国城山桜ウォーク


橋本駅

明治31年(1898) 紀和鉄道の終着駅として開業。
明治37年(1904) 紀和鉄道の路線が関西鉄道に譲渡される。
明治40年(1907) 紀和鉄道が国有化され、帝国鉄道庁の駅となる。
大正4年(1915)  高野登山鉄道(後に大阪高野鉄道)が開業。
大正11年(1922) 大阪高野鉄道が南海鉄道と合併し、国鉄と南海鉄道の駅となる。


橋本駅前万葉歌碑

橋本駅前万葉歌碑は、和歌山県橋本市にある。
万葉時代の宮廷人たちは、紀伊国に深い憧れを持っていたといわれる。
大和には海がないため、黒潮踊る紀伊国の風景には殊の外感動することが多かった。
万葉集の中には橋本に関する和歌が10首収められており、橋本市内各地に万葉歌碑が建立されている。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅前には、次の歌碑がある。

白栲(しろたへ)に にほふ信土(まつち)の 山川に
 わが馬なづむ 家恋ふらしも  作者不詳 巻7-1192
(意味)信土山の川で 私の乗る馬が行き悩んでいる(難渋している)。家人が私を思っているらしい。

右側の歌碑説明文には、次のように記されている。
第8回橋本万葉まつり と併せて
JR和歌山線全線の開通百周年を記念し
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者
文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」より
その遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ
 2000年11月 第8回橋本万葉まつり実行委員会

紀ノ川の万葉の文章は次のとおりである。
こんにちは草ぼうぼうになった古い小道をくだると、
土地の古老らが神代の渡り場と称している落合川(真土川)の渡り場に出る。
ふだんは水の少ない涸川(かれがわ)だから、
大きな石の上をまたいで渡るようになっている。
ここがおそらく古代の渡り場であったろう。




橋本広域観光案内所  前畑秀子 古川勝資料展示コーナー

橋本広域観光案内所、前畑秀子、古川勝資料展示コーナーは、和歌山県橋本市にある。
観光案内所内には、和歌山県伊都郡の観光情報や物産展示がある。
また、令和3年(2021)1月からは、橋本市出身で日本人女性初の五輪金メダリスト前畑秀子や古川勝の功績を伝える資料展示コーナーが設置された。
これは、「前畑秀子・古川勝資料展示館」が閉館となったため、場所を移して展示されているものである。
南海高野線及びJR和歌山線橋本駅下車徒歩1分。橋本駅前の有料駐車場を利用できる。



小林家住宅

小林家住宅は、和歌山県橋本市古佐田にある。
橋本駅西側踏切から南下する道と駅前から西進する上本町通りが交差するT字路に東に面して建てられている。
平成16年に国の登録有形文化財に指定された。
屋敷地周囲は、低い土塀が設置されている。
屋敷両端には主屋と向かい合って、三つの土蔵が建っている。
主屋は入母屋造桟瓦葺の2階建てで江戸時代末期(嘉永3年頃)の建築である。
玄関から通り土間を経て、背後の炊事場へと続いている。
通り土間北側床上部は田の字形に4室が設けられている。
1階正面に繊細な格子を、2階には虫籠窓を入れ、軒裏は塗り込められ、正面裾には犬矢来が設置されている。
土蔵は、三棟が一体となった切妻造りで明治時代中期の建物である。


応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
天正15年(1587)に応其上人は古佐田村の荒れ地を開き、ここに草庵を作った。
この草庵が現在の応其寺で、旧名を惣福寺といった。中興山普門院応其寺と呼ばれる。

本尊は十一面観音立像である。
橋本市史下巻(昭和50年)文化財編などの資料に、本尊が救世観世音菩薩であると記されている。
和歌山県立博物館「特別展没後四〇〇年 木食応其」(2008年)によると、長谷寺から、稽主勲(けいしゅくん)作の救世観世音菩薩像を応其寺に寄進したとの文書が残されているが、
火災など何らかの要因で救世観世音菩薩像が消失し、17~8世紀に現在の本尊 十一面観音立像が制作されたのではないかと考えられている。→ 葛井寺(稽分会 稽主勲作十一面千手観音像)

応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗性は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を断ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が、根来寺攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。

境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木造応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
なお、山門には慶応4年(1868)1月に十津川郷士が発砲したとされる弾痕が残されている。
これは、旧幕府方に接近する紀州藩を牽制するために、慶応3年(1867)12月に派遣された鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)の軍隊(高野山領の郷士、土佐陸援隊、十津川郷士らで構成)が、
鳥羽伏見の戦いの敗残兵が紀州へ逃れたとの報に接し、橋本方面へ出張って応其寺門前で威嚇のため発砲した時のものだとされている。(出典:和歌山県の歴史散歩)

橋本駅北側にある古佐田・橋本墓地には、木食應其上人供養塔がある。
高野山奥の院には、興山応其上人廟興山上人一石五輪塔がある。また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。山門南に参拝者用の駐車場がある。→ 応其上人ゆかりの地


橋本戎神社

橋本戎神社は和歌山県橋本市川原町にある。
えびすは、生業を守護し福利をもたらす神として、日本の民間信仰の中で広く受け入れられている。
語源は定かでないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃い。
現在一般にえびすの神体として考えられている烏帽子をかぶり鯛と釣り竿を担いだ神像からうかがえるように、
元来は漁民の間でより広範に信仰されていたものが、海産物の売買により市の神、商売繁盛の神として、次第に商人や農民にも受け入れられた。
七福神の一つとして、大黒天と並び祀られることが多い。

橋本戎神社は、古くは「市戎(いちえびす)」と呼んでいたもので、元々市脇で行われていた塩市を橋本町へ移し塩市発展の神として祀ってきたものである。

紀伊続風土記の橋本町の項に、次のように記されている。
〇市衣比須社
町内にあり 昔此地に一六三八の日市ありしとそ 今猶塩市あり 故に土人市夷といふ

現在は、「川原のえべっさん」と呼び、周辺の商店で順番を決めて祀っている。
1月9日の宵戎には、福笹を求めて多くの人がお参りする。


旧橋本町道路元標

旧橋本町道路元標は和歌山県橋本市にある。
道路元標は、道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物である。
旧道路法により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるとしていた。
大正11年(1922)の内務省令は、その材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、
正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していた。
現行の道路法では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などの定めはない。
和歌山県では、県下各市町村に設置され、全部で200基余り作られたが、現在では17基を残すのみである。
橋本町道路元標は、かつて紀陽銀行橋本支店前の交差点西側に設置されていたが、国道24号線の拡幅整備により撤去されていた。
平成元年、この道路元標が交差点北西に放置されているのが発見され、本来の設置場所に近い、紀陽銀行橋本支店前に再び設置された。
平成9年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。



令和2年12月閉館 建物撤去済 前畑秀子・古川勝資料展示館 

前畑秀子・古川勝資料展示館は、和歌山県橋本市にあった。現在は建物は撤去され、駐車場となっている。

前畑秀子(1914-1995)は、日本人女性初のオリンピック金メダリストで、昭和11年(1936年)ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで優勝した。
NHKラジオ実況中継で、「前畑がんばれ!」と23回連呼した河西三省アナウンサーの実況音声が良く知られている。
前畑秀子は、大正3年(1914年)に橋本市紀ノ川近くの豆腐屋を営む父、前畑福太郎と母、前畑ミツヱの長女として生まれた。
当時は、橋本橋の上流付近の紀ノ川で水泳の練習をしていた。
大正15年(1926年)には、12歳で50m自由形、100m平泳ぎの日本学童新記録を出し、13歳で100m平泳ぎの日本新記録を樹立するなど早くから注目されていた。
昭和4年(1929年)に愛知県の椙山女学園に編入し、昭和7年(1932年)には、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
現役引退後も、積極的に水泳に関わり、後進の指導に努め、53歳の時に日本初の「ママさん水泳教室」を開校した。

古川勝(1936-1993)は、水泳競技戦後初のオリンピック金メダリストである。
昭和11年橋本町で生まれ、橋本高校を経て日本大学に進学した。
昭和31年メルボルンオリンピックに出場し、200m平泳ぎでオリンピック新記録で優勝した。

前畑秀子・古川勝資料展示館は、橋本市まちの歴史資料保存会付属の橋本まちかど博物館の展示として一般公開されていた。
資料館では、日本ポリドールの湯地富雄が録音した「前畑がんばれ」の実況音声を聴くことが出来る。
また、オリンピック優勝の瞬間の写真(白黒写真からカラー写真に補正)なども展示されている。
当初は、前畑秀子資料展示館として開館したが、令和元年(2019)に名称を、橋本市「前畑秀子・古川勝資料展示館」に変更した。
令和2年12月に当地の展示館は土地売却のため閉鎖され、令和3年1月から橋本駅前の橋本広域観光案内所内に場所を移して展示されている。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。




東家渡場大常夜燈籠

東家渡場大常夜燈籠は、和歌山県橋本市東家にある。
高野街道は京都、大阪、堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、
古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して、東家で紀ノ川を渡り学文路から高野山へ登っていく道が開かれ、
室町時代後期にはもっぱらこの道が使われた。
橋本の地名の由来となった橋は、天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが、
3年後に紀ノ川の増水によって流失し、舟による横渡(よこわたし)が行われるようになった。
その紀ノ川北岸渡し場に建てられたのが、この大常夜燈籠である。
この石燈籠が建てられたのは文化11年(1814)で、永く「無銭横渡」の渡し場を伝えてきたが、
その後、河川改修のため現在地に移築された。
元は同型の燈籠2基が相対して建てられていたが、うち1基は紀ノ川の洪水により流失した。
台座四面の銘文によると、阿波国藍商人の連中をはじめ、
京都、難波、堺の商人および和歌山の川舟仲間ほか多人数の講社、信者などの浄財によって建てられたもので、
当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀ノ川渡し場の賑わいを現在に伝えている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれており、対岸には三軒茶屋大常夜燈籠が残されている。
昭和56年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅下車、徒歩約10分。




高野街道四里石

(正)是ヨリ高野山女人堂江 四リ
(左)安政四丁年九月 河洲伏山前田村 辻本幸左エ門 一統中
(右)南無大師遍照金剛
(裏)発起人 茱萸木村 小左エ門 五兵エ


橋本橋

橋本橋は和歌山県橋本市の紀の川に架かる橋梁である。
北岸西側に「橋本橋竣工記念碑」(和歌山県知事 仮谷志良書)が建てられ、裏面に橋本橋の沿革と工事概要が記されている。
    橋本橋の沿革
日本最多雨地帯の大台ケ原を水源とする紀の川のこの地に、天正十三年(一五八五年)橋本開基の名僧
木食応其上人によって、はじめて長さ二三五メートル(一三〇間)の橋が架けられた。
以降、高野参詣者の往路として利用され、宿場や塩市が開けて、橋本市発祥の源となった。
 しかし、たび重なる水害により、この橋も流失し それから後は渡し船が往来して、人々に親しまれてきた。
昭和七年に本格的な鉄骨造りの橋が架設され、文化、産業、交通などの要路として重要な役割を果たしてきたが、
このたび紀の川堤防改修工事と並行して、近代的な橋の架け替え工事により、昭和五三年八月に完成した。
    工事概要
事業名称  国道三七一号線橋本橋橋梁整備事業
工事位置  橋本市一丁目橋本市向副地内
総事業費  九億一千万円
橋梁延長  二五六メートル
橋梁幅員  全幅員十一メートル 車道七メートル 歩道各二メートル
工事期間  着工 昭和四六年 月 竣工 昭和五三年八月
事業主体  和歌山県
工事担当  橋本土木事務所




三軒茶屋大常夜燈籠 

三軒茶屋大常夜燈籠は、和歌山県橋本市の旧高野街道にある史跡で、市の文化財に指定されている。
高野街道は、京都・大阪・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内川(橋本川)河口付近から紀の川を渡ってこの地に至り、学文路から高野山へ登っていく道が開かれた。
この道は、町石道に比べて距離も短くなったことから、室町時代後期には、高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587年)応其上人は、紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(236m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟による有料の横渡(よこわたし)が行われるようになった。
しかし、増水時の割増運賃や営業時間を巡ってのトラブルもあり、元禄10年(1697年)から、高野山と紀州藩、関係村々が費用を出して「無銭横渡」となった。無銭横渡は常夜の営業で両岸の燈籠に灯がともされ、旅人の目印であった。
元は石燈籠二基が相対して建てられていたが、近年の道路拡幅工事で東側の一基が北へ約5m移動された。
この石灯籠には、宝暦2年(1752年)「高野山興山寺(現在の金剛峯寺の前身)領」の銘が刻まれている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれている。
現在紀ノ川北岸には、東家渡場大常夜燈籠が残されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩8分。



定福寺

紫雲山定福寺は、和歌山県橋本市賢堂にある高野山真言宗の寺院である。
当寺は高野山参詣道の黒河道のスタート地点に位置しており、黒河道は平成27年(2015年)10月に国の史跡に指定され、平成28年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された。
本尊木造阿弥陀如来坐像は像高88cmで、両手を腹前で組んで上品上生(弥陀定)印を結んでいる。
檜材の一木造りのこの像は、腹部の丸みに合わせて刳り込んだ一材の両膝を矧(は)ぎ寄せる手法で作られ、平安時代中期(10~11世紀)の作品である。
均整のとれた頭体で、和歌山県の有形文化財に指定されている。
境内下にある九重塔(橋本市指定文化財、砂岩、総高244cm)は、相輪部九輪の六段目以上と塔身部第八層目が欠損しているが、基礎部の銘から弘安8年(1285年)に建立された石造層塔である。
「伊都郡学文路村誌」には、
「何の為に建立されたものかに就いては異説紛々、或は朝鮮より渡来せりといひ、容易に判定し難いが、塔の下には、石棺を埋めてあると言はれ、
『一村大飢饉の際に非ざれば発掘すべからず』との伝えがあるとて、人々畏怖して手を触れず」
と記されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩9分、JR和歌山線及び南海高野線橋本駅から徒歩25分。



賢堂大師堂

橋本市賢堂に位置し、高野玉川新四国霊場 第二番護摩壇「御堂」と書かれている。



五軒畑岩掛観音

五軒畑岩掛観音は和歌山県橋本市の黒河道にある。
学文路西国三十三か所巡りは、橋本市内の清水、西畑、向副、賢堂、南馬場で巡拝するもので、文政13年(1830)に始まる。
五軒畑岩掛観音は、西国巡礼札所14番大津三井寺にあてられており、如意輪観音が祀られている。
橋本市街と和泉山脈を一望に望める。
南海高野線橋本駅下車、徒歩約1時間。



黒河道 

黒河道(くろこみち)は、和歌山県伊都郡にある高野参詣道の一つである。
橋本市賢堂(かしこどう)から高野山千手院谷にある高野七口の一つ黒河口まで通じている。
紀伊續風土記の黒河村の項目には、「黒河は暗谷の義にして狭き谷のことなるへし」と書かれている。
橋本から高野山への近道とされ、また大和からの参詣客がしばしば利用することから、大和口とも呼ばれた。
道が険しいことから、多くの参詣客は黒河道の西方を並行する京大坂道を利用した。
紀伊續風土記によると、文禄3年(1594年)の豊臣秀吉の高野参詣の帰途に、秀吉が千手院谷から久保村・市平村を経て、わらん谷から明星が彎(明神ケ田和)を越え、紀の川を渡って橋本町へ出たとの経路が記されている。
当時の天下人が利用した道で、主要な高野参詣道の一つであったと考えられている。
また周辺の村々の産物を高野山に納める「雑事(ぞうじ)のぼり」にも利用されたと推定されている。
秀吉の利用したルートが復原され、平成27年10月に国の史跡に指定された。
平成28年10月には「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界遺産に登録されている。
南海高野線橋本駅又は高野山駅下車。




鉢伏の井戸 

鉢伏の井戸は、和歌山県橋本市賢堂の高野参詣道「黒河道」沿いにある。
紀伊續風土記の「東畑村」の説明では、「鉢覆(ハチブセ)山 村の艮(北東)にあり 山の尾筋に峰を起して その状 鉢を覆(フセ)たるに似たり 因りて名とす (中略) 大師の加持水あり」と書かれている。
一説では、「かつてこの辺りに多くの蜂が群棲して、人々を悩ませていたが、偶々弘法大師が巡錫の途中にこの地を通過し、群がる蜂に対して、大喝叱咤したところ、不思議にも蜂は即座に伏せられて刺力を失った。そのため蜂伏山という。」と言われている。
井戸は、昭和36年(1961年)の第二室戸台風で被害を受け、永らく枯れ井戸となっていたが、平成26年(2014年)に浚って土砂を取り除き、僅かながら湧水が復活したという。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩約40分。



明神ケ田和 

明神ケ田和は、和歌山県橋本市国城山の東の峠で、高野参詣道「黒河道」にある。
一般に明星ケ田和と呼ばれ、紀伊續風土記には「明神ケ彎」と記されている。
彎とは、弓に矢をつがえて弦を引くこと、弓のような形の曲線を描いてまがることを意味する。
数戸の人家があり、山麓から賢堂を経て、五軒畑を過ぎて登ってくると、道は明神ケ田和で分岐し、右に行けば紀伊清水駅、中央の道は国城山、左の道は黒河道でわらん谷(藁谷)から市平橋、一番左は青渕へと続く。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩約80分。




国城山

国城山は、和歌山県橋本市にある。
頂上周辺は木々があるため眺望は良くないが、徒歩10分下がった所にある国城神社展望台からは、橋本市内を一望できる。
南海高野線紀伊清水駅下車徒歩90分。国城神社階段下駐車場から徒歩10分。





国城神社(国城五社大明神)

国城神社(国城五社大明神)は、和歌山県橋本市国城山(標高552m)にある神社である。
社伝によると、大和時代(千数百年前)にこの地域の開発者(国主)の神が、国城山頂の大樹に姿を変えて現れたため、神の鎮まる浄域として社を創建した。
伝説によると、坂上田村麻呂将軍が勅命によって奥州に出征したが、
戦況思うに任せず苦慮していた夜に、「国城神社の山林に自生する竹を用いて矢竹とすれば大勝利を得る」と夢のお告げを受け、
当社に参拝して20日間籠った後、矢竹を武器に戦い大勝利を得たという。
その神託に感謝して御神楽が奉納され、今日まで連綿として奉納が続けられている。
毎年4月23日と11月23日には、例祭が行われる。また春の桜が美しく、桜ウォークも開催される。
国主の神を祭祀する意味から「国城神社」と呼ばれ、清水、西畑、南馬場の産土神として崇敬されている。
祭神は、天照皇大神、八幡大菩薩、春日大明神、愛宕大明神、荒神で、「国城五社大明神」と呼ばれるようになった。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩約2時間、鳥居前には駐車用のスペースがある。




 世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし 在原業平
  この世に桜というものが無かったならば、花が散るのを惜しんだりすることもなく)春は落ち着いていられるだろうに

 願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 西行法師
  願うことなら、春の桜の下で死のう。陰暦二月の満月の頃が良い。

 敷島の大和心を人とはゞ 朝日ににほふ山桜花 本居宣長

 明日ありと 思ふこころのあだ櫻 夜半に嵐のふかぬものかは 親鸞聖人

 ひさかたの 光のどけき春の日に しづこころなく 花の散るらむ 紀友則
  百人一首 第33番
  日の光がのどかにさしている春の日に、落ち着いた心がないので桜の花が散っているのであろう。

 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 伊勢大輔(いせのたいふ)
  百人一首 第61番
  昔の奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、ひときわ美しく咲きほこっていることですよ。

 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 前僧正行尊
  百人一首 第66番
  私がお前をしみじみと思うように お前もまた私のことをしみじみといとしいと思ってくれ、山桜よ。
  花であるお前以外に心を知る人もいないのだから。

 三つまたや どの道行かば 山桜 正岡子規

 初桜 折しもけふは 能日(よきひ)なり 松尾芭蕉

 山笑う(春) 山滴る(夏) 山粧う(秋) 山眠る(冬)

 山笑う 季語と知らずに 師も笑う


三平稲荷神社

三平稲荷神社(三平稲荷大明神)は、和歌山県橋本市の国城神社北西にある。
かつては、「火振り道(ひぶりみち)」と呼ばれる道の途中にあったが、平成9年(1997)に現在地に移転した。
社の中には、五柱が祀られている。中央三社の稲荷明神と、両端に満平稲荷明神、助六稲荷明神がある。
西側には、金刀比羅神社がある。明治時代に西側の山から移設されたものである。
関西電力の供給エリアになり、ランプから電灯に変わる時に、各戸に電灯を設置する費用を捻出するため地区共有財産を売却した。
その山に鎮座していた金刀比羅神社を当地に移したものである。
4月上旬には枝垂桜が満開となる。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩約2時間。



寳藏寺

寳藏寺は、和歌山県橋本市西畑にある寺院である。
高野山金剛峰寺の末寺として室町時代応永年間(1394-1427)の創建といわれる。
本尊は、聖観世音菩薩座像で、薬師如来木像、弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像が祀られている。
伊都郡学文路村史によると、聖観世音菩薩を納める厨子には、文久二年(1862)戌年春二月初午の日建立之、藤屋佐兵衛、と書かれている。
平成23年2月に、本堂内の聖観世音菩薩座像、薬師如来木像、弘法大師像、不動明王像の4体が盗難にあっているのが判明したため、警察に盗難届を提出した。
同年3月13日の初午の際に、本尊が居ないため檀徒が相談し、仮本尊を安置して行事を行うこととした。
高野口町の渋川義尊仏師に板に聖観世音菩薩を描いてもらい、本堂に安置して、初午の日に下田住職が仮本尊の開眼法要を執り行った。
その一か月後に窃盗犯が逮捕され、聖観世音菩薩座像と不動明王像の2体が発見され、本堂に戻された。
それ以降、板に描かれた聖観世音菩薩は、「戻してくれる、返してくれる」などの力があると話題になり、「失せ物」「復縁」などの参拝者が訪れている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩40分。




平谷池応其上人供養碑

平谷池(へえたにいけ)応其上人供養碑は、和歌山県橋本市南馬場にある。
平谷池は、周囲約750m、池堤約100mの池で、伊都郡内の河南では一番大きい池である。
自然石で造られた供養碑には、次のように刻されている。
 「天正十八年(1590)庚寅 當池修營本願木食興山上人應其
  正月十四日 馬場 清水村中」
平谷池の改修工事を終えて、南馬場と清水の村人たちが、応其上人の功績を讃え、後世に残すために建立したといわれており、橋本市の指定文化財となっている。
応其上人は、当池のほかにも、岩倉池、引の池、畑谷池、上村池なども手掛けている。
そのうち、岩倉池や引の池には、上人の功績を記念して五輪塔が建立されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩20分。




学文路天満宮

学文路天満宮は、和歌山県橋本市にある神社である。
社名は天満神社で、現在は学文路地区全域の氏神となっている。
祭神は、菅原道真公で本殿中央に祀り、左側に天穂日命(あめのほのひのみこと)、御父君 菅原是善卿(すがわらこれよしきょう)、御母君 園文字姫(そのもしひめ)の3柱、右側に旧学文路村内の55柱を祀っている。
創建について、「天満神社御縁起」では、「天満神社は、人皇第75代崇徳天皇の天治元年(1124年)9月25日、紀伊国伊都郡当時相賀の荘の今の地に御勧請、<中略>当神社は京都北野神社御建立の際、時の帝第62代村上天皇の天暦元年(947年)、日本国中一郡に大社小社に不限必ず一社の鎮座を被仰出たるに依る」とされている。
元弘3年(1333年)の後醍醐天皇の綸旨、いわゆる元弘の勅裁により、相賀荘は「相賀荘河北」「相賀荘河南」と、紀ノ川の河北と河南で領有が二分された。
相賀荘河北は、これまでどおり根来寺領、相賀南荘は、高野山寺領となった。相賀大神社を「河北惣社」と呼ぶのに対し、天満神社は、南荘の総鎮守となって、「河南天神」ともいわれて、崇敬された。
明治6年(1873年)に村社、明治40年(1907年)に神饌幣帛供進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定された。
伊都地方唯一の天満宮として、学業成就、受験合格の参拝者が多く訪れている。
祭礼は、1月25日(初天神)、8月25日、10月第4日曜日に行われており、初天神には学文路地区の小中学生の書初め展がある。
南海高野線学文路駅下車、徒歩20分。参拝者用駐車場がある。

          担ぎだんじり飾幕「川中島の合戦」


大畑才蔵勝善の墓

大畑才蔵勝善(おおはたさいぞうかつよし)(1642年-1720年)の墓は、和歌山県橋本市学文路にある史跡である。
利水の先覚者大畑才蔵勝善は、寛永19年(1642年)学文路で生まれた。
18歳で杖突(つえつき 庄屋の補佐役)、28歳で高野内聞役(こうやないぶんやく 高野山の情報を藩に伝える役)と、若年で要職に就き、各層から厚い信望を集めた。
元禄9年(1696年)55歳の時「和歌山会所詰御用」を命じられて藩に出仕し、以降大畑才蔵の優れた才能は紀州藩の事業を通して大きく開花した。
大畑才蔵が手がけた大水利事業は、元禄11年(1698年)からの伊勢一志郡の新井(しんゆ)施工完成、紀州では元禄13年藤崎井(ふじさきい)、宝永7年(1710年)小田井竣工の二大灌漑事業がある。
特に小田井は根来(岩出市)に至る大規模なもので、県下随一を誇る農業用水であった。その長さは9里8町(約36㎞)に及び、およそ1000町(約9.9㎢)の田に水を導いた。
これらの水路には、サイフォン方式や「かけひ」方式など天才的な設計技法が随所に用いられている。
その後、才蔵のたずさわった仕事は、名高浜(なだかはま)の塩田、亀池(海南市)、引の池、河瀬(こうぜ)新地(橋本市)など多数に及ぶ。
享保5年(1720年)9月24日に79歳で没し、戒名は「浄岸慈入居士」とつけられた。墓石は、紀ノ川側から3列目の左から4つ目である。
「才蔵日記」等の記録類も残されており、墓地とともに和歌山県指定文化財となっている。
墓地からは、紀ノ川を望むことが出来る。
南海高野線学文路駅下車、徒歩18分。かむろ大師の参拝者駐車場がある。




ヒロ画廊

ヒロ画廊(Hiro Art Gallery)は、和歌山県橋本市学文路にある。
2018年12月7日から12月23日まで銅版画の坪内好子展が開催された。
南海高野線学文路駅下車、徒歩5分。
京奈和自動車道橋本インターチェンジから車で10分。専用駐車場がある。



かむろ地蔵 お大師さんの腰かけ石 物狂石

かむろ地蔵は、和歌山県橋本市学文路にある。

地蔵前の由緒書に次のように記されている。
弘法大師が高野山を開いたとき、「かむろ」は桜の名所として名高く「香室(かむろ)」と書いていた。
この香室の里に、自らを物狂道士と称する高徳の士が隠棲していた。
この人が謡曲「高野物狂」の主人公高師(たかし)四郎で、その善行美徳は遠くまで感化を及ぼしていた。
殊に学問の道の教導に力を尽くしたため、この地方では字の読めない者が一人もいなかったということで、当時としては珍しいことであった。
こうしたことから「香室」を「学文路」と書くようになった。
弘法大師も深く道士をめでていたので、道士がこの地で大往生を遂げた時、菩提のために読経をした。
その時、弘法大師が腰かけた石がこの垣内正面に安置されている石で、その後これをお大師さんの腰かけ石と呼んで祀るようになった。
後に地蔵三基が次々に寄進され、現在のかむろ地蔵となった。
このためこの地蔵尊は、子供たちの守護の地蔵であるとともに、特に「学問のお地蔵さん」として信仰されている。

紀伊国名所図会巻之四には、次のように記されている。
〇物狂石 学文路村内、左側にあり。石上に小堂を安ず。〔禿物狂〕といふ謡曲に出ず。

南海高野線学文路駅から徒歩10分。




大畑才蔵生誕地学文路石碑

大畑才蔵生誕地学文路石碑は、和歌山県橋本市学文路にある。
平成16年(2004)3月に橋本市学文路区によって建立された。
大畑才蔵勝善(1642-1720)は、寛永19年に紀伊伊都郡学文路村の庄屋に生まれた。
家伝によれば、先祖は日高郡亀山城(現御坊市)城主 湯河直光の末葉 湯川次郎右衛門信光である。
18歳で大庄屋の補佐役をつとめ、水利事業に才能を発揮し、元禄9年(1696)に紀州藩役人となり、紀州最大の用水路 小田井用水を開削した。
享保5年(1720)9月24日79歳で学文路村有岡で没した。墓所は学文路の山腹にあり、和歌山県指定史跡となっている。
南海高野線学文路駅下車徒歩10分。



高野参詣道 京大坂道

高野参詣道京大坂道は、高野七口の一つ不動坂に至る高野参詣道で、京都・大坂・堺からの道が河内長野で合流し、
紀見峠を越えて橋本で紀の川を渡り、清水、学文路(かむろ)から河根(かね)、神谷(かみや)を経て高野山女人堂に至る。
なかでも堺からの西高野街道は近世に大いに栄え、今も堺の大小路(おおしょうじ)橋から女人堂まで一里毎に道標石が残る。
これらは、「南無大師遍照金剛」の文字とともに、女人堂までの里程が記され、高野参詣の人々はこれを見るたびに一里ずつ近づく高野の姿を思い描いた。
これらは、いずれも江戸時代末期の安政4年(1857年)茱萸木(くみのき)村(大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立された。
不動坂は、京大坂道の終点である女人堂の手前、距離約2.7km、高低差310mの急峻な坂道で、京大坂道のなかで最難所である。



山笑ふ季語と知らずに師も笑ふ 「山笑う」(春) 「山滴る」(夏) 「山装う」(秋) 「山眠る」(冬)
→ 心のひととき 国城山ハイキング


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