔婆を求めてこれらの地蔵に納め、水を手向けて冥福を祈る姿が見られる。
南海電鉄高野線高野山駅から南海バス「奥の院前」下車、徒歩20分。自家用車の場合は、中の橋の無料駐車場を利用する。



陸奥宗光供養塔

陸奥宗光供養塔は。和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院燈籠堂の階段下から約20m南の参道西側沿いにある。
総高164cmの小型額縁付き墓石に、次のように刻されている。
(正面)伯爵陸奥宗光墓
(左面)法謚大機院圓應宗光大居士
(裏面)未亡人亮子謹建
(右面)明治三十年八月廿四日薨
    三十二年八月二十四日分骨

許可を得て撮影された供養塔の写真は、文芸ジャンキーパラダイスに載せられている。

陸奥宗光(1844-1897)は明治時代の外交官、政治家で不平等条約の改正に尽力した。
天保15年(1844)7月7日に紀州藩の重臣であった伊達宗弘の第6子として和歌山で生まれた。
父は、紀州藩の勘定奉行、寺社奉行を勤めていたが、嘉永5年(1852)徳川治宝が亡くなると失脚し、田辺等に幽閉された。
宗光はこれらの苦境を乗り越え、江戸に出て勉学に励んだのち、神戸の海軍操練所に入り、坂本龍馬と行動を共にした。
幕末の紀州藩を救い、明治政府の地租改正を推進して財政基盤を整備した後、外交官となり明治21年(1888)に日本とメキシコとの間で初の平等条約締結に成功した。
農商務大臣を経て、第2次伊藤博文内閣で外務大臣を務め、明治27年(1894)イギリスとの不平等条約改正を実現し、欧米列強に認めていた治外法権を撤廃し、国家の独立自尊を護った。
日清戦争、三国干渉の難局を乗り越えた手腕は、「カミソリ大臣」と呼ばれた。
これらの業績を讃え、外務省に4体の銅像や胸像が置かれている。

燈籠堂

燈籠堂は、和歌山県の高野山奥之院にある。
燈籠堂は、弘法大師御廟の拝殿で、創建は弘法大師入定の年の翌年 承和3年(836年)にさかのぼる。
弘法大師の弟子の実恵、真然大徳が方二間の御堂を建てたのが最初である。その後治安3年(1023年)藤原道長によってほぼ現在の大きさのものが建立された。
堂内正面に、醍醐天皇から賜った弘法大師の諡号額、両側には十大弟子と真然大徳、祈親上人の12人の肖像が掲げられている。
堂内には、1000年近く燃え続けているといわれる二つの灯がある。
向かって右が、長和5年(1016年)に祈親上人が、廟前の青苔の上に点じて燃え上がった火を灯明として献じて高野山の復興を祈念したといわれるもので、祈親灯と呼ばれる。
髪の毛を売って献灯した貧女お照の物語に因んで「貧女の一灯」とも呼ばれる。
左には、寛治2年(1088年)に白河上皇が献じた「白河灯」があり、記録では上皇が30万灯を献じたとあり、俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
この他、ある皇族と首相により献ぜられた「昭和灯」のほか、地下を含めた堂内には、参拝者が献じた燈籠と弘法大師の小像が多数置かれている。
現在の建物は、昭和39年(1964年)に高野山開創記念事業として改修されたもので、桁行40.6m、梁間21.9mの大きさである。
また東側には昭和59年(1984年)の御入定千百五十年記念事業として記念燈籠堂が落慶した。

燈籠堂の入口左右の対聯には、次の文の後半が掲げられている。
我昔遭薩埵 親悉傳印明
發無比誓願 陪邊地異域
晝夜愍萬民 住普賢悲願
肉身燈三昧 待慈氏下生

われ昔薩埵(さった)にあひて、まのあたり悉く印明をつたふ
無比の誓願をおこして 辺地の異域に侍(はべ)り
昼夜に万民をあはれんで、普賢の悲願に住す
肉身に三昧を証じて 慈氏の下生をまつ

この文は、弘法大師に大師号が下賜され、勅使中納言資澄(すけずみ)卿と般若寺の僧正観賢が高野山に下向し勅書を奏上した際、
入定中の弘法大師が醍醐天皇への返事として言われた言葉として、平家物語「高野巻」に記されている。

「自分は昔 金剛薩埵に遭って、直接目の前で印明をことごとく受け伝えた。
比類なく貴い誓願をおこして、辺地の高野山におります。
毎日毎夜万民をあわれんで、普賢菩薩の慈悲深い誓願を行おうとしている。
肉体のままで入定し、三昧の境地に入って、弥勒菩薩の出現を待っている。」(日本古典文学全集「平家物語」)

南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。(M.M)(Y.N)

弘法大師御廟

弘法大師御廟は、和歌山県高野山奥之院にある。
奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。
御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。
七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。
その後、11世紀に高野山は一時荒廃するが、祈親上人が復興し、御廟を再興して大師信仰の中心となった。
これは、弘法大師が入定して高野山に留まっているとする入定留身説が広く信者に受け入れられたものである。
御廟の瑞垣内には、東側に二社、西側に一社の小祠が祀られている。
東側は、丹生明神と高野明神で、高野山開創伝承に基づく。
西側は白髭稲荷大明神で、弘仁14年(823年)、弘法大師が嵯峨天皇から東寺を賜った際、密教と国土の安泰を稲荷大明神に契約したという伝承「稲荷契約事(いなりけいやくのこと)」に基づくものである。
紀伊続風土記の「奥院之四」には、白狐の項があり、「額に三鈷を戴く白狐が大峰から毎日参詣する」と記されている。

春日局供養塔

春日局供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。

春日局(1579-1643)は、徳川三代将軍家光の乳母で、名は斎藤福、通称お福と呼ばれた。
父は、明智光秀家臣の斎藤利三(としみつ)で、母は、稲葉一鉄の娘で稲葉あんである。
天正7年(1579)、丹波国春部荘(現兵庫県丹波市春日町)で生まれた。
父の斎藤利三は、天正10年(1582)の本能寺の変の後、山崎の合戦で敗れ、明智光秀とともに京で首を晒された。
お福は、母方の一族 稲葉重通(しげみち)の養女となり、文禄4年(1595)17歳の時、同養子正成(まさなり)に嫁し、稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利らを産み、将軍家の乳母となるためのち離縁した。
慶長9年(1604)二代将軍徳川秀忠の長男家光出生に際し、京都所司代 板倉勝重の推挙により乳母となった。
乳母に推挙された理由は諸説あるが、春日局の顔にはあばたがあり、当時の天然痘に罹って終生免疫を得ていたため、将軍家の世継ぎを疾病から守るため選ばれたともいわれている。
家光には二歳下の弟 忠長があり、父秀忠と正室お江の方は、忠長を寵愛し、徳川家家臣や有力大名も忠長を次期将軍とみなし始め、世継ぎの序列も逆転するような状況となった。
お福は危機感を強め、慶長15年(1610)伊勢参宮に託して駿府で大御所家康にこの旨を訴えた。
家康は鷹狩と称して江戸に上り、次期将軍は家光と定めた。これは「春日の抜参り」といわれている。
寛永3年(1626)正室お江の方(崇源院)没後は、大奥を統率し、絶大な権勢を振るうとともに、将軍家光に対しても影響力を持った。
寛永6年(1629)紫衣事件で後水尾天皇が幕府の処置に対して譲位の意思を示すさなか、お福は大御所秀忠の内意を受け上洛し、
公卿三条西家の娘として参内する資格を得て後水尾天皇や中宮和子に拝謁し、天盃と「春日局」の称号を賜った。
春日局との縁故で、幕府に登用されたものは多く、夫稲葉正成は大名、子正勝は老中、兄斎藤利宗、三存、娘婿堀田正吉は旗本になっている。
また、正吉の子正盛は、老中を経て家光側近随一の重臣に取り立てられた。
晩年は、湯島に屋敷を賜り、天沢寺(のち麟祥院)を建立し余生を過ごした。
寛永20年9月14日寂(法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉)、享年65であった。
次の辞世の句を残している。
  西に入る月を誘(いざな)い法をへて 今日ぞ家宅を逃れけるかな
墓所は東京都文京区の湯島麟祥院と神奈川県小田原市の紹太寺(稲葉一族墓所)にある。

高野山奥の院にある春日局供養塔は、花崗岩製の五輪塔で、御廟橋と燈籠堂を結ぶ参道東側にある。
五輪塔前に一対の石燈籠と「春日局及佐久間将監墓所」と記した案内柱が建てられている。
木下浩良氏の「戦国武将と高野山奥の院石塔の銘文を読む」によると、地輪に次のように刻されている。
寛永十七年七月十二日
(ア) 麟祥院殿仁淵
義尼大姉
稲葉春日局逆修

寛永17年(1640)に、春日局が生前に逆修供養をして建立したものである。
許可を得て撮影された五輪塔の写真は、文芸ジャンキーパラダイスに載せられている。

佐久間将監実勝(1570-1642)は織豊、江戸時代の武士、茶人である。
豊臣秀吉の小姓を経て、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、作事奉行をつとめた。
古田織部に茶道を学び、晩年、京都大徳寺に寸松庵を建てて号とした。
寛永19年10月22日に73歳で死去した。
江戸時代に作られた紀伊國名所図会の奥の院図面では、「イナバ春日」のすぐ北側に「さくま将監」が描かれている。
一方、昭和57年刊行の水原堯榮氏「高野山金石図説」によると、佐久間将監實勝供養塔(高さ七尺五寸)は、御供所西方丘上北向にある。

春日局は金戒光明寺とも縁が深く、寛永5年(1628)2月15日一山供養により、二代将軍秀忠正室お江与の供養塔を建立、同年極楽橋(木造)再建、寛永11年(1634)駿河大納言忠長の供養塔を建立した。
金戒光明寺に春日局供養塔があり、寺の過去帳には、「麟祥院殿月窓崇山大姉」と記されている。

御供所   嘗試地蔵

奥の院御供所(ごくしょ)は、和歌山県高野山にある。
弘法大師御廟に奉仕するため、小さな庵を建てたのが始まりいわれる。
現在でも、弘法大師に供える日々の生身供(しょうじんぐ)を御供所で作り、毎日午前6時と午前10時30分の2回、僧侶が御廟に運んでいる。
御供所の北側には嘗試地蔵(あじみじぞう)がある。
この地蔵のもとは、愛漫(あいまん)・愛語(あいご)と呼ばれる弘法大師の食事の世話をした二人の弟子が、御廟橋の傍に「御厨明神(みくりやみょうじん)」として祀られていたものだといわれている。
御供所で調理され櫃に入れられた弘法大師の食事は、維那(ゆいな)と行法師(ぎょうぼうし)と呼ばれる僧侶が、嘗試地蔵前に供えた後に、御廟前の燈籠堂まで運ばれる。
これは、現在も御廟で空海が永遠の禅定に入って後世の人々を見守っているという「弘法大師信仰」に基づくものである。
南海電鉄高野線高野山駅から南海バス「奥の院前」下車、徒歩20分。乗用車の場合は、中の橋の無料駐車場を利用する。


浅野内匠頭墓所

浅野内匠頭墓所は、和歌山県高野山奥の院の御供所西約100mのところにある。
浅野長矩(1667-1701)は、広島浅野家の分家で播磨赤穂城主である。
延宝8年(1680)に従五位下内匠頭(たくみのかみ)となった。
元禄14年(1701)に、幕府から勅使の御馳走役を命じられたが、
江戸城本丸の松之廊下で吉良上野介に斬りかかり、切腹して領地も没収された。
中央の墓石は、浅野長矩のもので、「冷光院殿前朝散大夫吹毛玄利大居士」と刻まれている。
家老の大石内蔵助(良雄)が施主となり、元禄15年(1702)6月8日に建立した。
内蔵助は、この年5月に赤穂遠林寺の祐海を高野山に遣わして亡君の法要を行った。
法要には、元赤穂藩士、早水藤左衛門と近松勘六が同行している。
向かって左の墓石は、赤穂四十七士菩提碑で「忠誠院刃宝淨劔居士外四十六士各霊」と刻まれている。
大正13年(1924)に高野山中学校(現高野山高校)の同窓会が建立した。
右の墓は、大石内蔵助の叔父 大石良重のものである。
南海高野線高野山駅から、奥の院前下車、徒歩15分。中の橋駐車場が利用できる。

応其寺   興山応其上人廟

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
1587年に応其によって創建され、山号は中興山と号する。
応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
高野山奥の院には、「興山応其上人廟」、興山上人一石五輪塔がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。



奥の院の大杉林と特別母樹林

奥の院の大杉林と特別母樹林は、和歌山県高野山にある。
奥の院一の橋から奥の院御廟までの参道約1.6㎞の両側には、樹齢200~600年の大杉林があり、和歌山県の天然記念物に指定されている。
大杉の総数は1300本を超え、樹高が50mに達するものある。
そのうち、「特別母樹林」の白い標札がつけられているものがある。
特別母樹林とは、樹形材質ともに優れた樹木を保存し、優良な種子穂木確保する目的で農林水産大臣が法律に基づき指定した樹木である。
当地の特別母樹林は、昭和46年に指定され、5haの面積に、700本余りの樹木が指定されている。


慈手観世音菩薩 腕塚 大石順教尼之墓

慈手観世音菩薩、腕塚、大石順教尼之墓は、和歌山県高野山の奥之院にある。
慈手観世音菩薩像は、大石順教尼の発願で建てられたものである。
同尼が、両腕を失って81歳の天寿を全うできたのは、有縁の人々から慈悲の手をさしのべていただいたお陰であると同尼が合掌をしている姿である。
大石順教尼没後50年記念冊子に、腕塚の由来が記されている。
同尼の兄が死去した際に、兄嫁から、アルコール漬けの瓶に入った腕を本家の墓から引き取ってもらいたいと言われたという。
高野山に行った際に、当時の管長和田性海猊下に相談したところ、猊下から次のように言われた。
「それは面白い話やな、そのアルコール漬けの手を掘り出して、この高野山の奥の院に腕塚を建てようやないか、高野山にはいろいろな塚があるけど、腕塚というのは一つもない。
多くの手の無い人が悩んでいるだろう。そんな人たちが高野山へ上られたら、弘法大師の心の手を貰われる事がよかろうじゃないか、それは面白いはなしや、早々に腕塚を作ろう」
石碑の文字は、同尼の叔父と親交のあった徳富蘇峰氏が書いたものである。
慈手観世音菩薩像の西側には、大石順教尼腕塚歌碑がある。
南海電鉄高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。中の橋駐車場がある。


親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)

親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)は、和歌山県高野山奥の院にある。
中の橋駐車場から弘法大師御廟への参道を約300m北側に入った左手に登り口の階段がある。

親鸞(1173-1262)は、鎌倉時代の僧で、浄土真宗の開祖である。
下級貴族の日野有範の子として京都日野で生まれ、初め綽空(しゃっくう)と称したが、善信と改め、親鸞と併用した。
「親鸞聖人伝絵」によると、親鸞は遺骸を鴨川にいれて魚に与えよと遺言したといわれる。
明治9年(1876)、明治天皇から「見真大師」の諡号が贈られた。
諡号見真は、「大無量寿経」の「五眼讃」の「慧眼見真 能度彼岸(慧眼は真を見てよく彼岸に度す)」を出典とし、東西本願寺の御影堂正面に「見真」の額がある。
親鸞聖人の墓所は、京都の大谷本廟及び大谷祖廟、新潟県上越市の浄興寺にある。

供養塔前に、見真大師御墓 西禅院 との石柱がある。
高野山名所図会の「西禅院」の由緒の項には、次のように紹介されている。
(前略)墓碑の重なるものは即ち、見真大師の碑にして、奥の院にあり、俗に三角石塔と称するものなり、
明治十年四月廿日墓碑大破の際には本願寺より修繕せり、(後略)

西禅院には、親鸞聖人自作の木像があり、親鸞聖人が「六十有三歳」に高野山に登山した際、西禅院第三世泉勝阿闍梨を訪ね、木像を遺したという。
北側の参道入り口には、親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)が建立されている。
高野山奥の院には、親鸞聖人宝篋印塔(親鸞聖人圓證兼実覚信尼墓所)も建立されている。

 

苅萱堂

苅萱堂は、和歌山県高野町にあるお堂である。
本尊は親子地蔵尊で、堂の裏手の密厳院が管理している
苅萱堂が有名なのは、中世半ば、高野聖の一派で心地覚心(法燈大師)を祖とする萱堂聖の本拠地となったためで、彼らは唱導文芸をもって全国を遊芸した。
高野聖によって全国津々浦々で語られたのが、「石童丸物語」である。
筑前博多の守護加藤兵衛尉繁昌(苅萱道心)と、石童丸が父子を名乗らないまま対面し、仏道修行した物語を絵(刺繍)にした額が堂内にかけられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「刈萱堂前」下車すぐ。




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