日本遺産 女人高野を巡る

所在自治体 
河内長野市(大阪府)
宇陀市(奈良県)
九度山町(和歌山県)
高野町(和歌山県)

室生寺

室生寺は奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派の大本山である。
奥深い山と室生川の渓谷に囲まれたこの寺の一帯は、室生火山帯の中心部で、古くから神々の宿る聖地と仰がれてきた。
室生寺の草創について書かれた最古の資料「宀一山年分度者奏状(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)」によると、
宝亀年間(770-780)、時の東宮(のちの桓武天皇)山部親王が病気になった時、法相宗興福寺の賢璟(けんきょう)など5人の高僧が、竜神信仰のあった室生の地で延寿法を行い、
病気平癒の卓効があったことから、勅命により国家のために室生寺が創建された。
9世紀前半、賢璟の高弟である興福寺の僧修円(771-835)が跡を継いでから、室生寺の伽藍が整備された。
修円の時代、高野山から空海の高弟真泰(しんたい)が、比叡山から天台僧円修が入山し、法相、真言、天台の各宗兼学の寺院として発展した。
鎌倉時代後期、南都興福寺のもとにあった室生寺に、真言密教にとって重要な意味を持つ潅頂堂や御影堂が建立され、
江戸時代に入って、真言僧護持院隆光の力添えで、五代将軍徳川綱吉の母桂昌院の命によって、元禄11年(1698年)に興福寺を離れて真言寺院となった。
当時、女人禁制の高野山に対し、室生寺は女人の参詣も許されたことから「女人高野」と呼ばれている。
境内には、金堂(国宝)、五重塔をはじめとした建造物や、木像釈迦如来立像(国宝)など平安時代前期を中心とした数多くの優れた仏教文化遺産が残されている。
また、石楠花や紅葉など四季折々の自然も豊かで、多くの参詣者が訪れる。
近鉄大阪線室生口大野駅からバスで室生寺前下車徒歩5分。参拝者用の有料駐車場がある。




大野寺 

楊柳山大野寺は、奈良県宇陀市室生大野にある真言宗室生寺派の寺院である。
寺伝によると、白鳳9年(681)に役小角(えんのおづぬ)により創建され、天長元年(824)に弘法大師空海が室生寺を開創した時に西の大門と定めて一宇を建て、
本尊弥勒菩薩像を安置して慈尊院弥勒寺と称したという。その後、地名を名づけて大野寺と称した。
本堂には、木造地蔵菩薩立像(国指定の重要文化財)が安置されている。
鎌倉時代の寄木造りの作品である。目には玉眼が入れられ、衣には截金(きりがね)文様がみられる。
永正年間(1504-21)に、土地の豪族の侍女が放火の罪を着せられ火焙りの刑に処せられる際、
侍女が日頃信仰していたこの地蔵が身代わりとなったことから「身代わり焼け地蔵菩薩」と呼ばれ、
後頭部から背面に焼け跡が残っている。
また鎌倉室町時代の興福寺伝法院で書写された大般若経六〇〇巻のうち、三六〇巻が現存している。
明治33年(1900)に大火があり、伽藍のほとんどが焼失した。
現在の本堂、鐘楼、庫裏などはその後に再建された。
近鉄大阪線室生口大野駅下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。

史跡大野寺石仏

この石仏は鎌倉時代の初期 興福寺の雅縁大僧正が笠置寺本尊弥勒菩薩摩崖仏を模して造立することを発願し、
承元元年(1207)から宋人石匠が彫刻し、承元3年(1209)3月7日に落慶供養が営まれた。
落慶供養には後鳥羽上皇が公卿や武将を従えて臨み、宸翰を胎内に収めたと記録されており、
大正5年(1916)の調査で小巻子を検出したが、朽ちていたため開くことができず再び胎内に戻された。
宇多川の対岸 屛風ヶ浦と呼ばれる流紋岩質溶結凝灰岩の岩壁を、二重光背形に彫込み、その内面を水磨きして、高さ11.5mの弥勒磨崖仏が線刻されている。
また石仏の左下には摩崖尊勝曼荼羅がある。
2.8m四方の輪郭の中に直径2.2mの円を彫り、中央に金剛界大日、周辺に諸仏、明王、童子を表す梵字が刻まれている。
大野寺石仏は、昭和9年(1934)に、対岸の大野寺境内地も含めて国の史跡に指定された。




天野山金剛寺

天野山金剛寺は、大阪府河内長野市にある真言宗御室派大本山の寺院である。
寺伝では、天平年間(729-749)に、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創し、のち弘法大師が密教修行をした地と伝えられている。
その後寺は衰微したが、後白河法皇の勅願により、1170年代に高野山の阿観上人が復興した。
後白河法皇の妹八条女院は、密教の信仰が厚く、阿観上人に帰依し、真如親王筆の弘法大師像を寺域内の御影堂に安置し、
一切の行事を高野山と同様にして、女性が弘法大師と御縁を結ぶ霊場とした。
また八条女院の侍女姉妹も出家して、浄覚、覚阿として寺務を行い、女人高野として栄えた。
南北朝時代初期から南朝方の勅願所となり、1354年から1359年までは、後村上天皇の行在所となり、天野行宮と呼ばれた。
境内には、光厳、光明、崇光の三上皇が使用された「北朝三上皇御座所」がある。
承安年間(1171-1175)造営の金堂内には、本尊の木造大日如来像、脇侍の木造降三世明王坐像、木造不動明王坐像が祀られている。
広い境内は、国の史跡に指定され、長い歴史を物語る諸堂が建ち並び、周囲の自然豊かなみどりは大阪みどりの百選にも選ばれている。
南海高野線河内長野駅からバス「金剛寺前」下車すぐ。参拝者用の有料駐車場がある。





天野街道

天野街道は、大阪府堺市から河内長野市までを結ぶ街道である。
堺市岩室で西高野街道から分岐し、泉北丘陵(陶器山丘陵)を尾根伝いに南下し、女人高野ともいわれる天野山金剛寺へと向かう古道である。
古代には、河内国と和泉国を分ける境界で、金剛寺からさらに南紀州の「熊野」に通じる信仰の道として利用された。
大阪狭山市今熊から大野西までは、陶器山丘陵に残る自然の中を進む道で、平成7年に建設省(国土交通省)の「手づくり郷土賞」を受賞しており、平成9年には「大阪の道99選」に選定された。
街道からは、金剛山脈や和泉山脈の眺望を楽しむことができる。


慈尊院

慈尊院は、和歌山県伊都郡九度山町にある高野山真言宗の寺院である。
空海(弘法大師)が816年に高野山を開山した際、金剛峯寺の建設と運営の便を図るため、慈尊院が山麓の拠点として開かれた。
以来高野山領の発展と共に整備され、高野山の玄関口として「高野政所」と呼ばれていた。
空海の母玉依御前は、この地で亡くなったと伝承されており、その廟所に弥勒菩薩を安置したところとして知られている。
弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。
後世「女人高野」といわれ、女人禁制の高野山に対して、女性の参拝客も多い。
有吉佐和子の小説「紀ノ川」にも、親子二代続けて安産祈願の乳形を奉納する寺として描かれており、現在も信仰は続いている。
本尊の木造弥勒仏坐像は国宝である。
参詣道「高野山町石道」の登り口にあり、参詣者が一時滞在するところともなっている。
境内には、高野山案内犬ゴンの石碑が建てられている。
ゴンは、昭和時代の紀州犬と柴犬の雑種で、いつしか慈尊院をねぐらとして、高野山町石道の約20㎞の道のりを、高野山上の大門まで参詣者を道案内し、慈尊院まで戻っていた。
2002年6月5日にゴンは亡くなったが、境内の弘法大師像の横に石碑が建てられた。
本堂弥勒堂は世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩25分。
山門前と東側100メートルのところに駐車場がある。






丹生官省符神社

丹生官省符神社は、和歌山県伊都郡九度山町にある神社である。
この神社は、金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守として、丹生明神と高野明神の二神をまつり、当初は紀ノ川の河畔に鎮座した。
その後、現在の地に移され、神々を合祀し、明治に入って三殿となった。
現在の神社名は第二次世界大戦後のもので、荘園時代には、「神通寺七社明神」とよび、近代には単に丹生神社と呼ばれていた。
社殿は何れも一間社春日造り、檜皮葺で、丹塗りと極彩色が施された華麗な社殿が、金剛峰寺の方角を意識して東西一列に北面して並んでいる。
三棟の社殿は、丹生、高野両明神を祀る第一殿と気比明神を祀る第二殿が永正14年(1517年)、厳島明神を祀る第三殿が天文10年(1541年)に再建されたものである。
本殿は、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩25分。





町石道 180町石

町石道 180町石は、和歌山県九度山町慈尊院南側の階段踊り場西側にある。
町石道は、高野山へ通じる参詣道の一つで、一町(109m)毎に石造の五輪卒塔婆が建てられている。
慈尊院から高野山伽藍までの町石道の山麓部最初の町石が、180町石である。
五輪卒塔婆の地輪部には、次のように刻されている。
正面   (梵字)百八十町 権僧正勝信
左側面  為先師前僧正聖基
右側面  文永9年(1272)十二月 日

寄進者の「権僧正勝信」について、木下浩良氏は、著書の中で次のように記している。
高野山町石の完成式(開眼法要)
 高野山町石の完成式というべき法要は、弘安八年(1285)10月21日に町石の開眼法要という形で行われました。
開眼法要とは、新しくできた仏像に仏の魂を迎え入れる法要のことです。
 その法要の導師を務めたのが、このときに高野山の座主(一寺の事務を統括する寺院の代表者)であった、京都東寺の長者(首長のこと)の勝信(しょうしん)でした。
古い時代の高野山の座主は東寺長者が兼務していました。勝信は関白九条道家の子供です。京都勧修寺長吏(首長のこと)、奈良東大寺の別当(寺の事務を統括する寺院の代表者)なども歴任しています。
 勝信はこの当時の宗教界の大物でした。高野山の町石の180町石の造立もしています。
 開眼法要は、150人もの僧侶が集まって行われました。(後略)

南海電鉄高野線九度山駅下車、徒歩25分。




町石道 第1町石

町石道は、和歌山県かつらぎ町の慈尊院から高野山に通じる総距離24キロメートルの参道である。
金剛峯寺への参詣道は、「高野七口」 (大門口、不動坂口、黒河口、大峰口、大滝口、相浦口、龍神口)といわれるようにいくつかのルートが開かれていたが、このうち最も早く開かれ、その後も主要参詣道として利用されたのが「高野山町石道」である。
町石が建立されたのは、根本大塔から奥の院までの36町と根本大塔から慈尊院までの180町の間である。
1町(約109メートル)ごとに、高さ約3メートル、幅30センチメートル、重量約750kgの五輪卒塔婆形式の石柱がある。
当初木製の卒塔婆であったが、老朽化したため、貴族や御家人などの寄進で1265年から1285年に町石として建立された。
町石の側面には、壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教の金剛界36尊及び胎蔵界180尊の梵字、寄進者の名前、設立の年月日及び目的などが彫り込まれている。
現在は、ハイキングの道として親しまれており、紀ノ川の眺めなどを楽しめる。
第1町石は、高野山根本大塔の道路横にあり、第180町石は、慈尊院内にある。
南海電鉄高野線九度山駅、紀伊細川駅等下車。


女人堂

女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。

おたけ地蔵尊

女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
  施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
  悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
  高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
  菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉の。五月十五日なりしとぞ。

南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社





小杉明神社 

小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠(地蔵堂)である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、
三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で熊と共に生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂口に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、江戸時代に建立されたもので、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。





子継峠(粉継峠)

子継峠(粉撞峠)は、和歌山県高野町の黒河道沿いにある。
黒河道は高野七口の一つ黒河口に至る高野参詣道で、橋本市賢堂から高野山の千手院谷に通じている。
橋本から高野山への近道とされ、また大和国からの参詣客がしばしば利用することから、大和口とも呼ばれた。
子継峠の祠には、緑泥片岩製の舟形光背のある地蔵菩薩立像が安置されている。
総高84cm、幅40cmで銘文が左右に彫られている。
向かって右に「十三年 検校重任」、左に「香舂(こつぎ)峠 永正九壬中八月廿二日」と刻されている。
高野山主の検校の重任(ちょうにん)が、室町時代の永正9年(1512年)に造立したものである。
高野山大学図書館課長 木下浩良氏によると、「峠の地蔵」と明らかにする地蔵石仏では、全国でも最古の遺物と見られている。
平成28年の世界遺産登録に際して、この地蔵菩薩が黒河道の文化的遺産の一つとして評価された。
高野山黒河口女人堂跡から徒歩約60分。



高野七口と高野山参詣道、登山路

入谷和也氏の「はじめての高野七口と参詣道入門」によると、
「高野七口」とは、高野山への代表的な参詣道や高野山の出入口または高野山への登山路の総称として用いられた。

 七口名称 天正治乱記
の七口名称 
元禄8年地図
の七口名称 
 他の名称  参詣道、登山路  主な経由地  備考
 大門口  麻生津口  西口    町石道    
       矢立(八度)口  三谷道    
       花坂口  麻生津道    
       若山(和歌山)口  安楽川道    
         細川道    
             
 不動坂口  学文路口  不動口    京大坂道    
       京口  槇尾道    
       大坂口  東高野街道    
       神谷(紙屋)口  西高野街道    
         中高野街道    
         下高野街道    
             
 黒河口  大和口  黒川口    黒河道    
       千手院口  粉撞道    
       粉撞峠口  仏谷道    
       久保口  丹生川道    
         太閤道    
             
 大峰口  大峰口  東口    大峰道    
       蓮華谷口  荒神道    
       野川口  弘法大師の道    
       大和口  高野山発見の道    
       摩尼口      
             
 大滝口  熊野口  大瀧口    小辺路    
       熊野口      
       小田原口      
             
 相浦口    相浦口    相浦道    
             
 龍神口  龍神口  湯川口    有田龍神道    
   保田口    辻堂口      
       湯川口      
       梁瀬口      
       保田口      
       有田口      
       日高口      
         女人道    


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