山内案内 高野山大門から恵光院  


スタート  高野山大門 → 恵光院(昼食) 
山内案内 距離 約2km 約1時間

高野山大門

高野山大門は、和歌山県高野町にある高野山の表玄関である。
慈尊院からの町石道を登りきったところにあり、高野山の壇上伽藍の入り口にあたる。
1140年に建てられたもので、それ以前は約500m下の九折谷に一基の鳥居があり、それが一山の総門になっていた。
現在の門は、1705年に再建されたもので、高さ25m、間口21メートル、奥行き8メートルの5間三門開きの朱塗りの楼門である。
両脇の金剛力士像は、江戸時代の仏師康意、運長の作である。大門前広場には木国句碑がある。

主柱に掛けられた対聯(ついれん)には、「日々の影向(ようごう)を闕(か)かさず」「処々の遺跡を検知せん」と記されている。
この2句は、日日影向文(にちにちようごうもん)とも呼ばれ、寛治年間(1087-94)に東寺の定額(じょうがく)僧正勝実(しょうじつ)という僧侶が、讃岐国善通寺において感得したという「御筆の一筆」の次の文から採られたものという。
「居を高野の樹下に卜(ぼく)し、心神を兜卒(とそつ)の天上に遊ばすと雖も、
 日々の影嚮を闕かさず、処々の遺跡を検知せん」
弘法大師は、住まいを高野山奥の院の樹下に選び定め、心は弥勒菩薩が住む兜卒天に赴いているけれども、
毎日姿を現して、縁のある各地に出向き巡検され、衆生の救済に力を注がれている、という意味である。
対聯の書体は、法性寺流(ほっしょうじりゅう)と呼ばれるもので、弘法大師に深く帰依した後宇多上皇の宸筆を写したものといわれている。

南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「大門」下車すぐ。
自家用車の場合は、橋本経由の国道370号ではなく、かつらぎ経由の国道480号の方が運転しやすい。
大門前のT字路を伽藍方向に左折せず直進すると、約300mでお助け地蔵前駐車場がある。




田村木国句碑

田村木国句碑は、和歌山県高野山大門広場の南隅にある。
石碑には次のとおり刻されている。
  山門を出でて秋日の谷深し  木国
高野山大門から西を眺めると、鳴子谷の先に葛城、和泉の山を一望することができる。
特に秋の夕刻には、太陽の沈む姿が美しく、多くの参詣客が静かに見入っている。
木国(もっこく)(1889-1964)は、本名を田村省三といい、新聞記者、俳人として活躍した。
全国高校春夏の野球大会(旧中等学校)創設の功労者として知られる。
田村木国は、明治22年1月1日に和歌山かつらぎ町笠田中で、寺子屋を開いていた文次郎の長男として生まれた。
2歳の時、父の就職に伴い大阪に移り、北野中学から三高に進み、中途退学した。
明治43年(1910)大阪朝日新聞社に入社し、社会部で全国中等学校優勝野球大会を創案し、大正4年(1915)8月18日に豊中球場で第1回大会が開催された。
昭和8年(1933)に大阪毎日新聞社に移り、整理部長、学芸部顧問を歴任した。
俳句においては、大正6年(1917)に高浜虚子に入門し、大正11年創刊の「山茶花(さざんか)」で活躍した。
昭和21年には同名の俳句誌 山茶花を創刊して主宰し、昭和39年に76歳で没した。
毎年夏に開かれる高野山の俳句大会には、選者として37回参加したという。
「秋郊」「大月夜」「山行」などの句集を刊行している。
句碑裏面には、昭和三十二年七月廿一日 総本山金剛峯寺 と刻されている。→ 高野山内の句碑




お助け地蔵尊

お助け地蔵尊は、和歌山県高野町にある地蔵で、「助けの地蔵」とも呼ばれている。
高野山大門の南側、女人道に面した高野七口の一つ龍神口の近くに祠が建てられている。
言い伝えによると、高野山に住んでいたおじいさんが、熊野の辻を歩いていると「助けて」と声が聞こえたという。
声のする方向を探すと、道際の小さな谷に地蔵尊が落ち込んでいたので、道まで引き上げて安置した。
しかし、人通りの少ない寂しい場所であったので、地蔵尊を抱えて高野山まで帰り、龍神口近くに祠を建て、毎日お参りを続けたところ、この地蔵尊がみんなの願いをひとつずつかなえてくれるようになったという。
また、願い事は、一生に一度だけ聞いてくださるとか、お礼参りには丸いものをお供えするとよいとも言われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「大門」下車、徒歩5分。道路を隔てた西側に駐車場がある。




龍神口

龍神口(龍神口跡)は、和歌山県高野山大門南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、龍神口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路  七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
 (中略)
  龍神口  又湯川口といひ、保田口あるひは簗瀬口ともいふ。
        大門の左に通ず。龍神より十三里餘。
        此道當山坤(ひつじさる)方の入口にして、
        日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると、
        新村にて合して大門に入る。



町石道

町石道は、和歌山県かつらぎ町の慈尊院から高野山に通じる総距離24キロメートルの参道である。
金剛峯寺への参詣道は、「高野七口」 (大門口、不動坂口、黒河口、大峰口、大滝口、相浦口、龍神口)といわれるようにいくつかのルートが開かれていたが、このうち最も早く開かれ、その後も主要参詣道として利用されたのが「高野山町石道」である。
町石が建立されたのは、根本大塔から奥の院までの36町と根本大塔から慈尊院までの180町の間である。
1町(約109メートル)ごとに、高さ約3メートル、幅30センチメートル、重量約750kgの五輪卒塔婆形式の石柱がある。
当初木製の卒塔婆であったが、老朽化したため、貴族や御家人などの寄進で1265年から1285年に町石として建立された。
町石の側面には、壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教の金剛界36尊及び胎蔵界180尊の梵字、寄進者の名前、設立の年月日及び目的などが彫り込まれている。
現在は、ハイキングの道として親しまれており、紀ノ川の眺めなどを楽しめる。
第1町石は、高野山根本大塔の道路横にあり、第180町石は、慈尊院内にある。
南海電鉄高野線九度山駅、紀伊細川駅等下車。



西南院

西南院は、和歌山県高野山の西院谷にある真言宗の準別格本山である。
寺伝によると、開基は真然大徳で、高野山の南西、坤(ひつじさる)方守護の寺として草創され、空海筆大元帥明王を安置したという。
中世には、平等心院とも称されていた。平等心院は保延元年(1138年)に、図像収集で知られる平等房永厳が高野山に隠退して私堂を構えたのが草創といわれている
本尊の大日如来は、2009年に20年ぶりに霊宝館から移された。
重森三玲作の大石庭は、夜間にライトアップされる。
南海高野線高野山駅からバスで弁天前下車すぐ。


祓川弁財天

祓川弁財天は、和歌山県高野山の西院谷にある。
弁財天は、仏教における智慧、弁舌、技芸の女神で、略して弁天といわれる。
サンスクリット語サラスバティーSarasvatiの訳で「水を有するもの」を意味する。
もとはヒンドゥー教の神で、仏教では「金光明最勝王経」に弁財天が登場し、この経を説く人や聞く人に知恵や長寿や財産を授けると述べている。
祓川弁財天は、弘法大師が勧請したと伝えられ、その名は開創時に弘法大師が高野山一円の魔性をお祓いしたことに由来する。
弁財天は七福神の一つとされ、水辺に祀られることが多い。
高野山では、古くから山上の水源となる七カ所に弁財天社が祀られ、「高野山の七弁天」として信仰を集めている。
南海高野線高野山駅からバスで弁天前下車すぐ。



湯屋谷弁天

湯屋谷弁天は、和歌山県高野山壇上伽藍西側の愛宕谷バス停横にある。
神体が奉安する厨子に享保2年(1717年)の記述があり、元禄期(1688‐1704年)の古絵図にも描かれているため、この時期に勧進されたと考えられている。
神体は、八臂で頭上に鳥居と宇賀神をいただく弁財天である。
湯屋谷は、古い地名でかつて湯屋(共同浴場)があったことからそう呼ばれた。
近代になってから愛宕谷権現があったことから愛宕谷と呼ばれるようになった。
南海高野線高野山駅からバスで愛宕谷バス停下車すぐ。愛宕谷の無料駐車場を利用できる。

宝亀院

宝亀院は、和歌山県高野山西院谷にある真言宗の別格本山である。
本尊は、十一面観音で別名「お衣観音」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。
延喜21年(921年)10月27日、空海に弘法大師の諡号が宣下されたが、
その時夢想によって醍醐天皇から空海に御衣一領が下され、観賢が奥の院御廟の戸を開いて檜皮色の御衣を大師に着せたと伝えられる。
その後、毎年空海の御衣新調にあたる院として観賢が当院を開き、院名は空海生誕年(宝亀5年)の暦名から取られた。
現在も毎年3月17日当院で御衣加持が行われ、3月21日に「御衣替えの儀式」が行われている。
山門をくぐって正面のお堂に入ると、右手に井戸がある。
これは、「御衣井」と呼ばれ、御衣替えの儀式で使われる衣を染めるときに、この井戸から湧き出る水を使い、薬草を煎じて染料が作られる。
寺伝によると、井戸の水は弁財竜王が守護している「生命の水」と呼ばれ、福智円満のご利益があるといわれている。
取り替えられた衣は、切れ端を小さく切って、「弘法大師御衣切」のお守りとなり配られている。
南海高野線高野山駅からバスで金堂前下車、徒歩2分。参拝者用の駐車場がある。




大上春秋、行子歌碑

大上春秋、行子歌碑は、和歌山県高野山桜池院前にある。
さくら短歌会主宰 大上春秋(治明)と大上行子の和歌が刻されている。

しろき守宮 かへのすきより 匂ひ出つる 寂れしむらの 陣に馴れたり 春秋

海ふたつ こえてもゆかむ 来よといふ ひとのありせを ためらはよしを 行子

石碑裏面には、次のように刻されている。
南支派遣軍々歌
波濤萬里を□りて衝く
バイヤス湾に月しるく
時、神無月、十二日
奇襲上陸茲に成る
青史を飾るこの朝
勲は永遠に薫るかな
    昭和十三年十月二日
    第百四師団バイヤス
    湾奇襲上陸軍歌第一節
     大上春秋作

さくら短歌会主宰
  大上春秋 (治明)
   平成元年九月三日歿
櫻池院琳珉治達居士
  大上行子 (妻)

維時平成二年十月三日建之


中 門

中門は、和歌山県高野山の金堂前にある。高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の結界ともいえる五間二階の楼門である。
弘仁10年(819年)の創建と伝えられている。
当初は、鳥居状のものであったが、承和14年(847年)に弘法大師の弟子実恵によって、立派な門が建立された。
その後、焼失と再建が続き、江戸時代には3回焼失したことが知られており、地中には焼失前の礎石が埋まっている。
天保14年(1843年)焼失後は、礎石だけが露出した中門跡としてその痕跡だけが残されていたが、平成27年(2015年)の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として、172年ぶりに8代目の門が再建された。
正面に安置されている多聞天(毘沙門天)、持国天の二天像は、文政3年(1820年)再建時のもので、天保の大火では焼失を免れて、根本大塔内に保管されていた。
2015年の再建に合わせ、二天像が修復され、さらに内側に増長天、広目天が安置され、四天像が揃う形となった。
平成29年(2017)には、高野山開創1200年記念大法会に合わせ、弘法大師との縁を結ぶため檀信徒など6万5044人が記帳した「結縁芳名帳」が、中門二層部の部屋に納められた。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車.。中門前に無料駐車場がある。



蓮池と善女龍王社 

蓮池と善女龍王社は、和歌山県高野山の壇上伽藍にあり、国史跡に指定されている。
蓮池は高野山上最大の池であり、平安時代からあったものである。
古くは「金堂池」と呼ばれていたが、江戸時代に蓮が植栽されてからは「蓮池」の名前で親しまれてきた。
昭和初期まで水面を覆う蓮の群生が見られたが、改修工事等で池の環境が変化したため、現在はほとんど植生していない。
蓮池の中央に善女龍王が祀られた社がある。この社は明和8年(1771年)春の旱魃時に、瑞相院の慈光僧正が善女龍王を勧請して雨乞いの法を修したことに由来している。
善女龍王とは、龍神の一種であり、天候や農耕など水に関する信仰に絶大な御利益をもたらすものとされている。
また、弘法大師が天長元年(824年)に京都の神泉苑で雨乞い祈願をした時に、インドの無熱池(むねっち)という池から善女龍王を勧請したことでも知られる。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、徒歩1分。霊宝館前に無料駐車場がある。



勧学院

勧学院は、和歌山県高野山にある。
本尊は、金剛界大日如来である。
弘安4年(1278)に、源頼朝の勧学の志を受け継いだ北条時宗(1251-1284)が、高野山内衆徒の学道修練の道場として、金剛三昧院境内に建立した。
紀伊国名所図会には、安達泰盛(1231-1285)に造営させたと記されている。
高野山名所図会によると、鎌倉學園寺住僧 道戒上人の勧発に依って、文保2年(1318)後宇多法皇の院宣を賜って、現在の地に移された。
修理料として、肥後国岳牟田荘を賜り、勅願所としたという。
現在でも、高野山内に席をおく僧の学道修行の勧学会が行われる。
南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車すぐ。霊宝館前に駐車場がある。





高野山霊宝館

高野山霊宝館は、和歌山県高野町にある文化遺産の保存展示施設である。
高野山は、816年に弘法大師空海により開かれ、高野山内117の寺院に伝わる寺宝は、膨大なものである。
これらの各寺院に伝わる仏教古美術の貴重な品々を保存、展示するため、大正10年(1921)に霊宝館が開館した。
設計は日光東照宮の修復や明治神宮造営に携わった大江新太郎が担当した。
1961年には大宝蔵(収蔵庫)が増設され、1984年に新館、2003年に平成大宝蔵が建てられた。
霊宝館には、国宝21件、重要文化財148件などの指定文化財約28,000点のほか、50,000点にのぼる絵画、彫刻、工芸品などが収蔵されており、「山の正倉院」とも呼ばれる。
開館当初に建てられた本館は、日本現存最古の木造博物館建築で、1998年に登録有形文化財になっている。
展示品は、順次替えられるが、飛行三鈷杵、弘法大師坐像、孔雀明王像、阿弥陀聖衆来迎図、聾瞽指帰などが展示されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車すぐ。来館者用の無料駐車場がある。

増福院

増福院は、和歌山県高野山の霊宝館北側にある真言宗の別格本山である。
本尊は、愛染明王である。
寺伝によると、多田満仲の孫仲光の三男源賢和尚の開基で、寺名は一門の「福祐増進を祈るべし」という請願が由来と言われる。
当院は、華王院(けおういん)、常住光院、上就院を併合してきており、明泉院の名跡を持っている。
華王院(花王院)を開いたのが鎌倉時代初期の僧 覚海(1142-1223)で、門前に「覚海大徳翔天之舊跡」の石碑がある。
無住(1226-1332)が記した沙石集には、高野山第37代検校の覚海が7回の生まれ変わり(七生)を弘法大師に教えてもらったとの伝説が紹介されている。
その七生とは、1ハマグリ、2犬、3牛、4馬、5熊野の柴灯係、6高野山奥之院の承仕、7高野山検校(覚海)である。。
そして覚海は亡くなるときに、次は天狗になって秘密の法を守ると告げられたという。
覚海は亡くなると、高野山中門の扉を翼にして、増福院山門の前にある杉の木から昇天して天狗となり、高野山を守っているといわれている。(「昇天の杉」) →覚海廟
谷崎潤一郎は、昭和6年(1931)高野山滞在中に増福院を訪れ、鷲峰住職から覚海大徳の話を聞くとともに、古文書を筆写した。
同年、谷崎は、南紀芸術二号に「覚海上人天狗になる事」を掲載している。
南海高野線高野山駅からバスで、霊宝館前下車すぐ。



阿波野青畝句碑

阿波野青畝(あわのせいほ)句碑は、和歌山県高野山の増福院山門前にある。
石碑には、次のように刻されている。
 (前面)牡丹百二百三百門一つ 青畝
 (裏面)昭和五十八年十一月廿日 総本山金剛峯寺 
                かつらぎ主宰 阿波野青畝

昭和25年(1950)5月に南海電鉄の企画で、島根県大根島の牡丹千株が高野山に植樹され、第1回牡丹句会が催された。
石碑の句は、翌年6月に高浜虚子を迎えて開催された第2回牡丹句会席上の作品で、句集「紅葉の賀」に収められている。
「百」「二百」「三百」「一つ」という数字の畳み掛けが、絶妙のリズムを生んでいる。
季語は「牡丹」(夏)である。歩くにつれて牡丹の数が増えていき、振り返ると入って来た門が一つという、写生俳句の達人、青畝の名句である。

阿波野青畝(1899-1992)は、大正、昭和、平成時代の俳人である。
明治32年2月10日奈良県高取町に生まれた。本名は橋本敏雄で、後に阿波野家を継いだ。→ 俳人 阿波野青畝生家
畝傍中学在学中から原田浜人(ひんじん)に俳句を学んだ。
その後、高浜虚子に師事して、昭和初頭、水原秋桜子、山口誓子、高野素十とともに、ホトトギスの四Sと称された。
昭和4年(1929)俳誌「かつらぎ」を創刊して、関西俳壇の重鎮として活躍した。
昭和48年(1973)第7回飯田蛇笏賞、平成4年(1992)日本詩歌文学賞を受賞している。
句集として、万両(1931),、国原(1942)、春の鳶(1952)、紅葉の賀(1962)、甲子園(1972)、不勝簪(ふしょうしん)(1980)などがある。→ 高野山内の句碑
大阪市中央区にある大阪カテドラル聖マリア大聖堂に、阿波野青畝句碑がある。
平成4年(1992)12月22日に93歳で亡くなった。


鷹羽狩行句碑

鷹羽狩行句碑は、和歌山県高野山釈迦文院にある。
石碑には、次のように刻されている。
人界へ流れて高野山の星 狩行

鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)(1930-)は、昭和時代後期から平成時代の俳人である。本名は高橋行雄。
山形県出身で、山口誓子に師事した。
「天狼」「氷海」同人を経て、昭和53年(1978)に「狩」を創刊し、主宰した。
平成14年(2002)俳人協会会長となり、平成27年に長年にわたる俳人としての業績で芸術院賞を受賞した。

南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車、徒歩5分。



高野山大師教会

高野山大師教会は、和歌山県高野町にある。
大師教会大講堂は、大正14年(1925年)高野山開創1100年記念事業で建設されたもので、本尊は弘法大師、脇仏は愛染明王、不動明王が祀られている。
各種法会、儀式をはじめ、全国詠歌大会などが行われる。
仏教的な教えを授かる授戒の儀式は、大講堂の奥にある授戒堂で行われ、阿闍梨が参加者に「菩薩十善戒」を説く。
教化研修道場は、昭和57年(1982年)に竣工したもので、弘法大師信仰の教化と研修の中心施設となっている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。→ 趙樸初作漢俳碑 志太野坡句碑


宗祖降誕会 青葉まつり

宗祖降誕会は、弘法大師の誕生日を祝う金剛峯寺の恒例法会で、6月15日午前9時から大師教会大講堂で行われる。
青葉まつりは、高野町民により組織された高野山奉賛会が主催するもので、各種行事が開催される。
令和2年(2020)以降、青葉まつりの花御堂渡御は、6月第2日曜日に開催されることとなった。
前夜祭では、奉燈行列が行われる。
青葉まつり当日の正午から花御堂渡御が奥の院一の橋を出発し、小学校鼓笛隊や御詠歌隊などが「大師音頭」「いろは音頭」「稚児大師音頭」を踊る人々とともに、金剛峯寺までの約1.5㎞を練り歩く。
花御堂には、弘法大師の幼少時の姿といわれる稚児大師像が奉安され、その前後を「門民苦使(勅使)」「四天王」が守護している。
これは、奈良時代に国民の生活苦を聞いて回る問民苦使が、讃岐に派遣された際に、
他の子供たちと戯れている幼少の大師を敬って四天王が天蓋を奉持している様子を見て、馬から降りて礼拝したという弘法大師行状絵詞巻一の故事「四天侍衛」をもとにしている。
高野山内では、いけばな展、書道展などの奉賛展や奉賛スポーツ行事も行われる。



大般若転読会

大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)は、毎年12月10日午前9時から高野山大師教会大講堂で行われる。
大般若経は、「大般若波羅蜜多(はらみった)経」の略称で、全600巻(20万頌640万字)あり、中国唐の玄奘三蔵が訳した。
玄奘三蔵は、順慶5年(660年)の正月1日から大般若経の翻訳に取り組み、竜朔3年(663年)10月末に3年近くをかけて翻訳を完成させた。
ひろさちや著「仏教の歴史」(6)には、翻訳の苦労を物語る次のエピソードが紹介されている。
インドの原典には、繰り返しの表現が多いため、中国人の好みに合うように内容中心の簡潔な翻訳にしようと考えた。
ところが、そのように訳し始めると玄奘は恐ろしい夢を見たという。
それで、玄奘は原文を一字一句も省略せずに翻訳する形に変えた。
すると吉夢を見るようになり、仏や菩薩が眉間から光を放つ夢を見ながら、翻訳を完成させたという。
大般若経は、初期の大乗仏教経典の一つで、この経には、「大品般若経」「小品般若経」「文殊般若経」「金剛般若経」などが含まれる。
何ものにもとらわれない「空観」(くうがん)の立場に立ち、その境地に至るための菩薩の六波羅蜜の実践、とくに「般若六波羅蜜」の体得が強調される。
大般若経には、般若経の読誦(どくじゅ)、書写、思索などによる諸功徳が説かれていることから、除災招福、鎮護国家などに有益とされた。
大宝3年(703)文武天皇のとき、大般若経の転読(経題や経の初中終の数行の略読を繰り返すこと)が行われたことが、「続日本紀」に記されている。
それ以降、宗派の別なくこの転読が行われている。。
高野山大師教会では、山内住職と金剛峯寺の僧侶が出仕し、経本を左手に持ち上げて、大きく広げる様は大変迫力がある。



大円院

大円院は、和歌山県高野町高野山にある。
大円院は、光仁天皇の時代、延喜3年(903年)聖宝大師理源(しょうほうたいしりげん)が開いたもので、かつては多門院と呼ばれていた。
理源は、空海の高弟で実の弟であった真雅(しんが)の弟子となり真言密教の門に入り、後に京都醍醐寺を開いた人物として知られている。
そして鎌倉時代に、豊前豊後の守護職を務めた大友能直(よしなお)が帰依して、師檀契約を結んだ。
その後、1600年頃、戦国武将立花宗茂(むねしげ)(福岡柳川藩主)が高野山に登り、住職であった宣雄(せんゆう)阿闍梨に帰依し、宝塔を建立した縁で、宗茂の院号(大圓院殿松隠宗茂大居士)から、「大圓院(大円院)」と寺号を改めた。
寺内には、横笛ゆかりの瀧口入道旧蹟がある。



瀧口入道旧蹟 鶯の井戸

瀧口入道旧蹟 鶯の井戸は、和歌山県高野山大圓院にある。
平家の嫡男平重盛に仕えていた斎藤時頼という武者が、花見の宴席で建礼門院の雑仕女 横笛と恋に落ちる。
しかし、身分の違いから結ばれることはなかった。
時頼は、未練を断ち切るために出家し、瀧口入道を名乗り、女人禁制の高野山に移り住んで大圓院で修行を重ねた。
一方、横笛も出家し、奈良の法華寺で尼僧となっていたが、病となり高野山の麓の天野の里で亡くなった。
そのとき、横笛は鴬となって瀧口入道の居る大圓院に向かった。
瀧口入道が、梅の木に止まる鴬に気づいたところ、鴬は突然舞い上がり井戸に落ちたという。(「平家物語」巻第十)
大圓院の境内には、その井戸が残され、本尊の阿弥陀如来の胎内には、鴬の亡骸が納められているといわれる。
また高山樗牛は、明治27年に発表した小説「滝口入道」で、瀧口入道が高野山で平重盛の子維盛と再会する場面を描いている。
一方、五来重は、「増補 高野聖」で、宗教民俗学の立場から次のように記している。
  ただわれわれは高山樗牛のように、そのセンチメンタリズムに幻惑されて聖の現実の姿を見失ってはならない。
  滝口の侍 斎藤時頼も建礼門院の雑司女横笛も、もちろん実在ではない。
  しかし「平家物語」が本筋からそれて、こんなフィクションをエピソードしていれるのは、
  この文学の成立にあずかった高野聖のすがたを発心物語として出したかったからであろう。

南海高野線高野山駅からバスで小田原通下車すぐ。


 不動院

不動院は、和歌山県高野山にある真言宗準別格本山である。
本尊は、弘法大師が自ら彫ったと伝えられる不動明王(秘仏)である。
不動院は延喜7年(906)済高が西谷に開創した十二坊の一つで、山階宮家の菩提寺として知られ、「山階別院」の称号を得ている。
紀伊続風土記には、嵯峨天皇の皇子が大師堂以下十二坊を建てて、菩提心院と号したのに始まり、東寺長者済高が居住して月上(がつじょう)院と称したと記されている。
境内には、永暦元年(1160)に亡くなった美福門院の陵墓がある。
現在食事処として使われている庫裏は安土桃山時代の創建で、和歌山県の指定文化財となっている。
南海高野線高野山駅からバスで蓮花谷下車、徒歩5分。



美福門院陵

美福門院陵は、和歌山県高野山の蓮花谷不動院内にある。
鳥羽天皇皇后得子高野山陵(こうやさんのみささぎ)として、宮内庁が管理している。
美福門院(1117-1160)は、鳥羽上皇の皇后である。
藤原長実(ながざね)の娘で名は得子(とくし)といった。
鳥羽天皇は、皇后待賢門院との仲が不和で、高陽(かや)院を皇后とした。
しかし、期待された男子が生まれず、藤原得子を入内させ皇子(近衛天皇)が生まれた。
永治元年(1141)には、近衛天皇の即位式で皇后となり、久安5年(1149)には美福門院の号を宣賜された。
保元元年(1156)鳥羽上皇の臨終に際して、安楽寿院で落飾し、法名を真性空と称した。
永暦元年(1160)44歳で亡くなり、鳥羽東殿で火葬された。
「山槐記」には、「美福門院御骨奉渡高野御山、依御遺言也」と記されており、皇后の遺令で高野山に埋納された。
南海高野線高野山駅からバスで蓮花谷下車、徒歩10分。→ 美福門院供養墓地(御墓)


苅萱堂

苅萱堂は、和歌山県高野町にあるお堂である。
本尊は親子地蔵尊で、堂の裏手の密厳院が管理している
苅萱堂が有名なのは、中世半ば、高野聖の一派で心地覚心(法燈大師)を祖とする萱堂聖の本拠地となったためで、彼らは唱導文芸をもって全国を遊芸した。
高野聖によって全国津々浦々で語られたのが、「石童丸物語」である。
筑前博多の守護加藤兵衛尉繁昌(苅萱道心)と、石童丸が父子を名乗らないまま対面し、仏道修行した物語を絵にした額が堂内にかけられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「刈萱堂前」下車すぐ。→苅萱道心、石童丸、石堂丸ゆかりの地


恵光院

恵光院は、和歌山県高野山蓮華谷にある真言宗の寺院である。
本尊は阿弥陀如来である。
当院は、弘法大師がこの地に五丈の宝塔を建て、大経王を講習されたのに始まるといわれている。
開基は弘法大師の十大弟子の一人、道昌僧都と伝えられている。
中興は、保延5年(1139年)検校職についた聖仁阿闍梨である。
第二の中興は延慶年間(1308年)東寺から恵燈をささげて当地の法幢院谷を復興した東寺の量調阿闍梨である。
戦国時代には、島津氏との檀那関係があり、永禄6年(1563年)に島津義虎候の逆修碑を当院に納め、ついで義弘候は長兄義久候の供養碑を奥之院に建てると同時に、奥之院に高麗陣敵味方供養碑を琉球石で造った。
奥之院入口の一の橋の近くに位置しており、毎晩「高野山奥之院ナイトツアー」(19:15-20:30)が実施されている。
南海高野線高野山駅からバスで、苅萱堂前下車。



毘沙門堂

毘沙門堂は、和歌山県高野山恵光院にある。
堂内には、中央に毘沙門天、向かって左に愛染明王、右に不動明王が祀られている。
この不動明王は、弘法大師空海が唐に留学僧として渡った際に航海の安全を守ったことから、「舵取り不動」の名がつけられている。
毘沙門天は、仏教の護法神で、サンスクリット語バイシュラバナの音写から転じて、毘沙門天となった。多聞天、遍聞天とも称される。
インドのベーダ時代からの神で、元は暗黒界の悪霊の主であったが、ヒンドゥー教では、財宝、福徳をつかさどる神となった。
仏教では、四天王の一尊で、後世には武将姿のまま七福神の一つに数えられ、福徳を授ける神として信仰されている。
この毘沙門天は、高野山七福神(熊谷寺ー恵比寿、熊谷寺寺宝院ー布袋尊、恵光院ー毘沙門天、宝善院ー寿老人、宝善院奥の院ー福禄寿、本覚院ー弁財天、本覚院西生院ー大黒天)の一つとされている。




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