240713 案内

釈迦文院

釈迦文院は、和歌山県高野山南谷にある真言宗の準別格本山である。
本尊は、金剛界大日如来坐像で、国の重要文化財に指定されている。
持仏堂に釈迦如来が祀られていることから、釈迦文院と名付けられた。
寺伝によると、平安時代末期に高野山を中興した祈親上人の開基で、学侶の寺院として代々高僧を輩出している。
織田信長の腹心であった森蘭丸の菩提寺で、同族の岡山津山藩主の森家が大檀主となった。
奥の院には、森蘭丸の弟 森中将忠政供養塔岡山津山森家供養塔がある。
江戸時代に記された紀伊続風土記によると、摂津、遠江などに計49の末寺があり、全盛を極めた。
日本最後の仇討として知られる明治時代の神谷の仇討の菩提も弔っている。
境内の裏手の山には、祈親上人の供養塔(非公開)がある。
寺宝として、空海が書いたと伝わる「大和州益田池碑銘幷序一巻」、木造不動明王立像を蔵し、いずれも国の重要文化財に指定されている。
大和州益田池碑銘幷序(やまとのくに)(ますだいけのひのめい)(しょをあわせたり)は、遍照発揮性霊集巻二に収められており、
「(前略)粤。有益田池。兩尊鼻子之州。八烏初動之國(後略)」(ここにますだのいけあり)(ふたりのみこと)(はなこのしま)(やたがらす)(はじめてみちびくのしまなり)と記されている。
益田池は奈良県高市郡白橿村に造られたもので、周辺六郡の水田をうるおした大貯水池である。→ 史跡 益田池堤 益田岩船
境内には、鷹羽狩行の句碑が設置されている。
南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車、徒歩5分。




鷹羽狩行句碑

鷹羽狩行句碑は、和歌山県高野山釈迦文院にある。
石碑には、次のように刻されている。
人界へ流れて高野山の星 狩行

鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)(1930-2024)は、昭和時代後期から平成時代の俳人である。本名は高橋行雄。
山形県出身で、山口誓子に師事した。
「天狼」「氷海」同人を経て、昭和53年(1978)に「狩」を創刊し、主宰した。
平成14年(2002)俳人協会会長となり、平成27年に長年にわたる俳人としての業績で芸術院賞を受賞した。

南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車、徒歩5分。


高野山大師教会

高野山大師教会は、和歌山県高野町にある。
大師教会大講堂は、大正14年(1925年)高野山開創1100年記念事業で建設されたもので、本尊は弘法大師、脇仏は愛染明王、不動明王が祀られている。
各種法会、儀式をはじめ、全国詠歌大会などが行われる。
仏教的な教えを授かる授戒の儀式は、大講堂の奥にある授戒堂で行われ、阿闍梨が参加者に「菩薩十善戒」を説く。
教化研修道場は、昭和57年(1982年)に竣工したもので、弘法大師信仰の教化と研修の中心施設となっている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。


宗祖降誕会 青葉まつり

宗祖降誕会は、弘法大師の誕生日を祝う金剛峯寺の恒例法会で、6月15日午前9時から大師教会大講堂で行われる。
青葉まつりは、高野町民により組織された高野山奉賛会が主催するもので、各種行事が開催される。
令和2年(2020)以降、青葉まつりの花御堂渡御は、6月第2日曜日に開催されることとなった。
前夜祭では、奉燈行列が行われる。
青葉まつり当日の正午から花御堂渡御が奥の院一の橋を出発し、小学校鼓笛隊や御詠歌隊などが「大師音頭」「いろは音頭」「稚児大師音頭」を踊る人々とともに、金剛峯寺までの約1.5㎞を練り歩く。
花御堂には、弘法大師の幼少時の姿といわれる稚児大師像が奉安され、その前後を「門民苦使(勅使)」「四天王」が守護している。
これは、奈良時代に国民の生活苦を聞いて回る問民苦使が、讃岐に派遣された際に、
他の子供たちと戯れている幼少の大師を敬って四天王が天蓋を奉持している様子を見て、馬から降りて礼拝したという弘法大師行状絵詞巻一の故事「四天侍衛」をもとにしている。
高野山内では、いけばな展、書道展などの奉賛展や奉賛スポーツ行事も行われる。



大般若転読会

大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)は、毎年12月10日午前9時から高野山大師教会大講堂で行われる。
大般若経は、「大般若波羅蜜多(はらみった)経」の略称で、全600巻(20万頌640万字)あり、中国唐の玄奘三蔵が訳した。
玄奘三蔵は、順慶5年(660年)の正月1日から大般若経の翻訳に取り組み、竜朔3年(663年)10月末に3年近くをかけて翻訳を完成させた。
ひろさちや著「仏教の歴史」(6)には、翻訳の苦労を物語る次のエピソードが紹介されている。
インドの原典には、繰り返しの表現が多いため、中国人の好みに合うように内容中心の簡潔な翻訳にしようと考えた。
ところが、そのように訳し始めると玄奘は恐ろしい夢を見たという。
それで、玄奘は原文を一字一句も省略せずに翻訳する形に変えた。
すると吉夢を見るようになり、仏や菩薩が眉間から光を放つ夢を見ながら、翻訳を完成させたという。
大般若経は、初期の大乗仏教経典の一つで、この経には、「大品般若経」「小品般若経」「文殊般若経」「金剛般若経」などが含まれる。
何ものにもとらわれない「空観」(くうがん)の立場に立ち、その境地に至るための菩薩の六波羅蜜の実践、とくに「般若六波羅蜜」の体得が強調される。
大般若経には、般若経の読誦(どくじゅ)、書写、思索などによる諸功徳が説かれていることから、除災招福、鎮護国家などに有益とされた。
大宝3年(703)文武天皇のとき、大般若経の転読(経題や経の初中終の数行の略読を繰り返すこと)が行われたことが、「続日本紀」に記されている。
それ以降、宗派の別なくこの転読が行われている。。
高野山大師教会では、山内住職と金剛峯寺の僧侶が出仕し、経本を左手に持ち上げて、大きく広げる様は大変迫力がある。






志太野坡句碑

志太野坡句碑は、和歌山県高野山大師教会にある。
大師教会境内の趙樸初作漢俳碑北側に建立された石碑には、次の句が刻されている。
   鶯や木末は鴉(からす) 置きながら
志太野坡(しだやば)(1662-1740)は、江戸時代前期、中期の俳人である。
姓は志田、志多とも書き、別性は竹田。
越前(福井県)に生まれ、江戸の越後屋両替商につとめる。宝井其角、松尾芭蕉に学び、元禄7年(1694)小泉孤屋らと「炭俵」を編集した。
芭蕉の遺書を代筆した俳人で、蕉門十哲の一人に数えられる。
宝永元年(1704)大坂に移り、中国、九州地方に行脚して、西国に多くの門弟を擁した。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。
→ 高野山内の歌碑、句碑、、詩碑



山陰石楠句碑

山陰石楠句碑は、和歌山県高野山大師教会境内にある。
石碑には、次のように刻されている。
(表面)
 敦盛は いまも十六 盆供養
(裏面)
 高野山21世紀第五回俳句大賞記念
  平成十七年十月十五日建之
→ 高野山奥の院 熊谷直実、平敦盛供養塔

山陰石楠(やまかげせきなん)(本名 智也)は、大正12年11月13日に生まれた。
元高野山金剛峯寺座主 関栄覚和上門下で、還俗して古美術商 山陰玉石堂を営んだ。
昭和15年(1940)ホトトギス同人 森白象に就き俳句を学び、
山茶花(田村木国)、青玄(日野草城)、天狼(山口誓子)、若葉(富安風生)等に参加した。
俳人雑誌「金剛」を主宰している。著書には、句集晩鐘、大咲心、山姫、魔尼、沙羅、大咲心Ⅱ、金剛、円月、太虚、石楠善句集がある。
他に、句文集俳句曼陀羅、空華、山史高野山、絵本高野山、玉石堂夜話などがある。→ 無量光院前 山陰石楠句碑 高野山内の歌碑句碑詩碑

句碑前には、「沙羅の木」がある。
沙羅は、釈迦の生涯に深く関わった三つの木(ムユウジュ、インドボダイジュ、サラノキ)である仏教三霊木の一つで、この木の下で釈迦は入滅したと言われる。
平家物語で「沙羅双樹の花の色」と記されるように、涅槃に入ろうとする釈迦の頭と脚の両方向に一本ずつあったとか、背中側と腹側に二本ずつあったとか様々な説から「沙羅双樹」といわれる。
ヒマラヤの山麓、渓谷に自生するが、日本では野外植栽はできない。
そのため、我が国では「和の沙羅双樹」として、ツバキ科の夏に白い花をつける落葉高木のナツツバキ(別名 シヤラノキ)が寺院の庭などに植えられており、6~7月に白い花を咲かせる。
また、高野山では、ナツツバキの仲間で、幹に茶褐色の光沢があって、すべすべしているので、「さるすべり」という方言名をもつヒメシヤラ、ヒコサンヒメシヤラも自生している。
(亀岡弘昭氏「はじめての霊場高野山の植物・動物入門」参照)
→ 高野山麓橋本新聞 「高野の花たち」(28) 釈迦入滅の聖木サラソウジュ





増福院

増福院は、和歌山県高野山の霊宝館北側にある真言宗の別格本山である。
本尊は、愛染明王である。
寺伝によると、多田満仲の孫仲光の三男源賢和尚の開基で、寺名は一門の「福祐増進を祈るべし」という請願が由来と言われる。
当院は、華王院(けおういん)、常住光院、上就院を併合してきており、明泉院の名跡を持っている。
華王院(花王院)を開いたのが鎌倉時代初期の僧 覚海(1142-1223)で、門前に「覚海大徳翔天之舊跡」の石碑がある。
無住(1226-1332)が記した沙石集には、高野山第37代検校の覚海が7回の生まれ変わり(七生)を弘法大師に教えてもらったとの伝説が紹介されている。
その七生とは、1ハマグリ、2犬、3牛、4馬、5熊野の柴灯係、6高野山奥之院の承仕、7高野山検校(覚海)である。。
そして覚海は亡くなるときに、次は天狗になって秘密の法を守ると告げられたという。
覚海は亡くなると、高野山中門の扉を翼にして、増福院山門の前にある杉の木から昇天して天狗となり、高野山を守っているといわれている。(「昇天の杉」) →覚海廟
谷崎潤一郎は、昭和6年(1931)高野山滞在中に増福院を訪れ、鷲峰住職から覚海大徳の話を聞くとともに、古文書を筆写した。
同年、谷崎は、南紀芸術二号に「覚海上人天狗になる事」を掲載している。
山門西側には、阿波野青畝句碑がある。
南海高野線高野山駅からバスで、霊宝館前下車すぐ。




阿波野青畝句碑

阿波野青畝(あわのせいほ)句碑は、和歌山県高野山の増福院山門前にある。
石碑には、次のように刻されている。
 (前面)牡丹百二百三百門一つ 青畝
 (裏面)昭和五十八年十一月廿日 総本山金剛峯寺 
                かつらぎ主宰 阿波野青畝

昭和25年(1950)5月に南海電鉄の企画で、島根県大根島の牡丹千株が高野山金剛峯寺境内(現在の幡龍庭)に植樹され、第1回牡丹句会が催された。
石碑の句は、翌年6月に高浜虚子を迎えて開催された第2回牡丹句会席上の作品で、句集「紅葉の賀」に収められている。
「百」「二百」「三百」「一つ」という数字の畳み掛けが、絶妙のリズムを生んでいる。
季語は「牡丹」(夏)である。歩くにつれて牡丹の数が増えていき、振り返ると入って来た門が一つという、写生俳句の達人、青畝の名句である。

阿波野青畝本人は、「俳句のよろこび」(平成3年刊)の『Ⅰ実作の周辺』で、この俳句について次のように記している。
(前略)では私の経験を思い出してみましょう。
 牡丹百二百三百門一つ
はじめに私は高野の金剛峯寺に参詣して内庭の広さが牡丹畑で埋まっている見事さに胸がおどりました。
牡丹が多いことを述べねばならんと覚悟しましたが、それをくだくだ説明しないように単純に単純にと頭を使いました。
そこで律動つまりリズムを「百二百三百」と増やしました。誠に無造作、それが嬉しかったのです。
締め括るために門一つと置きました。黒塗の門が区切られてあったからです。
牡丹の集団が実に華やかに浮き出たのもリズムが乗っているからです。(後略)

「俳句のよろこび」の「自解二十六句」には、次の記事も掲載されている。
  牡丹百二百三百門一つ
 今月の牡丹の句は、すべて高野の牡丹を詠んだのである。
 金剛峯寺の主催で五月二十四日、牡丹の見頃を期して俳句大会をやった。ご西下の虚子先生をはじめ数百名も四方から集まってきた。
 前日から高野に登ってきた私は、総本山のいかめしい玄関の式台から上り、左へ折れて狩野派の絵襖をながめて行った。
殺生関白とあだ名をつけられた豊臣秀次が福島正則(注 木食応其)にすすめられて自害したという柳の間の前を通って、それから長い渡廊をつたうて足をすすめると奥殿があった。
また廊づたいに別殿があった。
奥殿の縁側から広い牡丹園が展(ひら)けた。そして別殿はさながら牡丹園のまん中に坐したようだった。虚子先生のおやすみどころであった。
長谷や当麻より二十日ほど遅れた高野の牡丹は、ここに妍をきそうて咲き、清澄な環境にあるためか、遠方にある花も際立って浮き出していた。
「千株の金剛峯寺の牡丹かな」「千株の牡丹に百の巌かな」と虚子先生も詠まれたごとく、見はらしのひろいお庭を錦にして紅白入りみだれた盛観であった。
唐獅子の乱舞を古人は想念したことも、宜なるかなと思われる。→ ぶつだんやさんコラム
 夕ぐれになって、めずらしく荒い霧を見た。花の形を崩しはせぬかと気をもんだ。
あるときは大海の怒涛がしぶいてきたようでもあったし、あるときは優しく風塵を立ててあそんでいるようでもあった。
 人々は思い思いの牡丹の前に立ったりかがんだり、夢中に句を案じていた。
画学生ならスケッチブックをとり出して、一生懸命に観察し、克明に線描しているにちがいない。
私は私の心をスケッチブックとして写すのだと思ったのであった。
 私も往々視覚を変える必要があった。唐門の扉を排して私をいったん寺外に抛り出した。
ということはつまり牡丹園にいて牡丹を見ることに倦怠をおぼえてきたから、こんどは寺の外側からおそるおそる牡丹園をのぞきこんでみたいと考えて唐門をぬけて出たのであった。
長い塀は牡丹園を隠している、開いた唐門がわずかに牡丹園の一部を見せる。
私は門の敷居へ一足ずつ移動して、牡丹の花の群落が一目にとびこんで数をふやしてくるのを知って、感興を湧かしたのだった。
(「かつらぎ」昭和27年9月号)

阿波野青畝(1899-1992)は、大正、昭和、平成時代の俳人である。
明治32年2月10日奈良県高取町に生まれた。本名は橋本敏雄で、後に阿波野家を継いだ。→ 俳人 阿波野青畝生家
畝傍中学在学中から原田浜人(ひんじん)に俳句を学んだ。
その後、高浜虚子に師事して、昭和初頭、水原秋桜子、山口誓子、高野素十とともに、ホトトギスの四Sと称された。
昭和4年(1929)俳誌「かつらぎ」を創刊して平成元年(1989)12月に森田峠に譲るまで主宰するなど、関西俳壇の重鎮として活躍した。
昭和48年(1973)第7回飯田蛇笏賞、平成4年(1992)日本詩歌文学賞を受賞している。
句集として、万両(1931),、国原(1942)、春の鳶(1952)、紅葉の賀(1962)、甲子園(1972)、不勝簪(ふしょうしん)(1980)などがある。→ 高野山内の句碑
大阪市にある大阪カテドラル聖マリア大聖堂、滋賀県にある浮御堂に、阿波野青畝句碑がある。
平成4年(1992)12月22日に93歳で亡くなった。




高野山霊宝館

高野山霊宝館は、和歌山県高野町にある文化遺産の保存展示施設である。
高野山は、816年に弘法大師空海により開かれ、高野山内117の寺院に伝わる寺宝は、膨大なものである。
これらの各寺院に伝わる仏教古美術の貴重な品々を保存、展示するため、1921年に霊宝館が開館した。
1961年には大宝蔵(収蔵庫)が増設され、1984年に新館、2003年に平成大宝蔵が建てられた。
霊宝館には、国宝、重要文化財などの指定文化財約28,000点のほか、50,000点にのぼる絵画、彫刻、工芸品などが収蔵されている。
開館当初に建てられた本館は、日本現存最古の木造博物館建築で、1998年に登録有形文化財になっている。
展示品は、順次替えられるが、飛行三鈷杵、弘法大師坐像、孔雀明王像、阿弥陀聖衆来迎図、聾瞽指帰などが展示されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバス「大門」行きで「霊宝館前」下車すぐ。
自家用車の場合は、無料駐車場がある。


勧学院

勧学院は、和歌山県高野山にある。
本尊は、金剛界大日如来である。
弘安4年(1278)に、源頼朝の勧学の志を受け継いだ北条時宗(1251-1284)が、高野山内衆徒の学道修練の道場として、金剛三昧院境内に建立した。
紀伊国名所図会には、安達泰盛(1231-1285)に造営させたと記されている。
高野山名所図会によると、鎌倉學園寺住僧 道戒上人の勧発に依って、文保2年(1318)後宇多法皇の院宣を賜って、現在の地に移された。
修理料として、肥後国岳牟田荘を賜り、勅願所としたという。
現在でも、高野山内に席をおく僧の学道修行の勧学会が行われる。
南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車すぐ。霊宝館前に駐車場がある。





蓮池と善女龍王社 

蓮池と善女龍王社は、和歌山県高野山の壇上伽藍にあり、国史跡に指定されている。

蓮池は高野山上最大の池であり、平安時代からあったものである。
古くは「金堂池」と呼ばれていたが、江戸時代に蓮が植栽されてからは「蓮池」の名前で親しまれてきた。
昭和初期まで水面を覆う蓮の群生が見られたが、改修工事等で池の環境が変化したため、現在はほとんど植生していない。

善女龍王とは、龍神の一種であり、天候や農耕など水に関する信仰に絶大な御利益をもたらすものとされている。
昔、中国の都 長安にあった青龍寺の鎮守として祀られており、別名 清瀧権現ともいわれる。
また、弘法大師が天長元年(824年)に京都の神泉苑で雨乞い祈願をした時に、インドの無熱池(むねっち)という池から善女龍王を勧請したことでも知られる。
蓮池の中央に善女龍王が祀られた社がある。
この社は明和8年(1771年)春の旱魃時に、瑞相院の慈光僧正が善女龍王を勧請して雨乞いの法を修したことに由来している。
以来、多くの人の信仰を集め毎年10月19日には善女龍王祭が催されている。
現在奉祀されている龍王像は、平成8年に東京支所下龍照院 鴻野弘有住職により寄進されたもので、現社殿は同住職の寄進で新築されて、令和元年10月17日に遷宮された。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門南駐車場」行きで「霊宝館前」下車、徒歩1分。霊宝館前に無料駐車場がある。



遍照尊院

遍照尊院は、和歌山県高野山にある準別格本山である。
本尊は、両界大日如来である。寺名は、大日如来を遍照尊と呼ぶことに由来する。
寺伝によると、弘仁年間(810-824)に弘法大師空海が高野山を開創したときに、
この地で修業したことに始まるといわれている。
江戸時代には、陸奥弘前藩津軽家と壇縁が結ばれた。→ 陸奥弘前 津軽家供養塔
本堂地下には、四国88ヶ所霊場の砂が床に敷き詰められており、「お砂踏み」が体験できる。
南海高野線高野山駅からバスで、霊宝館前下車、徒歩3分。




中 門

中門は、和歌山県高野山の金堂前にある。高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の結界ともいえる五間二階の楼門である。
弘仁10年(819年)の創建と伝えられている。
当初は、鳥居状のものであったが、承和14年(847年)に弘法大師の弟子実恵によって、立派な門が建立された。
その後、焼失と再建が続き、江戸時代には3回焼失したことが知られており、地中には焼失前の礎石が埋まっている。
天保14年(1843年)焼失後は、礎石だけが露出した中門跡としてその痕跡だけが残されていたが、平成27年(2015年)の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として、172年ぶりに8代目の門が再建された。
正面に安置されている多聞天(毘沙門天)、持国天の二天像は、文政3年(1820年)再建時のもので、天保の大火では焼失を免れて、根本大塔内に保管されていた。
2015年の再建に合わせ、二天像が修復され、さらに内側に増長天、広目天が安置され、四天像が揃う形となった。
平成29年(2017)には、高野山開創1200年記念大法会に合わせ、弘法大師との縁を結ぶため檀信徒など6万5044人が記帳した「結縁芳名帳」が、中門二層部の部屋に納められた。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車.。中門前に無料駐車場がある。




対面桜

対面桜は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある。
平安時代の久安5年(1149年)5月に大塔が落雷で焼失し、修造奉行として平清盛が任命され、保元元年(1156年)4月29日に大塔を再建した。
修造が終わり、清盛が供養のために登山した際、大塔の桜の木のもとに一人の老僧が現れてその功を讃え、二、三町ほど過ぎたところで姿が消えてしまった。
清盛は、「あの人物は弘法大師であったか」と思い、それ以来益々随喜崇敬の念を深めた。
平清盛と弘法大師が対面した場所にあった桜の木は「対面桜」と呼ばれるようになった。→ 平清盛ゆかりの地
江戸時代に書かれた紀伊国名所図会には、次のように記されている。
「影向桜 大塔の前にあり。清盛登山のとき、此の木の本に明神影向し給うが故に、しかといふなん。又は対面桜ともいふ。」
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車.。中門前に無料駐車場がある。



壇上伽藍

高野山壇上伽藍は、和歌山県高野町にある高野山の諸堂の集まる所である。
伽藍とは、梵語(サンスクリット)のサンガ・アーラーマ(僧伽藍摩)の音訳で、本来僧侶が集い修行する閑静清浄な所という意味である。
壇上とは、大塔の鎮まる壇、道場という意味である。
空海が、伽藍の建設に着手したのが816年で、完成は寛平年間(889-898)の頃と考えられる。
高野山伽藍は、奈良仏教の伽藍形式と違い、大日経と金剛頂経を象徴する2つの塔を左右に配している。

根本大塔は、真言密教の根本道場として伽藍の中心に建設された。
弘法大師空海が819年に建立に着手し、2世真然大徳の代に落慶したが、以降5回の焼失と再建を経て、現在の建物は1937年に完成した。
高さ49m、約24m四方の一層塔である。
胎蔵界の大日如来を本尊とし、その四方には金剛界の四仏が配置されている。内陣の16本の柱には堂本印象画伯の色鮮やかな金剛界の菩薩絵が描かれている。

金堂は、高野山一山の総本堂で、創建当初は講堂と呼ばれた。後に嵯峨天皇の御願によって完成したことから、御願堂と呼ばれている。
数度の火災を経て、現在の建物は1932年に再建された。秘仏の本尊は薬師如来で、髙村光雲が80歳の高齢をおして復元したものである。

高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の正門は中門と呼ばれている。819年創建で、焼失と再建が繰り返された。
1843年焼失後は、礎石だけが露出した中門跡となっていたが、2015年の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として172年ぶりに再建された。
焼失を免れた持国天、多聞天に、新たに増長天、広目天を加えて、四天王が安置されている。

南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車すぐ。中門前に無料駐車場がある。




登天の松・杓子の芝 

登天の松・杓子の芝は、和歌山県高野山壇上伽藍の六角経蔵の北側にある。
江戸時代に書かれた「野山名霊集」には、この松と芝の故事について、杓子芝(しゃくしのしば)と題して、次のように書かれている。
「経蔵の前にあり、昔明王院の如法上人、久安五年(1149年)四月十日生身(いきなから)白昼に兜率天に登り給ひけるか、はき玉ふ所の沓(くつ)落ちて明王院の後山の松にかゝれり、
是を沓かけの松と号して今猶彼所にあり、其のとき、弟子皈従(きしう)といふ僧、上人の跡をしたふて手に杓子を持なから天上せしか、
暫して後杓子を此所におとしたりといふ、(中略)生身に弥勒の浄土に往生し、(中略)上人の登天これにあたれり、」
また「西鶴諸国ばなし巻四」には、宝亀院の住職が天に登り、弟子が杓子を持って続いた話(大門の杓子天狗)が載せられている。
高野山では、信仰や伝説に関わる七本の名木があり、「七株(ななもと)の霊木」と呼ばれて大切にされてきた。三鈷の松をはじめ、登天の松も上記伝説とともに語り伝えられているものである。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。



六角経蔵

六角経蔵は、和歌山県高野山の伽藍南西部にある六角六面二重塔様式の経蔵である。
鳥羽上皇妃、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために、平治元年(1159年)に建立された。
このとき、美福門院自ら書写した紺紙金泥一切経3575巻が納められ、この経に荒川荘(現和歌山県桃山町)を付けて寄進したため、荒川経蔵、金泥一切経蔵とも呼ばれる。
天正19年(1591年)には、高野山中興の祖応其上人の発願で大規模な修理が行われ、本尊「宝冠釈迦如来坐像」が安置された。
現在の建物は、昭和9年(1934年)に再建されたものである。
紺紙金字一切経(荒川経)は、料紙に銀泥の界を引き、金字で書写した装飾経で、重要文化財に指定され霊宝館に保管されている。
基壇の把手を持って台座を一回転すると、一切経を読んだと同じ徳を得られると言われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。




閼伽井

閼伽井(あかい)は、和歌山県高野山壇上伽藍の六角経蔵東南にある。
紀伊名所図会には、次のように記されている。
「閼伽井(あかのい)
 御社の南、林間にあり。大師の鑿開(せんかい)し給ふ処、天竺の無熱池の水を湛ふとなん。
 凡(およそ)一山灌頂曼供等の大法会には、必ず是をもって閼伽とす。」
弘法大師空海が自ら掘った井戸で、無熱池の水が湛えられている。
無熱池とは、インドで考えられた理想郷の池で、阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住むという、炎熱の苦しみがない池である。
そこに咲く青蓮華が樒の葉に似ていることから、仏に樒を供えることになるとされている。
また、この池の岸が金、銀、瑠璃、玻璃の四宝で飾られ、冷たい清らかな水が湧き出し流れ出て四大河のもとをなし、世界を潤すと考えられている。
閼伽井の水は、灌頂や曼荼羅供などの高野山の大法会に使われている。
南海高野線高野山駅からバスで金堂前下車、徒歩3分。中門前に参拝者用駐車場がある。


山王院 

高野山「山王院」は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある御社の拝殿である。
創建は、11世紀中頃といわれ、地主の神を「山の神」と信じることからこの名がついたとされる。
桁行21.3m、梁間7.8m両側面向拝付入母屋造りの現在の建物は、弘化2年(1845年)に再建された。御社とともに国の重要文化財に指定されている
毎月16日、山内の僧侶による「法楽論議」が行われる。
旧暦5月1日、2日の両日には、南院波切不動を勧進して、夏季の祈りの法会が行われている。
弘仁10年(819年)5月3日の高野明神勧請の日に因み、旧暦5月3日に「竪精(りっせい)明神論議」と呼ばれる、論議形式の法会が夜を徹して行われる。
旧暦6月10日、11日には、金光明最勝王経を唱える「御最勝講(みさいしょうこう)」が行われる。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩10分。中門前の無料駐車場を利用できる。




御最勝講

金光明最勝王経の経文を講じ、讃嘆し、国の鎮護を祈る法要である。
旧暦6月10日11日の両日、壇上山王院で地主明神に捧げられる。








御 社

御社(みやしろ)は、和歌山県高野山の壇上伽藍西端にある。
西塔南側の小高い場所に位置しており、北側から一宮、二宮、三扉の総社と呼ばれる三社が並列している。
一宮には、丹生都比売明神、気比明神、二宮には、高野狩場明神、厳島明神が祀られている。
総社には、北の扉に十二王子、中の扉に百二十伴神、南の扉に摩利支天が祀られている。
現在の社殿は、大永2年(1522年)に再建されたもので、一宮、二宮は一間社春日造、総社は三間社流見世棚造である。
御社は、弘仁10年(819年)弘法大師が高野山開創にあたり、地主神として丹生明神と高野明神を勧請したと伝えられている。
地主神の守護のもと、真言密教の道場を築くもので、神仏習合の原点ともいえる。
平安時代の寛治2年(1088年)「白河上皇高野御幸記」には、丹生高野明神に奉幣が行われた事が記されている。
御社の前に、拝殿の山王院が建てられており、御社とともに国の重要文化財に指定されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩10分。中門前の無料駐車場を利用できる。




西 塔 

西塔は、和歌山県高野山の壇上伽藍西北にある。
承和元年(834年)に弘法大師空海によって記された「知識を勧進して仏塔を造り奉る書」(性霊集)の「毘盧遮那法界体性の塔二基」は、根本大塔と西塔を指すと言われている。
金堂の東西後方に毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)二基が配置される形で、壇上伽藍が構想された。
そして弘法大師入定後、仁和2年(886年)に第二世真然大徳が光孝天皇の命を受けて、西塔が建立された。
現在の建物は、五度目の再建で、天保5年(1834年)に建立された。

現在の西塔は、高さ九丈(27.27m)で、下層を柱間五間の方形、上層を円形の平面として、上下層ともに四角の屋根を掛けた二重の塔で、頂部には擬宝珠高欄と相輪を載せ、相輪上部と上層屋根の四隅を宝鎖(ほうさ)で繋いでいる。
このような形式の塔を「大塔」と呼んでいる。根本大塔も大塔形式であるが、昭和12年(1937年)に鉄筋コンクリート造りで再建されている。
木造の大塔は、西塔の他に根来寺の大塔が現存するのみである。
大塔形式を小規模にした建物が「多宝塔(たほうとう)」と考えられている。
大塔、多宝塔共に真言宗独特の建物形式であるが、多宝塔は大塔と異なり全国に多数の残存例がある。
大規模のため資金や部材、労力が膨大にかかる大塔に比べ、高い技術が必要なものの比較的手軽に建てられる多宝塔が、大塔に代わり普及したと考えられている。

柱は、外陣に20本、内陣に12本、中心に4本合計36本に中心柱を加えて金剛界37尊を象徴している。
本尊は、金剛界大日と胎蔵界四仏(開敷華王(かいふけおう)如来、宝幢(ほうどう)如来、天鼓雷音(てんくらいいん)如来、無量壽如来)の五仏が安置されており、これにより「金胎両部不二」の教義が示されている。
来迎壁背面には、一対の迦陵頻伽(がりょうびんが 上半身が人、下半身が鳥の想像上の生き物)と蓮池が描かれており、阿弥陀の浄土を表わしていると考えられる。

南紀徳川史によると、天保4年12月華岡隨賢(青洲)は、西塔前の石燈籠2基と燈油料として金50両を正智院取次で寄附している。
西塔前の石燈籠には、正智院第40世 良應とその兄である華岡隨賢の名前が刻まれている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩10分。中門前に駐車場がある。




孔雀堂

孔雀堂は、和歌山県高野山壇上伽藍にあるお堂である。
孔雀明王院、孔雀明王堂とも呼ばれる。
本尊の木造孔雀明王像は、孔雀にまたがる一面四臂の菩薩形で、像高78.8cm。鎌倉時代の名仏師快慶作で、国指定の重要文化財である。
孔雀は、よく毒草や害虫を食するということで、インドで孔雀明王は諸人の罪障を除く神として崇められてきた。
正治元年(1199年)、後鳥羽法皇の御願によって、京都東寺の延杲大僧正が干天に降雨を祈願し成就したことから、法皇の賞賜として、正治2年(1200年)に建立された。
昭和元年(1926年)金堂とともに類焼し仮堂のままとなっていたが、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業の一環として、昭和58年(1983年)に再建された。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。





准胝堂

准胝堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある。
光孝天皇の御願により、真然大徳が建立したものである。
本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として、自ら造立したものと伝えられている。
この観音は、伽藍建立当時食堂に安置されていた。
准胝観音は、准胝仏母、七倶胝仏母とも呼ばれ、准提とも書く。真言系の六観音の一つで、無数の仏を生み出す女性尊であることから、出家得度の本尊として信仰されている。
現在の建物は、明治16年(1883年)に再建されたものである。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。

准胝堂陀羅尼会

伽藍准胝堂において、7月1日に准胝堂陀羅尼会が行われる。
この法会は、明算大徳(1021-1106)の時に始められたと伝えられている。
「尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)」を唱え、日々の罪過を懺悔する法会である。




逆指の藤(倒指の藤)

逆指(倒指)(さかさし)の藤は、和歌山県高野山の壇上伽藍御影堂の北側にある。
平安時代の高野山は、正歴5年(994年)の大火や高僧の遷化により疲弊していたが、
祈親上人が、長和5年(1016年)に高野山にのぼり、高野山の再興を誓って、「願掛け」として藤を地面に逆さに植えたと言われている。
不思議なことに、この藤はしばらくして芽生え始めたという。
現在の藤は、近年になって御影堂北側に植え次がれたものである。


御影堂

御影堂は、和歌山県の高野山壇上伽藍の金堂北方にある御堂である。
空海在世中、御堂に如意輪観音を安置し、常に念誦していたので、念誦堂、持仏堂または御庵室と呼ばれていた。
空海入定後に弟子実恵が真如法親王筆の弘法大師御影像を安置したため、御影堂と呼ばれるようになった。
数度の焼失を経ており、現在の建物は嘉永元年(1848年)に、紀州藩徳川家を壇主として再建された。
3間4面の檜皮葺、宝形造りで、屋根の勾配の曲線が美しい建物である。
内陣には、大師御影を安置し、中陣には両界曼荼羅、外陣には十大弟子と祈親上人、真然大徳の絵像がかかげられている。
堂前には、空海が唐からの帰途船上から投げた(飛行)三鈷杵が懸ったと伝えられる「三鈷の松」がある。
この松は、葉が3本に分かれた珍しいもので、葉を拾って肌身につけていると御利益があると言われている。
飛行三鈷杵は、全長23.8cmで鋳銅鍍金が施され、把径3.3cmの中央把に厳しく隆起した鬼頭四つを施し、左右に単弁八葉の連把を配した造りで、国の重要文化財に指定されている。
御影堂の周囲には、防火のためのドレンチャーがあり、火災の際には、建物の屋根の高さまで放水されるようになっている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。


旧正御影供 御逮夜

毎年、新暦及び旧暦3月21日には奥の院と御影堂で正御影供(しょうみえく)と呼ばれる弘法大師の法会が行われる。
旧正御影供前日の御逮夜は、日没前から御詠歌と舞踊の奉納が行われ、午後8時から御影堂で法要が行われる。
法要が終了すると、一般参拝者も堂内外陣を参観できる。また、壇上伽藍各堂の扉が開かれ、各本尊を拝観できる。





三鈷の松 

三鈷の松は、和歌山県高野山壇上伽藍御影堂の前にある。
大同元年(806年)、弘法大師が唐から帰国するとき、日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、明州(現在の寧波)の港から密教法具である「三鈷杵」を投げた。
帰国後、その三鈷杵を探し求めると、高野山の松の木にかかっていたという。
こうして高野山は真言密教の道場として開かれることとなった。以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、広く信仰をあつめている。
普通、松の葉は2葉か5葉であるが、「三鈷の松」は密教法具の三鈷杵のように3葉になっており、肌身につけると御利益があると言われて、参拝者が葉を探す姿が見られる。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。





大塔の鐘 (高野四郎) 

大塔の鐘(高野四郎)は、和歌山県高野山壇上伽藍の鐘楼堂にある。
弘法大師が、「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文」(性霊集)で鋳造を発願し、高野山第二世真然大徳の時代に完成した。
度重なる火災のため三度の改鋳を繰り返し、現在の銅鐘は天文16年(1547年)に再興したもので、直径2.12m、高さ2.5mの大きさである。
改鋳当時は、東大寺の鐘「南都の太郎」に次ぐ大きさで「高野二郎」と呼ばれたが、その後、知恩院と方広寺の鐘が出来たため、「高野四郎」と呼ばれるようになったという。
この鐘は「時を告げる時」や「法会などの儀式の合図」として鳴らされる。
毎日5回、午前4時、午後1時、午後6時、午後9時、午後11時に鐘が撞かれ、1日に鳴り響く鐘の音は合計108回になる。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前に無料駐車場がある。




不動堂

不動堂(国宝)は、和歌山県の高野山に現存する建物では、最古のものである。
言い伝えによれば、建久8年(1197年)鳥羽天皇の皇女八条院暲子内親王の発願により、行勝上人が創建したという。
創建時には、一心院谷、金輪塔の傍らに位置していたが、明治41年(1908年)に現在地に解体移築された。
鎌倉時代の和様建築であって、それ以前の住宅建築の様式を仏堂建築に応用したものである。
桁行3間、梁間4間の主屋を中心にして、左右に桁行1間、梁間4間と桁行1間、梁間3間の脇の間が付属した檜皮葺の建物である。
屋根の勾配が美しく、堂の四隅は四人の大工がめいめい思い思いに作り上げて一緒にしたとも伝えられる。
本尊は、木造不動明王坐像で、運慶作と伝えられる木像八大童子像(6躯国宝)が安置された。
木造不動明王坐像は、像高87cmで、行勝上人の自作と伝えられている。
八大童子は、不動明王に仕える八人の弟子で、恵光、恵喜、鳥倶婆誐(うぐばが)、清浄比丘、矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)、阿耨達(あのくた)、指徳の各童子の像が、現在霊宝館に収蔵されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。
平成29年11月21日から23日まで、不動堂内部が特別に公開された。堂内には、大変穏やかな表情の不動明王立像(平櫛田中作)が本尊として安置されている。




愛染堂

愛染堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍下の檀北側にあり、新学堂ともいう。
建武元年(1334年)4月14日の後醍醐天皇綸旨により、「四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)」を祈願し、不断愛染護摩供・長日談義を行うために建立された。
本尊は、後醍醐天皇等身の愛染明王で、一面三目六臂の上段の二臂で弓を持ち矢をつがえ、天に向かって弓を引いているため、「天弓愛染明王」といわれる。
明王は、平安時代後期に登場する仏で、「明かりをもつもの」が原義とされる。
愛染明王のサンスクリット名は、ラーガラージャ(Ragaraja)で、ラーガ(羅我)とは、赤色、情欲、愛染の意味で、ラージャ(羅闍)は、王の意味である。
堂宇は、四度の焼失と再建を経て、現在の建物は天保14年(1843年)に焼失した後、嘉永元年(1848年)に再建され、検校来応を導師に、愛染堂、蓮華乗院(大会堂)、三昧堂の落慶曼荼羅供が行われた。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。




大会堂 

大会堂は、和歌山県高野山壇上伽藍の下の檀にあり、蓮華定院・会堂とも呼ばれる。
本尊は丈六(4.85m)の阿弥陀如来で、脇仏は観音・勢至菩薩が祀られている。
安元元年(1175年)に鳥羽上皇菩提のため、皇女五辻斎院頌子(いつつつじさいいんしょうし)内親王が法幢院谷(ほうどういんだに)に創建したものが最初である。
治承元年(1177年)西行法師が奉行をつとめ、長日不断論議の学堂として檀上の現在地に移し、蓮華定院と称した。後に法会の場所となり、大会堂と呼ばれた。
現在の建物は、嘉永元年(1848年)に再建された五間四面檜皮葺の堂宇で、主として大伽藍の大法会の集会所として使用されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。




三昧堂  西行桜

高野山三昧堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍下の壇北側にある。
延長7年(928年)、金剛峯寺座主の済高が創建した。最初の堂は、本中院谷の親王院の場所にあって、東南院と呼ばれていた。
東南院の名は、済高座主が京都市山科区の勧修寺の東南院に住したことによる。
三昧堂とは、寺院において常住の僧が法華三昧、念仏三昧などの「三昧」(精神集中の修行)をする場所で、済高座主が理趣三昧を修したことで名付けられた。
その後、歌人西行法師が治承元年(1177年)に大会堂とともにこの地に移築造営したといわれる。それを記念して、堂前には西行桜が植えられている。
現在の建物は、弘化5年(1848年)に再建された檜皮葺三間四面の堂である。
本尊は、大日如来坐像で金剛界4仏と四天王像が安置されている。
堂前東側には、与謝野鉄幹晶子歌碑がある。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。




清瀧権現社

清瀧権現社は、和歌山県高野山壇上伽藍三昧堂の南にある。
鳥居横の由緒書きには次のように記されている。

   清瀧権現社由来事
高野山大門を過ぎてすぐ、和菓子舗 南峰堂 当時店主だった杉原幸之助、コムメ夫妻の発願により建立された。
鳥取県大師教会桜ヶ丘支部、馬野禮光師と協力し私財を擲って社殿とバン字池を造営した。
また蓮池は江戸時代にできたとされており高野山は龍の山と言い伝えられている。
杉原氏らは、講を結成し年に一度、僧を請じて例祭を行っていたが、主にお世話していたコムメ氏が老齢になったこともあり、
子息である杉原勉氏の申し出により平成二十五年当社は金剛峯寺の一部となった。
以来、伽藍年中行事として毎年十月十九日に大祭が行われている。

現社殿は昭和四十七年に再建、杉原幸之助、コムメ夫妻、馬野禮光師、金剛峯寺の施財により造営されたものです。
 令和四壬寅歳皐月吉祥日




東 塔 

東塔は、和歌山県高野山の壇上伽藍東端にある多宝塔である。
大治2年(1127年)白河法皇の御願によって、京都醍醐三宝院の勝覚権僧正が創建した。
記録によると、白河法皇等身の金色尊勝仏頂尊と不動明王、降三世明王の三躰を安置して落慶供養が執り行われた。
天保14年(1843年)に焼失し、礎石だけが残っていたが、昭和59年(1984年)に141年ぶりに、高さ18m、四方6.4mの塔が再建された。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩5分。霊宝館前の駐車場を利用できる。




智泉大徳廟

智泉大徳廟は、和歌山県高野山の壇上伽藍東塔東側(総持院前)にある。
智泉(789-825)は、讃岐出身の平安時代の僧で、空海の甥にあたる。
父は、讃岐滝宮の宮使で、菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉である。
延暦8年(789年)に生まれ、16歳の時に大安寺を本寺として出家した。
大同年間(806-809)に、嵯峨天皇皇后橘嘉智子が皇孫誕生祈願を命じ、
山城国相楽郡報恩寺(現在の岩船寺)で、智泉が普賢菩薩を刻んで祈願したところ、
弘仁元年(810年)皇子(後の仁明天皇)が誕生した。
弘仁3年(812年)高雄山寺の三綱の一、羯摩陀那となる。
以降常に空海の側近として苦楽を共にし、真言宣布の事業を助け、空海十大弟子のひとりとなっている。
弘仁12年(821年)空海の指授で、諸天灌頂神、菩薩灌頂神を図写している。画技に優れ、その画風は智泉様と称せられた。
天長2年(825年)、智泉大徳が37歳で高野山東南院にて入寂した時、空海は次の文を残している。

「亡弟子智泉が為の達嚫(だつしん)の文」
(略)吾飢うれば汝飢う、吾楽しめば汝ともに楽しぶ(略)
哀(あわれ)なる哉、哀なる哉 哀れの中の哀れなり
悲しき哉、悲しき哉 悲しみの中の悲しみなり (略)
哀なる哉、哀なる哉、復哀なる哉
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉(略)

達嚫(だつしん)とは、サンスクリットのdaksinaの音写で、供物を捧げるときに読む文である。
江戸時代寛政8年(1796)に作成された高野全山絵図には、東塔東側に東南院があり、「智詮廟」が描かれている。
(下記写真参照。写真出典 日野西眞定「高野山古絵図集成」))
大正13年(1924年)9月14日一千百年忌に際し、石碑が新造され、昭和43年(1968年)には参道が修築された。
南海高野線高野山駅からバスで金剛峯寺前下車、徒歩5分。




金剛峯寺案内

金剛峯寺

金剛峯寺は、和歌山県高野町にある高野山真言宗の総本山である。
開創は、弘法大師空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った816年である。その後幾度となく火災で喪失した。
1593年に豊臣秀吉が亡き母大政所天端院を弔うために青厳寺を建立し、その隣に木食応其が興山寺を建立した。
1869年に、この両寺が併合されて、改めて金剛峯寺と名付けられた。
金剛峯寺の名称は、開創以来高野山の伽藍全体の名称としても使われている。
創建当初の様式を伝える現在の建物は1863年のもので、東西54m南北63メートルの大主殿の中に大広間、梅の間、柳の間などがある。
大広間と梅の間には、江戸初期の画家、狩野探幽の作といわれる見事な襖絵が描かれている。
柳の間は、別名「秀次自刃の間」と呼ばれ、豊臣秀吉の甥、豊臣秀次が追放され切腹した所である。
幡龍庭は、石庭としては我が国最大の広さ(2340㎡)があり、雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っているように表現されている。
大主殿の北側には、空海の甥、真然の廟がある。
令和6年(2024)金剛峯寺本坊の12棟の建造物が重要文化財に指定された。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車すぐ。
自家用車の場合は、表門前に無料駐車場がある。



常楽会(涅槃会)

常楽会は、釈迦の入滅日(2月15日)前夜の14日午後11時から翌日昼頃まで行われる。
涅槃とは、悟りの境界ということで、これには常楽我浄の4つの徳が含まれる。
常とは永遠、楽とは安楽、我とは絶対、浄とは清浄を意味し、これから常楽会と呼ばれるようになった。
大広間に「仏涅槃図」が掲げられ、数十人の僧侶と専修学院生が集まり、法会が行われる。
「四座講式」という、特別なお経や節をつけた「声明」を唱える。
大広間の隣の土室の間で割り木が炊かれ、信者や参観者は座って声明に聴き入る。

内談義

内談義は、旧暦6月9日、10日の2日間午前10時から行われる。
高野山には古来より「学道」というものがあり、様々な経典や弘法大師が書いた書物を勉強し、またその知識をさらに研鑽するために、
質問する側と答える側にわかれて問答するという行事が行われてきた。
独特の節をつけて問答を行う内談義は、もともとは練学会(れんがくえ)という名で、10日間にわたって行われていたが、
現在は2日間で、前年の堅精の一、二臈が左右学頭となり一日ずつ出仕する精談儀式法会である。
内談義の式場については、「屋内大広間角の間には、学頭机を据え、右の金筒に箸、羽箒、灰ならしを立て、
中央に香炉、左に香箱、両脇に花瓶を据え五段の生花をさす」と定められ、立派な五段花が飾られる。






金剛峯寺正門

金剛峯寺正門は、和歌山県高野山金剛峯寺にある。
正門(表門)は、金剛峯寺前駐車場から境内に入る時に最初にくぐる門で、公式の行事のある時には、階段の両側に向かいあって馬水桶が並べられ、一つ一つが杉の葉で飾り付けられる。
かつて、将軍や大名の高野詣りの時、馬に水を飲ませたり餌付けをした名残りが現在まで続いている。
正門は、文久2年(1862)再建とされるが、延宝8年(1680)に落慶した「「青厳寺上門」の可能性も挙げられている。
東側のくぐり戸は、一般の僧侶が利用するもので、昔は正門は、天皇・皇族・高野山の重職だけが利用していた。
階段南側の橋の両側の枝垂れ桜が春の参詣者を、また階段西側の紅葉が秋の参詣者を出迎える。


金剛峯寺 かご塀

金剛峯寺 かご塀は、和歌山県高野山にある。
金剛峯寺正門の西にある案内板には、次のように記されている。
金剛峯寺かご塀
  和歌山県指定文化財
  指定 昭和四十年四月十四日
現在の金剛峯寺の前身である学侶方の総本山であった旧青厳寺の寺域を区切るためにもうけられた築地塀である。
南西部分の塀は、文久二年(一八六二)の建立と思われるが、西面する部分は柱の風飾状態などから一時代古いものと思われる。
総延長二〇二mを有する檜皮葺のかご塀である。
  和歌山県教育員会
  (財)高野山文化財保存会


天皇皇后両陛下行幸啓記念植樹「高野槙」

天皇皇后両陛下行幸啓記念植樹「高野槙」は、和歌山県高野山金剛峯寺境内にある。
経蔵前に建てられた案内板には、次のように記されている。
・昭和52年4月18日
 昭和天皇 皇后両陛下 行幸啓記念植樹の「高野槙」です。
 悠仁親王殿下のお印になっております。
The Koya-maki (Japanese umbrella pine) was planted
to celebrate the imperial visit of Emperor and Empress Showa on April 18, 1977.
Koya-maki is the seal of Prince Hirohito.


高野槙(学名 Sciadopitys verticillata (Thunb.) Sieb.et Zucc.)は、コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキで、一科一属一種の木として知られる。
もとは、スギ科のコウヤマキ属として扱われていた。
高さ30m近くまでまっすぐに伸びる端正な樹形から、優良な造園樹としてヒマラヤシーダー、アロウカリアと並んで世界の三大公園樹と呼ばれている。
自生地は、本州、四国、九州などで、和歌山県の高野山に多く分布することから、コウヤマキと名付けられた。→ 高野山コウヤマキ希少樹林個体群保護林
用途としては、耐水性に優れているため、棺桶、浴槽、風呂桶、流し板などに利用される。
近畿地方の古墳から出土する木棺は、ほとんどがコウヤマキから作られていたという。
高野山では、マツ、スギ、ヒノキ、モミ、ツガ、コウヤマキの六種の針葉樹を、「高野六木(こうやりくぼく)」として保護してきており、切枝を仏前に供え、墓前の供花として使われるため、高野詣でのみやげとして販売されている。


金剛峯寺 経蔵

金剛峯寺 経蔵は、和歌山県高野山にある。
経蔵前の案内板には、次のように記されている。
金剛峯寺経蔵
  和歌山県指定文化財
  指定 昭和四十一年四月十四日
総本山金剛峯寺の前身である学侶方本山青厳寺の経蔵である。
本経蔵は江戸時代初期の延宝七年(一六七九)に再建されたものである。
その構造は桁行六.二六m、梁間四.三〇mの塗篭造りの経蔵部に、正面唐破風付三間四面の入母屋造り檜皮葺の覆屋を設けている経蔵である。
  和歌山県教育委員会
  (財)高野山文化財保存会

正面扁額には次のように記されている。
當一切経幷
庫蔵施主摂
州天満之住
伊川氏都光
浄栄信士爲
頓證菩提也

かつては、火災に備えて主殿とは離れた建物に仏像仏具、経典等が収蔵されていたが、
現在、それらのものは高野山霊宝館に保管されている。





金剛峯寺 鐘楼

金剛峯寺 鐘楼は、和歌山県高野山にある。
鐘楼南東にある案内板には、次のように記されている。
金剛峯寺鐘楼
  和歌山県指定文化財
  指定 昭和四十年四月十四日
本鐘楼は、金剛峯寺の前身である青厳寺の鐘楼である。
その構造形式から万延元年(一八六〇)に山上の大火で類焼後、大主殿などの建物とともに、
本鐘楼も元治元年(一八六四)に再建されたものと考えられ、
桁行三間、梁行二間、袴腰付入母屋造りの形式とする鐘楼である。
  和歌山県教育員会
  (財)高野山文化財保存会

鐘は戦時中に一度徴用され、現在の鐘はその後再製されたものといわれている。
普段は使われていないが、本山内の行事の時に使用される。




蟠龍庭 

蟠龍庭は、和歌山県高野山金剛峯寺の勅使門と奥殿の間に造られた石庭である。
面積2,340㎡で、わが国最大の石庭である。
雲海の中で雌雄一対の龍が、金剛峯寺の貴賓室である奥殿を守っている形が表現されている。
龍は弘法大師のふるさと四国産の花崗岩140個が並べられ、雲海には京都の白砂が使われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩5分。自家用車の場合は、表門前に無料駐車場がある。




金剛峯寺奥殿

金剛峯寺奥殿は、和歌山県高野町の金剛峯寺主殿西隣にある。
奥殿の建物は、昭和9年(1934)弘法大師御入定1100年御遠忌の際に建てられた。
当時の入札価格約6万円で和歌山市の建築家西本健次郎が請け負った。
建物の周囲は、日本最大の広さの石庭 蟠龍庭がある。
室内の襖絵は、建設に先立ち、昭和8年に画家石崎光瑤に揮毫を依頼した。
石崎光瑤は、大正5年に続き、再度インドを訪問し、植物や風景を写生し、カシミール渓谷最高峰コラホイ(5440m)にも登頂した。
襖絵「虹雉(こうち)」は、このようにして描かれたもので、紙本着色襖12面にヒマラヤシャクナゲの風景などが描きあげられ、
その絵画に因んで、「雪嶺の間」「瑤雞の間」「渓流の間」などの名が付けられている。
また、桜の間の障壁画は、中島千波が描いた朝方の桜の古木である。
北側の部屋には、高野山百景と題した富山護国寺住職石田俊良画伯の襖絵がある。



阿字観道場

阿字観道場は、和歌山県高野山金剛峯寺の庭園北側にある。
阿字観研修のため、金剛峯寺第401世座主 中井龍瑞大僧正の発願と寄進により、昭和42年(1967)に建立された。
中央に阿字観を講伝する部屋があり、その両側に小さな部屋がある。
阿字観とは、真言密教における瞑想法で、月輪の中に梵字の「阿」を大日如来と観相し瞑想するもので、
その法によって入我我入し、仏との一体をはかるものである。
その点で、禅の無念、夢想とは異なるものである。


真然大徳廟

傳燈國師眞然大徳廟は、和歌山県高野山金剛峯寺主殿の後山、阿弥陀峰の山腹にある。
真然僧正は讃岐国佐伯氏に生まれ、弘法大師の甥にあたる。
高野山第二世として、弘法大師から高野山の経営を引き継ぎ、56年にわたり尽力した。
伝法会のもとを開き、次の時代の覚鑁上人に空海の精神を伝えた。
高野春秋編年輯録によると次のように記されている。
「真然は(891年)秋の9月11日に中院(今の龍光院)において、愛染王の三魔地に住して、病もなく忽然と遷化した。
門人は、中院の東方の原野に埋葬した。(略)八九歳であった。」
紀伊続風土記「青厳寺」の項に、「真然僧正の廟堂」として記されている。
昭和63年11月の発掘調査により真然大徳の舎利器(緑釉四足壺、器高18.1cm)が出土した。
昭和40年4月14日に和歌山県の史跡に指定されている。
毎年、9月11日には金剛峯寺で伝灯国師忌が行われる。



高野の火まつり

高野の火まつり 柴燈大護摩供は、例年3月第1日曜日に高野山で開催される。
場所は総本山金剛峯寺前駐車場で、午後1時から金剛峯寺座主高野山真言宗管長による「お清めの儀式」がある。
柴燈護摩は、修験道独自の護摩儀礼で、野外に護摩木や藁などを積み上げ弓や剣で結界を張り、そこへ仏菩薩を招き点火する。
その火により修験者の煩悩を焼き尽くすとともに、天下国家安穏、家内安全、五穀豊穣などを祈願する。
護摩供の後、お守りが授与される。


六時の鐘 

六時の鐘は、和歌山県高野山金剛峯寺にある。
この鐘楼は、当初福島正則(1561-1624)が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立したものである。
福島正則は、桶屋福島正信の長男として尾張国に生まれた。母が、豊臣秀吉の叔母木下氏であったことから、幼少から秀吉に仕え、柴田勝家との戦いでは、賤ヶ岳七本槍と言われて活躍した。
その後武功を挙げて清須城主となり、秀吉没後は、徳川家康に仕えて安芸広島城主となって、高野山に六時の鐘を建立した。
正則の死後、寛永7年(1640年)に鐘は焼失したが、寛永12年(1645年)に子の福島正利が再鋳した。
「紀伊国名所図会」には、鐘の銘が記されており、山内に「二六時を報ずる聲なし」との文がある。
二六時とは、一日の時間を「子の刻」「丑の刻」など十二刻で表していた時代の使われ方で、一日中を意味していた。
一方、岩波仏教辞典によると、「六時ろくじ」は、次のように説明されている。
読経・法要などを行うために昼夜をそれぞれ三分したもので、昼を<晨朝じんじょう><日中にっちゅう><日没にちもつ>、夜を<初夜しょや><中夜ちゅうや><後夜ごや>に区分する。(後略)

「高野山名所図会」によると、その後、宝暦元年(1751)6月鐘楼が傾頽したため修理し、石壇を3尺まで高くした。
明和8年7月に重ねて修理、文化6年7月の火災に罹(かか)り、仮堂を数年置いた後、天保6年(1835)冬旧製に復した。
午前6時から午後10時まで、偶数時に12回ずつ一日計百八回撞かれている。
「野山名霊集」には、「六時堂」と記されており、大納言(烏丸)光広卿の次の歌が紹介されている。
  高野山 なき身の数に けふもまた もれて聞ぬる 入相のかね
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車すぐ。金剛峯寺前に来訪者駐車場がある。



高野六木資料(山口文章氏講演「高野山の植物」)



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