飛鳥史跡めぐり

午前9時10分 飛鳥駅前集合


距離の目安  約15km

昼食場所 石舞台古墳休憩所

飛鳥駅時刻表

橿原神宮前、古市、阿倍野橋方面 

   平日     休日 
    特急      特急 
8時台  17 28 56  5 39    25 56  9 40
9時台 26 58   10    26 57 10
           

壺阪山、吉野方面

   平日     休日 
    特急      特急 
8時台  5 34 50    4 34  20 50
9時台 5 35  50    5 35  51
           

JR高野口駅 7:59発 JR橋本駅8:13発  8:42着吉野口駅8:45発 飛鳥駅 8:55着

(古市経由)
南海紀見峠駅 7:50発 南海河内長野駅 8:04着 近鉄河内長野駅 8:18発 古市駅 8:38発 飛鳥駅9:04着

(大阪阿部野橋経由)
大阪阿部野橋駅 8:20発 飛鳥駅 9:04着


牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳は、奈良県明日香村にある国史跡である。

牽牛子塚(けんごしづか)古墳は、江戸時代にケンゴウシ又は御前塚と呼ばれていた。ケンゴウシは漢字で牽牛子と書き、アサガオを指す。
朝顔は、ヒルガオ科の一年生蔓草で、中国南西部やヒマラヤ山麓が原産地といわれる。
中国では、宋の時代からこの種子を薬用に供し、だいじな牛を牽いて薬草の朝顔にかえた故事から牽牛子(子は実のこと)・牽牛花の名が起こった。
日本へは、千二百年前、遣唐使が薬用として持ち帰ったのが最初で、粉末にして緩下薬、峻下剤として用いた。

平成21年度の調査では、牽牛子塚古墳が二上山の凝灰岩を使用した八角墳であることが明かとなった。→ 八角墳と天皇陵
そして平成22年度の調査で、牽牛子塚古墳の南東から石英閃緑岩を使用した刳り貫き式横口式石槨が検出され、越塚御門古墳と命名された。
これらの発掘調査の結果から、牽牛子塚古墳は、7世紀後半の終末期古墳で、斉明天皇と娘の間人皇女の合葬墓と考えられている。→ 車木ケンノウ古墳(斉明天皇陵) 

牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の所在する越智岡(おちのおか)(小市岡)は、高取川の左岸にあり、古く万葉歌に「越智野」が詠まれ、
隣接する真弓岡や今城谷には、天武天皇と持統天皇の檜隈(ひのくま)大内陵や吉備姫王の檜隈墓など大王(天皇)家の墓が残されている。→ 天武・持統天皇陵 吉備姫王墓 カナヅカ古墳

日本書紀の天智天皇六年(667)条に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した「小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)」とその陵の前に「大田皇女」が葬られたことが記されている。
間人皇女は、斉明天皇の娘で孝徳天皇の后、そして大田皇女は斉明天皇の孫で天智天皇の娘にあたる。
小市岡(越智岡)は、斉明天皇ゆかりの女性が眠る地と紹介されている。

なお、益田岩船石の宝殿について、牽牛子塚古墳の横口式石槨との関連が指摘されている。
猪熊兼勝氏は、「飛鳥の古墳を語る(平成6年刊)」において、
「益田岩船、石宝殿は斉明陵として墓室を造る途中、予期しなかった亀裂が生じ、未完成として残った石塊である」
としている。
益田岩船については、上記の猪熊氏の著書に、亀裂についての説明がされている。
石の宝殿については、日本書紀の天智天皇6年2月条に、「石槨の役(いわきのえだち)(横口式石槨の墳墓の造営)を起さしめず」と記されていることから、
万民のために造営を中止したものであるとの説がある。
→ 近畿文化会 臨地講座 益田岩船(後編) 牽牛子塚古墳を解説 石の宝殿の正体 石の宝殿及び竜山石採石遺跡

近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩15分。アグリステーション飛鳥に来訪者用の駐車場がある。





岩屋山古墳

史跡 岩屋山古墳は、奈良県明日香村にある。
明治時代にはウィリアムゴーランドが訪れ、
「最も素晴らしい驚嘆するような切り出し石の巨石構造の例は、舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で、日本中のどれ一つとして及ばない。」
と評価している。
昭和53年(1978)度に環境整備事業に伴う発掘調査が実施された。
墳丘は7世紀前半から中頃の造営で、二段築成の方墳(一辺約15m、高さ約12m)であると推定されており、墳丘の西半分は現在失われている。
石室は南面に開口する花崗岩の切石積みの横穴式石室で、石室の規模は全長16.7m、羨道は長さ12m、幅1.9mで、奥にある玄室は長さ4.72m、幅2.7mである。
羨道並びに玄室の内部に立ち入って見学できる。 
被葬者については、舒明天皇や斉明天皇の初葬墓とする説や、吉備姫王の墓とする説などがある。

→ 「岩屋山古墳を解説





吉備姫王墓 猿石

吉備姫王墓 猿石は、奈良県明日香村にある。
吉備姫王墓(きびひめみこのはか / きびつひめのおおきみのはか)は、宮内庁が管理しており、「敏達天皇皇孫茅淳王妃吉備姫王 檜隈墓(ひのくまのはか)」と称されている。
孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母にあたり、「日本書紀」によれば吉備姫王(吉備嶋皇祖母命(きびしまのすめみおやのみこと))は皇極天皇2年9月に亡くなり、檀弓岡(まゆみおか)に葬られたとある。
また、延喜式諸陵寮には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていることから、吉備姫王墓に治定されている。

墓域内には、元禄15年(1702)に欽明天皇陵の南側の字イケダの水田から掘り出された石造物4体があり、猿石と称されている。
4体とも高さ1メートルほどの花崗岩製である。
西に面して4体が南北に並べられており。北から順に「女」「山王権現」「法師(僧)」「男」と呼ばれており、法師(僧)以外の3体には裏面にも異形の顔が彫られている。
猿石の用途は不明で、造形についても伎楽の演者をあらわすという見解など諸説がある。
高取城跡にも猿石と呼ばれる石像があり、橘寺にある二面石も共通した特徴を持っている。
高取町観覚寺の光永寺にある人頭石(顔石)は、当地の猿石と同様に小字イケダ付近から出土したと見られている。
平安時代の今昔物語集には、この陵の堤に「石の鬼形」が立っていると記されており、猿石のことではないかといわれている。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩5分。





欽明天皇陵(梅山古墳)

欽明天皇陵(梅山古墳)は、奈良県明日香村にある。

欽明天皇(510-571)は、第29代に数えられる天皇である。
継体天皇と手白香(たしらか)皇后の嫡子で、異母兄の宣化天皇の死後、539年に即位し、大和の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)で、宣化天皇の女の石姫を皇后として敏達天皇が生まれ、蘇我稲目の堅塩媛(きたしひめ/かたしひめ)を妃として、用明、推古両天皇、その同母妹の小姉君(おあねぎみ)を妃として崇峻天皇が生まれた。
即位の事情については、継体天皇の死の直前、もしくは直後に即位し、安閑、宣化両天皇の「王朝」と並立したとの説もある。

梅山古墳は、明日香村では唯一の前方後円墳で、欽明天皇の檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ)に治定されている。
全長約140m、後円部径72m、前方部107mで、墳丘は3段築成で周濠を有している。
墳丘には、葺石があり、埴輪片も出土している。

日本書紀によると、欽明天皇は32年(571)4月に亡くなり、9月に檜隈坂合陵に埋葬された。欽明天皇の妃で推古天皇の母 堅塩媛(きたしひめ/かたしひめ)を推古天皇20年(612)に合葬し、28年(620)10月には砂礫を檜隈陵の上に葺き、土を積みて山を成し、氏ごとに大柱を土の山の上に建てさせるという記事が見える。

当地の北側約500mのところにある橿原市の巨大前方後円墳 見瀬(五条野)丸山古墳(全長310m)が欽明天皇陵であり、梅山古墳の被葬者は、蘇我稲目であるとの説も出されている。

近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩10分。



カナヅカ古墳(欽明天皇檜隈坂合陵 培冢)

カナヅカ古墳(欽明天皇檜隈坂合陵 培冢)は、奈良県明日香村大字平田にある。
カナヅカ古墳は、平田岩屋古墳、カナ塚古墳とも呼ばれ、現在は宮内庁によって欽明天皇檜隈坂合陵 培冢(ばいちょう)に治定されている。
当地は、飛鳥の西の玄関口とでもいうべき場所にあり、西から欽明天皇陵(梅山古墳)、カナヅカ古墳、鬼ノ俎・雪隠古墳、天武持統天皇陵が、東西にほぼ一直線に並んでいる。
カナヅカ古墳は、江戸時代から梅山古墳の培冢として記されており、1854年の「聖蹟図志」には、「岩屋」と記した石室の入口が描かれており、開口していた。
明治時代に、石室が解体されかけたが、明治23年(1890)に奈良県議会議員 西内成郷氏が奈良県知事宛ての上申書を提出し、明治25年(1892)に宮内省が欽明天皇陵培冢に治定した。
平成7年(1995)度から範囲確認調査が実施された結果、石室の南側から石英閃緑岩を丁寧に加工した切石が検出された。一辺が約35m、二段築成の方墳で、南側に東西約60m、南北約25mのテラス面を有することが判明した。
被葬者については、延喜式の記録から、「吉備姫王檜隈墓」の可能性が指摘されている。
(西光慎治氏 欽明天皇檜隈坂合陵 培冢 カナヅカ古墳の覚書 参照)




下平田 犬養孝 万葉歌碑

下平田 犬養孝 万葉歌碑は、奈良県明日香村明日香周遊歩道下平田休憩園地にある。
歌碑には次のように記されている。
   作者不詳
佐檜乃熊
 檜隈川之
  瀬乎早
君之手取者
 将縁言毳
      孝書

歌碑手前にある解説には、次のように記されている。
佐檜の隈(さひのくま) 檜の隈川の 瀬を早み
 君が手取らば 言寄せむかも
           (巻七-一一〇九)
佐檜の隈の 檜隈川の渡り瀬の 流れが早いからと、
あなたの手を取って渡ったらば、人々が噂を立てるでしょうね。

「さ」は、接頭語で、「ひのくま」は、明日香村桧前、野口、平田など一帯の地をさす。
「ひのくまがわ」は、高取山中から流れ出て、明日香村桧前の地をほぼ近鉄線に沿って北流し、畝傍山の西を廻って曽我川に入る。

平成3年に、万葉学者の犬養孝が揮毫し、毎日放送、毎日新聞社、ウォーク万葉・ラジオウォーク参加者一同が歌碑を設置した。
犬養氏揮毫の万葉歌碑は、全国に141基あり、その内15基が明日香村にあるという。

犬養孝氏の最初の万葉歌碑は昭和42年に甘樫丘に建立された。 
釆女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く 志貴皇子 巻1-51
(大意)釆女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠くなったので、ただ空しく吹いている





鬼の雪隠 鬼の俎

鬼の雪隠 鬼の俎は、奈良県明日香村にある。
鬼の雪隠(せっちん)は、墳丘上を失った終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)の横口式石槨(石室)の一部である。
本来は花崗岩の巨石を精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個の石を組み合わせたもので、鬼の雪隠はその蓋石にあたり、上方にある鬼の俎(底石)から横転してできた状態にある。
この周辺は霧ケ峰と呼ばれ、伝説では、鬼が住んでおり、通行人に霧を降らせ迷ったところをとらえて、「俎(まないた)」で調理し、食後に「雪隠」で用を足したといわれている。

現在は、欽明天皇陵培冢として宮内庁が管理している。
この底石と蓋石を組み合わせて横口式石槨(石室)を復元したとすると、その内法は長さ2.75m、幅1.5m、高さ1.3mとなり、その長さと幅は唐尺のほぼ9尺と5尺となる。
石槨の内法が長さ9尺、幅5尺で計画されたものとすると、大化2年(646)3月に出されたいわゆる薄葬令に規制する「夫れ王より以上の墓は、内の長さ九尺、濶(ひろ)さ五尺」の墓に該当する。

明治10年(1877)頃に俎の東方約9mの位置から、もう一つの俎が発見された。分割されて村内の邸宅の庭石になっていたが、現在は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の前庭で展示されている。
墳丘は完全に削平されているが、地籍図の検討から本来は一つの墳丘に二つの石槨がおさめられた長方墳(東西約41m)と考えられている。
日本書紀には、建王(たけるのみこ)が亡くなった際、祖母である斉明天皇が嘆き悲しみ、「要(かなら)ず朕(わ)が陵に合せ葬れ」と遺言した記述があり、鬼ノ俎・雪隠古墳は「建王と斉明天皇の初葬墓」とする説もある。

近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩10分。






天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)

天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)は、奈良県明日香村野口にある。
野口集落の西方の丘陵上に位置する壮大な古墳で、野口大墓(のぐちおおはか)、青木御陵(あおきのみささぎ)とも呼ばれ、天武、持統両天皇を合葬した「檜隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)」に治定されている。
大内陵は持統天皇元年(686)10月、草壁皇子以下により築造され、翌2年11月11日天武天皇を葬り(日本書紀)、天皇として初めて火葬された持統天皇が大宝3年(703)12月26日合葬された。(続日本紀)

陵墓は文暦2年(1235)に盗掘され、その際の調査記録である「阿不幾乃山陵記(あお(ふ)きのさんりょうき)」や藤原定家の「明月記」に内部の状況が詳細に描かれている。
阿不幾乃山陵記によると、墳形は八角形で五段築成、周囲に石段がめぐらされている。→ 八角墳と天皇陵
切石積みの石室は、前室と奥室の二室で、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)(麻布と漆を塗り重ねた棺)と、持統天皇の金銅製骨蔵器(こつぞうき)が納められている。

古くは「王(皇)ノ墓」と呼ばれたこの古墳は、江戸時代から明治初期まで文武天皇の檜隈安古岡上(ひのくまのあこのおかのへ)陵とみなされることが多かった(天武持統合葬陵は現橿原市の「五条野丸山古墳」とされた)が、
明治13年(1880)に阿不幾乃山陵記が知られ、明治14年(1881)に治定の変更が行われた。
天皇陵古墳の中で被葬者がほぼ特定でき、築造実年代が確定できる数少ない古墳である。
なお、「五条野丸山古墳」は、奈良県最大の前方後円墳で、被葬者は欽明天皇や蘇我稲目などの名前が候補として挙がっている。→ 丸山古墳

現在の墳丘は、南北約50m、東西約45m、高さ約9m、周囲約120mで八角形に近い形となっている。
また墳丘の位置は、藤原京の中軸である朱雀大路の延長線上にあり、計画的な墓地選定を指摘する説もある。

近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩15分。東南麓に駐車スペースがある。




亀石

亀石は、奈良県明日香村川原にある。
花崗岩の巨石(長さ4.5m、幅2.8m、高さ2m)の下端に顔、目、口、前肢を彫り込み、うずくまる姿勢の亀が表現されている。

現地の案内板には、次のように記されている。
  亀石(かめいし)
亀石と呼ばれる石造物は、いつ何の目的で作られたのか明らかでないが、川原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石ではないかという説がある。
 伝説
むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こった。
長いけんかのすえ、湖の水を当麻にとられてしまった。
湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。
何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうである。
今、亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという。
    明日香村
    飛鳥保存財団




橘 寺

仏頭山上宮皇院 橘寺は、奈良県明日香村にある天台宗の寺院である。
正式には仏頭山上宮皇院(じょうぐうおういん)菩提寺といい、通称 橘寺または橘樹寺(たちばなのきてら)と呼ばれる。
推古天皇14年(606)聖徳太子が推古天皇の仰せにより「勝鬘経(しょうまんきょう)」を講讃したとき、天から蓮華を降らせた(蓮華塚)奇瑞にちなんで創建されたといわれる。
聖徳太子が生まれたところといわれ、山門北側には、聖徳皇太子御誕生所の石碑が建立されている。
聖徳太子建立七ヵ寺の一つで、昭和28年(1953)からの発掘調査で、東を正面にして中門(現、東門付近)、塔(現、塔心礎付近)、金堂(現、経堂付近)、講堂(現、本堂付近)が、東西に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったと推定されている。
承暦年間(1077-1081)には宣旨により、寺宝の玉虫厨子、金銅四十八体仏などが法隆寺に移されている。
永正3年(1506)多武峰(とうのみね)の僧兵に焼かれてから寺勢は衰退したが、元治元年(1864)に再興されて現在に至っている。
寺宝として、聖徳太子座像(室町時代、重要文化財)、日羅座像(貞観時代、重要文化財)、如意輪観音座像(藤原時代、重要文化財)、絹本著色太子絵伝(重要文化財)等を有する。
本堂の南には、通称飛鳥石といわれる石英閃緑岩(花崗岩)を加工した高さ1.2mの二面石がある。飛鳥時代の石造物の一つで、人の心の善悪二相を表したものといわれている。
橘寺は、昭和41年(1966)国史跡に指定された。
近鉄吉野線飛鳥駅からバスで川原下車、徒歩3分。参拝者用の駐車場がある。




国史跡 川原寺跡

国史跡 川原寺跡は、奈良県明日香村にある。
川原寺は、法名を弘福寺(ぐふくじ)ともいわれている。
その創建年代については諸説があるが、日本書紀の天武天皇2年(673)3月条に「書生を聚めて始めて一切経を川原寺に写さしむ」とあることから、これ以前に建立されていた。
伽藍配置や瓦の文様が大津宮の南滋賀廃寺や大宰府の観世音寺と類似することから、天智天皇の時代(662-671)に斉明天皇の冥福を祈って建てられたものと考えられている。
天武持統朝には厚遇されていることが、史料に残されており、大官大寺、飛鳥寺、薬師寺とともに四大寺の一つとされた。
平城遷都の際に、他の三寺は新京に移ったが、川原寺は旧地にとどまり、そのためか徐々に寺格が低下したと考えられている。
平安時代初期には、空海が当寺を賜り、東南院に止住したと伝え、その後は東寺の末寺となった。
江戸時代には草堂を残すのみとなったが、寺域内に礎石が多く残っていたことから、大正10年(1921)に国史跡に指定された。

昭和32年~33年の発掘調査の結果、中金堂(現在の弘福寺の場所)の前には、東に塔、西に西金堂が配置され、中門から出た回廊がこれらを囲むようにして中金堂へとつながっていることが判明した。
また中金堂の北には講堂があり、これを取り囲むように僧房が3面にある。
川原寺で使われていた複弁蓮華文軒丸瓦は、川原寺式軒瓦と呼ばれ、天武天皇の時代には、近畿、東海地域の古代建築で見られ、壬申の乱で功績のあった氏族の寺院と関係のあったものと考えられている。
現在、弘福寺境内にある瑪瑙(白大理石)の礎石と公園内の建物復元基壇が、往時の伽藍を忍ばせている。
近鉄吉野線飛鳥駅からバスで川原下車、徒歩1分。


仏陀山 弘福寺

仏陀山 弘福寺は、奈良県明日香村にある真言宗豊山派の寺院である。
古くは、川原寺(かわはらでら、かわらでら)と呼ばれた。→ 川原寺跡
川原寺は、天智天皇が建立した官寺で、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とならぶ飛鳥四大寺の一つに数えられる。
日本書紀によると、673年当時日本で初めて写経が行われた場所であることが記されている。
天長9年(832)には、空海が京都と高野山の往復に宿所として当寺を賜ったといわれている。
弘福寺(ぐふくじ)本堂には、本尊十一面観音、持国天、多聞天、十二神将が安置されている。
弘福寺本堂南には、川原寺中金堂跡礎石(柱石) 瑪瑙(めのう)の礎石がある。
境内にある28の礎石は、当時の中金堂を支えていたものである。
近鉄吉野線飛鳥駅からバスで川原下車、徒歩2分。





石舞台古墳

石舞台古墳は、奈良県明日香村島庄にある特別史跡である。
石舞台古墳は、早くから石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名で親しまれている。
昭和8年から50年(1933-1975)の調査で、墳丘は周濠と外堤を巡らす二段築成の方墳、あるいは上円下方墳と考えられている。墳丘と外堤の斜面には、貼石(人頭大の花崗岩玉石)が施されている。
埋葬施設については、南に開口する両袖式の横穴式石室で、玄室の長さ7.8m、幅3.4m、高さ4.8mの大きさがあり、見学者が中まで入ることが出来る。
玄室は、側壁が3段、奥壁が2段の石積みで、天井は2個の巨石で覆われている。
このうち南側の石は、約77トンの重量がある。
玄室内からは、凝灰岩片が出土していることから、凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと推定されている。
古墳の南側には、石棺の複製が展示されている。
石舞台古墳の被葬者は不明であるが、推古天皇34年(626)に死んだ蘇我馬子(そがのうまこ)の桃原墓(ももはらのはか)とする説がある。




島庄遺跡

島庄遺跡は、奈良県高市郡明日香村にある。
石舞台古墳の西方に位置する島庄(しまのしょう)遺跡には、数時期の遺構が発見されている。
7世紀前半の遺構に、石積護岸を持った内法一辺の長さ42m、深さ2m、堤の幅10m、池底に玉石を張った方形の池が検出され、この池の周囲からは、石組暗渠、苑池跡、掘建柱建物などの遺構が確認された。

日本書紀では、「大臣(おおおみ/おおまえつきみ)(蘇我馬子)は、稲目宿禰の子なり。性、武略有りて、亦弁才有り。
似て(よって)三宝を恭(つつし)み敬(とうと)ひて、飛鳥河の傍に家(し)せり。及(すなわ)ち庭の中に小なる池を開(は)れり。
仍(よ)りて小なる嶋を池の中に興(きず)く。故、時の人、嶋大臣(しまのおおおみ)と曰ふ。」との記述がある。

蘇我馬子は、畝傍山の東南麓、軽の範囲内に居宅を構え、推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に遷ったのに伴い、当地に移ったと考えられている。
邸内の苑池に道教の神仙世界をかたどった嶋があったことから、嶋大臣と呼ばれた。
蘇我馬子亡きあとは、天皇家に提供されて、「嶋宮」となった。
嶋宮に住んだのは、舒明天皇の母で「嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)」と呼ばれた糠手姫皇女(あらてひめのみこ)、皇極天皇の母「吉備嶋皇祖母」と呼ばれた吉備姫王、東宮(皇太子)の草壁皇子などの皇族であった。

「万葉集」巻2の中に、草壁皇子死去の際、柿本人麻呂やその舎人が悲しんで次の歌を詠んでいる。
島の宮 勾(まがり)の池の 放ち鳥
 人目に恋ひて 池に潜(かず)かず
              (巻2-170)
島の宮 上の池なる 放ち鳥
 荒(あら)びな行きそ 君いまさずとも
              (巻2-172)
東(ひむかし)の 滝の御門(みかど)に 司侍(さもら)へど
 昨日も今日も 召すことも無し
              (巻2-184)




南都明日香ふれあいセンター 犬養万葉記念館

南都明日香ふれあいセンター 犬養万葉記念館は、奈良県明日香村にある。
当館は、「万葉集」を広く普及させた文化功労者の犬養孝氏を顕彰する展示館である。
同氏は、昭和30年に阪合村、高市村、飛鳥村が合併した時に、万葉仮名「明日香」の「明日香村」を新しい村名として提案した事でも知られる。
当館は、大正15年(1926)南都銀行高市郡岡支店(後に明日香支店)として開店した建物を改装して、平成12年にオープンした。
増改築の際に発掘調査が行われ、飛鳥時代の遺構と漆を詰めた壺約200個が出土している。
館内には、犬養孝氏やその愛弟子 清原和義氏(武庫川女子大学教授)の寄贈図書、犬養氏の遺品、同氏揮毫の万葉歌墨書、直筆原稿などが展示されている。
令和8年(2026)には、カフェも併設されている。

犬養孝(1907-1998)は、昭和、平成時代の国文学者である。
明治40年東京市下谷区に生まれ、東京帝国大学文学部国文学科を卒業した。
台北高校教授などを経て、昭和31年(1956)大阪大学教授、のち帝塚山短期大学、甲南女子大学教授を歴任した。
「万葉集」の風土的研究分野を開拓し、万葉遺跡の保存運動や万葉旅行の企画など「万葉集」の普及につとめた。
昭和61年明日香村名誉村民、昭和62年文化功労者。平成10年10月3日死去(91歳)。
著書に、「万葉の風土」「明日香風」「万葉の旅」などがある。





史跡 飛鳥宮跡

史跡 飛鳥宮跡は、奈良県明日香村にある。
飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)は、7世紀中頃から後半に造られた宮殿遺跡である。
昭和34年以来の発掘調査で、大きく分けて3時期の変遷が確認されており、王宮名は次のように考えられている。
  Ⅰ期遺構  舒明天皇(在位629~641年)  飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)
  Ⅱ期遺構  皇極天皇(在位642~645年)  飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)
  Ⅲ期遺構  前半:斉明天皇(在位655~661年)  後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)
  Ⅲ期遺構  後半:天武・持統天皇(在位673~697年) 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)
見つかった遺構は、飛鳥地域の歴史に止まらず、日本の宮殿の変遷を解明する上で重要な遺構と判断され、昭和47年に伝飛鳥板蓋宮跡として国史跡に指定され、その後、平成28年に飛鳥宮跡に名称変更された。
最上層のⅢ期遺構のうち、内裏に相当する内郭は一本柱列の塀で囲まれた方形区画で、正面である東西5間・南北2間の南門を入った礫敷広場には、東西7間、南北4間の前殿が建っていた。
近鉄橿原神宮前駅からバスで岡橋本下車、徒歩3分。





明日香村岡 
飛鳥宮跡 (伝飛鳥板蓋宮跡) 
万葉歌碑

明日香村岡 飛鳥宮跡 (伝飛鳥板蓋宮跡) 万葉歌碑は、奈良県明日香村岡にある。
石碑には、次の万葉歌が刻されている。
采女の 袖吹き返す 明日香風
京(みやこ)を遠み いたづらに吹く
   志賀皇子(巻1 51)
(裏面)
明日香村
明日香文化協会
平成二十一年 弥生
(大意)
采女の袖を吹き返した明日香風は、
都が遠くなったので、ただ空しく吹いている
(揮毫者)
平山 郁夫 画家


史跡・名勝 飛鳥京跡苑池

史跡・名勝 飛鳥京跡苑池は、奈良県明日香村字岡にある。
飛鳥宮跡中心部(内郭)の北西に位置する飛鳥時代の庭園遺構で、天皇が祭祀や饗宴を行ったと考えられている。

大正5年(1916)に石造物二石を発見、平成11年(1999)に石造物出土地点を発掘調査し、南北約250m、東西約100mの広大な苑池を発見した。
2003年に国史跡に指定されている。

すぐ西には飛鳥川が北流し、飛鳥川をはさんで西岸には川原寺が位置する。
門を構えた区画内に渡り堤で仕切られた石組護岸の北池と南池などがある。
南池には噴水構造の石造物がおかれ、中島が築かれていた。石造物と中島の周囲には桟敷状の施設が設置されていたと考えられている。
北池の北東には湧水・導水施設が確認された。
苑池の造営時期は斉明朝頃とみられ、天武朝頃には改修されているようである。
池の中にある水位調整用の水路からは、管理する役所と見られる「嶋宮(しまのつかさ)」や薬園の存在を推測させる「委佐俾(わさび)」といった文字が記された木簡が出土している。
「日本書紀」天武14年(685)11月条の「白錦後苑(しらにしきのみその)」あるいは持統5年(691)3月条の「御苑(みその)」にあたるものと考えられる。
当地の案内板には、復元イラストが描かれている。

近鉄吉野線飛鳥駅からバスで岡戎前下車、徒歩5分。




岡 寺

岡寺は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗の寺院である。
天智天皇が622年に、草壁皇子の住んだ岡宮を寺に改め、法相宗の義淵に賜ったのが寺の始まりといわれている。
本尊は日本に現存する最大の塑像である如意輪観世音菩薩で、西国三十三所第七番札所である。
本尊は、古来より日本三大仏のひとつに数えられ、やくよけ観音としても信仰を集めている。
境内には約3000株の石楠花があり、例年4月中旬から5月初旬が見頃となる。
近鉄橿原神宮前駅東口バス乗り場からから奈良交通バス岡寺前下車徒歩10分。
近鉄吉野線岡寺駅からは、3.1キロメートルで徒歩約40分。
近くには駐車場もある。




史跡 酒船石

史跡 酒船石は、奈良県明日香村にある。
この石造物は花崗岩製で、現在、長さ5.5m幅2.3m厚さ約1mの大きさである。
北側及び南側の一部は欠損しており、近世にどこかへ運び出されたものと考えられ、石割りの工具跡が残っている。
石の表面に、円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝でつなげている。
酒をしぼる樽とも、あるいは油や薬を造るための道具とも言われている。
昭和2年(1927)4月8日に「酒船石」として史跡に指定され、平成16年9月30日に、亀形石造物などが追加指定されたため、現在は、「史跡 酒船石遺跡」と呼ばれている。


酒船石遺跡(亀形石造物)

酒船石遺跡(亀形石造物)は、奈良県明日香村にある。
飛鳥の謎の石である史跡「酒船石」は、伝飛鳥板蓋宮跡の小高い丘陵上にあり、本居宣長らは、醸造施設と解釈し、酒船石と名づけた。
この丘陵一体に広がる遺跡は、現在「酒船石遺跡」と呼ばれている。
平成4年に丘陵北斜面で砂岩石垣が発見されたことから、「日本書紀」の斉明天皇2年条に記された「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす。」「石の山丘」に符合する遺跡であると推定されている。
平成12年の丘陵北裾で行われた発掘調査で、新たに亀形石造物、小判形石造物が見つかった。
小判形石造物の直径4cmの穴から上澄み水が亀形石造物に流れる導水施設で、周囲には石敷きが広がり、東西には石垣が見つかっている。
この遺構は、斉明天皇の時代に造営され、何度か改修されながら平安時代に廃絶されるまで、約250年間存続したことが判明している。
導水施設の性格については、天皇祭祀に関連するとの説が出されている。
2004年9月に亀形石造物などが国史跡に追加指定され、、名称も「史跡酒船石」から「史跡酒船石遺跡」に改められた。
近鉄橿原神宮前駅からバスで万葉文化館西口下車、徒歩3分。奈良県立万葉文化館の駐車場が利用できる。




奈良県立 万葉文化館

奈良県立万葉文化館は、奈良県明日香村飛鳥にある。
「万葉集」を中心とした古代文化に関する総合文化拠点として、平成13年(2001)に開館した。
「展示」「調査研究」「図書・情報サービス」の三つの機能を備えたミュージアムである。
地下1階の一般展示室では、万葉歌人の歌をもとに人形やアニメで万葉の世界を紹介している。
特別展示室では、日本最古の鋳造銭とされる富本銭(複製)などを展示している。
1階の日本画展示室では、万葉文化館所蔵の「万葉日本画」154点の展示のほか、特別展も開催される。
渡り廊下からは、中庭の「飛鳥池工房遺跡」(7世紀後半~8世紀初頭)の復元遺構を見下ろせる。
ここでは、富本銭や金、銀、鉄、ガラス、瓦など様々な製品がつくられていた。
講座「万葉集をよむ」などのイベントも開催されている。
近鉄橿原神宮前駅からバスで万葉文化館西口下車すぐ。来館者用の無料駐車場がある。




飛鳥寺

飛鳥寺は、奈良県明日香村にある新義真言宗豊山派の寺院である。
法興寺、本元興寺(もとがんごうじ)、安居院(あんごいん)とも呼ばれる。
蘇我馬子が建立した日本最初の本格的な寺院で、推古天皇4年(596)にほぼ造営が終わり、推古天皇17年(606)には止利仏師作の本尊の釈迦如来坐像が安置された。
昭和31年(1956)の奈良国立文化財研究所による発掘調査の結果、塔を中心として、北、東、西の三方に金堂を配し、これらを回廊が囲む、いわゆる一塔三金堂の飛鳥寺式伽藍配置であることが明らかにされた。
大化元年(645)の乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子は当寺に立てこもり、天武元年(672)の壬申の乱でも近江朝廷軍が営所とするなど、7世紀の政治の舞台となった。
藤原京時代は四大寺の一つに数えられたが、平城京遷都に伴い、養老2年(718)金堂、塔などの一部の建物を残して平城京へ移転した。
この奈良の新寺は元興寺と呼ばれ、法興寺の由緒や資材は元興寺に継承されている。
旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永9年(1632)と文政9年(1832)に再建された。

本尊 釈迦如来坐像は、「飛鳥大仏」と呼ばれ、鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像である。
高さ約3mで当時銅15トン、黄金30㎏を用いて造られた。
平安、鎌倉時代の火災で罹災し、後補を受けており、仏頭と右手首3本のみが往時の止利仏師作のものといわれている。
堂内の飛鳥大仏の両側には、阿弥陀如来坐像(木像 藤原時代)と聖徳太子孝養像(木造 室町時代)が安置されている。
境内には、昭和12年に建立された万葉歌碑がある。佐々木信綱博士の筆による山部赤人の長歌と、上部には、近衛文麿の筆による篆額が刻まれている。

近鉄橿原神宮前からバスで飛鳥大仏前下車すぐ。






蘇我入鹿首塚

蘇我入鹿首塚は、奈良県明日香村にある。
飛鳥寺旧境内の西側に位置し、飛鳥寺西門から西へ80mのところにある。
本居宣長の「菅笠日記」にも記録が残されている。
かつては田畑の間に五輪塚と呼ばれた土盛りの上に五輪塔が建っていた。
これがいつしか蘇我入鹿の墓といわれるようになったが、本来は別の場所にあったとも、二つ並んであったともいわれている。
当地の五輪塔は、高さ194cmの花崗岩製で、形式から鎌倉後期から南北朝時代のものと考えられている。

蘇我入鹿(?-645)は、飛鳥時代の高官で、蘇我毛人(えみし)(蝦夷)の子である。
青年時代の入鹿は、唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひと)の学堂に学んだが、旻から第一級の人物と評されたと「家伝」は伝えている。
皇極天皇即位後、643年10月に入鹿は父から紫冠を授けられ、大臣の位を認められた。
その後、入鹿らは聖徳太子の子の大兄山背(おおえやましろ)皇子の上宮王家の討滅をはかり、643年11月入鹿、軽皇子(後の孝徳天皇)らは、軍を起こし、大兄山背皇子と一族を斑鳩宮に急襲して覆滅した。
事件後に、蘇我本宗家に対する反感が急速に強まり、645年6月12日、飛鳥板蓋(いたぶき)宮での三韓進調とされる儀式の場で、蘇我入鹿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)(鎌足)と謀った中大兄皇子らによって暗殺された。(乙巳の変)
墓所について、近年菖蒲池古墳の東方で小山田遺跡(小山田古墳)が発見されたことから、蘇我蝦夷、入鹿親子が葬られた今来の双墓(大陵・小陵)の小陵を菖蒲池古墳に充てる説や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったと捉える説等がある。

日本書紀では、入鹿を王位を奪おうとする逆臣として描き、入鹿退治説話は藤原氏のはじまりに関する伝承として、中世に流布し、謡曲入鹿として芸能化された。
入鹿と鎌足の相克は、舞曲 大織冠(たいしょかん)などを経て、近世に伝承され、浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」では、入鹿が典型的な公家悪(くげあく)として描かれている。





石神遺跡

石神遺跡は、奈良県明日香村にある。
当地には、「石神」と呼ばれる水田があり、明治35年(1902)に石造須弥山石(しゅみせんせき)、明治36年(1903)に石人像が出土した。
ともに花崗岩製の噴水石で、国の重要文化財に指定されており、奈良文化財研究所飛鳥資料館に所蔵されている。
昭和11年(1936)に、石田茂作氏によって発掘調査が実施され、石組溝や石敷が見つかり、飛鳥時代の遺跡の存在が明らかとなった。
この遺跡は、「石神遺跡」と名付けられ、昭和56年(1981)から奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)によって、本格的な調査が実施され、飛鳥時代全般にわたる重層した遺構群が発見された。
最も整備されたのは斉明天皇の時代(655-661)で、長大な建物で囲まれた長方形の区画が二つならび、大規模な掘立柱建物群や方形石組池がつくられた。
東北地方や朝鮮半島の新羅からもたらされた土器が出土していることから、日本書紀に記載のある「飛鳥寺西」に設けられた外国使節に対応するための饗宴施設、いわゆる「迎賓館」であったと想定されている。
近鉄南大阪線橿原神宮前駅からバスで、飛鳥下車徒歩1分。すぐ横に明日香村埋蔵文化財展示室の駐車場がある。




飛鳥水落遺跡

飛鳥水落遺跡は、奈良県明日香村大字飛鳥字水落にある。
飛鳥時代の漏刻(水時計)と漏刻台の遺跡である。

昭和47年(1972)民家建築に伴う事前発掘によって貼石を伴う楼状建物が発見され、昭和51年(1976)国史跡に指定された。
史跡整備に伴い、昭和56年(1981)から全面発掘が行われ、遺跡の規模、構造、性格が判明した。
発見遺構は楼状建物とこの建物と一体で設けられた水利用の諸施設、四棟以上の掘立柱建物群、掘立柱塀などで、飛鳥の宮殿建物の中でも一級の規模と内容を誇るものである。
漏刻の仕組みは、建物内に引いた水を上から階段状の木箱へ落とし、最下段の箱に溜まった水の中に浮く棒の目盛りを読んで時刻を計り、建物上層部に設置した太鼓あるいは鐘で知らせたと考えられている。
「日本書紀」斉明天皇6年(660)5月条に「皇太子(中大兄皇子)初めて漏刻を造り、民をして時を知らしむ」とある漏刻の遺跡と判断されている。

現地案内板には、分かりやすい解説図が描かれている。
近鉄南大阪線橿原神宮前駅からバスで、飛鳥下車徒歩1分。すぐ横に明日香村埋蔵文化財展示室の駐車場がある。




甘樫丘

甘樫丘(あまかしのおか)は、奈良県高市郡明日香村豊浦(とゆら)にある小丘陵である。
標高148m。甘橿丘、甘檮丘とも書き、味橿丘(うまかしのおか)ともいう。
飛鳥川が東側を北流し、対岸に雷丘(いかずちのおか)がある。
日本書紀によると、允恭天皇の時、氏姓の乱れをただすために、この丘に探湯瓮(くかへ)をすえて盟神探湯(くかたち)(古代の裁判)を行ったという。
→ 甘樫坐神社
皇極天皇3年(644)11月条に蘇我蝦夷、入鹿の父子が甘檮岡に家を並び建てたと記され、蘇我氏の大邸宅となったといわれている。
斉明天皇5年(659)3月条には、甘檮丘の東のほとりに須弥山(しゅみせん)を造り、陸奥と越(こし)の蝦夷を饗応した、と記されている。
丘の東の川とは飛鳥川であり、この時の須弥山にあたると見られる石造物が、丘の東北の石神で明治35年(1902)に発見された。
平成17年(2005)甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき)で、掘建柱跡と堀跡が発掘された。
現在、甘樫丘は国営飛鳥歴史公園として整備されており、その展望台からは飛鳥・藤原京、平城京へと展開する古代宮都を眺望できる。




豊浦宮跡、豊浦寺跡

豊浦宮跡(とゆらのみやあと)、豊浦寺跡(とゆらでらあと)は、奈良県明日香村にある。
現地の案内板には次のように記されている。
  推古天皇豊浦宮跡 豊浦寺跡
 593年、推古天皇豊浦宮にて即位する。以来約100年間、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中的に営み、飛鳥は政治の中心地となり、大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。
603年、北に接して小墾田宮をつくり、豊浦宮は蘇我氏に賜って豊浦寺になったと伝えられる。
 明日香村豊浦の向原寺一帯には往時の礎石が残っており、また、1957年以来数度におよぶ発掘調査により、豊浦寺の遺構が確かめられ、遺跡の保存がはかられてきた。1985年、向原寺庫裡の改築に伴い発掘したところ、7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と推定される立派な瓦葺き礎石建物跡が見つかった。
さらに、その下層から石敷を伴う掘立柱建物跡が掘り出された。建物は南北3間(5.5m)以上、東西3間の高い床張りである。
 飛鳥の宮殿は、建物のまわりに河原石を敷いて舗装するのが特徴であり、したがって、ここに展示する豊浦宮の建物跡は、飛鳥における最初の宮殿遺構として価値が高い。
 今回推古遺跡守る会の熱意により遺構の一部を公開して、見学者の便に供する処置がとられた。
   昭和六拾年   奈良国立文化財研究所解説
             推古遺跡守る会建之


推古天皇豊浦宮跡

相原嘉之氏「飛鳥・藤原の宮都を語る」によると、豊浦寺の伽藍として、講堂、金堂、塔、尼坊が紹介されている。
南の集落内の民家敷地内には、塔心礎があり、「推古天皇豊浦宮跡」石碑が建立されている。






向原寺

太子山 向原寺(こうげんじ)は、奈良県明日香村豊浦にある浄土真宗本願寺派の寺院である。
欽明天皇13年(552)百済の聖明王が献じた仏像、経典を安置したわが国最古の寺があった場所といわれる。

当地は推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)(592~603)であったが、推古天皇が小墾田宮(おはりたみや)に遷る際に豊浦宮の敷地を桜井寺(さくらいでら)に寄進した。
桜井寺は、もと蘇我稲目の邸宅である向原(むくはら)の家を寺としたもので、百済から贈られた仏像を安置した。その後、司馬達等(しばたつと)の娘 善信尼が住んで尼寺となり、推古天皇の寄進の際に、豊浦寺にかわったとされる。
昭和32年(1957)以来の発掘調査によって、塔、、金堂、講堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍と判明した。現向原寺境内では、630年代建立の講堂跡と、鎌倉時代の仏堂跡が発見されている。

近鉄南大阪線橿原神宮前駅からバスで豊浦下車、徒歩3分。




難波池

難波池は、奈良県明日香村にある。
当地の案内板には次のように記されている。
  難波池の由来
向原寺(豊浦寺)の一画に「難波池」と称される池がある。
この池は、「日本書紀」欽明天皇13十三年仏教伝来の記事に廃仏派の物部尾輿が仏像を投げ込んだ難波の堀江であるとの伝承を持つ。
そして後世の記録にはこの仏像が信濃(長野県)善光寺に祀られたという善光寺縁起として語りつがれている。

近鉄南大阪線橿原神宮前駅からバスで豊浦下車、徒歩3分。




甘樫丘中腹 志貴皇子 万葉歌碑

甘樫丘中腹 志貴皇子 万葉歌碑は、奈良県高市郡明日香村豊浦(とゆら)にある。
甘樫茶屋前登り口の階段を登ったところに建立されている。
当地の案内板には、次のように記されている。

  志貴皇子
 婇女乃   袖吹反   明日香風   京都乎遠見   無用尓布久 孝書
 うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく(巻一の五一)
 采女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠のいたので、今はただむなしく吹いている。

 志貴皇子は天智天皇の第七皇子。
六九四年十二月、持統天皇によって明日香から北の藤原に遷都された。
皇子は旧都に佇み、吹く風のなかに美しい采女の幻想を懐いた。
 揮毫者の犬養孝(一九〇七~九八)は、明日香村名誉村民、文化功労者、大阪大学・甲南女子大学名誉教授。
「万葉集」の風土文芸学的研究をおこない、明日香をはじめ全国の万葉故地保存に尽力した。
「南都明日香ふれあいセンター 犬養孝万葉記念館」が、明日香村 岡にある。
 犬養孝生誕百周年を記念して、ここに歌碑解説版を設置する。
  平成十九年四月一日
      犬養万葉顕彰会


国史跡 菖蒲池古墳

国史跡 菖蒲池古墳は、奈良県橿原市菖蒲町にある。
甘樫丘から西に延びる丘陵の南斜面に築かれた7世紀代の方墳である。
菖蒲池古墳は、国内で最も優美な2基の家形石棺が納められている古墳として古くから有名で、昭和2年(1927)には、石室部分が国史跡に指定された。
その後、平成21年(2009)度から4年にわたり、橿原市が発掘調査を実施し、平成27年(2015)には墳丘とその周辺の範囲が追加指定された。
菖蒲池古墳の被葬者については、具体的な人名も挙げられている。
特に近年は、菖蒲池古墳の東方で小山田遺跡(小山田古墳)が発見されたことから、
蘇我蝦夷、入鹿親子が葬られた今来の双墓(大陵・小陵)の小陵を菖蒲池古墳に充てる説や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったと捉える説、蘇我倉山田石川麻呂が葬られたとする説などがある。
奈良県歴史資源データベース 菖蒲池古墳現地説明会資料 参照)




植山古墳

国史跡 植山古墳は、奈良県橿原市にある。
丘陵の南側斜面に築かれた長方形墳である。
墳丘の規模は東西約40m、南北約30mで、南に開口する2基の横穴式石室が東西に並んで造られている。
いずれの石室も全長13mを超える大型のものである。
東石室の玄室には、熊本県宇土半島から運ばれてきた馬門石(まかどいし)(阿蘇溶結凝灰岩)で作られた家形石棺が安置されている。
西石室の玄室入口には、兵庫県加古川周辺の竜山石(たつやまいし)で作られた軸受がある敷居(閫石(しきみいし))が、遺されており、石製扉が取り付けられていた。
6世紀末に東石室が築かれ、その後7世紀前半に西石室が造り足されている。
被葬者は、推古天皇とその息子である竹田皇子(たけだのみこ)の名前が挙げられている。

義江明子氏「推古天皇」によると、推古天皇は、推古36年(628)3月7日に75歳で亡くなり、半年後の9月に植山古墳に葬られた。
推古天皇は、生前に、竹田皇子の陵への合葬を命じていた。
植山古墳への母子同葬により、「竹田皇子が蘇我系筆頭御子であり、推古天皇は蘇我系大王としての生涯を全うしたこと」を明示しようとしたという。
だが、二人の亡骸は、のちに磯長谷の山田高塚古墳に遷された。
反蘇我本宗家の立場を鮮明にすることになる皇極天皇以降に、それ以前の蘇我系大王の眠る(べき)地として、「磯長谷陵墓群」が再編成され、推古天皇と竹田皇子の合葬陵も磯長に遷されたのではないかという。
推古天皇の父の欽明天皇と母の堅塩媛の眠る「檜隈大陵」を間近にのぞむ場所への埋葬を願った推古天皇の遺詔は、「舒明+皇極」王統の形成によってくつがえされてしまったといわれている。




国史跡 丸山古墳

国史跡 丸山古墳は、奈良県橿原市にある。
現地の案内板には次のように記されている。

国史跡(昭和44年5月23日指定) 丸山古墳 平成31年3月 橿原市教育委員会
古墳の概要
 古墳時代後期(6世紀後半)に築かれた巨大な前方後円墳です。
明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)から西方へ広がる丘陵の西端部を利用して築かれており、前方部を北西に向けています。
墳丘の周りには、周濠と周堤が構築されています。
 古墳の規模は墳丘長約330m、後円部径約150m、同高約21m、前方部幅約210m、同高約15mを測ります。
奈良県内で最大、全国でも6番目の大きさです。墳丘長は東京タワーの高さにも匹敵します。
古墳一帯は、後世に農地として利用されるなど大幅な土地改変が行われており、その様子が測量図でも確認できます。
現在の国道169号線も実は、墳丘北西隅に該当する位置を通過しているのです。
日本最大の横穴式石室
 後円部上段付近は、宮内庁が管理する畝傍陵墓参考地に指定されており、立ち入りはできません。
その範囲内に南に開口する横穴式石室が存在しています。石室全長約28.4mを測る、全国でも最大規模の石室です。
長さ約20mもの非常に長い羨道をもつ点も特徴です。玄室内には2基の家型石棺が安置されています。
どちらも兵庫県加古川付近で採られた竜山石(たつやまいし)で作られています。
被葬者は----?
 丸山古墳の被葬者については議論が続いており、欽明天皇や蘇我稲目(そがのいなめ)などの名前が挙げられています。いすれも当時、国の中枢にあった人物です。
この時期以降、巨大前方後円墳は造られなくなり、墳墓の在り方が新たな形に変容していきます。
丸山古墳は、明日香村所在の平田梅山古墳(現・欽明天皇陵)とともに、『前方後円墳の時代』の終焉を示す遺跡として注目されています。

義江明子氏は、「ミネルヴァ日本評伝選 推古天皇」(2020年)で、推古天皇21年(613)2月20日に、推古天皇は、母 堅塩媛(蘇我稲目の娘)を、父 欽明天皇の「檜隈大陵」に改葬したことを記している。
そして、この「檜隈大陵」(延喜式では「檜隈坂合陵」)が、(五条野)丸山古墳にあたるとしており、被葬者は欽明天皇と堅塩媛と考えられている。
なお、義江明子氏によると、平田梅山古墳は、砂礫を葺き大柱をたてた「檜隈陵」に該当し、被葬者は蘇我稲目が有力であるとしている。
近鉄吉野線岡寺駅下車、徒歩5分。




沼山古墳

沼山古墳は、奈良県橿原市の白樫近隣公園内にある。
径18m、墳高5.5mの円墳で、墳丘の中央に片袖の横穴式石室が南側に開口している。
石室規模は、玄室が長さ4.95m、幅2.95m、高さ4.25mで、これに長さ4.5m、幅1.8m、高さ1.8mの片袖の羨道がとりついている。
出土遺物には、土師器や須恵器のほか、金銅製馬具、鉄製品、銀製空玉、ガラス玉などがある。
出土した土器から、6世紀後半に築かれた古墳と推定されている。
沼山古墳は、渡来系の人々が住んだ身狭(みせ)(見瀬)に位置し、渡来系の東漢氏の定住していたとされる檜前地域とも隣接している位置にある。
また、真弓鑵子塚古墳、乾城古墳、与楽鑵子塚古墳などと同様に玄室平面が正方形に近く、天井が高いドーム型に石積された古墳であることから、渡来系氏族の墓と推定されている。
令和6年10月に橿原市の史跡に指定された。
近鉄吉野線岡寺駅下車、徒歩10分。




八角墳と飛鳥時代後半の天皇陵

八角墳は、飛鳥時代の後半において、天皇陵として造営された。
舒明天皇から文武天皇に至る歴代天皇(孝徳天皇を除く)に採用された。

それまでの天皇陵は、敏達天皇陵までは前方後円墳、推古天皇陵までは方墳であった。
ここで新たに八角形墳を採用したのは、天皇が他の豪族とは違う存在であることを、古墳においても誇示する必要があったと考えられている。
そこで中国の思想などを取り入れた、それまでのわが国にはなかった独自の墳丘形式を採用した。
(「飛鳥・藤原の宮都を語る」相原嘉之氏 参照)

和歌で、「やすみしし(八隅知し、安見知し)」という枕詞がある。
これは、「わが大君(天皇)」「わご大君」にかかる枕詞で、「八隅知し」とは、「国の八隅を知ろしめす」「国の隅々までお治めになっている」との意味が込められており、天皇陵と八角墳の関係を伺い知ることが出来る。
(令和6年企画展 牽牛子塚古墳 今昔物語 参照)

時代  天皇名   八角墳 備考 
 


代 
 33代 推古天皇    蘇我系(方墳) 植山古墳 推古天皇磯長山田陵
   34代 舒明天皇  〇  舒明天皇陵 段ノ塚古墳
   35代 皇極天皇  〇  斉明天皇(重祚)
   36代 孝徳天皇    孝徳天皇 大阪磯長陵(山田上ノ山古墳)
   37代 斉明天皇  〇  牽牛子塚古墳
   38代 天智天皇  〇  天智天皇山科陵
   39代 弘文天皇    大友皇子
   40代 天武天皇  〇  天武・持統天皇陵
 (檜隈大内陵)
 
   41代 持統天皇  〇
   42代 文武天皇  〇  中尾山古墳



代 
 43代 元明天皇    
   44代 元正天皇    
   45代 聖武天皇    
   46代 孝謙天皇    

(令和6年(2024) 高松塚壁画館 冬季企画展 中尾山古墳展 参照)

日本の特別史跡

奈良観光コンシェルジュ





(なら記紀・万葉名所図会-壬申の乱編-2022年 参照)


各天皇の宮と陵墓
 天 皇  古事記 宮号 日本書紀 宮号 続日本紀 扶桑略記 水鏡
古事記 陵号 日本書紀 陵号
宮内庁管理陵墓
古墳名称
29 欽明 師木嶋大宮 磯城嶋金刺宮
檜隈坂合陵
檜隈大陵
檜隈陵
檜隈坂合陵 檜隈坂合陵
欽明天皇檜隈坂合陵
梅山古墳
見瀬(五条野)丸山古墳
30 敏達 他田宮 百済大井宮
訳語田幸玉宮
川内科長 磯長陵
(妣皇后所葬之陵)
磯長中尾 磯長中尾陵
敏達天皇河内磯長中尾陵
太子西山古墳 
奥城(おくつき)古墳
31 用明 池辺宮 磐余/池辺双槻宮
石寸掖上
●後遷・科長中陵
磐余池上陵
●改葬/河内磯長陵
磐余池上
●改葬/
磯長原山陵
磐余池上陵
用明天皇河内磯長原陵
春日向山古墳
32 崇峻 倉椅柴垣宮 倉梯 倉梯崗
(異本云。
葬添上郡。
無山陵)
倉橋岡上 倉梯岡陵 倉橋山岡陵
崇峻天皇倉梯岡陵
(金福寺跡)
赤坂天王山古墳
33 推古
(592-628)
小治田宮 豊浦宮/小墾田宮 冝葬竹田皇子陵。
山陵/科長山田。
或本云。山陵。
大和国高市郡
大野岡上
●後遷/科長大陵
葬/竹田皇子之陵 磯長山田陵
推古天皇磯長山田陵
山田高塚古墳
34 舒明
(629-641)

岡本宮(飛鳥岡傍)
田中宮
百済宮(百済川傍)
葬/滑谷岡
●葬/押坂陵
葬/滑谷岡
●改葬/押坂山陵
(一云。
河内国石川郡)
押坂内陵
舒明天皇押坂内陵
段ノ塚古墳
35 皇極
(642-645)
小墾田宮
飛鳥板蓋宮
36 孝徳
(645-654)
難波長柄豊崎宮
葬/大坂磯長陵 大坂磯長山陵 刀坂磯長陵
孝徳天皇大阪磯長陵
山田上ノ山古墳
37 斉明
(655-661)
飛鳥板蓋宮
飛鳥川原宮
後飛鳥岡本宮
越智山陵
造営/修造
小市岡上陵
(合葬/間人皇女)
山陵朝倉山。
●改葬/
越智大握間山陵
越智太間陵
斉明天皇越智崗上陵
車木ケンノウ古墳
牽牛子塚古墳
38 天智
(668-671)
近江宮
山科山陵
山科陵
一云。/不知陵所。
(只、以履沓落処
為其山陵)
/山陵/
山科郷北山
山科北陵
天智天皇山科陵
御廟野古墳
39 天武
(673-686)
飛鳥浄御原宮
大内陵 大内山陵 檜隈大内 檜隈大内陵
天武天皇持統天皇檜隈大内陵
野口大墓古墳
青木御陵
40 持統
(690-697)
飛鳥浄御原宮
藤原宮
合葬/大内山陵 大内陵
(天武天皇
之同陵也。
以下火葬)
大内陵。
天武同陵此後火葬。
天武天皇持統天皇檜隈大内陵
野口大墓古墳 
青木御陵
41 文武
(697-707)
檜隈安古山陵 檜前安古岡上/
(火葬飛鳥岡)
檜隈安昌岡上陵
文武天皇檜隈安古岡陵
栗原塚穴古墳/ジョウセン塚古墳
 中尾山古墳

(「ここまでわかった飛鳥・藤原京」 「都市陵墓の出現」 今尾文昭氏作成資料 参照)

飛鳥時代前後の諸宮の変遷

 王宮名 造営開始  遷宮(完成)  期間  備考 
(磐余玉穂宮) 
(いわれたまほみや)
     (継体天皇)  (奈良県桜井市)
(磯城嶋金刺宮)
(しきしまのかなさしみや) 
     (欽明天皇)   (奈良県桜井市)
(百済大井宮)      (敏達天皇)   (奈良県桜井市)
(訳語田幸玉宮)
(おさたのさきたまみや) 
     (敏達天皇)    (奈良県桜井市)
(磐余池辺双槻宮)
(いわれいけへの
なみつきみや) 
     (用明天皇)   (奈良県桜井市)
(倉梯柴垣宮)      (崇峻天皇)   (奈良県桜井市)
豊浦宮 592年11月3日(崩御)  592年12月8日(即位)  約1か月   
小墾田宮 不明  603年10月4日(遷宮)  2年5か月(以内)   
飛鳥岡本宮  629年1月4日(即位)  630年10月12日(遷宮)  約1年9か月(以内)   
百済大宮  639年7月(造営詔)  640年10月(遷宮)  約1年4か月  西国の民を動員 
飛鳥板蓋宮  642年9月19日(造営詔)  643年4月28日(遷宮)  約7か月  遠江~安芸まで動員 
難波長柄豊碕  645年12月9日(難波遷都)  652年9月(完成)  6年10ケ月  悉く論ずべからず 
後飛鳥岡本宮  655年冬(火災)  656年是歳  約1年3か月(以内)   
近江大津宮  666年冬(鼠)  667年3月19日(遷宮)  約3~6か月以上   
飛鳥浄御原宮  672年9月15日(遷宮)  672年冬(南に増築)  ―  後飛鳥岡本宮 
(藤原宮)    694年     
(平城京)   710年     

(相原嘉之氏「飛鳥・藤原の宮都を語る」ほか 参照)



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