京大坂道不動坂WALK → 高野参詣道 京大坂道
焼けん地蔵は、和歌山県橋本市清水にある。
かつて、火事で清水の村が焼けてしまったが、この地蔵だけは焼けなかったので、
焼けん(焼けない)地蔵と呼ばれるようになった。
お堂の扉には、次の札が掲げられている。
地蔵菩薩
観音菩薩 西国二十九番 丹後国 松尾寺
国城の里 観音霊場巡拝 (二十九番札所)
南海高野線紀伊清水駅から徒歩15分。
成就寺(大師堂)(福成就寺)は、和歌山県橋本市南馬場にある高野山真言宗の寺院である。
瑜伽山遍照院と号する。本尊は、厄除弘法大師像である。
寺由緒によると、空海が開基したと伝えられている。
境内には、本堂、坊舎、新右衛門堂、山門(内部に鐘楼あり)、船越喜右衛門之碑等がある。
寺宝として、露盤宝珠(寛永年間高野山千手院長泉房良弁作)、棟札(寛永20年作)、石像(如意輪観音)がある。
船越喜右衛門は、文政元年(1822年)学文路に生まれ船頭をしていた。ふるまいは大胆で、義侠心に富み、あだ名は「滅法喜右衛門」といわれた。
嘉永5年(1852年)7月に紀の川に大洪水が発生し、清水と丁田の間の堤防が決壊し、丁田の村人は村の東の大師堂に逃れていた。
船越喜右衛門が危険も顧みず、学文路から船を出して多くの村人を救った功績を称えて、石碑が建てられている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩15分。
戸谷新右衛門の墓地は、和歌山県橋本市南馬場にある和歌山県の指定史跡である。
戸谷新右衛門は、貞享3年(1686年)高野山領の南馬場に生まれ、その性格は正義剛直の人であったと伝えられる。
当時、高野山領の年貢は、寛文9年(1669年)に幕府が制定した「京桝」を使わず、大きな「讃岐枡」を使用し、さらに付加税(年貢米1石について2升の差口米(さしぐまい))も加わって、領内農民は窮乏していた。
これを見かねた興山寺領清水組庄屋の新右衛門は、享保5年(1720年)江戸の寺社奉行に直訴し、その結果訴えが聞き入れられ、不正枡の破棄と付加税の廃止が実現した。
越訴(おつそ)の罪で3年間入牢した後、赦免されて故郷に戻ったが、興山寺の怒りを買い、高野山の蛇柳で石籠詰(いしごづめ)の刑に処せられて、36年の生涯を閉じた。
積まれている墓石は、新右衛門が直訴に出かける前、密かに造って竹藪の中に隠してあったものといわれている。
大菩薩峠の作者として知られる中里介山は、小説「高野の義人」で戸谷新右衛門とその子新九郎の物語を描いている。
戸谷新右衛門伝承は、明治時代に掘り起こされた義民伝承の一つで、昭和34年には高野山を背に大きな石碑が建てられ、顕彰されている。
南馬場出身で学文路中学校長などを歴任した玉置力氏は、「戸谷新右衛門考」(昭和59年刊)において、各種資料を用いて、戸谷新右衛門について詳細な検証を行っている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩20分。
学文路天満宮 一ノ鳥居(石造春日鳥居)
学文路天満宮北側にある。
松井伊助氏(1865-1931) 橋本市清水出身の実業家 和歌山市の六三園(国登録文化財 「旧松井家別邸」)を造った。社皇神社の補修に尽力。
松永氏 清水小学校体育館を建立。
学文路天満宮は、和歌山県橋本市にある神社である。
社名は天満神社で、現在は学文路地区全域の氏神となっている。
祭神は、菅原道真公で本殿中央に祀り、左側に天穂日命(あめのほのひのみこと)、御父君 菅原是善卿(すがわらこれよしきょう)、御母君 園文字姫(そのもしひめ)の3柱、右側に旧学文路村内の55柱を祀っている。
創建について、「天満神社御縁起」では、「天満神社は、人皇第75代崇徳天皇の天治元年(1124年)9月25日、紀伊国伊都郡当時相賀の荘の今の地に御勧請、<中略>当神社は京都北野神社御建立の際、時の帝第62代村上天皇の天暦元年(947年)、日本国中一郡に大社小社に不限必ず一社の鎮座を被仰出たるに依る」とされている。
元弘3年(1333年)の後醍醐天皇の綸旨、いわゆる元弘の勅裁により、相賀荘は「相賀荘河北」「相賀荘河南」と、紀ノ川の河北と河南で領有が二分された。
相賀荘河北は、これまでどおり根来寺領、相賀南荘は、高野山寺領となった。相賀大神社を「河北惣社」と呼ぶのに対し、天満神社は、南荘の総鎮守となって、「河南天神」ともいわれて、崇敬された。
明治6年(1873年)に村社、明治40年(1907年)に神饌幣帛供進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定された。
伊都地方唯一の天満宮として、学業成就、受験合格の参拝者が多く訪れている。
祭礼は、1月25日(初天神)、8月25日、10月第4日曜日に行われており、初天神には学文路地区の小中学生の書初め展がある。
南海高野線学文路駅下車、徒歩20分。参拝者用駐車場がある。
高野街道六地蔵第二(橋本市指定文化財)は和歌山県橋本市南馬場にある。
江戸時代の後半、高野山参詣者の安全を祈願して、清水から桜茶屋までの六か所に地蔵堂が建立され「高野街道六地藏」と呼ばれていた。
堂内には、中央に地蔵菩薩(像高60cm)、右に観音菩薩(像高67cm)、左に不動明王(像高69cm)の三体が祀られているが、左右の二体は後から祀られたといわれる。
観音菩薩には、「西国二十七番 播磨書写山」の銘があり、学文路(国城)西国三十三所巡りの二十七番「南馬場 書写山 円教寺」となっている。
紀伊続風土記の清水村の項に次のように書かれている。
「地蔵堂 境内周二十二間丁田にあり 六地蔵の第二なり」
堂前の里程石には、次のように記されている。
「東 高野山女人堂迄三里
地蔵尊 弘法大師御作
弘法大師御母公御廟所
慈尊院村江一里是ヨリ十丁程先別道有
南 橋本町東家舩渡シ江一里
伊勢江三十六里吉野江七里
大坂江十二里堺江九里」
平成26年11月、国道370号線の拡幅により約7メートル西北西に移設されたため、里程石の基部の色が違っている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩20分。
ヒロ画廊(Hiro Art Gallery)は、和歌山県橋本市学文路にある。
2018年12月7日から12月23日まで銅版画の坪内好子展が開催された。
2019年7月5日から7月14日まで杉田修一の世界展が開催されている。
南海高野線学文路駅下車、徒歩5分。
京奈和自動車道橋本インターチェンジから車で10分。専用駐車場がある。
旧高野街道 高野山三里道標石は、和歌山県橋本市学文路にある。
高野山へ向かう街道で最も古く、多くの人々に利用されたのが東高野街道である。
この街道は、京都から八幡、枚方を経て、生駒山西麓を南下し、河内長野から紀見峠を越え、町石道から高野山に至るもので、平安時代後期に開かれたといわれている。
その後、堺からの西高野街道、平野からの中高野街道がひらかれ、河内長野で合流して高野山に登ることができるようになった。
なかでも、西高野街道は近世に大いに栄えて、現在でも堺の大小路(おおしょうじ)橋を起点に高野山女人堂まで、一里毎に道標石が残されている。
これらはいずれも幕末の安政4年(1857)茱萸木村(大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立され、すべてが現存している。
この三里道標石は、元は学文路小学校の北の土井川の橋の袂にあったが、移設された。
標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 南無大師遍照金剛
(正面) 是ヨリ 高野山女人堂 江 三り
(左面) 安政四丁巳九月
河州錦部郡
下岩瀬村 中村甚右ヱ門
下天見村 大谷十兵ヱ
下天見村 川見惣兵ヱ
上岩瀬村 田中藤〔兵ヱ〕
(裏面) 孫海
河州 小左ヱ門
五兵ヱ
昭和56年(1981)に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線学文路駅下車、徒歩10分。
かむろ地蔵は、和歌山県橋本市学文路にある。
地蔵前の由緒書に次のように記されている。
弘法大師が高野山を開いたとき、「かむろ」は桜の名所として名高く「香室(かむろ)」と書いていた。
この香室の里に、自らを物狂道士と称する高徳の士が隠棲していた。
この人が謡曲「高野物狂」の主人公高師(たかし)四郎で、その善行美徳は遠くまで感化を及ぼしていた。
殊に学問の道の教導に力を尽くしたため、この地方では字の読めない者が一人もいなかったということで、当時としては珍しいことであった。
こうしたことから「香室」を「学文路」と書くようになった。
弘法大師も深く道士をめでていたので、道士がこの地で大往生を遂げた時、菩提のために読経をした。
その時、弘法大師が腰かけた石がこの垣内正面に安置されている石で、その後これをお大師さんの腰かけ石と呼んで祀るようになった。
後に地蔵三基が次々に寄進され、現在のかむろ地蔵となった。
このためこの地蔵尊は、子供たちの守護の地蔵であるとともに、特に「学問のお地蔵さん」として信仰されている。
紀伊国名所図会巻之四には、次のように記されている。
〇物狂石 学文路村内、左側にあり。石上に小堂を安ず。〔禿物狂〕といふ謡曲に出ず。
南海高野線学文路駅から徒歩10分。
大畑才蔵生誕地学文路石碑は、和歌山県橋本市学文路にある。
平成16年(2004)3月に橋本市学文路区によって建立された。
大畑才蔵勝善(1642-1720)は、寛永19年に紀伊伊都郡学文路村の庄屋に生まれた。
家伝によれば、先祖は日高郡亀山城(現御坊市)城主 湯河直光の末葉 湯川次郎右衛門信光である。
18歳で大庄屋の補佐役をつとめ、水利事業に才能を発揮し、元禄9年(1696)に紀州藩役人となり、紀州最大の用水路 小田井用水を開削した。
享保5年(1720)9月24日79歳で学文路村有岡で没した。墓所は学文路の山腹にあり、和歌山県指定史跡となっている。
南海高野線学文路駅下車徒歩10分。
興山寺領御国領境界標石は、和歌山県橋本市学文路にある。
江戸時代に京大坂から高野街道を進み、紀ノ川を渡り三軒茶屋の大常夜燈籠に至ると、高野山興山寺領(行人派)となる。
三軒茶屋から高野街道は西へ進み、向副、賢堂、清水、南馬場の興山寺領を経て、学文路に至る。
学文路は紀伊藩領地(御国領)であったため、興山寺領の南馬場との境界に、この境界標石が設置されたと考えられている。
現在この標石は学文路郵便局前に建てられているが、当初は現在の学文路小学校前の、南馬場と学文路の境界の大谷川に架かる土居橋付近に建てられていた。
その後、土地区画整理などのため抜き去られ、一時は郵便局から約200m東の民家で排水溝壁に使われていた。
当時の学文路郵便局長が偶然これを見つけて譲り受け、現在地に保存したものである。
境界標石には次のように刻まれている。
「(北)定杭是ヨリ 北興山寺領
(南)是ヨリ 南御国領」
昭和56年(1981)に橋本市の文化財に指定されている。
郵便局前西側には、「右 京大坂堺伊勢」と書かれた標石がある。
南海高野線学文路駅から徒歩10分。
学文路三叉路道標石は、和歌山県橋本市学文路にある。
この道標は、寶暦8年(1758)に建立されたもので、高野街道に建てられた13本の里程石(1857年)より100年前の建立である。
京大阪から高野山に至る高野街道は、紀ノ川を渡り清水、南馬場から学文路に入ると、村の中ほどで南に直角に折れる。
すると間もなく南進して高野山に向かう道と、西折れして慈尊院に向かう道に分かれる三叉路となっていた。
紀伊国名所図会にこの道標石が描かれている。
現在は交差点となっている南側に、北を向いて学文路三叉路道標石が建っており、次のように刻まれている。
(西面) 寶暦戊寅年四月建立
(北面) 梵字 右 慈尊院みち 是より一里
左 高野みち 女人堂迄 三里
(東面) 堺北材木町 白峯法師
施主 青木氏
(南面) (刻字なし)
昭和56年(1981)に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線学文路駅から徒歩10分。
高野参詣道京大坂道は、高野七口の一つ不動坂に至る高野参詣道で、京都・大坂・堺からの道が河内長野で合流し、
紀見峠を越えて橋本で紀の川を渡り、清水、学文路(かむろ)から河根(かね)、神谷(かみや)を経て高野山女人堂に至る。
なかでも堺からの西高野街道は近世に大いに栄え、今も堺の大小路(おおしょうじ)橋から女人堂まで一里毎に道標石が残る。
これらは、「南無大師遍照金剛」の文字とともに、女人堂までの里程が記され、高野参詣の人々はこれを見るたびに一里ずつ近づく高野の姿を思い描いた。
これらは、いずれも江戸時代末期の安政4年(1857年)茱萸木(くみのき)村(大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立された。
不動坂は、京大坂道の終点である女人堂の手前、距離約2.7km、高低差310mの急峻な坂道で、京大坂道のなかで最難所である。
旧玉屋屋敷跡は、和歌山県橋本市学文路にある。
玉屋は石童丸物語の千里の前、石童丸母子が止まった宿として知られている。
紀伊国名所図会の(学文路)苅萱堂の項に次のように記されている。
(略)昔の妻 千里の前、(加藤左衛門尉)繁氏の母より傳へ持ちたる石を懐中して、(略)出産ありし男子に石堂丸(石童丸)と名(なづ)け、十四歳のとし、母諸共に(略)此里にきたり。
昔筑紫にて玉田與藤次(たまだよとうじ)といへる浪人の、今は此里にて、玉屋與次(たまやよじ)といへる者の宿にて、病の床に伏し、終に永萬元年酉三月二十四日の朝の露と消失せられしを、健泰妙尊大姉と戒名を授けて葬るとなむ。
南海高野線学文路駅から徒歩約10分。→ 苅萱道心、石童丸、石堂丸ゆかりの地
杖の梅天神は、和歌山県橋本市学文路の高野参詣道京大坂道沿いにある。
弘法大師空海が、讃岐(香川県)から杖として突いてきた梅の木を、この地に差し置いたのが芽吹いたものと伝えられ、
梅の縁により小さな社を設け、天神を祀ったと伝えられている。
南海高野線学文路駅下車、徒歩15分。
学文路苅萱堂(西光寺)は、和歌山県橋本市にあるお堂である。
苅萱道心、石童丸物語の舞台として知られている。
石童丸物語は、中世以来高野聖の一派である萱堂聖によって語られてきた苅萱親子の悲哀に満ちた物語で、
江戸時代には、説経節「かるかや」、浄瑠璃「苅萱桑門筑紫𨏍(かるかやどうしんつくしのいえづと)」(1735年大阪豊竹座初演)や琵琶歌となって、広く世に知られた。
出家した父道心を探して、高野山を目指した石童丸と母千里ノ前は、女人禁制のため母を玉屋旅館に残し、石童丸が一人で高野山に登った。
道心は出家の身で、「あなたの父は、すでに亡くなられた。」と偽って、石童丸を学文路へ帰したが、母はすでに亡くなっていた。
石童丸は再び高野へ上り、苅萱道心の弟子となったが、二人は親子の名乗りをすることなく仏道修行した物語である。
堂内には、苅萱道心、石童丸、千里ノ前、玉屋主人の像が安置され、千里ノ前の遺品とされる人魚のミイラや如意宝珠、石童丸の守り刀などが残されている。
これらは、「苅萱道心・石童丸関係信仰資料」として、橋本市の指定民俗文化財となっている。
平成5年(1993)には、千里ノ前の塚(名号「健泰妙尊大姉(けんたいみょうそんだいし)」)が供養のため旧玉屋屋敷跡から苅萱堂本堂南側に移された。
毎年3月には千里ノ前の法要が行われる。
学文路苅萱堂保存会では、明治40年刊行の「苅萱親子一代記」をもとに、平成8年(1996)に「石童苅萱物語」を発行して、石童丸物語の伝承に努めている。
南海高野線、学文路駅下車、徒歩10分。 → 苅萱堂、苅萱堂跡 石堂地蔵(苅萱地蔵) 苅萱道心、石童丸、石堂丸ゆかりの地
高野七口と高野山参詣道、登山路
入谷和也氏の「はじめての高野七口と参詣道入門」によると、
「高野七口」とは、高野山への代表的な参詣道や高野山の出入口または高野山への登山路の総称として用いられた。
→ 和歌山県内参詣道押印帳と証明書について
七口名称 | 天正治乱記 の七口名称 |
元禄8年地図 の七口名称 |
他の名称 | 参詣道、登山路 | 主な経由地 | 備考 |
大門口 | 麻生津口 | 西口 | 町石道 | |||
矢立(八度)口 | 三谷道 | |||||
花坂口 | 麻生津道 | |||||
若山(和歌山)口 | 安楽川道 | |||||
細川道 | ||||||
不動坂口 | 学文路口 | 不動口 | 京大坂道 | |||
京口 | 槇尾道 | |||||
大坂口 | 東高野街道 | |||||
神谷(紙屋)口 | 西高野街道 | |||||
中高野街道 | ||||||
下高野街道 | ||||||
黒河口 | 大和口 | 黒川口 | 黒河道 | |||
千手院口 | 粉撞道 | |||||
粉撞峠口 | 仏谷道 | |||||
久保口 | 丹生川道 | |||||
太閤道 | ||||||
大峰口 | 大峰口 | 東口 | 大峰道 | |||
蓮華谷口 | 荒神道 | |||||
野川口 | 弘法大師の道 | |||||
大和口 | 高野山発見の道 | |||||
摩尼口 | ||||||
大滝口 | 熊野口 | 大瀧口 | 小辺路 | |||
熊野口 | ||||||
小田原口 | ||||||
相浦口 | 相浦口 | 相浦道 | ||||
龍神口 | 龍神口 | 湯川口 | 有田龍神道 | |||
保田口 | 辻堂口 | |||||
湯川口 | ||||||
梁瀬口 | ||||||
保田口 | ||||||
有田口 | ||||||
日高口 | ||||||
女人道 |
高野山参詣年表
「河内長野の遺跡9」等を基に作成
年 代 | 参詣人 | 順 路 | 出 典 |
---|---|---|---|
治安3年(1023) | 藤原道長 | <大和~河内~摂津> 10/17出京~東大寺10/18~山田寺10/19~竜門寺10/21~政所~10/22~高野山10/24~政所10/25~10/26~法隆寺10/27~道明寺10/28~四天王寺~国府10/29~江口10/30~山崎11/1~帰京 |
扶桑略記 小右記 |
永承3年(1048) | 藤原頼通 | <和泉路> 10/10出京~10/12住吉(船)~石津湊~日根10/13~政所10/14~高野山10/16~政所10/14~粉河寺~市宿10/18~和歌浦~日根10/19~四天王寺10/20~帰京 |
高野参詣記 (続々群書) |
康平2年(1059) | 大御室性信 | <和泉路カ> 7/9出京~7/13粉河7/14~政所7/15~高野山10/5~仁和寺 |
御室相承記 |
承保2年(1075) | 大御室性信 | <和泉路カ> 3/2出京~伏見3/8粉河3/10奥院 |
御室相承記 |
永保元年(1081) | 藤原師実 | 高野・粉河~八幡・住吉 | 水左記 |
寛治2年(1088) | 白河上皇 | <大和路> 2/22出京~東大寺2/23~火打崎2/24~政所2/25~笠木2/26~高野山2/28~政所2/29~火打崎2/30~東大寺3/1~帰京 |
後二条師通記 高野御幸記 (続資料大成) |
寛治5年(1091) | 白河上皇 | <大和路> 2/17出京~(南都路)~2/19~高野山2/23~帰京 |
中右記 高野春秋 |
康和元年(1099) | 藤原師実 | <大和路> 2/13出京~(醍醐路)~奈良・高野山2/20~帰京 |
水左記 |
天治元年(1124) | 鳥羽上皇 | <大和路> 10/21出京~鳥羽10/23~東大寺10/24~火打崎10/25~政所10/26~笠木10/27~高野山10/29~政所10/30~火打崎11/1~東大寺11/2~帰京 |
中右記目録 高野御幸記 (群書類従) |
大治2年(1127) | 白河・鳥羽両院 | <大和路> 10/29出京~鳥羽10/30~東大寺11/1~田崎11/2~政所11/3~高野山11/5~政所~玉﨑11/6~帰京 |
中右記 長秋記 |
長承元年(1132) | 鳥羽上皇 | <河内路> 10/13出京~鳥羽10/14~天王寺10/17高野山10/18~政所10/19~天王寺10/20~鳥羽 |
中右記 |
天養元年(1144) | 藤原忠実 | <河内路カ~和泉> 2/13出京~高野参籠~粉河~吹上浜、和歌浦~2/27~宇治橋下 |
台記 |
久安3年(1147) | 覚法法親王 | <和泉路> 5/2仁和寺~梅津(船)~窪津~住吉浜5/3(船)~日根湊~新家庄5/4~填崎(船)~名手庄5/5(船)~政所~高野山5/21(船)~名手庄5/22~新家庄5/23~日根湊(船)~住吉~大渡(船)~5/24~山崎辺5/25~仁和寺 |
御室御所高野山 御参籠日記 |
久安4年(1148) | 藤原頼長 | <河内路~和泉> 3/12出京~天王寺3/13~住吉~(河内路)~政所3/14~高野山3/16~政所3/17~粉河~羽崎3/18~吹上、和歌浦~羽崎3/19~雄山~天王寺3/20(船)~賀島辺3/21~柱本辺3/23~帰京 |
台記 |
久安4年(1148) | 覚法法親王 | <和泉路~和泉> 閏6/10仁和寺~五条桂河(船)~窪津~松原庄6/11~石瀬辺~政所6/12~高野山8/4~三谷坂下(船)~粉河8/5(船)~填崎~新家庄8/6~日根湊(船)~住吉辺~大渡(船)~8/7~山崎8/8~仁和寺 |
御室御所高野山 御参籠日記 |
保元3年(1158) | 藤原忠雅・忠親 | <河内路> 9/26出京~9/27草津~天王寺9/28~大野口辺~長野~政所9/29~高野山9/30~政所~長野10/1~江口 |
山槐記 |
嘉応元年(1169) | 後白河上皇 | <河内路> 3/13出京~鳥羽3/14~天王寺3/15~政所3/16高野山3/18~政所カ3/16~天王寺3/20~福原3/23~帰京 |
兵範記 愚昧記 |
建永2年(1207) | 後鳥羽上皇 | <河内路カ> 3/22出京~3/25高野山3/27カ~水無瀬 |
明月記 |
正嘉元年(1257) | 後嵯峨上皇 | <河内路カ> 3/20出京~3/22~政所3/23~高野山 |
百錬抄 |
正和2年(1313) | 後宇多上皇 | <河内路> 8/6出京~四天王寺8/7~住江~政所8/8~鼻底辻8/9高野山(奥院参籠)8/16~政所8/17~竜泉寺、高貴寺、観心寺8/18~磯長太子廟~四天王寺8/19~山崎8/20~帰京 |
後宇多院御幸記 (続群書) |
延元3年(1338) | 後醍醐天皇 | 吉野皇居から潜幸し、金剛三昧院で滞在、奥の院訪問。 | |
正平11年(1356) | 光厳上皇 | 紀の川で墜水。更衣のため訪問。 | |
天授4年(1378) | 長慶天皇 | 高野山登山後、暫く隠棲。 | |
昭和52年(1978) | 昭和天皇 | 4月18日行幸啓。美福門院陵、天皇皇族髪歯爪塔参拝。奥の院視察。金剛峯寺宿泊 |