高野山 壇上伽藍案内

總持院

總持院は、和歌山県高野山の本中院谷にある真言宗の別格本山である。
平安時代の久安年間(1145年-1151年)に創建された寺院で、開基は高野山第二八代の検校 行恵総持房(久安5年(1149年)検校就任)である。
本尊は無量寿如来である。
東隣は総本山金剛峯寺で、南側は道路を隔てて壇上伽藍があり、門前には、東南院の開基と伝えられる智泉大徳廟がある。
覚法親王御陵を背景にもつ大庭園をはじめ、池庭、苔庭、石庭等大小5つの庭園や宿坊を有し、境内前庭には樹齢千数百年の白藤がある。
幹蔓は周囲1m以上あり、約20m四方の藤棚に無数の蔓が広がっている。
明治34年(1901年)に、仁和寺第三十世の小松宮彰仁(あきひと)親王が「登竜の藤」と名付けられた。
紀伊続風土記には、摠持院と記され、成就院、正塔院、理性院、龍城院などの寺院を合併している。
合併した成就院は、仙台伊達藩の菩提所であった。
雁屋哲作、花咲アキラ画の「美味しんぼ」103巻、106巻で当寺の精進料理が描かれている。




小松宮彰仁親王御旧跡 登龍の藤

小松宮彰仁親王御旧跡は、和歌山県高野山の別格本山総持院に建てられている。
小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王(弘化3年(1846年)-明治36年(1903年))は、幼名を豊宮といい、安政5年(1858年)に親王宣下を受け、
同年9月25日に仁和寺第三十世純仁法親王となった。
慶応3年(1867年)に復飾し、仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)と称した。
慶応4年には、鳥羽伏見の戦いにおいて出陣、軍事総裁をはじめ海陸軍務総督などに任じられ、戊辰戦争に加わり、奥州討伐総督として官軍の指揮を執った。
仁和寺には、彰仁親王の軍服や軍帽、新政府軍の旗印となった「錦の御旗(縦約300センチ、横65センチ)が所蔵されており、
平成30年4月27日から5月6日まで特別に公開された。
国際親善にも熱心で、ヨーロッパ各国を歴訪した。1887年に夫人とともにトルコを訪問した際には、アブデュルハミト2世に会い、明治天皇からの勲章を手渡した。
その答礼として、オスマン提督の指令の元軍艦エルトゥールル号が東京へ派遣され、公式代表団は明治天皇に会っている。
その帰路にエルトゥールル号が串本で遭難し、多くの犠牲者が出たが、当時の村人は献身的に救助活動を行ったことで知られる。

総持院正門西側の石碑には、次のように刻されている。
(正面)  小松宮彰仁親王御旧跡
(右面)  現住秀善代
(左側)  高野山門主前官 隆俊書  
(裏面)  妙蓮和光童子
      淑徳院秋蓮放光大姉
      為供要吉田春吉是建
また、小松宮彰仁親王(楞厳定院御室)の位牌が、総持院本堂に安置されている。

別格本山総持院の「登龍の藤」は、小松宮彰仁親王が名付けたもので、5月初旬前後には独特の幹の上に、白い花が咲き誇る。
金剛峯寺第411世座主 資延敏雄(すけのぶびんゆう)氏は、「高野山金剛峯寺随想」において、「登龍の藤」を次のように紹介している。

  高野山の雪月花
 お大師さまの詩文には、高野山の雪月花がいたるところで詠まれています。雪月花とは、四季折々
に楽しむ眺めと解します。私は、色紙を所望されたとき、雪月花と書き、下方に高野山と書きます。
高野山の雪月花を思い起こし、想いをお山に馳せていただきたいと念ずるからです。お大師さま
が高野山に登られているときに、友人の良岑安世(よしみねのやすよ)から手紙が届きました。
そのお返事が私の好きな文章の一つで、性霊集巻第一の七「山中有何楽」です。
  山鳥 時に来りて歌うこと一奏
  山猿 軽く跳って伎は倫(ともがら)に絶えたり
  春華 秋菊 笑って我に向い
  暁月 朝風 情塵を洗う
 高野の山鳥が身近に飛んできて美しい音色で歌を一曲きかせてくれる。山猿が軽々と木から木へととび移り、
すばらしい演技をみせてくれる。春がきて咲く花、秋になって薫る菊の花も私に向かって「こんにちわ」と
語りかけてくる。夜明けの月も、すがすがしい朝の風も、こころの塵とけがれを洗ってくれた。
自然と一つになり、お大師さま自ら小鳥や山猿と一体となり、春の花や秋の菊ににこやかに迎えられる。
お互いに天地大自然のいのちの中で、くったくもなく自然に生きている。山の中にあって、
こころのけがれも消えて生かされ生きている。心境は何物にもかえがたい。楽しみである---と。
 ある日の朝、一座の修法を終え庭へ出ました。よく晴れた朝でした。勅使門の西のくぐり戸をあけて
伽藍に向かいます。大塔、金堂、御社、御影堂から中院におりて帰路につきました。
 久し振りの道です。今まで気が付かなかったのですが、とても素晴らしい花の匂いが漂ってきました。
それは本山の西隣りの総持院さんの門のあたりからです。門の前で足をとめました。
境内一杯に拡がった見事な藤棚です。二十メートル角の棚の上に真っ白な花が天を向いて見事に咲き揃い、
芳香を放っているのです。手入れの行き届いた境内です。思わず門から中に入って藤に近づきました。
藤は大抵は棚から花が下に下がっているのに、なんと天に向かって頭をそろえて咲いている白い花の群がりを見て、
ただただ驚くばかりでした。蔦が中心に集まって幹になったかと思うと棚のところで四方に分かれて伸びています。
朝の多忙の時間で、御挨拶を遠慮していましたが、私のことを奥に知らせたのか、院家さんが出てこられました。
御挨拶を申し上げ御説を拝聴しました。現在高野からは古伝の藤の銘木はすべて姿を消して
惟一株、この「登龍の藤」だけが残っているそうです。明治三十四年、小松宮彰仁親王が御登嶺の時、
その芳香を尋ねて親しくご覧になられ「登龍の藤」と命名された由です。上綱さんの説明を拝聴し、
この「登龍の藤」の姿をまだ知らない方々にもお伝えしたい気持ちで、上綱さんから写真を数枚いただいたので
掲載しました。花には咲く時期があり、私もその時期を失するところでありました。
この藤との出会いは高野の山での貴重な思い出となりました。高野吟行の句に「七堂伽藍巡りて高野の余花にあう」との一句があります。
また禅語の「花を弄すれば香り衣に満つ」という語もこの風景にぴったりです。


智泉大徳廟

智泉大徳廟は、和歌山県高野山の壇上伽藍東塔東側(総持院前)にある。
智泉(789-825)は、讃岐出身の平安時代の僧で、空海の甥にあたる。
父は、讃岐滝宮の宮使で、菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉である。
延暦8年(789年)に生まれ、16歳の時に大安寺を本寺として出家した。
大同年間(806-809)に、嵯峨天皇皇后橘嘉智子が皇孫誕生祈願を命じ、
山城国相楽郡報恩寺(現在の岩船寺)で、智泉が普賢菩薩を刻んで祈願したところ、
弘仁元年(810年)皇子(後の仁明天皇)が誕生した。
弘仁3年(812年)高雄山寺の三綱の一、羯摩陀那となる。
以降常に空海の側近として苦楽を共にし、真言宣布の事業を助け、空海十大弟子のひとりとなっている。
弘仁12年(821年)空海の指授で、諸天灌頂神、菩薩灌頂神を図写している。画技に優れ、その画風は智泉様と称せられた。
天長2年(825年)、智泉大徳が37歳で高野山東南院にて入寂した時、空海は次の文を残している。

「亡弟子智泉が為の達嚫(だつしん)の文」
(略)吾飢うれば汝飢う、吾楽しめば汝ともに楽しぶ(略)
哀(あわれ)なる哉、哀なる哉 哀れの中の哀れなり
悲しき哉、悲しき哉 悲しみの中の悲しみなり (略)
哀なる哉、哀なる哉、復哀なる哉
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉(略)

達嚫(だつしん)とは、サンスクリットのdaksinaの音写で、供物を捧げるときに読む文である。
江戸時代寛政8年(1796)に作成された高野全山絵図には、東塔東側に東南院があり、「智詮廟」が描かれている。
(下記写真参照。写真出典 日野西眞定「高野山古絵図集成」))
大正13年(1924年)9月14日一千百年忌に際し、石碑が新造され、昭和43年(1968年)には参道が修築された。


蟠龍庭 

蟠龍庭は、和歌山県高野山金剛峯寺の勅使門と奥殿の間に造られた石庭である。
面積2,340㎡で、わが国最大の石庭である。
雲海の中で雌雄一対の龍が、金剛峯寺の貴賓室である奥殿を守っている形が表現されている。
龍は弘法大師のふるさと四国産の花崗岩140個が並べられ、雲海には京都の白砂が使われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩5分。自家用車の場合は、表門前に無料駐車場がある。


六時の鐘 

六時の鐘は、和歌山県高野山金剛峯寺にある。
この鐘楼は、当初福島正則(1561-1624)が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立したものである。
福島正則は、桶屋福島正信の長男として尾張国に生まれた。母が、豊臣秀吉の叔母木下氏であったことから、幼少から秀吉に仕え、柴田勝家との戦いでは、賤ヶ岳七本槍と言われて活躍した。
その後武功を挙げて清須城主となり、秀吉没後は、徳川家康に仕えて安芸広島城主となって、高野山に六時の鐘を建立した。
正則の死後、寛永7年(1640年)に鐘は焼失したが、寛永12年(1645年)に子の福島正利が再鋳した。
「紀伊国名所図会」には、鐘の銘が記されており、山内に「二六時を報ずる聲なし」との文がある。
二六時とは、一日の時間を「子の刻」「丑の刻」など十二刻で表していた時代の使われ方で、一日中を意味していた。
六時の鐘の名は、その文に由来するものと思われる。
「高野山名所図会」によると、その後、宝暦元年(1751)6月鐘楼が傾頽したため修理し、石壇を3尺まで高くした。
明和8年7月に重ねて修理、文化6年7月の火災に罹(かか)り、仮堂を数年置いた後、天保6年(1835)冬旧製に復した。
午前6時から午後10時まで、偶数時に12回ずつ一日計百八回撞かれている。
「野山名霊集」には、「六時堂」と記されており、大納言(烏丸)光広卿の次の歌が紹介されている。
  高野山 なき身の数に けふもまた もれて聞ぬる 入相のかね


金剛峯寺

金剛峯寺は、和歌山県高野町にある高野山真言宗の総本山である。
開創は、弘法大師空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った816年である。その後幾度となく火災で喪失した。
1593年に豊臣秀吉が亡き母大政所天端院を弔うために青厳寺を建立し、その隣に木食応其が興山寺を建立した。
1869年に、この両寺が併合されて、改めて金剛峯寺と名付けられた。
金剛峯寺の名称は、開創以来高野山の伽藍全体の名称としても使われている。
創建当初の様式を伝える現在の建物は1863年のもので、東西54m南北63メートルの大主殿の中に大広間、梅の間、柳の間などがある。
大広間と梅の間には、江戸初期の画家、狩野探幽の作といわれる見事な襖絵が描かれている。
柳の間は、別名「秀次自刃の間」と呼ばれ、豊臣秀吉の甥、豊臣秀次が追放され切腹した所である。
幡龍庭は、石庭としては我が国最大の広さ(2340㎡)があり、雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っているように表現されている。
大主殿の北側には、空海の甥、真然の廟がある。




内談義

内談義は、旧暦6月9日、10日の2日間午前10時から行われる。
高野山には古来より「学道」というものがあり、様々な経典や弘法大師が書いた書物を勉強し、またその知識をさらに研鑽するために、
質問する側と答える側にわかれて問答するという行事が行われてきた。
独特の節をつけて問答を行う内談義は、もともとは練学会(れんがくえ)という名で、10日間にわたって行われていたが、
現在は2日間で、前年の堅精の一、二臈が左右学頭となり一日ずつ出仕する精談儀式法会である。
内談義の式場については、「屋内大広間角の間には、学頭机を据え、右の金筒に箸、羽箒、灰ならしを立て、
中央に香炉、左に香箱、両脇に花瓶を据え五段の生花をさす」と定められ、立派な五段花が飾られる。

高野の火まつり

高野の火まつり 柴燈大護摩供は、例年3月第1日曜日に高野山で開催される。
場所は総本山金剛峯寺前駐車場で、午後1時から金剛峯寺座主高野山真言宗管長による「お清めの儀式」がある。
柴燈護摩は、修験道独自の護摩儀礼で、野外に護摩木や藁などを積み上げ弓や剣で結界を張り、そこへ仏菩薩を招き点火する。
その火により修験者の煩悩を焼き尽くすとともに、天下国家安穏、家内安全、五穀豊穣などを祈願する。
護摩供の後、お守りが授与される。


常喜院

常喜院は、和歌山県高野山南谷の大師教会北側にある。
寺伝によると、空海の十大弟子のひとり道光大師実恵が開基で、その後、保元元年(1156年)仏種坊心覚が、一夜の庵を建てて再興した。
心覚は、奈良東大寺の学僧で小野諸流、保寿院流などの密教事相(修法の仕方)を受け、広沢流の一派常喜院流を開いた。
古くは、往生院谷にある聖の寺であったが、江戸時代は行人方の一院となり、小田原谷の枝谷浄土院谷入口西側に移転、明治3年(1870年)来迎院、三室院を併せて現在地に移転した。現所在地は最勝院の跡地で、同院の名跡は常喜院が管理している。
本尊の木造地蔵菩薩坐像は、国の重要文化財に指定されている。
常喜院校倉は、寛永年間に行人方が造立したもので、興山寺の東照宮の境内にあったものを移築したといわれ、和歌山県の指定文化財となっている。
宝形造りで、内部は内陣、外陣に分かれ、内陣は土蔵で本尊に普賢延命菩薩を安置している。
護摩堂の本尊大威徳明王は、天正19年(1591年)第22世の編覚律師が豊前小倉城内で祈祷し、その喜びで黒田長政が寄進したものである。
山門横の地蔵堂には、恵方地蔵尊(愛称:赤じぞう、紅箔じぞう、玉じぞう)のほか、さすり地蔵などが安置されている。


町石道

町石道は、和歌山県かつらぎ町の慈尊院から高野山に通じる総距離24キロメートルの参道である。
金剛峯寺への参詣道は、「高野七口」 (大門口、不動坂口、黒河口、大峰口、大滝口、相浦口、龍神口)といわれるようにいくつかのルートが開かれていたが、このうち最も早く開かれ、その後も主要参詣道として利用されたのが「高野山町石道」である。
町石が建立されたのは、根本大塔から奥の院までの36町と根本大塔から慈尊院までの180町の間である。
1町(約109メートル)ごとに、高さ約3メートル、幅30センチメートル、重量約750kgの五輪卒塔婆形式の石柱がある。
当初木製の卒塔婆であったが、老朽化したため、貴族や御家人などの寄進で1265年から1285年に町石として建立された。
町石の側面には、壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教の金剛界36尊及び胎蔵界180尊の梵字、寄進者の名前、設立の年月日及び目的などが彫り込まれている。
現在は、ハイキングの道として親しまれており、紀ノ川の眺めなどを楽しめる。
第1町石は、高野山根本大塔の道路横にあり、第180町石は、慈尊院内にある。


東 塔 

東塔は、和歌山県高野山の壇上伽藍東端にある多宝塔である。
大治2年(1127年)白河法皇の御願によって、京都醍醐三宝院の勝覚権僧正が創建した。
記録によると、白河法皇等身の金色尊勝仏頂尊と不動明王、降三世明王の三躰を安置して落慶供養が執り行われた。
天保14年(1843年)に焼失し、礎石だけが残っていたが、昭和59年(1984年)に141年ぶりに、高さ18m、四方6.4mの塔が再建された。

三昧堂  西行桜

高野山三昧堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍下の壇北側にある。
延長7年(928年)、金剛峯寺座主の済高が創建した。最初の堂は、本中院谷の親王院の場所にあって、東南院と呼ばれていた。
東南院の名は、済高座主が京都市山科区の勧修寺の東南院に住したことによる。
三昧堂とは、寺院において常住の僧が法華三昧、念仏三昧などの「三昧」(精神集中の修行)をする場所で、済高座主が理趣三昧を修したことで名付けられた。
その後、歌人西行法師が治承元年(1177年)に大会堂とともにこの地に移築造営したといわれる。それを記念して、堂前には西行桜が植えられている。
現在の建物は、弘化5年(1848年)に再建された檜皮葺三間四面の堂である。
本尊は、大日如来坐像で金剛界4仏と四天王像が安置されている。

与謝野鉄幹、晶子歌碑

与謝野鉄幹、晶子歌碑は、和歌山県高野山壇上伽藍三昧堂前にある。
御影石製の高さ85センチの碑上面に二人の自筆の和歌が刻まれ、側面に次のように刻されている。

板しきの冷たきにゐて朝きくは 金剛峯寺の山内の蝉  与謝野鉄幹

いにしへの三昧堂をくぐりきぬ 法の御山の星の明かりに  与謝野晶子

与謝野鉄幹 与謝野晶子 自筆歌碑

愛媛県王至森寺住職瀬川大秀僧正が平成二十二年五月二十一日、
真言宗御室派宗務総長 総本山仁和寺執行長に就任されました。
徳島県立江寺住職庄野光昭僧正が同時期に同職に就任していたことを奇縁として、
与謝野鉄幹 晶子の墨書を当山に寄贈下さいました。

高野山開創千二百年記念大法会の記念とし、歌碑を建立いたします。
平成二十四年十一月吉日
高野山開創千二百年記念大法会事務局
総裁 高野山真言宗管長 松長 有慶
総監 高野山真言宗宗務総長 庄野 光昭
高野山開創千二百年記念大法会 実行委員会
委員長 太融寺住職 麻生 弘道
副委員長 東光寺住職 松田 俊教

高野山麓橋本新聞によると、瀬川僧正が自坊の先代の遺品の中から鉄幹と晶子の色紙二枚を発見し、
若い頃から親交のある庄野僧正に寄贈したという。
高野山奥の院には、与謝野晶子歌碑が建てられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。→ 高野山内の歌碑




大会堂 

大会堂は、和歌山県高野山壇上伽藍の下の檀にあり、蓮華定院・会堂とも呼ばれる。
本尊は丈六(4.85m)の阿弥陀如来で、脇仏は観音・勢至菩薩が祀られている。
安元元年(1175年)に鳥羽上皇菩提のため、皇女五辻斎院頌子(いつつつじさいいんしょうし)内親王が法幢院谷(ほうどういんだに)に創建したものが最初である。
治承元年(1177年)西行法師が奉行をつとめ、長日不断論議の学堂として檀上の現在地に移し、蓮華定院と称した。後に法会の場所となり、大会堂と呼ばれた。
現在の建物は、嘉永元年(1848年)に再建された五間四面檜皮葺の堂宇で、主として大伽藍の大法会の集会所として使用されている。


愛染堂

愛染堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍下の檀北側にあり、新学堂ともいう。
建武元年(1334年)4月14日の後醍醐天皇綸旨により、「四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)」を祈願し、不断愛染護摩供・長日談義を行うために建立された。
本尊は、後醍醐天皇等身の愛染明王で、一面三目六臂の上段の二臂で弓を持ち矢をつがえ、天に向かって弓を引いているため、「天弓愛染明王」といわれる。
明王は、平安時代後期に登場する仏で、「明かりをもつもの」が原義とされる。
愛染明王のサンスクリット名は、ラーガラージャ(Ragaraja)で、ラーガ(羅我)とは、赤色、情欲、愛染の意味で、ラージャ(羅闍)は、王の意味である。
堂宇は、四度の焼失と再建を経て、現在の建物は天保14年(1843年)に焼失した後、嘉永元年(1848年)に再建され、検校来応を導師に、愛染堂、蓮華乗院(大会堂)、三昧堂の落慶曼荼羅供が行われた。



不動堂

不動堂(国宝)は、和歌山県の高野山に現存する建物では、最古のものである。
言い伝えによれば、建久8年(1197年)鳥羽天皇の皇女八条院暲子内親王の発願により、行勝上人が創建したという。
創建時には、一心院谷、金輪塔の傍らに位置していたが、明治41年(1908年)に現在地に解体移築された。
鎌倉時代の和様建築であって、それ以前の住宅建築の様式を仏堂建築に応用したものである。
桁行3間、梁間4間の主屋を中心にして、左右に桁行1間、梁間4間と桁行1間、梁間3間の脇の間が付属した檜皮葺の建物である。
屋根の勾配が美しく、堂の四隅は四人の大工がめいめい思い思いに作り上げて一緒にしたとも伝えられる。
本尊は、木造不動明王坐像で、運慶作と伝えられる木像八大童子像(6躯国宝)が安置された。
木造不動明王坐像は、像高87cmで、行勝上人の自作と伝えられている。
八大童子は、不動明王に仕える八人の弟子で、恵光、恵喜、鳥倶婆誐(うぐばが)、清浄比丘、矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)、阿耨達(あのくた)、指徳の各童子の像が、現在霊宝館に収蔵されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。
平成29年11月21日から23日まで、不動堂内部が特別に公開された。堂内には、大変穏やかな表情の不動明王立像(平櫛田中作)が本尊として安置されている。


蓮池と善女龍王社 

蓮池と善女龍王社は、和歌山県高野山の壇上伽藍にあり、国史跡に指定されている。
蓮池は高野山上最大の池であり、平安時代からあったものである。
古くは「金堂池」と呼ばれていたが、江戸時代に蓮が植栽されてからは「蓮池」の名前で親しまれてきた。
昭和初期まで水面を覆う蓮の群生が見られたが、改修工事等で池の環境が変化したため、現在はほとんど植生していない。
蓮池の中央に善女龍王が祀られた社がある。この社は明和8年(1771年)春の旱魃時に、瑞相院の慈光僧正が善女龍王を勧請して雨乞いの法を修したことに由来している。
善女龍王とは、龍神の一種であり、天候や農耕など水に関する信仰に絶大な御利益をもたらすものとされている。
また、弘法大師が天長元年(824年)に京都の神泉苑で雨乞い祈願をした時に、インドの無熱池(むねっち)という池から善女龍王を勧請したことでも知られる。


壇上伽藍

高野山壇上伽藍は、和歌山県高野町にある高野山の諸堂の集まる所である。
伽藍とは、梵語(サンスクリット)のサンガ・アーラーマの音訳で、本来僧侶が集い修行する閑静清浄な所という意味である。
壇上とは、大塔の鎮まる壇、道場という意味である。
空海が、伽藍の建設に着手したのが816年で、完成は寛平年間(889-898)の頃と考えられる。
高野山伽藍は、奈良仏教の伽藍形式と違い、大日経と金剛頂経を象徴する2つの塔、東塔と西塔を左右に配し、根本大塔が中心に建っている。

根本大塔は、真言密教の根本道場として伽藍の中心に建設された。
弘法大師空海が819年に建立に着手し、2世真然大徳の代に落慶したが、以降5回の焼失と再建を経て、現在の建物は1937年に完成した。
高さ49m、約24m四方の一層塔である。
胎蔵界の大日如来を本尊とし、その四方には金剛界の四仏が配置されている。内陣の16本の柱には堂本印象画伯の色鮮やかな金剛界の菩薩絵が描かれている。

金堂は、高野山一山の総本堂で、創建当初は講堂と呼ばれた。後に嵯峨天皇の御願によって完成したことから、御願堂と呼ばれている。
数度の火災を経て、現在の建物は1932年に再建された。秘仏の本尊は薬師如来で、髙村光雲が80歳の高齢をおして復元したものである。

高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の正門は中門と呼ばれている。819年創建で、焼失と再建が繰り返された。
1843年焼失後は、礎石だけが露出した中門跡となっていたが、2015年の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として172年ぶりに再建された。
焼失を免れた持国天、多聞天に、新たに増長天、広目天を加えて、四天王が安置されている。



大塔の鐘 (高野四郎) 

大塔の鐘(高野四郎)は、和歌山県高野山壇上伽藍の鐘楼堂にある。
弘法大師が、「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文」(性霊集)で鋳造を発願し、高野山第二世真然大徳の時代に完成した。
度重なる火災のため三度の改鋳を繰り返し、現在の銅鐘は天文16年(1547年)に再興したもので、直径2.12m、高さ2.5mの大きさである。
改鋳当時は、東大寺の鐘「南都の太郎」に次ぐ大きさで「高野二郎」と呼ばれたが、その後、知恩院と方広寺の鐘が出来たため、「高野四郎」と呼ばれるようになったという。
この鐘は「時を告げる時」や「法会などの儀式の合図」として鳴らされる。
毎日5回、午前4時、午後1時、午後6時、午後9時、午後11時に鐘が撞かれ、1日に鳴り響く鐘の音は合計108回になる。

対面桜

対面桜は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある。
平安時代の久安5年(1149年)5月に大塔が落雷で焼失し、修造奉行として平清盛が任命され、保元元年(1156年)4月29日に大塔を再建した。
修造が終わり、清盛が供養のために登山した際、大塔の桜の木のもとに一人の老僧が現れてその功を讃え、二、三町ほど過ぎたところで姿が消えてしまった。
清盛は、「あの人物は弘法大師であったか」と思い、それ以来益々随喜崇敬の念を深めた。
平清盛と弘法大師が対面した場所にあった桜の木は「対面桜」と呼ばれるようになった。
江戸時代に書かれた紀伊国名所図会には、次のように記されている。
「影向桜 大塔の前にあり。清盛登山のとき、此の木の本に明神影向し給うが故に、しかといふなん。又は対面桜ともいふ。」


中 門

中門は、和歌山県高野山の金堂前にある。高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の結界ともいえる五間二階の楼門である。
弘仁10年(819年)の創建と伝えられている。
当初は、鳥居状のものであったが、承和14年(847年)に弘法大師の弟子実恵によって、立派な門が建立された。
その後、焼失と再建が続き、江戸時代には3回焼失したことが知られており、地中には焼失前の礎石が埋まっている。
天保14年(1843年)焼失後は、礎石だけが露出した中門跡としてその痕跡だけが残されていたが、平成27年(2015年)の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として、172年ぶりに8代目の門が再建された。
正面に安置されている多聞天(毘沙門天)、持国天の二天像は、文政3年(1820年)再建時のもので、天保の大火では焼失を免れて、根本大塔内に保管されていた。2015年の再建に合わせ、二天像が修復され、
さらに内側に増長天、広目天が安置され、四天像が揃う形となった。


六角経蔵

六角経蔵は、和歌山県高野山の伽藍南西部にある六角六面二重塔様式の経蔵である。
鳥羽上皇妃、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために、平治元年(1159年)に建立された。
このとき、美福門院自ら書写した紺紙金泥一切経3575巻が納められ、この経に荒川荘(現和歌山県桃山町)を付けて寄進したため、荒川経蔵、金泥一切経蔵とも呼ばれる。
天正19年(1591年)には、高野山中興の祖応其上人の発願で大規模な修理が行われ、本尊「宝冠釈迦如来坐像」が安置された。
現在の建物は、昭和9年(1934年)に再建されたものである。
紺紙金字一切経(荒川経)は、料紙に銀泥の界を引き、金字で書写した装飾経で、重要文化財に指定され霊宝館に保管されている。
基壇の把手を持って台座を一回転すると、一切経を読んだと同じ徳を得られると言われている。




登天の松・杓子の芝 

登天の松・杓子の芝は、和歌山県高野山壇上伽藍の六角経蔵の北側にある。
江戸時代に書かれた「野山名霊集」には、この松と芝の故事について、杓子芝(しゃくしのしば)と題して、次のように書かれている。
「経蔵の前にあり、昔明王院の如法上人、久安五年(1149年)四月十日生身(いきなから)白昼に兜率天に登り給ひけるか、はき玉ふ所の沓(くつ)落ちて明王院の後山の松にかゝれり、
是を沓かけの松と号して今猶彼所にあり、其のとき、弟子皈従(きしう)といふ僧、上人の跡をしたふて手に杓子を持なから天上せしか、
暫して後杓子を此所におとしたりといふ、(中略)生身に弥勒の浄土に往生し、(中略)上人の登天これにあたれり、」
また「西鶴諸国ばなし巻四」には、宝亀院の住職が天に登り、弟子が杓子を持って続いた話(大門の杓子天狗)が載せられている。
高野山では、信仰や伝説に関わる七本の名木があり、「七株(ななもと)の霊木」と呼ばれて大切にされてきた。三鈷の松をはじめ、登天の松も上記伝説とともに語り伝えられているものである。



閼伽井

閼伽井(あかい)は、和歌山県高野山壇上伽藍の六角経蔵東南にある。
紀伊名所図会には、次のように記されている。
「閼伽井(あかのい)
 御社の南、林間にあり。大師の鑿開(せんかい)し給ふ処、天竺の無熱池の水を湛ふとなん。
 凡(およそ)一山灌頂曼供等の大法会には、必ず是をもって閼伽とす。」
弘法大師空海が自ら掘った井戸で、無熱池の水が湛えられている。
無熱池とは、インドで考えられた理想郷の池で、阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住むという、炎熱の苦しみがない池である。
そこに咲く青蓮華が樒の葉に似ていることから、仏に樒を供えることになるとされている。
また、この池の岸が金、銀、瑠璃、玻璃の四宝で飾られ、冷たい清らかな水が湧き出し流れ出て四大河のもとをなし、世界を潤すと考えられている。
閼伽井の水は、灌頂や曼荼羅供などの高野山の大法会に使われている。

山王院 

高野山「山王院」は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある御社の拝殿である。
創建は、11世紀中頃といわれ、地主の神を「山の神」と信じることからこの名がついたとされる。
桁行21.3m、梁間7.8m両側面向拝付入母屋造りの現在の建物は、弘化2年(1845年)に再建された。御社とともに国の重要文化財に指定されている
毎月16日、山内の僧侶による「法楽論議」が行われる。
旧暦5月1日、2日の両日には、南院波切不動を勧進して、夏季の祈りの法会が行われている。
弘仁10年(819年)5月3日の高野明神勧請の日に因み、旧暦5月3日に「竪精(りっせい)明神論議」と呼ばれる、論議形式の法会が夜を徹して行われる。
旧暦6月10日、11日には、金光明最勝王経を唱える「御最勝講(みさいしょうこう)」が行われる。


御 社

御社(みやしろ)は、和歌山県高野山の壇上伽藍西端にある。
西塔南側の小高い場所に位置しており、北側から一宮、二宮、三扉の総社と呼ばれる三社が並列している。
一宮には、丹生都比売明神、気比明神、二宮には、高野狩場明神、厳島明神が祀られている。
総社には、北の扉に十二王子、中の扉に百二十伴神、南の扉に摩利支天が祀られている。
現在の社殿は、大永2年(1522年)に再建されたもので、一宮、二宮は一間社春日造、総社は三間社流見世棚造である。
御社は、弘仁10年(819年)弘法大師が高野山開創にあたり、地主神として丹生明神と高野明神を勧請したと伝えられている。
地主神の守護のもと、真言密教の道場を築くもので、神仏習合の原点ともいえる。
平安時代の寛治2年(1088年)「白河上皇高野御幸記」には、丹生高野明神に奉幣が行われた事が記されている。
御社の前に、拝殿の山王院が建てられており、御社とともに国の重要文化財に指定されている。

西 塔 

西塔は、和歌山県高野山の壇上伽藍西北にある。
承和元年(834年)に弘法大師空海によって記された「知識を勧進して仏塔を造り奉る書」(性霊集)の「毘盧遮那法界体性の塔二基」は、根本大塔と西塔を指すと言われている。
金堂の東西後方に毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)二基が配置される形で、壇上伽藍が構想された。
そして弘法大師入定後、仁和2年(886年)に第二世真然大徳が光孝天皇の命を受けて、西塔が建立された。
現在の建物は、五度目の再建で、天保5年(1834年)に建立された。

現在の西塔は、高さ九丈(27.27m)で、下層を柱間五間の方形、上層を円形の平面として、上下層ともに四角の屋根を掛けた二重の塔で、頂部には擬宝珠高欄と相輪を載せ、相輪上部と上層屋根の四隅を宝鎖(ほうさ)で繋いでいる。
このような形式の塔を「大塔」と呼んでいる。根本大塔も大塔形式であるが、昭和12年(1937年)に鉄筋コンクリート造りで再建されている。
木造の大塔は、西塔の他に根来寺の大塔が現存するのみである。
大塔形式を小規模にした建物が「多宝塔(たほうとう)」と考えられている。
大塔、多宝塔共に真言宗独特の建物形式であるが、多宝塔は大塔と異なり全国に多数の残存例がある。
大規模のため資金や部材、労力が膨大にかかる大塔に比べ、高い技術が必要なものの比較的手軽に建てられる多宝塔が、大塔に代わり普及したと考えられている。

柱は、外陣に20本、内陣に12本、中心に4本合計36本に中心柱を加えて金剛界37尊を象徴している。
本尊は、金剛界大日と胎蔵界四仏(開敷華王(かいふけおう)如来、宝幢(ほうどう)如来、天鼓雷音(てんくらいいん)如来、無量壽如来)の五仏が安置されており、これにより「金胎両部不二」の教義が示されている。
来迎壁背面には、一対の迦陵頻伽(がりょうびんが 上半身が人、下半身が鳥の想像上の生き物)と蓮池が描かれており、阿弥陀の浄土を表わしていると考えられる。
西塔前の石灯籠には、天保5年の再建時に尽力した正智院第40世良應とその兄である華岡青洲(隨賢)の名前が刻まれている。

孔雀堂

孔雀堂は、和歌山県高野山壇上伽藍にあるお堂である。
孔雀明王院、孔雀明王堂とも呼ばれる。
本尊の木造孔雀明王像は、孔雀にまたがる一面四臂の菩薩形で、像高78.8cm。鎌倉時代の名仏師快慶作で、国指定の重要文化財である。
孔雀は、よく毒草や害虫を食するということで、インドで孔雀明王は諸人の罪障を除く神として崇められてきた。
正治元年(1199年)、後鳥羽法皇の御願によって、京都東寺の延杲大僧正が干天に降雨を祈願し成就したことから、法皇の賞賜として、正治2年(1200年)に建立された。
昭和元年(1926年)金堂とともに類焼し仮堂のままとなっていたが、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業の一環として、昭和58年(1983年)に再建された。

准胝堂

准胝堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある。
光孝天皇の御願により、真然大徳が建立したものである。
本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として、自ら造立したものと伝えられている。
この観音は、伽藍建立当時食堂に安置されていた。
准胝観音は、准胝仏母、七倶胝仏母とも呼ばれ、准提とも書く。真言系の六観音の一つで、無数の仏を生み出す女性尊であることから、出家得度の本尊として信仰されている。
現在の建物は、明治16年(1883年)に再建されたものである。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。(Y.N)

准胝堂陀羅尼会

伽藍准胝堂において、7月1日に准胝堂陀羅尼会が行われる。
この法会は、明算大徳(1021-1106)の時に始められたと伝えられている。
「尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)」を唱え、日々の罪過を懺悔する法会である。

逆指の藤(倒指の藤)

逆指(倒指)(さかさし)の藤は、和歌山県高野山の壇上伽藍御影堂の北側にある。
平安時代の高野山は、正歴5年(994年)の大火や高僧の遷化により疲弊していたが、
祈親上人が、長和5年(1016年)に高野山にのぼり、高野山の再興を誓って、「願掛け」として藤を地面に逆さに植えたと言われている。
不思議なことに、この藤はしばらくして芽生え始めたという。
現在の藤は、近年になって御影堂北側に植え次がれたものである。




御影堂

御影堂は、和歌山県の高野山壇上伽藍の金堂北方にある御堂である。
空海在世中、御堂に如意輪観音を安置し、常に念誦していたので、念誦堂、持仏堂または御庵室と呼ばれていた。
空海入定後に弟子実恵が真如法親王筆の弘法大師御影像を安置したため、御影堂と呼ばれるようになった。
数度の焼失を経ており、現在の建物は嘉永元年(1848年)に、紀州藩徳川家を壇主として再建された。
3間4面の檜皮葺、宝形造りで、屋根の勾配の曲線が美しい建物である。
内陣には、大師御影を安置し、中陣には両界曼荼羅、外陣には十大弟子と祈親上人、真然大徳の絵像がかかげられている。
堂前には、空海が唐からの帰途船上から投げた(飛行)三鈷杵が懸ったと伝えられる「三鈷の松」がある。
この松は、葉が3本に分かれた珍しいもので、葉を拾って肌身につけていると御利益があると言われている。
飛行三鈷杵は、全長23.8cmで鋳銅鍍金が施され、把径3.3cmの中央把に厳しく隆起した鬼頭四つを施し、左右に単弁八葉の連把を配した造りで、国の重要文化財に指定されている。
御影堂の周囲には、防火のためのドレンチャーがあり、火災の際には、建物の屋根の高さまで放水されるようになっている。


旧正御影供 御逮夜

毎年、新暦及び旧暦3月21日には奥の院と御影堂で正御影供(しょうみえく)と呼ばれる弘法大師の法会が行われる。
旧正御影供前日の御逮夜は、日没前から御詠歌と舞踊の奉納が行われ、午後8時から御影堂で法要が行われる。
法要が終了すると、一般参拝者も堂内外陣を参観できる。また、壇上伽藍各堂の扉が開かれ、各本尊を拝観できる。


三鈷の松 

三鈷の松は、和歌山県高野山壇上伽藍の御影堂の前にある。
大同元年(806年)、弘法大師が唐から帰国するとき、日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、明州(現在の寧波)の港から密教法具である「三鈷杵」を投げた。
帰国後、その三鈷杵を探し求めると、高野山の松の木にかかっていたという。
こうして高野山は真言密教の道場として開かれることとなった。以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、広く信仰をあつめている。
普通、松の葉は2葉か5葉であるが、「三鈷の松」は密教法具の三鈷杵のように3葉になっており、肌身につけると御利益があると言われて、参拝者が葉を探す姿が見られる。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。



明王院

明王院は、和歌山県高野山の本中院谷にある真言宗の別格本山である。
高野山全体の結界の要として、壇上伽藍から見てちょうど鬼門の位置にあたる丘の上に空海が建立した、五大堂が始まりで、五大明王を本尊としていたといわれている。
その後火災で失われ、現在は赤不動尊が本尊となっている。
寺伝によると、唐に渡った天台宗の円珍が日本へ戻り比叡山で修行している時、神々しく真っ赤な姿の不動明王を見たという。
それを残したいと思った円珍は、頭に岩を打ち付けて、流れた血を絵具に混ぜて書き写したといわれ、それがこの赤不動(絹本著色不動明王二童子像)になった。
南北朝時代になると、後醍醐天皇が念持仏として赤不動を尊崇し、吉野へ逃れる時も道中をともにした。そして、戦火の届かない高野山明王院に勅命でおさめられた。
秘仏となっているが、毎年4月28日の開帳日には、法要が行われその姿を見ることが出来る。
赤不動は、近江園城寺(三井寺)の黄不動、京都青蓮院の青不動とともに、三不動と呼ばれている。



龍光院

龍光院は、和歌山県高野山の本中院谷(谷ケ峰)にある真言宗の別格本山である。
本尊は大日如来である。
弘法大師空海の住房として子院中もっとも古い由緒を持ち、歴代の山主がここに住して、天歴年間(947-957)の再興まで一山の法務を掌り、中院御房と呼ばれていた。
寺伝によると、当院16世明算の時、院内の池に龍が宝珠を戴いて出現し、その奇瑞にちなんで寺名を龍光院と改められた。
江戸時代には、宝門の谷上院谷正智院に対して、寿門の常相談所となり、正月8日の吉初問講をはじめとして、月々恒例の法会、門講が行われた。
毎年12月31日夜には、壇上伽藍の御社(みやしろ)に御幣を納める奉幣の儀があり、当院の行事として受け継がれている。
絹本著色伝船中湧現観音像一幅、大字法華経7巻、紫紙金字金光明最勝王経10巻、細字金光明最勝王経2巻の国宝のほか、多くの寺宝を有している。
宿泊は檀信徒のみ可能で、春の彼岸から秋の彼岸まで受け入れている。


親王院

親王院は、和歌山県高野山の本中院谷にある真言宗の別格本山である。。
本尊は不動明王坐像で、入唐八家の一人智証大師円珍の作として知られ、国の重要文化財となっている。
開基は、弘法大師十大弟子のひとりである真如親王である。
真如親王は、平城天皇の第三皇子で、弘法大師空海が入定した後、求法のため唐に渡り、天竺をめざしたが、旅の途中で猛虎に襲われて亡くなったと伝えられている。
約350年前に建てられた本堂には、白鳳時代の金銅阿閦如来立像、平安時代の木造兜跋毘沙門天立像などの重要文化財を蔵している。




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