瀧口入道 横笛 ゆかりの地

滝口寺 (旧往生院三宝寺)

滝口寺(旧往生院三宝寺)は、京都市右京区にある。
法然上人の弟子 念仏房良鎮上人によって創建された往生院は、念仏の道場として栄え、境内地には数々の坊があった。
その後、応仁の乱などの戦乱を経て、祇王寺と三宝寺とが浄土宗の寺として残った。
明治維新の際に廃絶したが、昭和時代初期に三宝寺跡を再興するにあたって、佐々木信綱博士が、高山樗牛の小説「滝口入道」に因んで「滝口寺」と命名した。
本堂には、三宝寺遺跡である滝口入道と横笛の木造が安置されている。
平家物語巻一〇に滝口入道と横笛の悲恋の物語が描かれている。
滝口入道は、平重盛の家来で、名を斎藤時頼といい、建礼門院の雑仕横笛を愛したが、父斎藤茂頼の反対にあい、19歳で嵯峨の往生院で出家した。
これを聞いた横笛は滝口入道の庵室を訪ねたが、入道は面会せずに高野山に移って修行した。横笛も尼となり奈良の法華寺に住んだといわれる。→ 大圓院 横笛の恋塚
山門を入って左側には、新田義貞公首塚碑と勾当内侍供養塔がある。
「太平記」によると、勾当内侍は後醍醐天皇の女官で、新田義貞の寵愛を受け、義貞戦死後京で晒された義貞の首を持ち帰り、その菩提を弔うために往生院のそばに庵を結んで尼になったと伝えられる。
京都バス、京都市バス嵯峨釈迦堂前下車、徒歩15分。





法華寺

法華寺は、奈良市にある光明宗の寺院である。
法華寺の敷地は、もとは藤原不比等の邸宅があった場所で、不比等の没後、娘の光明子(光明皇后)が皇后宮とした。
天平17年(745年)、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。
その後、天平13年(741年)に出されていた国分寺・国分尼寺建立の詔により、大和の総国分尼寺(法華滅罪之寺)にあてられ、法華寺と改称した。
建立当時は尼僧の修法道場として隆盛したが、平安時代に衰退し、鎌倉時代に叡尊によって再興された。
戦国時代の兵火や地震で、金堂等は失われたが、豊臣秀頼が母淀君の意を受け、片桐且元を奉行として金堂、南門などを復興させた。

本尊の木造十一面観音立像(国宝、像高100cm)は、鮮やかな翻波式衣文を刻む平安時代初期を代表する仏像で、年間3回特別開扉される。
嘉元2年(1304年)の「法華滅罪之寺縁起」では、この像を光明皇后自作と記しており、「興福寺濫觴記」ではインドの問答師という仏師が彫ったと記されている。
例年秋には、国宝の阿弥陀三尊・童子像が一般公開される。

国名勝の庭園内には、「からふろ」と呼ばれる浴室と井戸があり、光明皇后が千人の垢を自ら流したと伝えられている。
現在の建物は、江戸時代の再建で、平成15年(2003年)の解体修理で復元され、国の民俗文化財に指定されている。
和辻哲郎は「古寺巡礼」(昭和21年刊)で、光明后施浴の伝説と光明后と彫刻家問答師について、大変興味深く詳細に論じている。

赤門東側には平家物語ゆかりの「横笛堂」があり、横笛が法華寺で出家して祈りを捧げたお堂といわれている。また、門外には横笛地蔵がある。
JR奈良駅、近鉄奈良駅からバスで「法華寺前」下車、徒歩3分。参拝者専用駐車場がある。

ひな会式

ひな会式は、4月1日から7日に行われ、通常の雛祭りと違い、五十余体の善財童子の像が、本堂内本尊の前に並べられる。
善財童子は、「華厳経」に登場する少年で、悟りを求める心をおこし、五十余人の善知識(先生)を訪ねて旅を続けていく。
本堂には、木造二天頭、乾漆維摩居士坐像、木造仏頭なども安置されている。




大円院

大円院は、和歌山県高野町高野山にある。
大円院は、光仁天皇の時代、延喜3年(903年)聖宝大師理源(しょうほうたいしりげん)が開いたもので、かつては多門院と呼ばれていた。
理源は、空海の高弟で実の弟であった真雅(しんが)の弟子となり真言密教の門に入り、後に京都醍醐寺を開いた人物として知られている。
そして鎌倉時代に、豊前豊後の守護職を務めた大友能直(よしなお)が帰依して、師檀契約を結んだ。
その後、1600年頃、戦国武将立花宗茂(むねしげ)(福岡柳川藩主)が高野山に登り、住職であった宣雄(せんゆう)阿闍梨に帰依し、宝塔を建立した縁で、宗茂の院号(大圓院殿松隠宗茂大居士)から、「大圓院(大円院)」と寺号を改めた。
寺内には、横笛ゆかりの瀧口入道旧蹟がある。





瀧口入道旧蹟 鶯の井戸

瀧口入道旧蹟 鶯の井戸は、和歌山県高野山大圓院にある。
平家の嫡男平重盛に仕えていた斎藤時頼という武者が、花見の宴席で建礼門院の雑仕女 横笛と恋に落ちる。
しかし、身分の違いから結ばれることはなかった。
時頼は、未練を断ち切るために出家し、瀧口入道を名乗り、女人禁制の高野山に移り住んで大圓院で修行を重ねた。
一方、横笛も出家し、奈良の法華寺で尼僧となっていたが、病となり高野山の麓の天野の里で亡くなった。
そのとき、横笛は鴬となって瀧口入道の居る大圓院に向かった。
瀧口入道が、梅の木に止まる鴬に気づいたところ、鴬は突然舞い上がり井戸に落ちたという。(「平家物語」巻第十)
大圓院の境内には、その井戸が残され、本尊の阿弥陀如来の胎内には、鴬の亡骸が納められているといわれる。→ 高野山女人伝承ゆかりの地
また高山樗牛は、明治27年に発表した小説「滝口入道」で、瀧口入道が高野山で平重盛の子維盛と再会する場面を描いている。
一方、五来重は、「増補 高野聖」で、宗教民俗学の立場から次のように記している。
  ただわれわれは高山樗牛のように、そのセンチメンタリズムに幻惑されて聖の現実の姿を見失ってはならない。
  滝口の侍 斎藤時頼も建礼門院の雑司女横笛も、もちろん実在ではない。
  しかし「平家物語」が本筋からそれて、こんなフィクションをエピソードとしていれるのは、
  この文学の成立にあずかった高野聖のすがたを発心物語として出したかったからであろう。
横笛について、実在資料は見出されていないが、斎藤時頼は、「尊卑分脈」時長孫(「国史大系」第2巻)に載せられており、実在したと考えられている。

南海高野線高野山駅からバスで小田原通下車すぐ。


横笛の恋塚

横笛の恋塚は、和歌山県かつらぎ町天野の里にある。
平家物語巻第十で、建礼門院に仕えた「横笛」の悲恋の物語が描かれている。
平重盛の家来 斎藤時頼(滝口入道)は、美しい横笛に心をひかれ、互いに愛し合うようになった。
しかし、時頼の父は、「世にあらむ者(栄えている平家一門)」が「世になき者(身分の低い者)」を思うのは許されないと厳しく諫めた。
そのため、時頼は嵯峨野の往生院で出家して、名前を滝口入道と改めた。
横笛が滝口入道に会いたい一心で、嵯峨野まで行ったが、入道は「ここには、そのような人はいない。」と答えさせ、女人禁制の高野山「清浄心院」に移って、さらに厳しい修行を重ねたという。
横笛は、奈良の法華寺で仏門に入った後、高野山に近い天野の里で庵を結び、19歳の春に亡くなったと伝えられている。

横笛の恋塚は里人が建てたもので、滝口入道と横笛の詠んだ次の歌が紹介されている。
「そるまでは うらみしかども あづさ弓 まことの道に いるぞうれしき」(入道)
  (あなたが尼になるまでは、私のことを恨んでいたが、そのあなたも仏道に入ったと聞いてうれしい)
「そるとても なにかうらみむ あづさ弓 ひきとどむべき こころならねば」(横笛)
  (尼になったといっても、何も恨む事はない。とても引き止めることのできるようなあなたの決心ではないから)

塚の横にある石碑には、高野山大圓院住職第八世瀧口入道との相聞歌「横笛の歌」が刻されている。
  やよや君 死すれば 登る高野山
   恋も菩提の 種とこそなれ
JR和歌山線笠田駅から、かつらぎ町コミュニティバスで「旧天野小学校前」バス停下車。



神田地蔵堂

神田地蔵堂は、和歌山県かつらぎ町の神田(こうだ)の里にあり、町石道の112町石の近くのお堂である。
神田の里には、丹生都比売神社に米を献納する神田があった。
この地蔵堂は、平安鎌倉時代の高野参詣の人々の休憩所として使われた歴史があり、堂内には弘法大師像、子安地蔵、応其上人像が安置されている。
紀伊続風土記には、「東高野街道往還にあり」と記されている。
昭和時代初期にも、この堂で参詣者がお茶の接待を受ける習俗が残っていたといわれる。
高野山多聞院の縁起には、滝口入道(斎藤時頼)を慕った横笛が出家し、天野の里に草庵を構えて住んだところと書かれている。
高野山への参詣には、この地蔵堂の前を通るため、横笛は此処まで出向いて、滝口入道に会える機会を願ったといわれる。
その際、横笛が高野山に登る僧に託した次の歌が知られている。
「やよや君 死すれば登る高野山 恋も菩提のためこそなれ」
南海高野線上古沢駅下車、徒歩約1時間。→ 高野山町石道を登る





清浄心院

清浄心院は、和歌山県高野山奥之院入口の一の橋西側にある真言宗の別格本山である。
本尊は弘法大師像で、入定を翌日に控えた承和2年(835年)3月20日に空海が自ら彫刻し、像背後に「微雲管(みうんかん)」の三字を書いた像と伝えられている。そこから「廿日大師」と呼ばれ、現在は秘仏とされている。
毎年、本尊の縁日(現在は4月20日)には御開帳され、盛大な法要が営まれる。
天長年間(824-833年)に空海によって開かれ、もと喜多坊と称していたが、勅により清浄心院と号し、その後平清盛の子宗盛が堂宇を再建したという。
平家物語巻十には、嵯峨往生院に出家遁世していた滝口入道が横笛への思いを断ち切るために高野山に登り、当院に住したと記されている。
戦国時代には、上杉謙信の祈願所となり、謙信や上杉景勝の書状などを多数蔵している。奥の院にある上杉謙信霊屋一棟(国指定重要文化財)は、当院が管理している。
また佐竹義重も逆修供養をしており、佐竹義宣、義憲の書状も所蔵している。→ 奥の院 佐竹義重霊屋 羽後秋田佐竹家墓所
境内には、豊臣秀吉が花見を催したという名木の傘桜が植えられている。




三渓園

三渓園は、横浜市中区にある国指定名勝である。
横浜の生糸商人として財をなした原善三郎の養嗣子 原富太郎(雅号 三渓)が、三之谷に造った17万5千㎡の日本庭園である。
原三渓は、みずからも書画をよくし、横浜出身の岡倉天心と親しく、天心の弟子 下村観山、小林古径、安田靫彦(ゆきひこ)らを寄宿させて、三渓園グループという画壇をつくった。
三渓園の土地は、もともと原善三郎が購入したものであったが、明治32年(1899)原三渓が野毛山からここに居を移すと、広大な土地に池を掘り、造園をして建築物を集めた。
明治39年(1906)に一般に公開された外苑と、三渓が私庭としていた内苑の二つの庭園からなり、京都や鎌倉などから集められた17棟の歴史的建造物と四季折々の自然とが調和した景観が見どころとなっている。
学術上、芸術上、そして鑑賞上優れていることから、平成19年(2007)に国の名勝に指定されている。

外苑には、旧燈明寺三重塔、横笛庵、旧東慶寺仏殿、旧矢箆原(やのはら)家住宅などがある。
横笛庵は、奈良法華寺からの移築といわれ、横笛が滝口入道から送られた恋文をもって作ったといわれる横笛の像が安置されていた。(写真が掲示されているが、像は現存しない)
内苑には、臨春閣、旧天瑞寺寿塔覆堂、月華殿、天授院、聴秋閣、春草廬(いずれも重要文化財)などがある。
臨春閣は、慶安2年(1549)紀州徳川家初代藩主 徳川頼宣が、和歌山の紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造の別荘「巌出(いわで)御殿」を移築したものである。
聴秋閣(ちょうしゅうかく)は、徳川幕府三代将軍 徳川家光が、将軍となるにあたり京都に出向いた際、二条城の中に建てられ、のちに乳母の春日局に与えられた建物である。→ 春日局供養塔
三つの屋根を組み合わせた形状から移築前は三笠閣(みかさかく)という名称であったが、原三渓はこれを聴秋閣と改めた。
平成元年(1989)に大江宏の設計で建設された三渓記念館には、三渓の業績や美術品が展示されている。








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