女人道ハイキング 高野三山めぐり
スタート 女人堂 → 嶽弁財天 → 高野山大門 → 中の橋駐車場 → 高野三山 → 女人堂
女人道ハイキング 高野七口女人堂跡・高野三山めぐり 距離 約16km 約8時間
高野七口女人堂跡・高野三山めぐりコース コースマップと見どころガイド
和歌山県のモデルルート略図 女人道(高野三山) 上記のコースとは異なります。
不動坂口は、和歌山県高野山にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、不動坂口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
不動坂口 又京口ともいふ。一心院谷にあり。小田原谷にて大門口より入るものとあふ。神谷辻迄五十町。
此道登山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えてくるものと、
清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり。(後略)
女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。
女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉(きのととり)の。五月十五日なりしとぞ。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社
江戸時代に書かれた紀伊名所図会の「女人堂」の項には、高野山の女人禁制について、次のように記されている。
紀伊名所図会 女人堂
〇女人堂
諸国より参詣の女人投宿する所なり。
七口各(おのおの)堂ありといへども、此堂最大なり。
当山の内院に女人を禁ずる事、古(いにしへ)詳論あり。今具(つぶさに)陳ずるに及ばずといへども、いささか女児の為に其一端を述べむ。
惟(おもんみ)るに大師豈(あに)婦女を忌み給はんや。
其「誥記(こうき)」には、「女はこれ萬姓の本(もと)、氏族を廣め家門を継ぐ」とのたまへり。
然れども是と親近する時は、互に視聴の慾に誘われて、貞良如法(ていりょうにょほう)の弟子といへども、意外の過(あやまち)なきにしもあらず。
故(かるがゆえ)に「是を親むこと厚ければ、諸悪の根源嗷々の本なり」と示したまへり。
且弘仁聖主の勅(みことのり)にも、男の尼寺に入り、尼の僧院に赴く事を制したまふ。
迷源を塞ぎ慾根を断つ、聖慮祖意(せいりょそい)の深き所、其辱(かたじけな)きを察知すべし。
若(もし)有信の女子、一度(ひとたび)登詣してこの堂に宿し、遥(はるか)に伽藍を拝礼し、合絲聚塵(がっししゅじん)の微貨に拘らず、随分の功徳を修せば、
其良縁に因りて、忽(たちまち)長夜の迷室を出で、永く一真の覚殿に入らむ事うたがふべからず。
小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠(地蔵堂)である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、
三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で熊と共に生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂口に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、江戸時代に建立されたもので、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。→ 出雲崎散歩 町の話 高野山女人堂
高野山コウヤマキ希少個体群保護林は、和歌山県高野山の女人堂付近にある。
女人堂前の案内板には、次のように記されている。
高野山コウヤマキ希少個体群保護林
Koyamaki Protected Forest
大昔は世界中に広く分布していましたが、約1万年前までにはほぼ滅びてしまって、
今では日本と韓国の一部(済州島)にだけ生えているコウヤマキ。
とくに、これだけの規模のコウヤマキの純林は、世界でここ高野山にしかありません。
コウヤマキ : 高野槙、高野槇 学名 Sciadopitys verticillata
(英文 中略)
ここ(女人堂)から遊歩道で約20分です。ぜひご覧ください。
林野庁 和歌山森林管理署
金剛峯寺境内には、天皇皇后両陛下行幸啓記念植樹「高野槙」がある。
谷上女人堂跡は、和歌山県高野山女人道にある。
高野参詣道の麻生津道・花坂道の女人堂があった場所である。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
谷上 壇場の正北にあり。東は本中院谷につづく。
谷上の義 一の瀧の條下に見ゆ。
壇場より嶽辨天へ通ずるの往還なり。
嶽弁財天は、和歌山県高野山にある七弁天のひとつである。。
高野山の外八葉と呼ばれる山の一つ弁天岳の山頂に祀られている。
高野山大門の北側に登山口があり、女人道参道に建ち並ぶ鳥居をたどっていくと、約30分で弁天岳の頂上(標高984.5m)に到着する。
女人道の杉木立の間からは、根本大塔を見下ろせる場所があり、かつては高野山に参詣した女性が、女人道から手を合わせたといわれている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
相傳ふ 大師 佛法紹隆福田のため 寶珠を此峰に痊埋し 寶瓶を安置して天女を勧請す
其後 妙音坊といふ天狗常に守護すといふ
南海高野線高野山駅からバスで大門前下車、徒歩30分。
高野山大門は、和歌山県高野町にある高野山の表玄関である。
慈尊院からの町石道を登りきったところにあり、高野山の壇上伽藍の入り口にあたる。
1140年に建てられたもので、それ以前は約500m下の九折谷に一基の鳥居があり、それが一山の総門になっていた。
現在の門は、1705年に再建されたもので、高さ25m、間口21メートル、奥行き8メートルの5間三門開きの朱塗りの楼門である。
両脇の金剛力士像は、江戸時代の仏師康意、運長の作である。大門前広場には木国句碑がある。
主柱に掛けられた対聯(ついれん)には、「日々の影向(ようごう)を闕(か)かさず」「処々の遺跡を検知せん」と記されている。
この2句は、日日影向文(にちにちようごうもん)とも呼ばれ、寛治年間(1087-94)に東寺の定額(じょうがく)僧正勝実(しょうじつ)という僧侶が、讃岐国善通寺において感得したという「御筆の一筆」の次の文から採られたものという。
「居を高野の樹下に卜(ぼく)し、心神を兜卒(とそつ)の天上に遊ばすと雖も、
日々の影嚮を闕かさず、処々の遺跡を検知せん」
弘法大師は、住まいを高野山奥の院の樹下に選び定め、心は弥勒菩薩が住む兜卒天に赴いているけれども、
毎日姿を現して、縁のある各地に出向き巡検され、衆生の救済に力を注がれている、という意味である。
対聯の書体は、法性寺流(ほっしょうじりゅう)と呼ばれるもので、弘法大師に深く帰依した後宇多上皇の宸筆を写したものといわれている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「大門」下車すぐ。
自家用車の場合は、橋本経由の国道370号ではなく、かつらぎ経由の国道480号の方が運転しやすい。
大門前のT字路を伽藍方向に左折せず直進すると、約300mでお助け地蔵前駐車場がある。
田村木国句碑は、和歌山県高野山大門広場の南隅にある。
石碑には次のとおり刻されている。
山門を出でて秋日の谷深し 木国
高野山大門から西を眺めると、鳴子谷の先に葛城、和泉の山を一望することができる。
特に秋の夕刻には、太陽の沈む姿が美しく、多くの参詣客が静かに見入っている。
木国(もっこく)(1889-1964)は、本名を田村省三といい、新聞記者、俳人として活躍した。
全国高校春夏の野球大会(旧中等学校)創設の功労者として知られる。
田村木国は、明治22年1月1日に和歌山かつらぎ町笠田中で、寺子屋を開いていた文次郎の長男として生まれた。
2歳の時、父の就職に伴い大阪に移り、北野中学から三高に進み、中途退学した。
明治43年(1910)大阪朝日新聞社に入社し、社会部で全国中等学校優勝野球大会を創案し、大正4年(1915)8月18日に豊中球場で第1回大会が開催された。
昭和8年(1933)に大阪毎日新聞社に移り、整理部長、学芸部顧問を歴任した。
俳句においては、大正6年(1917)に高浜虚子に入門し、大正11年創刊の「山茶花(さざんか)」で活躍した。
昭和21年には同名の俳句誌 山茶花を創刊して主宰し、昭和39年に76歳で没した。
毎年夏に開かれる高野山の俳句大会には、選者として37回参加したという。
「秋郊」「大月夜」「山行」などの句集を刊行している。
句碑裏面には、昭和三十二年七月廿一日 総本山金剛峯寺 と刻されている。→ 高野山内の句碑
龍神口(龍神口跡)は、和歌山県高野山大門南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、龍神口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
龍神口 又湯川口といひ、保田口あるひは簗瀬口ともいふ。
大門の左に通ず。龍神より十三里餘。
此道當山坤(ひつじさる)方の入口にして、
日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると、
新村にて合して大門に入る。
お助け地蔵尊は、和歌山県高野町にある地蔵で、「助けの地蔵」とも呼ばれている。
高野山大門の南側、女人道に面した高野七口の一つ龍神口の近くに祠が建てられている。
言い伝えによると、高野山に住んでいたおじいさんが、熊野の辻を歩いていると「助けて」と声が聞こえたという。
声のする方向を探すと、道際の小さな谷に地蔵尊が落ち込んでいたので、道まで引き上げて安置した。
しかし、人通りの少ない寂しい場所であったので、地蔵尊を抱えて高野山まで帰り、龍神口近くに祠を建て、毎日お参りを続けたところ、この地蔵尊がみんなの願いをひとつずつかなえてくれるようになったという。
また、願い事は、一生に一度だけ聞いてくださるとか、お礼参りには丸いものをお供えするとよいとも言われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「大門」下車、徒歩5分。道路を隔てた西側に駐車場がある。
相浦道(あいのうらみち)は高野山参詣道の一つで、和歌山県伊都郡高野町にある。
相浦道は、相ノ浦集落から内護山(ないごやま)の東を経て笠松峠から高野山南谷の相ノ浦口に至る道である。
相ノ浦から紀伊山地の山々に続く山道は、東方面へは大瀧を経て熊野道、南方面へは花園新子(はなぞのあたらし)を経由して龍神道に合流する。
相ノ浦集落の北に高野山小学校旧相ノ浦分校があり、隣接して丹生神社が鎮座している。
紀伊国名所図会の佐久間信盛故居の項に、織田信長の重臣 佐久間信盛が天王寺城の城を退けられ、高野山を経て相郷という村に住み着いたと記されている。
豊臣秀吉が信盛の困窮を救うため、使者が金銭を持参するところが描かれている。
高野七口のひとつ「相ノ浦口」にあった女人堂の跡である。
相ノ浦口は、龍神、有田から高野槙の産地相ノ浦を経由して高野山に至る相ノ浦道ルートと女人道ルートの交差する地点である。
紀伊続風土記の「総分方巻之十二南谷」には、次のように記されている。
女人堂 山の堂ともいふ
本尊 地蔵菩薩 大師の作 南谷六地蔵の其一なり
六時の辻の南五町餘にあり 参詣の女人此所に宿す
當山七口の其一にて相浦口といふ
下乗札あり 花園荘相浦村まで壱里十一町許
大滝口女人堂跡は、和歌山県高野町にある。
高野山への七つの参詣道は高野七口と呼ばれ、女人禁制が解かれるまで女性はそこから山内に入れず、各入口には女性のための籠もり堂として女人堂が建っていた。
それらの女人堂を結ぶ道が当時の女性が歩いた道「女人道」として、現在も残っている。
大滝口女人堂跡は、高野七口の一つ「大滝口」にあった女人堂の跡である。
熊野参詣道のひとつ「小辺路」(こへち)の起点であり、高野山から大滝を経由して熊野につながる。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。(中略)
大瀧口 又熊野口といふ。小田原谷に通ず。此道當山東南の入り口なり。
熊野本宮に詣(けい)し、夫より絶嶮の深山幽谷を経て、凡(およそ)十五里にして高野に至る。(後略)
轆轤峠(ろくろとうげ)は、大滝口女人堂のあった場所で、女人禁制の頃、この峠付近から高野山内を、首を伸ばして見たという女性たちの姿からその名がついたと言われている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
轆轤峠 下乗檄あり
六時鐘の辻より東南へ去る事十町餘 當山七口の一なり
熊野参詣の路にして大瀧村まで壱里餘
円通律寺は、和歌山県高野山の蓮華(れんげ)谷から南へ一山越えた清閑な谷間にある。
本堂・坊舎(庫裏)・鐘楼門・宝庫・鎮守社・所化寮などの建物からなる。
霊岳山律蔵院と号し、本尊は釈迦如来(木造坐像、国指定重要文化財)である。。
古くは専修往生(せんじゅおうじょう)院と称し、高野山の別所のうち教懐によって開かれた小田原(おだわら)別所、覚鑁系の徒によって相続された中(なか)別所、明遍による東(ひがし)別所に対して新(しん)別所(真別処)ともよばれた。
別所とは、念仏聖の集まっているところをいう。
空海の十大弟子の一人智泉大徳の開基と伝え、智泉没後荒廃していたのを、文治年間(1185-89)に奈良東大寺再建の大勧進職をつとめた俊乗房重源が再興、専修念仏の道場としたという。
当時、源空や熊谷蓮生房等が登山して重源と好誼を結んだと言われる。
その後、重源が源頼朝の招請に応じて鎌倉に下向したため衰退したが、江戸時代 慶長17年(1612年)、2代将軍徳川秀忠に仕えていた山口修理亮入道重政(剃髪して「深慶」と呼ばれた)は、玄俊とともに重源の跡を慕って再興を図った。
元和5年(1619年)に再興なって、賢俊房良永を中興として招請した。
以後、真政房円忍・恵深房妙瑞・密門房本初・密乗房龍海など戒律堅固の住持に受継がれて今日に至っている。
江戸時代には末寺は大和国六院、和泉国・下総国各一院、摂津国二院、伊予国七院があった(紀伊続風土記)。
近代に入り、長く大会(だいえ)堂(蓮花乗院)が寺務を兼帯していたが、近年金剛峯寺に移管され、同寺座主が住職を兼ねる。
現在、事相講伝所が開設され、修行専門の道場となっており、拝観はできない。
参道入り口には、「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」「大界外相(だいかいげそう)」の結界石がある。
年に一度、旧暦4月8日に花盛祭が行われ、その時には参拝者も入ることができる。
国指定重要文化財の紙本著色十巻抄・紙本白描不動明王二童子毘沙門天図像がある。
2019年4月に本尊を安置する檀の下から「高野山奉納小型木製五輪塔」が見つかった。
2021年2月に国の文化審議会は、五輪塔と関係資料を登録有形民俗文化財とするように答申した。
南海高野線高野山駅からバスで、苅萱堂前下車、徒歩30分。
大峰口女人堂跡は、和歌山県高野山女人道23ポイント東側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれ、女人禁制が解かれるまで女性はそこから先の山内には入れず、
各入口には女性のための籠り堂として女人堂が建っていた。
当地は大峰口にあった女人堂の跡である。
大峰山から、洞川、天川を経て高野山に至る約59㎞の参詣道が大峰道と呼ばれた。
現地の案内板には、次のように記されている。
女人堂跡
ここには、五大尊堂があり、その脇に東口(大和口又は大峰口)の女人堂があった。
五大尊堂の本尊は、不動明王、大威徳、降三世、軍荼利、金剛夜叉で、明治時代の中頃までこの場所にあった。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩30分。中の橋駐車場から徒歩30分。
高野七口「東口」は、和歌山県高野山女人道にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
東 口
大和口又は大峰口ともよばれ、吉野より大峰山、洞川、天川を通り
高野山へとつながる修験道の道で弘法大師が高野山へと初めて入ったのもこの道です。
吉野から高野山に向かう道は、「弘法大師の道」「高野山発見の道」などと呼ばれる。
「Kobo trail」というトレイルランニングのイベントが行われる。
大峰口は、和歌山県高野山中の橋駐車場南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、大峰口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
大峰口 又東口といひ、野川口ともいふ。蓮花谷に通ず。大峰より凡そ十五里。
此道當山東方の入口にして、大峰山上より洞川に下り、天川を経て天狗木より入る。
俗此道筋を七度半道といふ。一度此道より登詣すれば、功徳七度半にあたるとぞ。
魔尼山(1,004m)は、和歌山県高野町にある。
楊柳山(1,008.6m)、転軸山(915.0m)とならぶ高野三山のひとつで、奥之院御廟の東北に位置する。
高野山秘記によると、弘法大師が飛行三鈷の写しを埋めた東西南北の峰の一つで、宝珠を安置したといわれる。
山上には、祠があり、如意輪観音像が祀られている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、女人道を徒歩1時間。
楊柳山(1,008.6m)は、和歌山県高野町にある。
魔尼山(1,004m)、転軸山(915.0m)とならぶ高野三山のひとつで、奥之院御廟の北に位置する。
山頂には、祠があり明和8年(1771)3月21日の銘が入った半跏坐の楊柳観音像が祀られている。
楊柳観音は、三十三観音の一つで、薬王観音と同体といわれ、種々の病難の消除を本誓とする。
経軌では、右手に楊柳枝をとり、左手を左乳上にあてるとされる。
楊柳山学習展示林の説明板がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、女人道を徒歩2時間。
転軸山は、和歌山県高野町にある。
高野山「内の八葉」(姑射山、摩尼山、楊柳山、転軸山、小塔嶺(しょうとうがみね)、金剛嶺、山王嶺、遍照嶺)の一つである。
標高915mで、頂上には弥勒菩薩の祠がある。
紀伊続風土記巻2には、次のように記されている。
〇轉軸山
廟堂の坤(ひつじさる)の峯なり躋り五六町頂に彌勒の小祠あり
この転軸山に弘法大師が不動明王の剣(宝剣)を埋めたと伝えられ、また経典の理趣経も埋納されていたが、朽ちて金銅製の軸だけが残っていたという逸話が、その名の由来と言われている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩約30分。
黒河口女人堂跡は、和歌山県高野町にある。
黒河道(くろこみち)は、和歌山県伊都郡にある高野参詣道の一つで、橋本市賢堂(かしこどう)から高野山千手院谷にある高野七口の一つ黒河口まで通じている。
紀伊續風土記の黒河村の項目には、「黒河は暗谷の義にして狭き谷のことなるへし」と書かれている。
橋本から高野山への近道とされ、また大和からの参詣客がしばしば利用することから、大和口とも呼ばれた。
黒河口女人堂は、高野七口にあった女人堂の一つで、現在は跡地に木製の案内板が建てられている。
南海高野線高野山駅からバスで高野山警察前下車、徒歩5分。
高野七口と高野山参詣道、登山路
入谷和也氏の「はじめての高野七口と参詣道入門」によると、
「高野七口」とは、高野山への代表的な参詣道や高野山の出入口または高野山への登山路の総称として用いられた。
七口名称 | 天正治乱記 の七口名称 |
元禄8年地図 の七口名称 |
他の名称 | 参詣道、登山路 | 主な経由地 | 備考 |
大門口 | 麻生津口 | 西口 | 町石道 | |||
矢立(八度)口 | 三谷道 | |||||
花坂口 | 麻生津道 | |||||
若山(和歌山)口 | 安楽川道 | |||||
細川道 | ||||||
不動坂口 | 学文路口 | 不動口 | 京大坂道 | |||
京口 | 槇尾道 | |||||
大坂口 | 東高野街道 | |||||
神谷(紙屋)口 | 西高野街道 | |||||
中高野街道 | ||||||
下高野街道 | ||||||
黒河口 | 大和口 | 黒川口 | 黒河道 | |||
千手院口 | 粉撞道 | |||||
粉撞峠口 | 仏谷道 | |||||
久保口 | 丹生川道 | |||||
太閤道 | ||||||
大峰口 | 大峰口 | 東口 | 大峰道 | |||
蓮華谷口 | 荒神道 | |||||
野川口 | 弘法大師の道 | |||||
大和口 | 高野山発見の道 | |||||
摩尼口 | ||||||
大滝口 | 熊野口 | 大瀧口 | 小辺路 | |||
熊野口 | ||||||
小田原口 | ||||||
相浦口 | 相浦口 | 相浦道 | ||||
龍神口 | 龍神口 | 湯川口 | 有田龍神道 | |||
保田口 | 辻堂口 | |||||
湯川口 | ||||||
梁瀬口 | ||||||
保田口 | ||||||
有田口 | ||||||
日高口 | ||||||
女人道 |
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