高野山女人伝承ゆかりの地
高野山女人禁制のゆかりの地
女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。
女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉(きのととり)の。五月十五日なりしとぞ。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社
江戸時代に書かれた紀伊名所図会の「女人堂」の項には、高野山の女人禁制について、次のように記されている。
紀伊名所図会 女人堂
〇女人堂
諸国より参詣の女人投宿する所なり。
七口各(おのおの)堂ありといへども、此堂最大なり。
当山の内院に女人を禁ずる事、古(いにしへ)詳論あり。今具(つぶさに)陳ずるに及ばずといへども、いささか女児の為に其一端を述べむ。
惟(おもんみ)るに大師豈(あに)婦女を忌み給はんや。
其「誥記(こうき)」には、「女はこれ萬姓の本(もと)、氏族を廣め家門を継ぐ」とのたまへり。
然れども是と親近する時は、互に視聴の慾に誘われて、貞良如法(ていりょうにょほう)の弟子といへども、意外の過(あやまち)なきにしもあらず。
故(かるがゆえ)に「是を親むこと厚ければ、諸悪の根源嗷々の本なり」と示したまへり。
且弘仁聖主の勅(みことのり)にも、男の尼寺に入り、尼の僧院に赴く事を制したまふ。
迷源を塞ぎ慾根を断つ、聖慮祖意(せいりょそい)の深き所、其辱(かたじけな)きを察知すべし。
若(もし)有信の女子、一度(ひとたび)登詣してこの堂に宿し、遥(はるか)に伽藍を拝礼し、合絲聚塵(がっししゅじん)の微貨に拘らず、随分の功徳を修せば、
其良縁に因りて、忽(たちまち)長夜の迷室を出で、永く一真の覚殿に入らむ事うたがふべからず。
小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠(地蔵堂)である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろかなりけり」との句が書かれた屏風が、
三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で熊と共に生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂口に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、江戸時代に建立されたもので、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。→ 出雲崎散歩 町の話 高野山女人堂
不動坂口は、和歌山県高野山にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、不動坂口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
不動坂口 又京口ともいふ。一心院谷にあり。小田原谷にて大門口より入るものとあふ。神谷辻迄五十町。
此道登山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えてくるものと、
清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり。(後略)
谷上女人堂跡は、和歌山県高野山女人道にある。
高野参詣道の麻生津道・花坂道の女人堂があった場所である。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
谷上 壇場の正北にあり。東は本中院谷につづく。
谷上の義 一の瀧の條下に見ゆ。
壇場より嶽辨天へ通ずるの往還なり。
嶽弁財天は、和歌山県高野山にある七弁天のひとつである。。
高野山の外八葉と呼ばれる山の一つ弁天岳の山頂に祀られている。
高野山大門の北側に登山口があり、女人道参道に建ち並ぶ鳥居をたどっていくと、約30分で弁天岳の頂上(標高984.5m)に到着する。
女人道の杉木立の間からは、根本大塔を見下ろせる場所があり、かつては高野山に参詣した女性が、女人道から手を合わせたといわれている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
相傳ふ 大師 佛法紹隆福田のため 寶珠を此峰に痊埋し 寶瓶を安置して天女を勧請す
其後 妙音坊といふ天狗常に守護すといふ
南海高野線高野山駅からバスで大門前下車、徒歩30分。
龍神口(龍神口跡)は、和歌山県高野山大門南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、龍神口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
龍神口 又湯川口といひ、保田口あるひは簗瀬口ともいふ。
大門の左に通ず。龍神より十三里餘。
此道當山坤(ひつじさる)方の入口にして、
日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると、
新村にて合して大門に入る。
高野七口のひとつ「相ノ浦口」にあった女人堂の跡である。
相ノ浦口は、龍神、有田から高野槙の産地相ノ浦を経由して高野山に至る相ノ浦道ルートと女人道ルートの交差する地点である。
紀伊続風土記の「総分方巻之十二南谷」には、次のように記されている。
女人堂 山の堂ともいふ
本尊 地蔵菩薩 大師の作 南谷六地蔵の其一なり
六時の辻の南五町餘にあり 参詣の女人此所に宿す
當山七口の其一にて相浦口といふ
下乗札あり 花園荘相浦村まで壱里十一町許
大滝口女人堂跡は、和歌山県高野町にある。
高野山への七つの参詣道は高野七口と呼ばれ、女人禁制が解かれるまで女性はそこから山内に入れず、各入口には女性のための籠もり堂として女人堂が建っていた。
それらの女人堂を結ぶ道が当時の女性が歩いた道「女人道」として、現在も残っている。
大滝口女人堂跡は、高野七口の一つ「大滝口」にあった女人堂の跡である。
熊野参詣道のひとつ「小辺路」(こへち)の起点であり、高野山から大滝を経由して熊野につながる。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。(中略)
大瀧口 又熊野口といふ。小田原谷に通ず。此道當山東南の入り口なり。
熊野本宮に詣(けい)し、夫より絶嶮の深山幽谷を経て、凡(およそ)十五里にして高野に至る。(後略)
轆轤峠(ろくろとうげ)は、大滝口女人堂のあった場所で、女人禁制の頃、この峠付近から高野山内を、首を伸ばして見たという女性たちの姿からその名がついたと言われている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
轆轤峠 下乗檄あり
六時鐘の辻より東南へ去る事十町餘 當山七口の一なり
熊野参詣の路にして大瀧村まで壱里餘
円通律寺は、和歌山県高野山の蓮華(れんげ)谷から南へ一山越えた清閑な谷間にある。
本堂・坊舎(庫裏)・鐘楼門・宝庫・鎮守社・所化寮などの建物からなる。
霊岳山律蔵院と号し、本尊は釈迦如来(木造坐像、国指定重要文化財)である。。
古くは専修往生(せんじゅおうじょう)院と称し、高野山の別所のうち教懐によって開かれた小田原(おだわら)別所、覚鑁系の徒によって相続された中(なか)別所、明遍による東(ひがし)別所に対して新(しん)別所(真別処)ともよばれた。
別所とは、念仏聖の集まっているところをいう。
空海の十大弟子の一人智泉大徳の開基と伝え、智泉没後荒廃していたのを、文治年間(1185-89)に奈良東大寺再建の大勧進職をつとめた俊乗房重源が再興、専修念仏の道場としたという。
当時、源空や熊谷蓮生房等が登山して重源と好誼を結んだと言われる。
その後、重源が源頼朝の招請に応じて鎌倉に下向したため衰退したが、江戸時代 慶長17年(1612年)、2代将軍徳川秀忠に仕えていた山口修理亮入道重政(剃髪して「深慶」と呼ばれた)は、玄俊とともに重源の跡を慕って再興を図った。
元和5年(1619年)に再興なって、賢俊房良永を中興として招請した。
以後、真政房円忍・恵深房妙瑞・密門房本初・密乗房龍海など戒律堅固の住持に受継がれて今日に至っている。
江戸時代には末寺は大和国六院、和泉国・下総国各一院、摂津国二院、伊予国七院があった(紀伊続風土記)。
近代に入り、長く大会(だいえ)堂(蓮花乗院)が寺務を兼帯していたが、近年金剛峯寺に移管され、同寺座主が住職を兼ねる。
現在、事相講伝所が開設され、修行専門の道場となっており、拝観はできない。
参道入り口には、「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」「大界外相(だいかいげそう)」の結界石がある。
年に一度、旧暦4月8日に花盛祭が行われ、その時には参拝者も入ることができる。
国指定重要文化財の紙本著色十巻抄・紙本白描不動明王二童子毘沙門天図像がある。
2019年4月に本尊を安置する檀の下から「高野山奉納小型木製五輪塔」が見つかった。
2021年2月に国の文化審議会は、五輪塔と関係資料を登録有形民俗文化財とするように答申した。
南海高野線高野山駅からバスで、苅萱堂前下車、徒歩30分。
大峰口女人堂跡は、和歌山県高野山女人道23ポイント東側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれ、女人禁制が解かれるまで女性はそこから先の山内には入れず、
各入口には女性のための籠り堂として女人堂が建っていた。
当地は大峰口にあった女人堂の跡である。
大峰山から、洞川、天川を経て高野山に至る約59㎞の参詣道が大峰道と呼ばれた。
現地の案内板には、次のように記されている。
女人堂跡
ここには、五大尊堂があり、その脇に東口(大和口又は大峰口)の女人堂があった。
五大尊堂の本尊は、不動明王、大威徳、降三世、軍荼利、金剛夜叉で、明治時代の中頃までこの場所にあった。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩30分。中の橋駐車場から徒歩30分。
高野七口「東口」は、和歌山県高野山女人道にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
東 口
大和口又は大峰口ともよばれ、吉野より大峰山、洞川、天川を通り
高野山へとつながる修験道の道で弘法大師が高野山へと初めて入ったのもこの道です。
吉野から高野山に向かう道は、「弘法大師の道」「高野山発見の道」などと呼ばれる。
「Kobo trail」というトレイルランニングのイベントが行われる。
大峰口は、和歌山県高野山中の橋駐車場南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、大峰口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
大峰口 又東口といひ、野川口ともいふ。蓮花谷に通ず。大峰より凡そ十五里。
此道當山東方の入口にして、大峰山上より洞川に下り、天川を経て天狗木より入る。
俗此道筋を七度半道といふ。一度此道より登詣すれば、功徳七度半にあたるとぞ。
黒河口女人堂跡は、和歌山県高野町にある。
黒河道(くろこみち)は、和歌山県伊都郡にある高野参詣道の一つで、橋本市賢堂(かしこどう)から高野山千手院谷にある高野七口の一つ黒河口まで通じている。
紀伊續風土記の黒河村の項目には、「黒河は暗谷の義にして狭き谷のことなるへし」と書かれている。
橋本から高野山への近道とされ、また大和からの参詣客がしばしば利用することから、大和口とも呼ばれた。
黒河口女人堂は、高野七口にあった女人堂の一つで、現在は跡地に木製の案内板が建てられている。
南海高野線高野山駅からバスで高野山警察前下車、徒歩5分。
高野七口と高野山参詣道、登山路
入谷和也氏の「はじめての高野七口と参詣道入門」によると、
「高野七口」とは、高野山への代表的な参詣道や高野山の出入口または高野山への登山路の総称として用いられた。
七口名称 | 天正治乱記 の七口名称 |
元禄8年地図 の七口名称 |
他の名称 | 参詣道、登山路 | 主な経由地 | 備考 |
大門口 | 麻生津口 | 西口 | 町石道 | |||
矢立(八度)口 | 三谷道 | |||||
花坂口 | 麻生津道 | |||||
若山(和歌山)口 | 安楽川道 | |||||
細川道 | ||||||
不動坂口 | 学文路口 | 不動口 | 京大坂道 | |||
京口 | 槇尾道 | |||||
大坂口 | 東高野街道 | |||||
神谷(紙屋)口 | 西高野街道 | |||||
中高野街道 | ||||||
下高野街道 | ||||||
黒河口 | 大和口 | 黒川口 | 黒河道 | |||
千手院口 | 粉撞道 | |||||
粉撞峠口 | 仏谷道 | |||||
久保口 | 丹生川道 | |||||
太閤道 | ||||||
大峰口 | 大峰口 | 東口 | 大峰道 | |||
蓮華谷口 | 荒神道 | |||||
野川口 | 弘法大師の道 | |||||
大和口 | 高野山発見の道 | |||||
摩尼口 | ||||||
大滝口 | 熊野口 | 大瀧口 | 小辺路 | |||
熊野口 | ||||||
小田原口 | ||||||
相浦口 | 相浦口 | 相浦道 | ||||
龍神口 | 龍神口 | 湯川口 | 有田龍神道 | |||
保田口 | 辻堂口 | |||||
湯川口 | ||||||
梁瀬口 | ||||||
保田口 | ||||||
有田口 | ||||||
日高口 | ||||||
大円院は、和歌山県高野町高野山にある。
大円院は、光仁天皇の時代、延喜3年(903年)聖宝大師理源(しょうほうたいしりげん)が開いたもので、かつては多門院と呼ばれていた。
理源は、空海の高弟で実の弟であった真雅(しんが)の弟子となり真言密教の門に入り、後に京都醍醐寺を開いた人物として知られている。
そして鎌倉時代に、豊前豊後の守護職を務めた大友能直(よしなお)が帰依して、師檀契約を結んだ。
その後、1600年頃、戦国武将立花宗茂(むねしげ)(福岡柳川藩主)が高野山に登り、住職であった宣雄(せんゆう)阿闍梨に帰依し、宝塔を建立した縁で、宗茂の院号(大圓院殿松隠宗茂大居士)から、「大圓院(大円院)」と寺号を改めた。
寺内には、横笛ゆかりの瀧口入道旧蹟がある。
瀧口入道旧蹟 鶯の井戸は、和歌山県高野山大圓院にある。
平家の嫡男平重盛に仕えていた斎藤時頼という武者が、花見の宴席で建礼門院の雑仕女 横笛と恋に落ちる。
しかし、身分の違いから結ばれることはなかった。
時頼は、未練を断ち切るために出家し、瀧口入道を名乗り、女人禁制の高野山に移り住んで大圓院で修行を重ねた。
一方、横笛も出家し、奈良の法華寺で尼僧となっていたが、病となり高野山の麓の天野の里で亡くなった。
そのとき、横笛は鴬となって瀧口入道の居る大圓院に向かった。
瀧口入道が、梅の木に止まる鴬に気づいたところ、鴬は突然舞い上がり井戸に落ちたという。(「平家物語」巻第十)
大圓院の境内には、その井戸が残され、本尊の阿弥陀如来の胎内には、鴬の亡骸が納められているといわれる。
また高山樗牛は、明治27年に発表した小説「滝口入道」で、瀧口入道が高野山で平重盛の子維盛と再会する場面を描いている。
一方、五来重は、「増補 高野聖」で、宗教民俗学の立場から次のように記している。
ただわれわれは高山樗牛のように、そのセンチメンタリズムに幻惑されて聖の現実の姿を見失ってはならない。
滝口の侍 斎藤時頼も建礼門院の雑司女横笛も、もちろん実在ではない。
しかし「平家物語」が本筋からそれて、こんなフィクションをエピソードしていれるのは、
この文学の成立にあずかった高野聖のすがたを発心物語として出したかったからであろう。
横笛について、実在資料は見出されていないが、斎藤時頼は、「尊卑分脈」時長孫(「国史大系」第2巻)に載せられており、実在したと考えられている。
南海高野線高野山駅からバスで小田原通下車すぐ。
美福門院陵は、和歌山県高野山の蓮花谷不動院内にある。
鳥羽天皇皇后得子高野山陵(こうやさんのみささぎ)として、宮内庁が管理している。
美福門院(1117-1160)は、鳥羽上皇の皇后である。
藤原長実(ながざね)の娘で名は得子(とくし)といった。
鳥羽天皇は、皇后待賢門院との仲が不和で、高陽(かや)院を皇后とした。
しかし、期待された男子が生まれず、藤原得子を入内させ皇子(近衛天皇)が生まれた。
永治元年(1141)には、近衛天皇の即位式で皇后となり、久安5年(1149)には美福門院の号を宣賜された。
保元元年(1156)鳥羽上皇の臨終に際して、安楽寿院で落飾し、法名を真性空と称した。
永暦元年(1160)44歳で亡くなり、鳥羽東殿で火葬された。
「山槐記」には、「美福門院御骨奉渡高野御山、依御遺言也」と記されており、皇后の遺令で高野山に埋納された。
南海高野線高野山駅からバスで蓮花谷下車、徒歩10分。→ 美福門院供養墓地(御墓)
密厳院は和歌山県高野山往生院谷(蓮花谷)にある真言宗の準別格本山である。
本尊は金剛界の大日如来を祀っている。
密厳院は興教大師覚鑁上人の私坊で、大治5年(1130)の建立と言われている。
覚鑁上人は、密厳上人とも称したので、その寺名が起こった。
天承元年(1131)、覚鑁上人は鳥羽上皇の臨幸を仰いで、高野山に大伝法院を建立した。
長承元年(1132)には、鳥羽上皇臨幸のもとで、密厳院のお堂の落慶供養が行われた。
落慶と同時に紀伊国相賀荘が寺領として、鳥羽上皇から認められた。
しかし、その後高野山衆徒と覚鑁上人との確執で、保延6年(1140)密厳院は焼き討ちにあい焼失した。
上人は根来の豊福寺に退き、根来寺を建立して、後の新義真言宗の基礎を作った。
密厳院は、近世には苅萱堂を中心とした安養寺成仏院の子院となっていた。
現在の建物は、昭和6年(1931)に改築されたものである。
堂内には、興教大師覚鑁像と弘法大師空海像が祀られている。
山門脇の苅萱堂には、石堂丸にまつわる伝説が額で飾られており、山門前には石堂丸の母千里姫の墓が建てられている。
南海電鉄高野線高野山駅からバスで、苅萱堂前下車。
池内たけし句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂の東隣にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 朝寒や我も貧女の一燈を たけし
(後面) 昭和四十七年十月八日 別格本山普賢院
貧女の一燈は、奥の院燈籠堂にあり、消えずの燈明として知られている。
孝女のお照が、養親のために自らの黒髪を切り一燈を寄進したという。opera 「お照の一灯」 紀州かつらぎふるさとオペラ「お照の一灯」 貧女の一燈 孝女お照 ゆかりの地
池内洸(いけのうちたけし)(1889-1974)は愛媛県出身の俳人である。
高浜虚子の次兄池内信嘉の長男として生まれた。
能楽の振興に努めた家風の影響で、拓殖大学の前身である東洋協会専門学校を中退して宝生流の能楽師をめざしたが、師の宝生九郎の死で断念した。
大正2年(1913)頃から叔父の高浜虚子門下に入り、「ホトトギス」発行所につとめて指導を受けた。
昭和7年(1932)から「欅(けやき)」を創刊、主宰し、「たけし句集」「赤のまんま」などを発行している。
昭和49年(1974)に85歳で死去した。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。→ 高野山内の句碑
九度山萱野家句碑は、和歌山県高野山奥の院31町石南西の段丘にある。
芭蕉句碑の山側奥に位置しており、越後村上 堀家供養塔、下野壬生 三浦家供養塔の前を御廟側に約30m右手に進んだところにある。
五輪塔の地輪には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照) → 高野山の句碑
(南東面)
明治四十年八月廿日寂
藥王院良景徳翁居士
香德院員操妙正大姉
昭和十六年八月九日
俗名 菅野イチノ 行年八十三才
(北東面)
本郡名倉村産
俗名 萱野良景
行年 七十一歳
(北西面)
寂寞の
中に聲あり
呼子鳥
耕雨
(南西面)
九度山村産
俗名 萱野正
行年 八十五才
霊宝館だより第82号の「明治期の高野山と女性 萱野イチノという人」によると、
萱野イチノ(1859-1941)は、女人禁制下の高野山で初めて「居住」した女性として知られている。
慈手観世音菩薩、腕塚、大石順教尼之墓は、和歌山県高野山の奥之院にある。
慈手観世音菩薩像は、大石順教尼の発願で建てられたものである。
同尼が、両腕を失って81歳の天寿を全うできたのは、有縁の人々から慈悲の手をさしのべていただいたお陰であると同尼が合掌をしている姿である。
大石順教尼没後50年記念冊子に、腕塚の由来が記されている。
同尼の兄が死去した際に、兄嫁から、アルコール漬けの瓶に入った腕を本家の墓から引き取ってもらいたいと言われたという。
高野山に行った際に、当時の管長和田性海猊下に相談したところ、猊下から次のように言われた。
「それは面白い話やな、そのアルコール漬けの手を掘り出して、この高野山の奥の院に腕塚を建てようやないか、高野山にはいろいろな塚があるけど、腕塚というのは一つもない。
多くの手の無い人が悩んでいるだろう。そんな人たちが高野山へ上られたら、弘法大師の心の手を貰われる事がよかろうじゃないか、それは面白いはなしや、早々に腕塚を作ろう」
石碑の文字は、同尼の叔父と親交のあった徳富蘇峰氏が書いたものである。
慈手観世音菩薩像の西側には、大石順教尼腕塚歌碑がある。
南海電鉄高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。中の橋駐車場がある。
燈籠堂は、和歌山県の高野山奥之院にある。
燈籠堂は、弘法大師御廟の拝殿で、創建は弘法大師入定の年の翌年 承和3年(836年)にさかのぼる。
弘法大師の弟子の実恵、真然大徳が方二間の御堂を建てたのが最初である。その後治安3年(1023年)藤原道長によってほぼ現在の大きさのものが建立された。
堂内正面に、醍醐天皇から賜った弘法大師の諡号額、両側には十大弟子と真然大徳、祈親上人の12人の肖像が掲げられている。
堂内には、1000年近く燃え続けているといわれる二つの灯がある。
向かって右が、長和5年(1016年)に祈親上人が、廟前の青苔の上に点じて燃え上がった火を灯明として献じて高野山の復興を祈念したといわれるもので、祈親灯と呼ばれる。
髪の毛を売って献灯した貧女お照の物語に因んで「貧女の一灯」とも呼ばれる。
左には、寛治2年(1088年)に白河上皇が献じた「白河灯」があり、記録では上皇が30万灯を献じたとあり、俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
五来重は、著書「増補ー高野聖」において宗教民俗学の立場から、お照の一灯を献じた話は近世の聖が唱導したもので、
祈親上人が弘法大師以来の万燈会を復活することで、燈油皿一杯分の油の喜捨を勧めたとしている。
この他、ある皇族と首相により献ぜられた「昭和灯」のほか、地下を含めた堂内には、参拝者が献じた燈籠と弘法大師の小像が多数置かれている。
現在の建物は、昭和39年(1964年)に高野山開創記念事業として改修されたもので、桁行40.6m、梁間21.9mの大きさである。
また東側には昭和59年(1984年)の御入定千百五十年記念事業として記念燈籠堂が落慶した。
燈籠堂前庭には、昭和天皇御製歌碑がある。
燈籠堂の入口左右の対聯には、次の文の後半が掲げられている。
我昔遭薩埵 親悉傳印明
發無比誓願 陪邊地異域
晝夜愍萬民 住普賢悲願
肉身燈三昧 待慈氏下生
われ昔薩埵(さった)にあひて、まのあたり悉く印明をつたふ
無比の誓願をおこして 辺地の異域に侍(はべ)り
昼夜に万民をあはれんで、普賢の悲願に住す
肉身に三昧を証じて 慈氏の下生をまつ
この文は、弘法大師に大師号が下賜され、勅使中納言資澄(すけずみ)卿と般若寺の僧正観賢が高野山に下向し勅書を奏上した際、
入定中の弘法大師が醍醐天皇への返事として言われた言葉として、平家物語「高野巻」に記されている。
「自分は昔 金剛薩埵に遭って、直接目の前で印明をことごとく受け伝えた。
比類なく貴い誓願をおこして、辺地の高野山におります。
毎日毎夜万民をあわれんで、普賢菩薩の慈悲深い誓願を行おうとしている。
肉体のままで入定し、三昧の境地に入って、弥勒菩薩の出現を待っている。」(日本古典文学全集「平家物語」)
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。(M.M)(Y.N)
奥之院萬燈会は、10月1日から3日まで燈籠堂で行われる。
午後7時に御供所を出て、燈籠堂で約1時間声明が唱えられる。
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