女人道ハイキング 女人堂から辨天岳を経て高野山大門 


スタート 女人堂 → (女人道ハイキング) 嶽弁財天 (女人道ハイキング) → 高野山大門 → 恵向院(昼食) 
女人道ハイキング 距離 約2km 約1時間

不動坂口

不動坂口は、和歌山県高野山にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、不動坂口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路  七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
 (中略)
 不動坂口 又京口ともいふ。一心院谷にあり。小田原谷にて大門口より入るものとあふ。神谷辻迄五十町。
        此道登山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えてくるものと、
        清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり。(後略)




女人堂

女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。

女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
  施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
  悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
  高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
  菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉(きのととり)の。五月十五日なりしとぞ。

南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社




小杉明神社 

小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠(地蔵堂)である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、
三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で熊と共に生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂口に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、江戸時代に建立されたもので、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。→ 出雲崎散歩 町の話 高野山女人堂




巴陵院

巴陵院は、和歌山県高野町高野山の準別格本山である。
「禁裏御所坊」といわれる、皇室ゆかりの格式ある寺院である。
開基は不詳で、大永5年(1525年)後柏原天皇の第三皇子青蓮院宮尊鎮(そんちん)親王が当院に寓居し、以降小田原御所坊と称した。
創建当初は、「福蔵院」と呼ばれていたが、戦国時代から江戸時代にかけて相馬家、高木家、伊達家などの諸大名の菩提寺となった。
そして承応2年(1653年)に相馬義胤(よしたね)の法号にちなんで、「巴陵院」と寺号を改称した。
小田原谷安養院の南にあったが、昭和初期に現在地に移った。
本尊は、鎌倉時代作の阿弥陀如来である。寺宝には、親鸞直筆の「時雨の御影」、日本最古の霊石といわれる本願石などがある。
葛城修験との関係が深く、本堂には役行者像と法螺貝が安置されている。
6月第1日曜日には、紫燈大護摩が行われる。
また、円弁法師が唐船や高麗船などの貿易船の祈祷を行って以来、海上安全の祈願所になっている。
南海高野線高野山駅からバスで一心口下車すぐ。→ 伊達宗重夫妻供養塔 大光寺 しぐれ松




明恵上人供養塔

明恵上人供養塔は、和歌山県高野山一心院谷にある。
明恵上人(1173-1232)は、鎌倉時代の華厳宗の学僧で、高山寺を再興したことで知られる。

昭和4年に発行された「高野山のしをり」には、次のように記されている。
   明惠上人墓
 案内所の後山にあり。上人は栂の尾山の大徳なり。當国有田郡に生れ、舊里内崎山寺を創建して住すること四年。
 去りて栂の尾に還る。安貞二年貞暁上人の招請に応じて登山し、此地に住せり。
 一夏中観坐せしに、所観の阿字光を放てり。因りて其住坊を阿光院と称す。この地はその舊跡なり。

案内所とあるのは、「参詣人所縁坊取調案内所」で、全国からの参詣客の該当宿坊を調べて案内するところで、不動坂口女人堂から2町離れたところにあった。
南海高野線高野山駅からバスで一心口下車。バス停横の登り口から約30m。



高野山コウヤマキ希少個体群保護林

高野山コウヤマキ希少個体群保護林は、和歌山県高野山の女人堂付近にある。
女人堂前の案内板には、次のように記されている。

高野山コウヤマキ希少個体群保護林
Koyamaki Protected Forest
大昔は世界中に広く分布していましたが、約1万年前までにはほぼ滅びてしまって、
今では日本と韓国の一部(済州島)にだけ生えているコウヤマキ。
とくに、これだけの規模のコウヤマキの純林は、世界でここ高野山にしかありません。
コウヤマキ : 高野槙、高野槇 学名 Sciadopitys verticillata
(英文 中略)
ここ(女人堂)から遊歩道で約20分です。ぜひご覧ください。
林野庁 和歌山森林管理署



谷上女人堂跡

谷上女人堂跡は、和歌山県高野山女人道にある。
高野参詣道の麻生津道・花坂道の女人堂があった場所である。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
谷上  壇場の正北にあり。東は本中院谷につづく。
     谷上の義 一の瀧の條下に見ゆ。
     壇場より嶽辨天へ通ずるの往還なり。



嶽弁財天

嶽弁財天は、和歌山県高野山にある七弁天のひとつである。。
高野山の外八葉と呼ばれる山の一つ弁天岳の山頂に祀られている。
高野山大門の北側に登山口があり、女人道参道に建ち並ぶ鳥居をたどっていくと、約30分で弁天岳の頂上(標高984.5m)に到着する。
女人道の杉木立の間からは、根本大塔を見下ろせる場所があり、かつては高野山に参詣した女性が、女人道から手を合わせたといわれている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
相傳ふ 大師 佛法紹隆福田のため 寶珠を此峰に痊埋し 寶瓶を安置して天女を勧請す
其後 妙音坊といふ天狗常に守護すといふ
南海高野線高野山駅からバスで大門前下車、徒歩30分。



高野山大門

高野山大門は、和歌山県高野町にある高野山の表玄関である。
慈尊院からの町石道を登りきったところにあり、高野山の壇上伽藍の入り口にあたる。
1140年に建てられたもので、それ以前は約500m下の九折谷に一基の鳥居があり、それが一山の総門になっていた。
現在の門は、1705年に再建されたもので、高さ25m、間口21メートル、奥行き8メートルの5間三門開きの朱塗りの楼門である。
両脇の金剛力士像は、江戸時代の仏師康意、運長の作である。大門前広場には木国句碑がある。

主柱に掛けられた対聯(ついれん)には、「日々の影向(ようごう)を闕(か)かさず」「処々の遺跡を検知せん」と記されている。
この2句は、日日影向文(にちにちようごうもん)とも呼ばれ、寛治年間(1087-94)に東寺の定額(じょうがく)僧正勝実(しょうじつ)という僧侶が、讃岐国善通寺において感得したという「御筆の一筆」の次の文から採られたものという。
「居を高野の樹下に卜(ぼく)し、心神を兜卒(とそつ)の天上に遊ばすと雖も、
 日々の影嚮を闕かさず、処々の遺跡を検知せん」
弘法大師は、住まいを高野山奥の院の樹下に選び定め、心は弥勒菩薩が住む兜卒天に赴いているけれども、
毎日姿を現して、縁のある各地に出向き巡検され、衆生の救済に力を注がれている、という意味である。
対聯の書体は、法性寺流(ほっしょうじりゅう)と呼ばれるもので、弘法大師に深く帰依した後宇多上皇の宸筆を写したものといわれている。

南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「大門」下車すぐ。
自家用車の場合は、橋本経由の国道370号ではなく、かつらぎ経由の国道480号の方が運転しやすい。
大門前のT字路を伽藍方向に左折せず直進すると、約300mでお助け地蔵前駐車場がある。




田村木国句碑

田村木国句碑は、和歌山県高野山大門広場の南隅にある。
石碑には次のとおり刻されている。
  山門を出でて秋日の谷深し  木国
高野山大門から西を眺めると、鳴子谷の先に葛城、和泉の山を一望することができる。
特に秋の夕刻には、太陽の沈む姿が美しく、多くの参詣客が静かに見入っている。
木国(もっこく)(1889-1964)は、本名を田村省三といい、新聞記者、俳人として活躍した。
全国高校春夏の野球大会(旧中等学校)創設の功労者として知られる。
田村木国は、明治22年1月1日に和歌山かつらぎ町笠田中で、寺子屋を開いていた文次郎の長男として生まれた。
2歳の時、父の就職に伴い大阪に移り、北野中学から三高に進み、中途退学した。
明治43年(1910)大阪朝日新聞社に入社し、社会部で全国中等学校優勝野球大会を創案し、大正4年(1915)8月18日に豊中球場で第1回大会が開催された。
昭和8年(1933)に大阪毎日新聞社に移り、整理部長、学芸部顧問を歴任した。
俳句においては、大正6年(1917)に高浜虚子に入門し、大正11年創刊の「山茶花(さざんか)」で活躍した。
昭和21年には同名の俳句誌 山茶花を創刊して主宰し、昭和39年に76歳で没した。
毎年夏に開かれる高野山の俳句大会には、選者として37回参加したという。
「秋郊」「大月夜」「山行」などの句集を刊行している。
句碑裏面には、昭和三十二年七月廿一日 総本山金剛峯寺 と刻されている。→ 高野山内の句碑




お助け地蔵尊

お助け地蔵尊は、和歌山県高野町にある地蔵で、「助けの地蔵」とも呼ばれている。
高野山大門の南側、女人道に面した高野七口の一つ龍神口の近くに祠が建てられている。
言い伝えによると、高野山に住んでいたおじいさんが、熊野の辻を歩いていると「助けて」と声が聞こえたという。
声のする方向を探すと、道際の小さな谷に地蔵尊が落ち込んでいたので、道まで引き上げて安置した。
しかし、人通りの少ない寂しい場所であったので、地蔵尊を抱えて高野山まで帰り、龍神口近くに祠を建て、毎日お参りを続けたところ、この地蔵尊がみんなの願いをひとつずつかなえてくれるようになったという。
また、願い事は、一生に一度だけ聞いてくださるとか、お礼参りには丸いものをお供えするとよいとも言われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「大門」下車、徒歩5分。道路を隔てた西側に駐車場がある。




龍神口

龍神口(龍神口跡)は、和歌山県高野山大門南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、龍神口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路  七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
 (中略)
  龍神口  又湯川口といひ、保田口あるひは簗瀬口ともいふ。
        大門の左に通ず。龍神より十三里餘。
        此道當山坤(ひつじさる)方の入口にして、
        日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると、
        新村にて合して大門に入る。




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