高野参詣道 槙尾道 
槙尾山 施福寺 → 槙尾山明神社 → 高野下駅 → 不動坂 → 女人堂

施福寺

槇尾山施福寺は、大阪府和泉市にある天台宗の寺院である。
寺伝によると、欽明天皇の病気平癒を祈願した行満上人が、弥勒菩薩を本尊として建立したのが始まりとされる。
その後、役行者が法華経の最後の巻を納めたとの伝承から、槇尾(巻尾)山の山号が用いられるようになった。
西国33所霊場第4番札所の十一面千手千眼観世音菩薩は、宝亀2年(771年)に行基の高弟、法海上人によって祀られた。
寺伝では、寺に粗末な身なりの客僧が参籠し、黙々と勤行を続けた。
やがて客僧は、山を降り、泉大津の浦へ向かった。上人らが後を追うと海上に消え、紫雲に包まれた千手観音が出現し、上人はその姿を模して観音像を刻み、寺に安置したという。
延暦12年(793年)に勤操僧正が戒師となり、弘法大師空海が剃髪した寺で、剃髪所跡と伝わる愛染堂や御髪堂、姿見の井戸など、大師ゆかりの史跡も多く残されている。
本堂には、弥勒菩薩坐像、十一面千手千眼観世音菩薩像、文殊菩薩立像が安置されており、5月1日から15日まで本尊開帳法要が行われる。
泉北高速鉄道和泉中央駅からバスで「槇尾中学校前」下車、和泉市オレンジバスに乗り換え、終点「槇尾山」下車、徒歩40分。バス停横に参拝者用の駐車場がある。



槙尾山明神社

槙尾山明神社は、和歌山県九度山町にある。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
〇槇尾山明神社  境内周六町八間
 本社 一間半 一間 高野明神 白髭明神 合祀
 摂社 弁財天社 一間二尺 五尺
村の東三町許槇尾山にあり 一村の氏神なり
御手印縁起に北は槇尾山を限ると見えたるは即此森山なり
祭礼 六月十四日 十一月十四日なり
  別当 遍照寺 槇尾山
 村の東にあり 大日堂薬師堂祖師堂釣鐘堂等あり

寛政10年(1798年)に書かれた遍照寺縁起の「善根功徳之記」に、槇尾山の由来と別当寺の遍照寺の起源が次のように書かれている。
「この山は神代の昔から有為の峰といって丹生・白髪大明神のあるところ、弘法大師が槇尾山で修行されておられた頃、かたわらの弁財天を御信仰なされて、日夜お参りされていた。
高野山をお開きになってからも厚く信仰され、月に九度ずつ槇尾山に参詣されていた。ところがある日、九度山まで下ってこられた時、吉野川に大水が出ていた。どうして渡ればよいのかと沈んでおられた。
そこへ弁才天が現れて、この地にわれを移し祀れ、と告げられた。
そこで大師はこの山へ弁才天を移し祀り、槇尾山という御自筆の額を掲げられた。
この時から社を槇尾明神社といい、傍らに別当寺を建てて槇尾山遍照寺と名付けられた。」

境内西側には、槙尾山明神法華経供養碑があり、案内板に次のように記されている。
九度山町指定文化財
槙尾山明神法華経供養碑 (歴史資料)
この法華経供養碑は、もとは明神社の参道脇に建立されていたものである。
遍照寺の「善根功徳之記」によれば、寺も宮も共に槙尾山と号し、この明神山にあり、寺が宮の管理も行っていたようである。
この供養碑は、遍照寺の移転後もこの明神山に残されていたもので、明治以前の神仏一体の信仰の歴史を知る貴重な資料である。「貞和五年(一三四九年)建立」
  平成四年一月二十四日指定
    九度山町教育委員会

南海高野線九度山駅下車、徒歩5分。




椎出厳島神社

椎出厳島神社は、和歌山県九度山町椎出にある。
もとは椎出村の産土神であったが、明治44年(1911)、町内にある上古沢の厳島神社に合祀され、社殿のみが当地に残された。
毎年8月16日には椎出鬼の舞が行われる。
南海高野線高野下駅下車、徒歩3分。





玉椎山地蔵寺

玉椎山地蔵寺は、和歌山県九度山町椎出にある高野山真言宗の寺院である。
境内には、本堂(旧・地蔵堂)、薬師堂、大日堂などがある。
庫裏の天井には、「地蔵昇龍」が描かれている。平成28年(2016)に奉納されたもので、本尊である地蔵菩薩を頭上に載せた昇龍が、珠玉を掴んでいる。
南海高野線高野下駅下車、徒歩3分。





苅萱堂跡

苅萱堂跡(椎出道)は、和歌山県九度山町にある。
江戸時代に書かれた紀伊国名所図会巻之四には、学文路村にある苅萱堂の絵が大きく描かれている。
大正14年(1925年)に、南海鉄道が九度山駅から高野下駅まで延長され、高野山参詣の人々が高野下駅のある椎出から徒歩で登ることとなった。
そのため、人通りの減少した学文路の苅萱堂を椎出道に移したものである。
しかし、昭和3年(1928年)に高野山電気鉄道が高野下・紀伊神谷間の営業を開始し、翌年極楽橋駅まで延長されたため、椎出から登る人はなくなり、荒廃した建物と苅萱堂と記された石柱が残されている。
建物内は、弘法大師の絵も残されており、往時の様子が偲ばれる。
南海高野線高野下駅下車、徒歩1時間45分。苅萱道心、石童丸、石堂丸ゆかりの地




三星山彦句碑(高野町神谷)

三星山彦句碑(高野町神谷)は、和歌山県高野町細川にある。
高野街道京大坂道の一里石の西にある「むすびの地蔵堂」横に、石碑が建立されている。
句碑には次のように刻されている。
(表面)
吹雪ゐる山河少年の日の山河 山彦
(裏面)
先生の句は
ふるさとの山がかえしたこだま
ふるさとのこころを満□る
わたしたちは神谷を愛し
神谷が生んだ
俳人山彦先生を称える
一九七〇年(以下判読困難)

三星山彦(1901-1988) 本名は三星義二(よしじ)。
明治34年和歌山県伊都郡高野村神谷の里に生まれた。
高野村役場、総本山金剛峯寺で勤めた。
俳句は大正5年(1916)頃に高野村長 清水喜三郎(号 颯々庵孤松)に勧められてはじめる。
昭和2年ホトトギスに投句し、高浜虚子の指導を受ける。
昭和6年ホトトギス巻頭の高野山大火の句によって一躍有名となった。
ホトトギス同人、天狼同人。紀伊山脈刊行会選者。
句集に「三星山彦句集」がある。
平成3年没(91歳)。
当地の句碑は、昭和45年(1970)、神谷出身の俳句連衆(三星清、石田貞雄、大家信次、福井健三氏)によって建立された。
南海高野線紀伊神谷駅下車、徒歩15分。極楽橋駅から京大坂道を歩いて約30分。




四寸岩

四寸岩(しすんいわ)は、和歌山県高野町西郷にある。
四寸岩の上部に四寸岩記念碑と石塔が建てられている。

現地の案内板には、次のように記されている。

四寸岩とは、弘法大師空海の足跡と伝承される窪みが2つ残る岩のことで、名前の由来は、窪みの幅が4寸(約12cm)であることからです。
かつて、高野七口のひとつである高野街道京大坂道を利用する上で、参拝者はこの場所を必ず通らなければなりませんでした。
「紀伊国名所図会」には、
「(前略)往来の人、片足をここにかけざれば、歩むことなりがたし。故に世人伝えて、親の足跡を踏むといひ習はせり(後略)」
とあり、四寸岩は難所のひとつであるとともに、信仰の対象となっていたことがわかります。
また、古くは「紀伊続風土記」にこの岩について
「(前略)古老の伝にこの足痕は大師の踏凹め給ふ(後略)」
とあり、江戸時代にはすでに伝承が存在していたことがわかります。

「高野山独案内名霊集」(明治30年刊)には、参詣の道路名勝として次のような紹介がある。
これぞ名高き
四寸岩 昔大師はこの山を。開き給ひしそのをりに。踏みて残せし足の跡。千代も朽せぬこの岩を。
父や踏みけむ母上も。踏みて縁(えにし)を結びけん。こひしき父母や同胞(はらから)の。契り堅き岩の跡。
心残して過行けば。清く流るゝ渓川(たにがわ)の。無為正浄の水の音。聞くもうれしき極楽橋。渡ればこれぞ不動坂(後略)

また、「伝説の高野山」(昭和4年刊)には、上記の紀伊続風土記の内容を踏まえて、次のように記されている。
    四寸岩
 乗物に拠らず、舊道を通って極楽橋から四丁計り下ると往来を塞いで大きな岩がある。
これが四寸岩で、大師の足跡だと言ふ凹んだ個所がある。昔の参詣人は皆この凹みを踏んで上ったものだ。
 これをこじつけて止駿岩、即ち駿馬も攀ぢる事が出来ないので、此處で止まったのだと言ったり、いや子孫岩で、過去の親の足跡を踏むからだと言ふ説もある。
もっと穿つたのでは、「蟻のとわたり」と称へて、人間のからだに譬へ、此處を通つたら、どんな悪人でも生まれ代ると言ふ説も傳へられている。
あの明治の仇討もこの四寸岩を越せば打てなかったのだと、附け加へる者もある。

明治維新以降、牛馬道が開設され、当地を通過する参詣人がなくなって荒れていたため、明治26年には、高野村大字西郷の清水五兵衛から高野山教議所宛てに道路修繕の願書が出されている。
また、その後、現在の南海電鉄高野線の前身である高野山電気鉄道の極楽橋駅が昭和4年(1915)に建設されたため、四寸岩周辺は一般の人が通過しなくなった。
南海高野線極楽橋駅から徒歩約20分。



岩不動

岩不動は、和歌山県高野町の京大坂道不動坂にある。
紀伊名所図会には、次のように記されている。
「岩不動 路傍の岩に不動の種子(しゅじ)あり。大師の御爪鐫(おんつまぼり)なりといふ。」
種子とは仏教で諸尊をあらわす梵字のことで、弘法大師空海がこの岩盤のどこかに不動明王の梵字を刻んだという意味である。
不動明王は、ヒンドゥー教のシバ神の異名で大日経によると「不動如来使者は、慧刀、羂索を持ち」と表現されており、
不動明王像は、9世紀初めに空海によってわが国に伝えられたといわれる。
この梵字を見つけることは今となっては難しいが、このあたりの山脈は堅固な岩盤が連続しており、
その光景自体が不動明王を思い浮かべるような迫力がある。
南海高野線高野山駅からバスで女人堂下車、徒歩20分。


萬丈が嶽

萬丈が嶽は、和歌山県高野町の清不動堂の北約100mのところにある。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
「下向路の右に断崖絶壁あたかも掌を立てるが如し
直下に谷を瞰臨するに数千丈許にして底なきが如し」
また、江戸時代には重罪人が手足を縛られ、ここから追放されたので「萬丈転がし」とも呼ばれていた。
紀伊続風土記の治爵の項には次のような記述がある。
「一等軽ものは不動坂萬條谷に追払う 
俗に此処を萬丈転といふ
罪人を縛し此の谷底に放捨す」
南海高野線極楽橋駅から不動坂を徒歩約20分。




兒滝(稚児滝)

兒滝(ちごのたき)は、和歌山県高野町の清不動堂の北約50mにある。
京大坂道(不動坂)を登ると道標のある左手に、林立する樹木の合間から滝が見え、兒滝(稚児滝)と呼ばれている。
滝の名称については諸説あるが、江戸時代後期編集の「紀伊続風土記」には、
「昔兒の捨身せし所といひ傳ふ」とある。

「紀伊名所図会」には、次のように記されている。
兒滝 花折坂の下にあり。昔兒の捨身せし所といひ傳ふ。
一帯の清泉、積翠萬畳(せきすいばんでふ)の中より流失し、
こ々に至りて直下千尺、珠砕け玉踊る天工、言語の及ぶ所にあらず。

また「遥かに見下せば一条の白布ななめに翠壁にかかる」と古書に記された美しい滝である。
宝永5年(1708)に初演された近松門左衛門作の浄瑠璃「心中万年草」では、
高野山吉祥院の成田粂之助と神谷の雑賀屋の娘 お梅が、この世では実らぬ恋をはかなんで、兒滝を経て、女人堂で心中する様子が次のように浄瑠璃で語られる。
死出の山路を越ゆるかと 心細しや卒塔婆谷。(中略) 今宵散り行く初桜 児が滝とぞ涙ぐむ。
(中略) 一つ回向の水汲めや 手向けの梅の花折り坂 辿り越ゆれば暁の 五障の雲に埋もるゝ 女人堂にぞ着きにける。
(出典 「曽根崎心中 冥途の飛脚 他五篇」 岩波文庫)

南海高野線極楽橋駅下車、徒歩20分。



清不動堂

清不動堂(きよめのふどうどう)は、和歌山県高野町の京大坂道の不動坂にあるお堂である。
古くは、「外の不動堂」と呼ばれていたお堂があり、杉材で作られた像高84cmの不動明王坐像が本尊として祀られていたが、現在は風化による破損が著しいため、高野山霊宝館に収蔵されている。
紀伊名所図会によると、この「外の不動堂」は、もともと弘法大師の草創で、寛文年間(1661-1673)に、備前の国上道郡金岡荘(かみじごおりかなおかのしょう)の野崎家久入道が再建したとされる。
その後、明治16年(1883年)に焼失し、明治20年に大阪伏見町の上田みちという助産婦により再建された。
大正4年(1915年)に不動坂が全面改修され新しいルートとなったため、外の不動堂は荒廃していたが、大正9年(1920年)に大阪の桝谷清吉、寅吉の親子が、新しい不動坂へ修復移転し、清不動堂を建立したものである。
移転前の外の不動堂は、いろは坂とよばれる急坂を登ったところにあったため、高野町の案内板が建てられている。
また、さらに北に歩くと旧不動坂と馬廻道交差点石標が建てられており、次のように記されている。
  右 加ミや まきのを
     い世 京 大坂
  寛政四年壬子年七月立
  南無大師遍照金剛

南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車、徒歩約15分。極楽橋駅から不動坂を徒歩で約30分。



花折坂

花折坂は和歌山県高野町にある。
京大坂道不動坂清不動堂女人堂のほぼ中間に位置する。
紀伊名所図会には次のように記されている。
「花折(はなをり) 女人堂より下にあり。参詣の諸客、此所にて花を折りて、大師に捧ぐるもあり。
又「をりとれば手(た)ぶさにけがるたてながら三世の佛に花たてまつる」とうたひて過ぐるもあり。」
挿絵には巨大な華瓶(けびょう)が2基描かれている。
高野山を目前にした参拝者たちはこの場所で花を摘んで、華瓶に供えた。
和歌山県教育委員会、高野町教育委員会による平成22年からの調査では、華瓶の一つが発見された。
江戸時代初期に製造、建立されたとみられる。正面に「弘法大師御法楽」「四所明神御法楽」と刻されている。
総高97.4cmの砂岩製である。「はじめての「高野七口と参詣道」入門」(入谷和也氏著)では、当時の発見の様子が記されている。
少し南側には石仏と石塔が建てられている。
南海高野線高野山駅からバスで女人堂前下車、徒歩10分。




女人堂

女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。

女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
  施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
  悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
  高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
  菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉(きのととり)の。五月十五日なりしとぞ。

南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社





江戸時代に書かれた紀伊名所図会の「女人堂」の項には、高野山の女人禁制について、次のように記されている。

紀伊名所図会  女人堂

〇女人堂
諸国より参詣の女人投宿する所なり。
七口各(おのおの)堂ありといへども、此堂最大なり。
当山の内院に女人を禁ずる事、古(いにしへ)詳論あり。今具(つぶさに)陳ずるに及ばずといへども、いささか女児の為に其一端を述べむ。
惟(おもんみ)るに大師豈(あに)婦女を忌み給はんや。
其「誥記(こうき)」には、「女はこれ萬姓の本(もと)、氏族を廣め家門を継ぐ」とのたまへり。
然れども是と親近する時は、互に視聴の慾に誘われて、貞良如法(ていりょうにょほう)の弟子といへども、意外の過(あやまち)なきにしもあらず。
故(かるがゆえ)に「是を親むこと厚ければ、諸悪の根源嗷々の本なり」と示したまへり。
且弘仁聖主の勅(みことのり)にも、男の尼寺に入り、尼の僧院に赴く事を制したまふ。
迷源を塞ぎ慾根を断つ、聖慮祖意(せいりょそい)の深き所、其辱(かたじけな)きを察知すべし。
若(もし)有信の女子、一度(ひとたび)登詣してこの堂に宿し、遥(はるか)に伽藍を拝礼し、合絲聚塵(がっししゅじん)の微貨に拘らず、随分の功徳を修せば、
其良縁に因りて、忽(たちまち)長夜の迷室を出で、永く一真の覚殿に入らむ事うたがふべからず。


小杉明神社 

小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠(地蔵堂)である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、
三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で熊と共に生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂口に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、江戸時代に建立されたもので、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。→ 出雲崎散歩 町の話 高野山女人堂





不動坂口

不動坂口は、和歌山県高野山にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、不動坂口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路  七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
 (中略)
 不動坂口 又京口ともいふ。一心院谷にあり。小田原谷にて大門口より入るものとあふ。神谷辻迄五十町。
        此道登山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えてくるものと、
        清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり。(後略)





高野七口と高野山参詣道、登山路

入谷和也氏の「はじめての高野七口と参詣道入門」によると、
「高野七口」とは、高野山への代表的な参詣道や高野山の出入口または高野山への登山路の総称として用いられた。

 七口名称 天正治乱記
の七口名称 
元禄8年地図
の七口名称 
 他の名称  参詣道、登山路  主な経由地  備考
 大門口  麻生津口  西口    町石道    
       矢立(八度)口  三谷道    
       花坂口  麻生津道    
       若山(和歌山)口  安楽川道    
         細川道    
             
 不動坂口  学文路口  不動口    京大坂道    
       京口  槇尾道    
       大坂口  東高野街道    
       神谷(紙屋)口  西高野街道    
         中高野街道    
         下高野街道    
             
 黒河口  大和口  黒川口    黒河道    
       千手院口  粉撞道    
       粉撞峠口  仏谷道    
       久保口  丹生川道    
         太閤道    
             
 大峰口  大峰口  東口    大峰道    
       蓮華谷口  荒神道    
       野川口  弘法大師の道    
       大和口  高野山発見の道    
       摩尼口      
             
 大滝口  熊野口  大瀧口    小辺路    
       熊野口      
       小田原口      
             
 相浦口    相浦口    相浦道    
             
 龍神口  龍神口  湯川口    有田龍神道    
   保田口    辻堂口      
       湯川口      
       梁瀬口      
       保田口      
       有田口      
       日高口      
 





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