徳川家康ゆかりの地

二条城

二条城は、京都市中京区にある史跡である。
東西500m、南北400mの城地総面積は275,000㎡で、世界文化遺産に指定されている。
慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるに際し、その居館として造営された。
その後、寛永2年(1626年)に三代将軍家光が、後水尾天皇の行幸に際し、大規模普請が実施された。
現在残る二の丸御殿(国宝)は、この時出来上がったもので、武家風書院造の代表的な御殿建築である。
南に唐門があり、内側に遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行型に並んでいる。
建築面積は3,300㎡、部屋数は33で、内部の障壁画は狩野探幽、尚信により各部屋の目的に応じて描かれたもので、重要文化財に指定されている。
二の丸庭園は、小堀遠州の作と伝えられ、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した書院造庭園で、国の特別名勝となっている。
慶応3年(1867年)15代将軍徳川慶喜が、二の丸御殿大広間に諸藩の重臣を集め、大政奉還の意思を発表した。
このため奇しくも二条城は、徳川幕府の最初と最後の舞台となったといわれている。
その後二条城は、新政府によって接収され、京都府庁として活用された後、明治17年(1884年)に二条離宮と改称したが、昭和14年(1939年)に京都市の所管となり、二条城に復称した。
現在も「史蹟舊二条離宮 二条城」の石碑が東大手門に残っている。
京都市営地下鉄東西線二条城前駅下車、徒歩2分。堀川通に面して来場者用の駐車場がある。



伏見桃山城 模擬天守

伏見桃山城 模擬天守は、京都市伏見区にある。
昭和39年(1964)に伏見桃山城キャッスルランドの開園に合わせて、伏見城跡北西部長束(なつか)郭に建設された模擬天守である。
伏見城の御花畠山荘の跡に建設されており、5重6階の大天守は50m、3重4階の小天守は30mの高さで、戦国時代から江戸時代にかけて建てられた当時の伏見城とは、直接の関係はない。

伏見城は、戦国時代から江戸時代にかけて、三回建設されている。
最初の城は、天正20年(1592)から着工し、文禄3年(1594)に完成したもので、豊臣秀吉が養子秀次に関白職を譲り隠居城としたものである。
場所は、宇治川に面する南斜面の指月山に築かれたことから、指月城と呼ばれた。指月伏見城跡の遺構が発掘されており、一部が見学できる。

この最初の城は、文禄5年(1596)7月伏見地方を襲った大地震により建造物が倒壊したため、
次の伏見城は場所を木幡山(こばたやま)に移し、慶長2年(1597)には、山頂を本丸とし、西の丸、松の丸、名護屋丸、日下部丸などからなる大型の近世城郭が完成した。
豊臣秀吉は、慶長3年(1598)8月に伏見城で亡くなっている。

秀吉の没後は、徳川家康が入ったが、慶長5年(1600)家康が上杉討伐に東下した留守を西軍に攻められて、二の丸などが炎上し陥落した。
これは関が原の戦いの前哨戦と位置づけられており、東軍守備隊の鳥居元忠らの武将が伏見城内の廊下で自刃し、その兵士らの血で染まった板は、養源院に血天井として残されている。
その後、徳川家康により復興され、家康・秀忠の将軍宣下式はこの三番目の伏見城で行われた。

大坂城落城後、元和5年(1619)に廃城が決定し、元和9年(1623)3代将軍徳川家光の将軍拝任式が行われた後、建造物は社寺や諸大名に下付され、伏見櫓の名を残すこととなった。
寛永2年(1625)には破却が完了している。その後、城跡一帯に桃が植えられたため、伏見桃山と言われた。
当時の本丸の位置には、明治天皇の伏見桃山陵が、また、その東の名護屋丸の跡地には、皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵がそれぞれ築かれている。
JR奈良線桃山駅下車、徒歩20分。



御香宮神社

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ、ごこうぐうじんじゃ)は、京都市伏見区桃山御香宮門前町にある。
祭神は、神功皇后、応神天皇、仲哀天皇ほか6柱が祀られている。

貞観4年(862)9月境内に香りの良い清泉が湧き出て、その奇瑞に因んで清和天皇から「御香宮」の社名を賜ったといわれる。本殿西側に御香水がある。
社名の由来については、もう一つの説があり、筑前国糟屋郡の香椎(かしい)の明神(神功皇后の廟)を勧請し、御香椎の宮の下の字を略して御香の宮としたといわれる。
中世に伏見宮家の庇護を受けて、伏見庄九郷の産土神として信仰を集め、有事の際の郷内の人々の集合場所として利用され、神事の際には猿楽、風流(ふりゅう)、相撲(すまい)などが勤仕されたことが、当時の日記に記されている。

文禄3年(1594)豊臣秀吉は、当社を伏見城の艮(うしとら)(北東)の大亀谷(おおかめだに)に移し、鬼門鎮護の神として、社領300石を寄進した。
現在の社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康の命により、元の場所に造営したものである。
また徳川家康が伏見に滞在中に、徳川御三家の藩祖である紀伊(頼宣)、水戸(頼房)、尾張(義直)および二代将軍秀忠の娘 千姫が生まれたことから、徳川家の産土神として崇敬された。
そのため、現存する古い建物の多くは徳川家から寄進を受けている。

境内南側の大手筋通りには、「黒田節」誕生の地の案内板がある。
当地の伏見桃山で、黒田家家臣の母里太兵衛(もりたへい)が、酒宴で大杯に注がれた酒を見事に飲み干して、福島正則から「呑みとりの槍」を貰い受けたとの話が紹介されている。

大手筋通りの表門は、元和元年(1622)に水戸藩祖の徳川頼房が寄進した伏見城の大手門を移したものと伝えられている。
三間一戸、切妻造り、本瓦葺の薬医門で国の重要文化財に指定されている。
正面の4個の蟇股は、中国の二十四孝の物語(向かって右から揚香(ようこう)、郭巨(かっきょ)、唐夫人(とうふじん)、孟宗(もうそう)が描かれている。

表門を入った西側には、伏見義民の碑(伏見義民事蹟)がある。
幕末の慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いでは、当社は新政府軍(薩摩藩)の陣営となり、南の伏見奉行所にいた幕府軍との戦いの舞台となったことから、本殿南西に「伏見の戦跡」の石碑が建てられている。
社務所内の石庭は、(小堀)遠州流の手法を生かして中根金作氏が作庭したもので、文明9年(1477)銘の見事な手水鉢がある。
10月1日から10日まで催行される「神幸祭(しんこうさい)」は、古くから伏見祭と呼ばれ、洛南一の大きな祭りとして知られている。
近鉄京都線桃山御陵前駅下車、徒歩2分。参拝者用の有料駐車場がある。




知恩院

知恩院は、京都市東山区にある浄土宗の総本山である。
この地は、法然上人が比叡山から下り、草庵(吉水の草庵という)を結び、初めて浄土の教えを宣布した所である。
法然上人の死後、文暦元年(1234年)に弟子勢観房源智(せいかんぼうげんち)が廟所を整えて華頂山知恩教院大谷寺と号し、自ら当寺第2世となった。
応仁の乱の当時には一時兵火を近江に避けたが、のち徳川家康の手厚い帰依を受け、広大な寺地の寄進を受けて寺観を整えた。

三門は徳川秀忠が、元和元年(1621年)に建立した日本最大の木造二重楼門で、国宝に指定されている。
悟りの境地に至る「空門(くうもん)」「無想門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」(三解脱門)を表わすことから三門といわれる。
本堂(御影堂みえいどう 国宝)は寛永16年(1639年)、大方丈・小方丈(いずれも重要文化財)は、寛永18年(1641年)の建築である。
大鐘楼(重要文化財)の大鐘は高さ3.3m、口径2.8m、重さ70トンで、日本三大梵鐘の一つとして広く知られている。
僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は、京都の冬の風物詩として有名である。

知恩院の北の入口にある黒門は、慶長年間(1596-1615)に伏見城に建てられ、その後知恩院に移されたといわれており、京都府指定文化財となっている。
寺宝として、阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)ほか多数を有している。
鴬張りの廊下、抜け雀など、知恩院の七不思議も良く知られている。
京都市営地下鉄東西線東山駅下車、徒歩8分。京都市バス知恩院前下車、徒歩3分。参拝者駐車場がある。→ 方丈庭園 友禅苑 法然上人御廟 千姫の墓 濡神大明神



平野郷樋尻口門跡 樋ノ尻口地蔵

平野郷樋尻口門跡及び樋ノ尻口地蔵は、大阪市の平野環濠都市遺跡の一つである。
戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態で、周囲には自治と自衛のための濠がめぐらされていた。
濠のあいだには大小13の木戸があり、八尾、古市、堺などに道路が放射状にのびていた。
樋ノ尻口門は、八尾久宝寺につながる大きな木戸で、門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があった。
樋ノ尻口地蔵も当時の名残である。郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事は、この入口で退散させようとした祈願のあらわれである。
大坂夏の陣の元和元年(1615年)5月7日、徳川家康の樋ノ尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛け大坂城へ引き揚げた。予想通り家康が来て、ここで休憩したが、ちょっと座を外した時に地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説がある。
現在、全興寺に祀られている首地蔵は、この時の爆発で吹き飛んできた樋ノ尻地蔵の首と伝えられている。
これらの門は、明治12年のコレラ流行の時は閉じられ、通行人の出入りを制限したという。門は、この時より後に撤去された。
JR大和路線平野駅から徒歩16分。



南宗寺

龍興山南宗寺は、堺市堺区南旅籠町東にある臨済宗大徳寺派の禅宗寺院である。
初めは南宗庵と称して、正覚普通国師の隠棲の地だったが、国師に深く帰依した三好長慶が寄進し、父元長の霊を弔うため、1557年に大林宗套(だいりんそうとう)を迎え寺を創建した。
当初は宿院町南方にあったが、1615年に大坂夏の陣で他の寺院とともに焼失したため、1617年に当時の住職澤庵宗彭(たくあんそうほう)が現在地に再建した。
第二次世界大戦の空襲にも罹災したが、古田織部作といわれる枯山水の庭園、八方睨みの龍の描かれた仏殿、山門、唐門などが残り、本堂、客殿なども再建され、堺市第一の禅寺として多くの参拝客が訪れる。
茶道とのゆかりが深く、境内には、武野紹鷗や千利休一門の供養塔、当時茶の湯の発展に尽くした津田家、半井家一門の墓所がある。
1963年には、利休好みの茶室「実相庵」が再建され、前庭には利休の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」や武野紹鷗が愛したとされる「六地蔵石燈籠」が置かれている。
また、境内には、徳川家康の「墓」があり、家康が大坂夏の陣で真田幸村の奇襲を受けて、後藤又兵衛の槍で突かれて、南宗寺で絶命したとの伝説がある。
元和9年(1623年)7月10日二代将軍秀忠が、つづいて8月18日に三代将軍家光がそれぞれ南宗寺に詣でて、参拝したといわれる。
この元和9年は、7月に秀忠が将軍職を辞し、家光が三代目を継いだ年で、この墓に報告に来たのではないかといわれている。
阪堺電気軌道阪堺線の「御陵前」下車、徒歩5分、参拝者用の無料駐車場がある。




岐阜関ケ原古戦場記念館

岐阜関ケ原古戦場記念館は、岐阜県関ケ原町にある。
中山道、北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝であったこの地は、日本武尊(やまとたける)のゆかりの地や壬申の乱の戦場となるなど、日本の歴史の重要な舞台となってきた。
なかでも慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」は、全国の武将が東西両軍に分かれて激突した「天下分け目」の戦いで、のちに260年以上続く天下泰平への幕開けとなるものであった。

当地の記念館では、「グラウンドビジョン」でスケールの大きな戦いを俯瞰したあと、シアターで迫力のある映像を見て、合戦の中にいるような体験ができる。
また武具や書状がある展示室、戦国体験コーナー、展望室などがあり、関ヶ原の戦いを五感で味わえる施設である。
JR東海道線関ヶ原駅下車徒歩10分。来訪者用の駐車場がある。



徳川家霊台

徳川家霊台は、和歌山県高野町にある2棟の霊屋である。
三代将軍家光が、大檀主となり創建されたもので、十数年の歳月をかけ1643年に落成した。
左右同じ二棟の建築物からなり、向かって右が家康霊屋、左が秀忠霊屋である。
建物は、三間四方の一重宝形造で、江戸時代の代表的霊廟建築として重要文化財に指定されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「波切不動前」下車。



紀州東照宮

紀州東照宮は、和歌山市和歌浦にある神社である。
「和歌の浦には名所がござる。一に権現」とうたわれ、古くから「権現様」の愛称で親しまれている。
その社殿の壮麗なことから、紀州日光、関西日光などと称される。
祭神は、徳川家康と紀州藩初代藩主徳川頼宣で、東照大神、南龍大神として祀られている。
創建は元和7年(1621年)で、徳川頼宣が社殿を造営し、父家康の霊を祀ったのが始まりである。
初め東照大権現と称したが、正保2年(1645年)日光山大権現の改称に伴って現社名に改めた。
大正6年(1917年)に、歴代藩主の崇敬社で藩祖を祭神とする南龍神社を合祀して現在に至っている。
境内は、権現山を含む約6万㎡の広大なもので、本殿、石の間、拝殿、唐門、東西瑞垣、楼門、東西回廊はいずれも国の重要文化財に指定されている。
極彩色の社殿には、左甚五郎の彫刻や狩野、土佐両派の絵画があり、宝物庫には、刀剣類を初め数多くの社宝類が納められている。
JR和歌山駅、南海電車和歌山市駅からバスで「和歌浦口」下車、徒歩8分。(Y.N)

和歌祭

和歌祭は、毎年5月に行われる紀州東照宮の大祭の渡御の呼称で、「紀州の国祭」「天下祭」「権現祭」とも呼ばれている。
元和8年(1622年)、藩祖徳川頼宣が東照宮の大祭として4月と9月に行ったのが始まりである。
それ以降伝承されている祭は、和歌山の伝統芸能が集約されている市内最大の祭典で、摺り鉦太鼓や雑賀踊り、薙刀振りなど60余りの株の渡御行列が神輿とともに練り歩き、数か所設けられた演武ポイントでは、各種目の芸技が披露される。




安土城跡

安土城跡は、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦(しもといら)の安土山(標高199m)にある特別史跡である。
織田信長(1534-1582)が天下統一のための拠点として築いた平山城で、天主(天守閣)を有する日本最初の近世城郭として知られる。
普請奉行は信長重臣の丹羽長秀で、天正4年(1576)に着工し、天正7年(1579)にほぼ完成した。
現在は四方とも干拓により陸地となっているが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖、常楽湖)に囲まれ、南方だけが開けていた。
織田信長は、着工直後に岐阜の稲葉山城から安土城に移った。その理由は、越後の上杉謙信対策と北陸の一向一揆監視で、岐阜城よりも京に近いという利便性や琵琶湖水運を掌握するという利点も指摘されている。
天主完成から3年目の天正10年(1582)6月2日 本能寺の変で、織田信長が自刃し、6月15日には天主などを焼失して落城した。原因は、織田信雄が誤って焼き払ったという説や明智光秀軍による放火という説がある。
延長約180mの大手道西側には、伝羽柴秀吉邸跡などがあり、二の丸跡には、織田信長公本廟がある。
天主跡は東西、南北それぞれ約28mの台地で、礎石が1.2mおきに並んでいる。
ここには、五層七階(地上6階地下1階)の天主(高さ33m)があり、イエズス会の宣教師ルイスフロイスは、「ヨーロッパにあるとは思えないほどの壮大さ」であったと記している。
また、かつて徳川家康邸の場所には、現在摠見寺が建てられている。
JR東海道線安土駅下車、徒歩25分。来訪者用の駐車場がある。





安土城天主 信長の館

安土城天主 信長の館は、滋賀県近江八幡市安土町にある。
館内には、スペインセビリア万国博覧会(平成4年)に出展された安土城天主の最上部5、6階部分を、博覧会終了後に解体移築し、
庇屋根、金箔約10万枚貼りの外壁、5階部分の天井、最上部大屋根を増設したものが展示されている。
また、織田信長が徳川家康をもてなした膳「天正十年安土御献立」が展示されている。
JR東海道線安土駅下車、徒歩25分。来訪者用の無料駐車場がある。→ 安土城跡






金ヶ崎城跡 天筒城跡

金ヶ崎城跡、天筒城跡は、福井県敦賀市にある。
金ヶ崎城は敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城である。
現在は周囲が埋め立てられたが、北、西、南の三方を海に囲まれ、東に隣接する天筒山城に続く尾根にも要害(城戸)を設けており、難攻不落の城として知られた。
築城時期、築城者は不明であるが、養和元年(1181)9月木曽義仲を討つべく越前に向かった平通盛のことを記した「玉葉」にある「津留賀城」は、当城であるといわれる。
ここでは、二度の大きな合戦が繰り広げられた。

一度目は、南北朝時代で 二年余りにわたる金ヶ崎城争奪戦である。
延元元年(建武3年)(1336) 足利尊氏が京都で光明天皇(北朝)を擁立したため、後醍醐天皇(南朝)は吉野へ移った。そして、新田義貞は、後醍醐天皇の皇子 尊良親王、恒良親王とともに金ヶ崎城に籠城した。
延元2年(1337)正月 北朝の高師泰(こうのもろやす)率いる足利軍が攻撃を開始し、新田義貞は城を脱出して杣山城(南越前城)の軍勢で戦ったが、敗れて撤退した。
同年3月には、金ヶ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王も捕らえられ、京都で毒殺された。
延元3年(1338)新田義貞らの反撃で、南朝方は金ヶ崎城を奪還したが、翌年北朝方が取り戻した。
新田義貞は、延元3年7月越前国藤島の燈明寺畷で戦死している。

二度目は、戦国時代で、「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦である。
元亀元年(1570) 織田信長が京都から近江、若狭を経て越前に侵攻した。
信長軍の丹羽長秀らが沼地から朝倉軍に攻め込み、天筒山城を陥落させ、金ヶ崎城の朝倉景恒(かげつね)は、信長軍に城を明け渡した。
織田信長は城を修築し、朝倉攻略の拠点とする構えを見せたが、近江の浅井長政が朝倉方と図り越前国境に迫っていると知って急ぎ撤退した。織田信長は僅か十人ほどの供と、京都に帰還したという。
後世には、この戦いについて、織田信長の妹で浅井長政の妻となっていた「お市」が、両端を紐で固く結んだ小豆袋を届けて、挟み撃ちとなる危機を知らせたという逸話もうまれた。
この時の織田信長軍には、木下秀吉、徳川家康、明智光秀も加わっており、彼らも九死に一生を得たという。
後に、太閤記で「金ヶ崎退き口」と書かれてよく知られるようになったが、一色藤長書状には、「金ヶ崎城に木藤、明十、池筑その他残し置かれ」と記されており、木下藤吉郎秀吉、明智十兵衛尉光秀、池田筑後守勝正らが、殿をつとめた。

JR北陸本線敦賀駅からバスで金崎宮口下車、徒歩5分。来訪者用の駐車場がある。








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