高野参詣道京大坂道は、高野七口の一つ不動坂に至る高野参詣道で、京都・大坂・堺からの道が河内長野で合流し、
紀見峠を越えて橋本で紀の川を渡り、清水、学文路(かむろ)から河根(かね)、神谷(かみや)を経て高野山女人堂に至る。
なかでも堺からの西高野街道は近世に大いに栄え、今も堺の大小路(おおしょうじ)橋から女人堂まで一里毎に道標石が残る。
これらは、「南無大師遍照金剛」の文字とともに、女人堂までの里程が記され、高野参詣の人々はこれを見るたびに一里ずつ近づく高野の姿を思い描いた。
これらは、いずれも江戸時代末期の安政4年(1857年)茱萸木(くみのき)村(大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立された。
不動坂は、京大坂道の終点である女人堂の手前、距離約2.7km、高低差310mの急峻な坂道で、京大坂道のなかで最難所である。
旧玉屋屋敷跡は、和歌山県橋本市学文路にある。
玉屋は石童丸物語の千里の前、石童丸母子が止まった宿として知られている。
紀伊国名所図会の(学文路)苅萱堂の項に次のように記されている。
(略)昔の妻 千里の前、(加藤左衛門尉)繁氏の母より傳へ持ちたる石を懐中して、(略)出産ありし男子に石堂丸(石童丸)と名(なづ)け、十四歳のとし、母諸共に(略)此里にきたり。
昔筑紫にて玉田與藤次(たまだよとうじ)といへる浪人の、今は此里にて、玉屋與次(たまやよじ)といへる者の宿にて、病の床に伏し、終に永萬元年酉三月二十四日の朝の露と消失せられしを、健泰妙尊大姉と戒名を授けて葬るとなむ。
南海高野線学文路駅から徒歩約10分。→ 苅萱道心、石童丸、石堂丸ゆかりの地
杖の梅天神は、和歌山県橋本市学文路の高野参詣道京大坂道沿いにある。
弘法大師空海が、讃岐(香川県)から杖として突いてきた梅の木を、この地に差し置いたのが芽吹いたものと伝えられ、
梅の縁により小さな社を設け、天神を祀ったと伝えられている。
南海高野線学文路駅下車、徒歩15分。
学文路苅萱堂(西光寺)は、和歌山県橋本市にあるお堂である。
苅萱道心、石童丸物語の舞台として知られている。
石童丸物語は、中世以来高野聖の一派である萱堂聖によって語られてきた苅萱親子の悲哀に満ちた物語で、
江戸時代には、説経節「かるかや」、浄瑠璃「苅萱桑門筑紫𨏍(かるかやどうしんつくしのいえづと)」(1735年大阪豊竹座初演)や琵琶歌となって、広く世に知られた。
出家した父道心を探して、高野山を目指した石童丸と母千里ノ前は、女人禁制のため母を玉屋旅館に残し、石童丸が一人で高野山に登った。
道心は出家の身で、「あなたの父は、すでに亡くなられた。」と偽って、石童丸を学文路へ帰したが、母はすでに亡くなっていた。
石童丸は再び高野へ上り、苅萱道心の弟子となったが、二人は親子の名乗りをすることなく仏道修行した物語である。
堂内には、苅萱道心、石童丸、千里ノ前、玉屋主人の像が安置され、千里ノ前の遺品とされる人魚のミイラや如意宝珠、石童丸の守り刀などが残されている。
これらは、「苅萱道心・石童丸関係信仰資料」として、橋本市の指定民俗文化財となっている。
平成5年(1993)には、千里ノ前の塚(名号「健泰妙尊大姉(けんたいみょうそんだいし)」)が供養のため旧玉屋屋敷跡から苅萱堂本堂南側に移された。
毎年3月には千里ノ前の法要が行われる。
学文路苅萱堂保存会では、明治40年刊行の「苅萱親子一代記」をもとに、平成8年(1996)に「石童苅萱物語」を発行して、石童丸物語の伝承に努めている。
南海高野線、学文路駅下車、徒歩10分。 → 苅萱堂、苅萱堂跡 石堂地蔵(苅萱地蔵) 苅萱道心、石童丸、石堂丸ゆかりの地
高野街道六地藏第三は、和歌山県九度山町繁野にある。
江戸時代に高野京街道を行きかう参拝者の安全を祈って造られたのが六地蔵尊で、今も子安地蔵として信仰されている。
この地蔵尊のほかに、清水(第一)、南馬場(第二)、河根峠(第四)、作水(第五)、桜茶屋(第六)にも祀られている。
河根峠の地蔵尊とともに、九度山町の指定文化財となっている。
南海高野線学文路駅から徒歩約30分。
高野街道六地藏第四は、和歌山県九度山町河根峠にある。
江戸時代に高野京街道を行きかう参拝者の安全登山を祈って造られたのが六地蔵尊で、今も子安地蔵として信仰されている。
この地蔵尊のほかに、清水(第一)、南馬場(第二)、繁野(第三)、作水(第五)、桜茶屋(第六)にも祀られている。
繁野の地蔵尊とともに、九度山町の指定文化財となっている。
南海高野線学文路駅から徒歩約50分。
高野街道六地藏第五は、和歌山県高野町作水にある。
江戸時代に高野京街道を行きかう参拝者の安全登山を祈って造られたのが六地蔵尊で、今も厄除地蔵尊として信仰されている。
この地蔵尊のほかに、清水(第一)、南馬場(第二)、繁野(第三)、河根峠(第四)、桜茶屋(第六)にも祀られている。
高野街道六地藏第六は、和歌山県高野町西郷にある。
江戸時代に高野京街道を行きかう参拝者の安全を祈って造られたのが六地蔵尊で、今も信仰されている。
この地蔵尊のほかに、清水(第一)、南馬場(第二)、繁野(第三)、河根峠(第四)、作水(第五)にも祀られている。
南海高野線紀伊神谷駅下車、徒歩約40分。
日本最後の仇討ち墓所は、和歌山県高野町神谷にある。
明治4年(1871年)2月30日に、この地で仇討ちがあり、「日本最後の高野の仇討ち」とも「神谷(かみや)の仇討ち」ともいわれている。
復讐劇の起こりは、9年前の文久2年(1862年)の赤穂藩内の争いである。
赤穂藩主・森家の家督争いが原因で、赤穂藩老・執政の森主税(ちから)と参政の村上真輔が、尊王攘夷派の藩士、吉田、西川ら13人に暗殺された。
その後、藩内の勢力争いも絡んで、村上一族が閉門追放され、遺児らはこのため仇討ちの決心を固めたと言われている。
襲撃した吉田らは脱藩し、長州藩に身を寄せていたが、長州藩は吉田ら7名に赤穂藩への帰参を命じた。
赤穂藩は、吉田、西川らの処置に困り、高野山に登って歴代藩主の廟所と高野山釈迦文院の守り役を命じた。
殺生禁断の高野山に入山させれば、村上一族の復讐から逃れられると判断したといわれる。
村上一族は、復讐の決意を固め、仇討ち事件の当日朝、河根宿の本陣・中屋に泊まり、吉田、西川たちを待ち伏せした。
そして村上方7名が、吉田方7名を討ち、本懐を遂げて、直轄の五條県庁に自首した。
そして、この事件が直接の原因で、明治6年2月に太政官布告によって「仇討ち禁止令」が出された。
村上方の処罰は、一審で全員死罪となったが最終的に「禁固10年」又は「准流10年」の判決となった。
横山豊氏は、「日本で最も有名な仇討ちが元禄時代に赤穂藩士によって行われ、日本最後の仇討ちがやはり赤穂藩士であったことは、何か因縁を感じて興味深い」と記している。
墓所は、仇討ちの地の解説板から数十メートル高野山寄りに建てられている。
大正15年(1926年)に十五志士事績顕揚会から出版された太田由喜馬著の「明治維新赤穂志士高野の殉難」では、尊王攘夷派の立場から「志士高野の殉難」と呼ぶべきと記している。
南海高野線紀伊神谷駅下車、徒歩約20分。→ 日本最後の仇討場碑
三星山彦句碑(高野町神谷)は、和歌山県高野町細川にある。
高野街道京大坂道の一里石の西にある「むすびの地蔵堂」横に、石碑が建立されている。
句碑には次のように刻されている。
(表面)
吹雪ゐる山河少年の日の山河 山彦
(裏面)
先生の句は
ふるさとの山がかえしたこだま
ふるさとのこころを満□る
わたしたちは神谷を愛し
神谷が生んだ
俳人山彦先生を称える
一九七〇年(以下判読困難)
三星山彦(1901-1988) 本名は三星義二(よしじ)。
明治34年和歌山県伊都郡高野村神谷の里に生まれた。
高野村役場、総本山金剛峯寺で勤めた。
俳句は大正5年(1916)頃に高野村長 清水喜三郎(号 颯々庵孤松)に勧められてはじめる。
昭和2年ホトトギスに投句し、高浜虚子の指導を受ける。
昭和6年ホトトギス巻頭の高野山大火の句によって一躍有名となった。
ホトトギス同人、天狼同人。紀伊山脈刊行会選者。
句集に「三星山彦句集」がある。
平成3年没(91歳)。
当地の句碑は、昭和45年(1970)、神谷出身の俳句連衆(三星清、石田貞雄、大家信次、福井健三氏)によって建立された。
南海高野線紀伊神谷駅下車、徒歩15分。極楽橋駅から京大坂道を歩いて約30分。
四寸岩(しすんいわ)は、和歌山県高野町西郷にある。
四寸岩の上部に四寸岩記念碑と石塔が建てられている。
現地の案内板には、次のように記されている。
四寸岩とは、弘法大師空海の足跡と伝承される窪みが2つ残る岩のことで、名前の由来は、窪みの幅が4寸(約12cm)であることからです。
かつて、高野七口のひとつである高野街道京大坂道を利用する上で、参拝者はこの場所を必ず通らなければなりませんでした。
「紀伊国名所図会」には、
「(前略)往来の人、片足をここにかけざれば、歩むことなりがたし。故に世人伝えて、親の足跡を踏むといひ習はせり(後略)」
とあり、四寸岩は難所のひとつであるとともに、信仰の対象となっていたことがわかります。
また、古くは「紀伊続風土記」にこの岩について
「(前略)古老の伝にこの足痕は大師の踏凹め給ふ(後略)」
とあり、江戸時代にはすでに伝承が存在していたことがわかります。
「高野山独案内名霊集」(明治30年刊)には、参詣の道路名勝として次のような紹介がある。
これぞ名高き
四寸岩 昔大師はこの山を。開き給ひしそのをりに。踏みて残せし足の跡。千代も朽せぬこの岩を。
父や踏みけむ母上も。踏みて縁(えにし)を結びけん。こひしき父母や同胞(はらから)の。契り堅き岩の跡。
心残して過行けば。清く流るゝ渓川(たにがわ)の。無為正浄の水の音。聞くもうれしき極楽橋。渡ればこれぞ不動坂(後略)
また、「伝説の高野山」(昭和4年刊)には、上記の紀伊続風土記の内容を踏まえて、次のように記されている。
四寸岩
乗物に拠らず、舊道を通って極楽橋から四丁計り下ると往来を塞いで大きな岩がある。
これが四寸岩で、大師の足跡だと言ふ凹んだ個所がある。昔の参詣人は皆この凹みを踏んで上ったものだ。
これをこじつけて止駿岩、即ち駿馬も攀ぢる事が出来ないので、此處で止まったのだと言ったり、いや子孫岩で、過去の親の足跡を踏むからだと言ふ説もある。
もっと穿つたのでは、「蟻のとわたり」と称へて、人間のからだに譬へ、此處を通つたら、どんな悪人でも生まれ代ると言ふ説も傳へられている。
あの明治の仇討もこの四寸岩を越せば打てなかったのだと、附け加へる者もある。
明治維新以降、牛馬道が開設され、当地を通過する参詣人がなくなって荒れていたため、明治26年には、高野村大字西郷の清水五兵衛から高野山教議所宛てに道路修繕の願書が出されている。
また、その後、現在の南海電鉄高野線の前身である高野山電気鉄道の極楽橋駅が昭和4年(1915)に建設されたため、四寸岩周辺は一般の人が通過しなくなった。
南海高野線極楽橋駅から徒歩約20分。
岩不動は、和歌山県高野町の京大坂道不動坂にある。
紀伊名所図会には、次のように記されている。
「岩不動 路傍の岩に不動の種子(しゅじ)あり。大師の御爪鐫(おんつまぼり)なりといふ。」
種子とは仏教で諸尊をあらわす梵字のことで、弘法大師空海がこの岩盤のどこかに不動明王の梵字を刻んだという意味である。
不動明王は、ヒンドゥー教のシバ神の異名で大日経によると「不動如来使者は、慧刀、羂索を持ち」と表現されており、
不動明王像は、9世紀初めに空海によってわが国に伝えられたといわれる。
この梵字を見つけることは今となっては難しいが、このあたりの山脈は堅固な岩盤が連続しており、
その光景自体が不動明王を思い浮かべるような迫力がある。
南海高野線高野山駅からバスで女人堂下車、徒歩20分。
萬丈が嶽は、和歌山県高野町の清不動堂の北約100mのところにある。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
「下向路の右に断崖絶壁あたかも掌を立てるが如し
直下に谷を瞰臨するに数千丈許にして底なきが如し」
また、江戸時代には重罪人が手足を縛られ、ここから追放されたので「萬丈転がし」とも呼ばれていた。
紀伊続風土記の治爵の項には次のような記述がある。
「一等軽ものは不動坂萬條谷に追払う
俗に此処を萬丈転といふ
罪人を縛し此の谷底に放捨す」
南海高野線極楽橋駅から不動坂を徒歩約20分。
兒滝(ちごのたき)は、和歌山県高野町の清不動堂の北約50mにある。
京大坂道(不動坂)を登ると道標のある左手に、林立する樹木の合間から滝が見え、兒滝(稚児滝)と呼ばれている。
滝の名称については諸説あるが、江戸時代後期編集の「紀伊続風土記」には、
「昔兒の捨身せし所といひ傳ふ」とある。
「紀伊名所図会」には、次のように記されている。
兒滝 花折坂の下にあり。昔兒の捨身せし所といひ傳ふ。
一帯の清泉、積翠萬畳(せきすいばんでふ)の中より流失し、
こ々に至りて直下千尺、珠砕け玉踊る天工、言語の及ぶ所にあらず。
また「遥かに見下せば一条の白布ななめに翠壁にかかる」と古書に記された美しい滝である。
宝永5年(1708)に初演された近松門左衛門作の浄瑠璃「心中万年草」では、
高野山吉祥院の成田粂之助と神谷の雑賀屋の娘 お梅が、この世では実らぬ恋をはかなんで、兒滝を経て、女人堂で心中する様子が次のように浄瑠璃で語られる。
死出の山路を越ゆるかと 心細しや卒塔婆谷。(中略) 今宵散り行く初桜 児が滝とぞ涙ぐむ。
(中略) 一つ回向の水汲めや 手向けの梅の花折り坂 辿り越ゆれば暁の 五障の雲に埋もるゝ 女人堂にぞ着きにける。
(出典 「曽根崎心中 冥途の飛脚 他五篇」 岩波文庫)
南海高野線極楽橋駅下車、徒歩20分。
清不動堂(きよめのふどうどう)は、和歌山県高野町の京大坂道の不動坂にあるお堂である。
古くは、「外の不動堂」と呼ばれていたお堂があり、杉材で作られた像高84cmの不動明王坐像が本尊として祀られていたが、現在は風化による破損が著しいため、高野山霊宝館に収蔵されている。
紀伊名所図会によると、この「外の不動堂」は、もともと弘法大師の草創で、寛文年間(1661-1673)に、備前の国上道郡金岡荘(かみじごおりかなおかのしょう)の野崎家久入道が再建したとされる。
その後、明治16年(1883年)に焼失し、明治20年に大阪伏見町の上田みちという助産婦により再建された。
大正4年(1915年)に不動坂が全面改修され新しいルートとなったため、外の不動堂は荒廃していたが、大正9年(1920年)に大阪の桝谷清吉、寅吉の親子が、新しい不動坂へ修復移転し、清不動堂を建立したものである。
移転前の外の不動堂は、いろは坂とよばれる急坂を登ったところにあったため、高野町の案内板が建てられている。
また、さらに北に歩くと旧不動坂と馬廻道交差点石標が建てられており、次のように記されている。
右 加ミや まきのを
い世 京 大坂
寛政四年壬子年七月立
南無大師遍照金剛
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車、徒歩約15分。極楽橋駅から不動坂を徒歩で約30分。
花折坂は和歌山県高野町にある。
京大坂道不動坂の清不動堂と女人堂のほぼ中間に位置する。
紀伊名所図会には次のように記されている。
「花折(はなをり) 女人堂より下にあり。参詣の諸客、此所にて花を折りて、大師に捧ぐるもあり。
又「をりとれば手(た)ぶさにけがるたてながら三世の佛に花たてまつる」とうたひて過ぐるもあり。」
挿絵には巨大な華瓶(けびょう)が2基描かれている。
高野山を目前にした参拝者たちはこの場所で花を摘んで、華瓶に供えた。
和歌山県教育委員会、高野町教育委員会による平成22年からの調査では、華瓶の一つが発見された。
江戸時代初期に製造、建立されたとみられる。正面に「弘法大師御法楽」「四所明神御法楽」と刻されている。
総高97.4cmの砂岩製である。「はじめての「高野七口と参詣道」入門」(入谷和也氏著)では、当時の発見の様子が記されている。
少し南側には石仏と石塔が建てられている。
南海高野線高野山駅からバスで女人堂前下車、徒歩10分。
女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。
女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉(きのととり)の。五月十五日なりしとぞ。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社
江戸時代に書かれた紀伊名所図会の「女人堂」の項には、高野山の女人禁制について、次のように記されている。
紀伊名所図会 女人堂
〇女人堂
諸国より参詣の女人投宿する所なり。
七口各(おのおの)堂ありといへども、此堂最大なり。
当山の内院に女人を禁ずる事、古(いにしへ)詳論あり。今具(つぶさに)陳ずるに及ばずといへども、いささか女児の為に其一端を述べむ。
惟(おもんみ)るに大師豈(あに)婦女を忌み給はんや。
其「誥記(こうき)」には、「女はこれ萬姓の本(もと)、氏族を廣め家門を継ぐ」とのたまへり。
然れども是と親近する時は、互に視聴の慾に誘われて、貞良如法(ていりょうにょほう)の弟子といへども、意外の過(あやまち)なきにしもあらず。
故(かるがゆえ)に「是を親むこと厚ければ、諸悪の根源嗷々の本なり」と示したまへり。
且弘仁聖主の勅(みことのり)にも、男の尼寺に入り、尼の僧院に赴く事を制したまふ。
迷源を塞ぎ慾根を断つ、聖慮祖意(せいりょそい)の深き所、其辱(かたじけな)きを察知すべし。
若(もし)有信の女子、一度(ひとたび)登詣してこの堂に宿し、遥(はるか)に伽藍を拝礼し、合絲聚塵(がっししゅじん)の微貨に拘らず、随分の功徳を修せば、
其良縁に因りて、忽(たちまち)長夜の迷室を出で、永く一真の覚殿に入らむ事うたがふべからず。
小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠(地蔵堂)である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、
三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で熊と共に生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂口に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、江戸時代に建立されたもので、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。→ 出雲崎散歩 町の話 高野山女人堂
不動坂口は、和歌山県高野山にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、不動坂口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
不動坂口 又京口ともいふ。一心院谷にあり。小田原谷にて大門口より入るものとあふ。神谷辻迄五十町。
此道登山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えてくるものと、
清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり。(後略)
高野山コウヤマキ希少個体群保護林は、和歌山県高野山の女人堂付近にある。
女人堂前の案内板には、次のように記されている。
高野山コウヤマキ希少個体群保護林
Koyamaki Protected Forest
大昔は世界中に広く分布していましたが、約1万年前までにはほぼ滅びてしまって、
今では日本と韓国の一部(済州島)にだけ生えているコウヤマキ。
とくに、これだけの規模のコウヤマキの純林は、世界でここ高野山にしかありません。
コウヤマキ : 高野槙、高野槇 学名 Sciadopitys verticillata
(英文 中略)
ここ(女人堂)から遊歩道で約20分です。ぜひご覧ください。
林野庁 和歌山森林管理署
→ 天皇皇后両陛下行幸啓記念植樹「高野槙」(金剛峯寺境内)
高野七口と高野山参詣道、登山路
入谷和也氏の「はじめての高野七口と参詣道入門」によると、
「高野七口」とは、高野山への代表的な参詣道や高野山の出入口または高野山への登山路の総称として用いられた。
七口名称 | 天正治乱記 の七口名称 |
元禄8年地図 の七口名称 |
他の名称 | 参詣道、登山路 | 主な経由地 | 備考 |
大門口 | 麻生津口 | 西口 | 町石道 | |||
矢立(八度)口 | 三谷道 | |||||
花坂口 | 麻生津道 | |||||
若山(和歌山)口 | 安楽川道 | |||||
細川道 | ||||||
不動坂口 | 学文路口 | 不動口 | 京大坂道 | |||
京口 | 槇尾道 | |||||
大坂口 | 東高野街道 | |||||
神谷(紙屋)口 | 西高野街道 | |||||
中高野街道 | ||||||
下高野街道 | ||||||
黒河口 | 大和口 | 黒川口 | 黒河道 | |||
千手院口 | 粉撞道 | |||||
粉撞峠口 | 仏谷道 | |||||
久保口 | 丹生川道 | |||||
太閤道 | ||||||
大峰口 | 大峰口 | 東口 | 大峰道 | |||
蓮華谷口 | 荒神道 | |||||
野川口 | 弘法大師の道 | |||||
大和口 | 高野山発見の道 | |||||
摩尼口 | ||||||
大滝口 | 熊野口 | 大瀧口 | 小辺路 | |||
熊野口 | ||||||
小田原口 | ||||||
相浦口 | 相浦口 | 相浦道 | ||||
龍神口 | 龍神口 | 湯川口 | 有田龍神道 | |||
保田口 | 辻堂口 | |||||
湯川口 | ||||||
梁瀬口 | ||||||
保田口 | ||||||
有田口 | ||||||
日高口 | ||||||