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与謝野鉄幹、晶子歌碑

与謝野鉄幹、晶子歌碑は、和歌山県高野山壇上伽藍三昧堂前にある。
御影石製の高さ85センチの碑上面に二人の自筆の和歌が刻まれ、側面に次のように刻されている。

板しきの冷たきにゐて朝きくは 金剛峯寺の山内の蝉  与謝野鉄幹

いにしへの三昧堂をくぐりきぬ 法の御山の星の明かりに  与謝野晶子

与謝野鉄幹 与謝野晶子 自筆歌碑

愛媛県王至森寺住職瀬川大秀僧正が平成二十二年五月二十一日、
真言宗御室派宗務総長 総本山仁和寺執行長に就任されました。
徳島県立江寺住職庄野光昭僧正が同時期に同職に就任していたことを奇縁として、
与謝野鉄幹 晶子の墨書を当山に寄贈下さいました。

高野山開創千二百年記念大法会の記念とし、歌碑を建立いたします。
平成二十四年十一月吉日
高野山開創千二百年記念大法会事務局
総裁 高野山真言宗管長 松長 有慶
総監 高野山真言宗宗務総長 庄野 光昭
高野山開創千二百年記念大法会 実行委員会
委員長 太融寺住職 麻生 弘道
副委員長 東光寺住職 松田 俊教

高野山麓橋本新聞によると、瀬川僧正が自坊の先代の遺品の中から鉄幹と晶子の色紙二枚を発見し、
若い頃から親交のある庄野僧正に寄贈したという。
高野山奥の院には、与謝野晶子歌碑が建てられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。



大上春秋、行子歌碑

大上春秋、行子歌碑は、和歌山県高野山桜池院前にある。
さくら短歌会主宰 大上春秋(治明)と大上行子の和歌が刻されている。

しろき守宮 かへのすきより 匂ひ出つる 寂れしむらの 陣に馴れたり 春秋

海ふたつ こえてもゆかむ 来よといふ ひとのありせを ためらはよしを 行子

石碑裏面には、次のように刻されている。
南支派遣軍々歌
波濤萬里を□りて衝く
バイヤス湾に月しるく
時、神無月、十二日
奇襲上陸茲に成る
青史を飾るこの朝
勲は永遠に薫るかな
    昭和十三年十月二日
    第百四師団バイヤス
    湾奇襲上陸軍歌第一節
     大上春秋作

さくら短歌会主宰
  大上春秋 (治明)
   平成元年九月三日歿
櫻池院琳珉治達居士
  大上行子 (妻)

維時平成二年十月三日建之



人道歌碑

人道歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
歌碑前の石柱には、人道之碑 赤松院 と書かれている。
歌碑石碑には、次のように刻されている。
わがまこと 
いかなる人ぞ
さとすとも
む知にはまける
神や佛 □
彦造公翁
宮崎




寛演歌碑

寛演歌碑は、和歌山県高野山奥の院の18町石南東にある。
関東大震災霊牌堂(供養塔)域内にある。

昭和5年(1930)に建立された歌碑南面には、次のように刻されている。
みほとけのりやくの程そ有難き
病気忘れし今日の嬉しさ 寛演

北面には、関東大震災発生後に高野山の僧侶が東京を訪問し永田秀次郎市長に被災者の収骨を告げたことなどが詳細に記されている。
下記の北面碑文全文は、山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」に載せられている。山内氏によると、寛演とは、文中の井上氏か、東京某氏か未詳。

大正癸亥関東地震也住持我高野山寺者相率訪都弔災又告永田
東京市長拾収災死者骨棺之而還葬諸奥院塋域将建石以表之
大阪井上君菊松聞之多捐資造寶篋印式石塔今茲昭和五年東京
某氏亦喜捨鉅財起錬造石龕旦簿録災死者姓名盛以水晶?凡五
石綿包之重擲以鉛與錬石以令不朽敗蔵龕嗚呼二君之義克成
我山侶慈濟之志而煢煢孤魂因以得往生密嚴浄刹哉茲録其功徳
以表干無窮云

 維時昭和五庚午歳十一月九日 総本山 金剛峯寺

寛演歌碑のすぐ横には、震災当時の東京市長永田秀次郎供養塔がある。
五輪塔地輪には、次の通り永田市長の法名が刻されている。
(梵字) 大觀院殿秀峯圓通青嵐大居士霊

永田秀次郎は、(1876-1943)は、大正、昭和時代の官僚、政治家である。
三重県知事、貴族院議員、東京市長、鉄道大臣、拓殖大学長などをつとめた。
俳人 高浜虚子と親しく、俳号は青嵐。昭和18年9月17日に68歳で死去した。


妣田圭子歌碑

妣田圭子歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院関東大震災霊牌堂(供養塔)の東、池内たけし句碑の西にある。
平成4年(1992)3月に建立されたもので、日本画「草絵」創始者 妣田圭子(梶本喜久代(1912-2011)の歌碑である。
   たちどまり見あぐる杉のたか
   かりきなほみあぐれば
   なほもたかかりき

草絵(くさえ)は、下絵を描かずに、切った和紙を台紙に貼り付けて創る日本画である。
妣田圭子は、1949年随心院で得度し、草絵を教えるとともに、1978年アトリエを山梨県牧丘町に構えて、1982年に定住し、豊原地区に私財を投じて芸術村を建設した。
このような活動が評価され、1990年サントリー地域文化賞を、2004年には文化庁長官表彰を受賞している。


弘法大師お夢告の歌碑 野村晃円(尼)歌碑

弘法大師お夢告の歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
野村晃円(尼)歌碑、と記された資料もある。
奥の院旧19町石東側にある。

正面下段に次の歌が刻されている。
   弘法大師お夢告の歌  野村晃円
 いてつく日 やけつく日 またあらしの日
  辻の地蔵の 姿しのべよ

裏面下段には、次の銘板がある。
   大日界修道員一同建立
   建立委員長                草繋全弘
   発起人    大日界修道師 横浜市 野村晃圓
   副委員長   横浜市 田城寺     野村全宏
   制作者    和歌浦           角田蘇風


弘法大師お夢告碑前花いけ歌碑

弘法大師お夢告碑前花いけ歌碑は、和歌山県高野山奥の院旧19町石東側にある。
弘法大師お夢告碑の前にある左右2基の花いけ台石に次の通り刻されている。
(南側、向かって右)
艪の舵もみ親にまかす法の船
 愚痴も怒りもむさぼりもなく
(北側、向かって左)
蓮葉の虹のかけはし渡す道
 極楽浄土の弥陀のみもとへ

高野山奥の院 玉川歌碑

玉川歌碑は、和歌山県高野山奥の院二十町石の北側にある。
「舊玉川碑」、「慶長16年玉川板碑歌碑」とも呼ばれる。

現地の石碑(高さ193cm)の文字は一部しか判読できないが、
紀伊国金石文集成によると、次のように刻されている。
     慶長十六年八月十五日
  忘れてもくミや志ツらん旅人の高能ゝ於くの玉川能水  「能」は変体仮名
    紀州名草郡和可山住重郷為逆修

紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇玉川  左にあり。所謂六の玉川の一にして、毒水なりとぞ。纔(わづか)なる溝川なり。寛文(ママ)一六年碑を建てゝ、左の歌を刻す。
 風雅集
       高野の奥院へまゐる道に、玉川という川の水上に、毒蟲の多かりければ、
       此ながれをのむまじきよしをしめしおきてのちよみ侍る
   忘れてもくみやしつらむ旅人の高野(たかの)のおくの玉川の水  弘法大師
 十八景
                                           雲石堂寂本
   寒玉幽渓傍路邊、雲根繞出夕陽前。 聞名不汲旅人手。百世尚傳一首篇。

紀伊続風土記の記述によると、
玉川について弘法大師の歌があるけれども、なお人が誤って飲むことを恐れて、
慶長16年(1611)8月16日に和歌山の住人 重卿が逆修の石碑を建てて、弘法大師の歌を刻した。
高野山の宥快法印が、高野山十二景の題に「玉川秘水」としていたが、近世雲石堂寂本が高野山十八景を選ぶに際して、「玉川流水」としたという。

上記の「所謂六の玉川」とは、全国に玉川が六つあるとされているもので、山城国井出の玉川、近江国野路の玉川、摂津国三島の玉川、
武蔵国調布の玉川、陸奥国の野田の玉川、紀伊国高野の玉川を指す。

毒蟲あるいは「どく水」については、後世様々な解説がされている。

上田秋成は雨月物語巻之三「仏法僧」で、次のように記している。(現代語訳出典:日本古典文学全集)
 一人の武士が、更に法師に問いかけた。
「このお山は高徳の僧が開かれて、土石草木も霊の宿らぬものはないと聞いている。
しかるに、この地の玉川の流れには毒があって、水を飲む人が命を落とすゆえに、
弘法大師のお詠みになった歌として、
  わすれても---- (旅人はたとえ忘れてもこの水を汲んでよいであろうか、いやいけない。高野の奥山の水は)
というのがあると聞いている。
高僧であったにもかかわらず、なぜこの毒ある流れを涸らしてしまわれなかったのか。不審なことだが足下はどう考えておられるか。」
法師が微笑を浮べて答えるには、
「この歌は風雅集に収められています。その詞書に、
『高野山の奥の院へ参る道にある、玉川という川は、川上に毒虫が多いので、
この流れの水は飲んではならぬということを、諭し戒めて後に詠みました』
と説明してありますので、貴方のお考えになるとおりです。
けれども、今の貴方のお疑いが間違っていないことは、弘法大師は神通自在であって目に見えぬ精霊を使役して、
道なき所に道を開き、堅固な巌(いわお)を穿つのでも土を掘るよりたやすく、世に害を流す大蛇はこれを封じ込め、
怪鳥はこれを帰服させられたことは、天下の人々が仰ぎ尊ぶご功績であることを思い合わせると、この歌の詞書のほうこそ、どうも本当とは思えません。
もともとこの玉川という川は、諸方の国々にあって、いずれの玉川を詠んだ歌も、その流れの清らかさを讃えていることを思えば、
この地の玉川も毒のある流れではなく、歌の心意も、これほど名高い川のこの山にあるのを、参詣の人々はまるで忘れてしまって、
ただ流れの清らかさにうたれて、思わず手にすくって飲むであろうとお詠みになったものを、後の世の人の『毒がある』という誤った説によって、この詞書がこしらえられたと思われます。
更にまた深く疑いますと、この歌の調べは弘法大師の在世された平安朝初めの歌風ではありません。
おおよそわが国の古語で玉鬘、玉簾、珠衣の類は、すべて形の美しさ清らかさを賞める言葉ですから、清らかな水をいうのに、玉水、玉の井、玉川と美称(ほめ)るのであります。
毒のある流れにどうして『玉』という語を冠(かぶ)らせましょう。
仏法の狂信者で、和歌の意味などよくわからぬ人などが、こんな誤りをいくらでもしでかすものです。
貴方は歌人でもいらっしゃらないのに、この歌の意味を不審がられるとは深いたしなみがおありです。」
と、あつく賞め讃えた。

「高野のしほり」では、舊玉川碑として、次のような記述がある。
慶長十六年八月十五日和歌山住人重卿逆修善根の爲め建つるところなり、
わすれてもの歌を刻せり、もと此邊の左方より流れ出で路に沿うて行く小流を玉川といひて、毒水なりと傳へしを、
山口志道翁古来の謬傳を破砕して、御廟橋下の清流に確定せり。

「高野文学夜話」(下西忠、浜畑圭吾著)では、次のように記されている。
弘法大師は、その川の源には毒虫が多いので、飲まないようにと言っています。
玉川の美しい流れ(現在もきれいな川です)についつい気を許して一口、ということがあったのでしょう。
本当に毒虫が多かったのかどうかはわかりませんが、生水で体を壊さないよう配慮したのかもしれません。
はるばる高野山までお参りしてきた人々を気遣う、弘法大師の歌です。

奥の院御廟橋南西には、嘉永元年玉川碑歌碑がある。



五大種歌碑

五大種歌碑は、和歌山県高野山奥の院20町石北東にある。
極楽塚の一の橋側対面の階段及び急坂を約20m登った先の台地にある。

同型同質の石碑が3基(中央は倒壊)並んでおり、山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」には、次のように紹介されている。
(西側 一の橋側)
 偶然の炎の枕の夢さめて         水風
                 牧野老鼡易貞 空
 柳はみとり花ハくれなゐ          地火
(東側 御廟側)
   施主生國遠州今紀州大納言様内牧野金彌
 (梵字)爲高月妙意禅定尼成成等正覺
  覚母為追善立之寛永十天十一月廿九日
(中央 台石の前に倒壊)
    元和七年辛酉五月廿五日
 咄徳翁了智庵主
    孝子牧野兵庫頭従五位下源生虎


極楽塚 藤田丁亥次歌碑

極楽塚 藤田丁亥次歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院20町石西側にある。
歌碑上部には次のように刻されている。
  極楽は あるべきものを 何人も
   忘れさらめや 誠つくして
     藤田 丁亥次 書
藤田丁亥次は、藤田榛洋自叙伝を1961年5月に出版している。
著者は、餅饅頭業を営み、「祝い砂糖」を考案したという。

案内石柱「極楽塚」の裏面には、次の句が刻されている。
  歳の暮れ 浮世は ものの 夢なれや 棒洋


長尾村子歌碑

長尾村子歌碑は、和歌山県高野山奥の院の数取り地蔵南にある。
石碑各面には次のように刻されている。
(東面 参道側)
  ゆりかごに
 揺られたる日も
      遥かにて
吾息は高野の
 園に眠れり
   母 村子 詠
(北面)
平成六年四月吉日
奈良県吉野郡十津川村平谷
 母 長尾村子 建立
  細川恵泉 書
(南面)
長男 一弥
 昭和十八年十二月十三日 生
 昭和二十一年十一月三日 亡

袖彦句碑、袖彦歌碑

袖彦句碑、袖彦歌碑は、和歌山県高野山奥の院22町石南東(一の橋側参道北側)にある。
数取り地藏から御廟側に約10メートル進んだ参道沿いに位置している。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、句碑には次のように刻されている。
      萬歳樓
        袖彦
  聲やほとゝ
     きす
嬉しさの
  かさなる

歌碑は、一部の文字だけ判読可能であるが、上記山内氏の資料によると、次の歌が刻されている。
南にゝかも無遍や大師を願ふ身の
あしきとよきに遍照金剛
         茶呑齊袖彦

各石碑は、文政8年(1825)に、博多の豊後屋栄蔵(萬歳楼袖彦)が建立したものである。
豊後屋栄蔵は、福岡市東長寺の六角堂を寄進している。



明治天皇御製碑

明治天皇御製碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院22町石の北側にある。
東郷平八郎書により、明治37年の次の歌が刻されている。
  世と共に かたりつたへよ 国のため 命をすてし 人のいさをを

東郷平八郎(1847-1934)は、明治、大正時代の海軍軍人である。
慶応2年(1866)薩摩藩の海軍に入り、明治維新後の海軍においてイギリスに留学した。
明治36年(1903)に連合艦隊司令長官になり、日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破って名声を得た。


鶴亀淀八歌碑 鶴亀淀八句碑

鶴亀淀八歌碑、鶴亀淀八句碑は、和歌山県高野山奥の院22町石東にある。
円形石碑の前面には、次のように刻されている。
       春野書
   ふかき恵の
      露の
        なさけを
 碑の
   くちぬかきりは
     わすれめや
      鶴亀淀八 印

裏面には次のように刻されている。
     高垣幸次郎
           カヤ
 柴田清之助   正一
           ふく
 高垣子兵衛   まさ
           ツヤ
 高垣トミ     清三
           豊
 越田五一郎   操
     笠木雄太郎

台石前面には、鶴と亀甲の文様が刻まれ、裏面には、次のように刻されている。
  大正五丙辰年十一月建立

台石前の横長石碑(高さ59cm、幅76cm)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
高野成
 淀に恵
  水の
 養老盃
      □



高田万二歌碑

高田万二歌碑は、和歌山県高野山奥の院23町石南にある。
阿波徳島蜂須賀家供養塔の北西に位置する。
墓石には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面)
             浮世へし
     高田万二   我おもかけは
(梵字)           さくら花
     妻 トラ   ちりてきえゆく
              身こそあはれ
(南面)
明治廿五年
 旧三月廿一日建立之
(西面)
善道信士 教善信女
明本信士 於シツ童女
(北面)
阿波國徳島
富田浦町大道

御詠歌歌碑

御詠歌歌碑は、和歌山県高野山奥の院23町石北東にある。
「堺堀越観音講 菩提所 本王院」と記した案内柱の奥に十一面観世音菩薩像が建てられ、台石に次のように刻されている。
(南面)参道側
十一面観世音菩薩
(東側面)御廟側
御詠歌
かりのよにしやくで
くるしむ人あらば
大慈大悲とたのめ
すくわん
(西側面)一の橋側
御真言
おんまかきやろにきや
そわか
(北面)
昭和卅三年四月吉日
堺堀越講御詠歌組


慈忍歌碑

慈忍歌碑は、和歌山県高野山奥の院23町石北東にある。
鳥取池田家供養塔の西側に隣接する五十嵐家墓所内に建立されている。
歌碑には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
誠恵院釈慈忍位
わがためと
 思う心は
  あださくら
人にはつくせ
 己が誠を



松田萬吉歌碑

松田萬吉歌碑は、和歌山県高野山奥の院24町石西にある。
海軍整備課予備練習生記念之碑(予備練の碑)の西側で、「大阪港區 マツダ材木店之墓」の石碑がある。
松田萬吉累代之墓の墓域内にある歌碑には、次のように刻されている。
(表面)
たぐいなき
 大師まします
霊山に
 勿体なくも
わが身埋めて
   松萬
(裏面)
昭和三十七年七月吉日
 松田萬吉

海軍整備課予備練習生記念之碑

海軍整備課予備練習生記念之碑(予備練の碑)は、和歌山県高野山奥の院24町石西にある。
昭和14年入隊の第1期生から昭和19年の第6期生まで、海軍整備課予備練習生として招集された二千五百数十名の慰霊碑で、昭和57年7月に建立された。
参道横には、石碑が建てられ、「永遠なれと高野山に開く桜花 絆も固し予備練の碑に」と書かれている。



高野山釈教長歌碑

高野山釈教長歌碑は、和歌山県高野山奥の院25町石西にある。
長州萩益田家供養塔近くの参道側に位置している。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、1.42mの高さの石碑には、次のように刻されている。
(東面)
高野山釋教長歌
しんしむの とものつミらは 無他にちる ゆきかともつる
夕しもハ 夜さむミおきつ いよしらけ 人も笠名は
かそしれん 参るなかたひ きよしあか ミなくうのミつ
なそしらて みやまのこしに いそけこの 友にたか野を
拝したし 岩をのかたに もとのこけ そいにしこのま
やミてらし そなつミのうく なミかあし よき日たかなる
今むれし そか花坂も とひけらし よい月を見ん
さ夜はもし ふゆるつミとか きゆる地に たんハらミつの
もとのむしむし
     右中山道熊谷驛
       七十有三翁 笑壽
(南面)
天保三壬辰十一月建立之
     宿坊 大樂院
(北面)
   道譽笑壽信士
爲  法譽妙壽信女
   華室蓮貞信女


伊藤氏墓、一捕・完来句碑

伊藤氏墓、一捕・完来句碑は、和歌山県高野山奥の院25町石南西にある。
石碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(東面)
伊藤氏代々之墓
  往昔酉の秋月もて波のあしたの露
  父身まかれて既十三年の懐旧たゝ其
  俤を慕ひ此御山にいさゝか恩を報ふの
  しるしを残すことなり
在すかと夢に夢見て浮の秋  東都 一捕
空ミれは空まて峯の月ひとつ 雪中庵 完来
              右應需添一章書之
(台石)
江戸京橋
 上
 善
竹河岸
(南面)
時文化九壬申歳秋
父十三回忌為供養建之
    伊藤道之
(北面)
上總屋善右衛門
 同  善太郎
 七十六歳
  東都歸春書 印


中村徳蔵句碑

中村徳蔵句碑は、和歌山県高野山奥の院25町石の参道を挟んで向かい(北側)にある。
筑後久留米有馬家供養塔の西側(一の橋側)に位置する。
石碑には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(参道側)
 みほとけの       徳雪
  慈悲にそあらむ
   かん子鳥
(山側)
   東京本所区村町壹
  明治三十九年仲夏吉辰
      所縁坊
       大乗院主慈照

かんこ鳥(閑古鳥、郭公、かつこ鳥)は、夏の季語で、郭公(かっこう)の古名である。
ほととぎすと同じく5月頃南方から渡ってくる夏鳥で、低山帯の樹林に住む。
もの寂しいさまを「閑古鳥が鳴く」と例えるように、古くから寂しいものとされてきた。


大蕪庵十湖句碑

大蕪庵十湖句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院中の橋の西にあり、南海電鉄創業者松本重太郎翁の墓の南東にある。
句碑には、次のように刻されている。
         十湖
 山の月こゝろも
  高う眺めけり
碑陰には、静岡県浜松市出身の俳人である松島十湖(大蕪庵十湖)の紹介が刻されている。



芝居長久歌碑

芝居長久歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋西側にある。
市川団十郎墓所前にある石燈籠の円筒形台石に次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
江戸
芝居長久
三櫓
爲三座太夫元先祖菩提
   八代目團十郎
          建之
起て夢寝てはまほろし
うつゝにも歌舞の臺に
遊ふみ成れは
     七代目 白猿

(芝居長久歌碑の参考のため掲載)
市川団十郎墓所

市川団十郎墓所は、和歌山県高野山奥の院中の橋西側にある。
「初代市川團十郎供養塔」と表示されている資料(「高野山奥の院の墓碑を訪ねて」)もある。
中央の板碑には、上部に梵字が刻まれ、その下に市川家の家紋「三升」と「供養先祖所」「子孫蕃育」の文字が刻まれている。
蕃育(ばんいく)とは、やしないそだてることを指す。板碑裏面の文字は判読が難しい。

市川団十郎供養句碑
半球形の台座には、供養塔建立の経過に関する次の文と句が刻まれている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
  寶暦三(1753)酉歳二月十九日
  父團十郎五十回忌の
  菩提二代目海老蔵建之
  文政十三(1830)寅二月十九日
  元祖團十郎百二十七廻
  忌相當同年四月十二日
  母十三回忌營追善
   再建七代目團十郎

   雉子啼や
     翁の仰せ
   有る通り        → 芭蕉句碑

左右には花筒があり、向かって右には「市川右團治」左には「市川團蔵」という文字が刻まれている。
市川団十郎は、歌舞伎俳優の名跡で、二代目以降の屋号は「成田屋」である。
元祖(初代)市川團十郎(1660-1704)は、元禄時代(1688-1704)の歌舞伎界を代表する俳優であった。
男伊達と呼ばれていた親分の子 堀越十郎として生まれたが、役者の道を進むことになり、本名の十郎の上に普段の段の字をつけて、段十郎としてデビューした。
その後、京都の名優 坂田藤十郎に認められ、藤十郎の助言で、段の字を團と変えた。
團十郎は、劇作も兼ねて、三升屋兵庫(みますやひょうご)の名前で狂言本を十数編書いている。
元禄17年2月19日に市村座の公演「わたまし十二段」で佐藤忠信を演じていた最中に、同僚役者の生島半六に舞台上で刺殺された。
東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。バス停西側に路側帯駐車枠がある。




ありがたや歌碑

ありがたや歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋東20mにある。
大正11年(1922)に東京市の増田新三郎夫妻が建立したもので、正面には万葉仮名で次の歌が刻されている。
  ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだおわします
真言宗の御詠歌では「ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだ おわしますなる」と読誦されることから、
宮川良彦氏は、「高野百佛」の中で、ありがたや歌碑について、次のように記している。
  歌詞は、慈鎮和尚の「拾玉集」に記載されたものの写しらしい。
  「仏前勤行次第」の歌詞も、この「拾玉集」よりとったようだが、拾玉集の原文にない「なる」は、真言宗が便宜上つけ加えたものではないかと思われる。
  「なる」の二字を付加することにより、空海への敬いをさらに深めた語気が受けとられるばかりではなく、詠歌のゴロあいもみごとなものとなった。



成田屋眼玉白猿歌碑

成田屋眼玉白猿歌碑は、和歌山県高野山奥の院27町石西にある。
奥の院中の橋を渡り、参道を約30m東に進んだ所で、階段を5段登った右側に位置している。
「成田屋眼玉」と書かれた台石の上の墓石(歌碑)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(西面)
  文政八酉八月八日
   教岸教浄

   妙信妙智
  天保十一子七月晦日
(北面)(奥の院参道側)
        壽海老人白猿
人間の道をたつねてきたるはし
かうゝゝとおしへくたさる
(南面)
天保八酉四月廿三日
  正念浄念信士

上記の山内潤三氏の解説によると、壽海老人は「海老蔵」をもじった号で、白猿は七代目市川団十郎の俳号である。
歌の「はし」は、この墓碑のある中の橋を指すか、と解釈され、「弘法大師が人間の生きる道はこうこうだと教え下さる。」の意味だという。
この周辺の石塔類には、施主 市川団十郎とされるものや、江戸ゆかりの石塔がある。

五代五兵衛歌碑

五代五兵衛歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
中の橋から御廟に向かって参道を約50m登り、27町石向かいの階段を上った位置に歌碑がある。
階段の途中には、「大阪盲唖学校創設者 五代目 五代五兵衛之墓」と彫られた石柱がある。

五代五兵衛之墓に隣接して自然石の歌碑が建てられており、次のように刻されている。
(南面)
盲と唖の教えの道に
盡しても 勲高き
君仰くかも
(西面)
大阪市立盲學校長
従五位 宮島茂次郎 謹詠

五代五兵衛(1849-1913)は、明治時代の社会実業家である。17歳で失明するが、不動産事業などで成功を収め、明治33年私財を投じて大阪盲唖院を開校し、京都盲唖院の創立者 古川大四郎を院長に招いた。
明治40年校舎などを大阪市に寄付し、学院は市立大阪盲唖学校と改称された。
命日には、大阪の盲学校、聾学校関係者が墓参に訪れたという。
五代五兵衛は、パナソニックの創業者である松下幸之助が、少年期に6年間奉公生活を送った五代自転車商会の主人 五代音吉の兄にあたる。
また、大阪盲唖院には、五代の会計兼秘書として幸之助の父 正楠が職を得ていた。
渡邊祐介氏は、五代五兵衛と音吉が松下幸之助の「レファレント・パーソン」であったとしている。
当地墓所から約50m北東(御廟側)参道沿いには、パナソニックの供養塔がある。


八木家之墓歌碑群

八木家之墓歌碑群は、和歌山県高野山奥の院27町石北にある。
住友家墓所の一段下にあり、五代五兵衛歌碑の西北にある。
中央の墓石には次のように刻されている。
(正面)八木家累代之墓
(左面)雪山院釋義道 昭和三十年五月十七日
                俗名 義彦 行年 二十才
    大いなる慈悲のみむねにいだかれて
     霊安くあれ 法のみ山に
(裏面)昭和三十一年九月十七日
      大阪市大和田町
       八木 龍蔵
           操  建之
   
花筒、犬の像などにも次の歌が刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
幸うすく若く浄らに散りし霊に
 やさしく侍べれ乙女椿よ
父母の罪と厄とを若き背に
 身かわり逝きし吾子は孝の子
大学を半ばに逝きし吾子は浄土で
 弥陀の御弟子となりて学ばん
いざやポチ幸うすく逝きし
 汝が主の み霊を永久に守りてよかし
幾年の不孝を詫びて
 今日わしも亡き子のもとに父母むかふ




母子像の歌碑

母子像の歌碑は、和歌山県高野山奥の院28町石の北にある。
らしく詩碑のすぐ北にある。
母子像下の台石には、次のように刻されている。
(南面)  くらやみを いでてまたゆく やみの旅
       頼む母ごの あかりは何処に
(西面)  先祖代々菩提の為
         先祖代々菩提の為
       南無阿弥陀佛
         南無阿弥陀佛
       有難う様でございます



慈眼堂 河野宗寛(大渕)老師 歌碑

慈眼堂 河野宗寛(大渕)老師 歌碑は、和歌山県高野山奥の院28町石東にある。
石碑には、次の歌が刻されている。
  親のなき子らを
         ともない
   荒海をわたり
  帰らんこの荒海を
     大渕杜多

河野宗寛(1901-1970)は、大分県出身の禅僧である。
昭和16年(1941)中国新京(現在の長春)の妙心寺別院布教総監として赴任した。
終戦の混乱期に、別院禅堂を戦災孤児に開放し、数多くの孤児を伴い帰国して、その後社会福祉に尽力した。
当地の歌碑は、昭和46年(1971)に慈眼堂歌碑建立委員会が建てたものである。



吉村長慶宇宙門辞世歌碑

吉村長慶宇宙門辞世歌碑は、和歌山県高野山奥の院30町石南にある。
奥の院参道の「中の橋」を渡り、坂を上ってから下る階段の西側 吉村長慶碑の群立する一角奥にある。

「宇宙門」と書かれた石造鳥居の北側に石碑があり、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌碑文攷」参照)
(南面)
宇宙大神霊
(東面)
吉村長慶
(北面)
      吾 先生姿 長慶
辞世 死は宇宙の神霊に帰するもの
    生まれるよりも永久に活るなり
       長慶
(西面)
自得於宇宙之大秘密
其年建立焉

喜野家終戦歌碑

喜野家終戦歌碑は、和歌山県高野山奥の院30町石北西の奥の院参道沿いにある。
歌碑(墓石)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面)(参道側)
喜野家之墓
(北面)(御廟側)
生きかへり死にかへりつゝ
  日の本の
  御國守らむ大和男子は
   昭和二十年八月十五日
(南面)(一の橋側)
昭和二十六年十月
  喜野恵人建之
    菩提所 南院

父母恩重碑

父母恩重碑は、和歌山県高野山奥の院31町石北西にある。
宗教法人修養団棒誠会(ほうせいかい)の教祖 出居清太郎(いでいせいたろう)が、昭和40年(1965)に建立した。
父母は天地、恩重は、万物の恩志であり、世界人類が一丸となって平和建設の礎とならんことを目標に建てられた。

父母恩重歌碑群

山内潤三氏は、「高野山詩歌句碑攷」において、当地石碑の和歌を歌碑群として紹介している。
台石上の高さ2.8mの石碑には、次のように刻されている。

 父恋し母なつかしといしふみを
  建てて昔を偲ふ今日かな
父母恩重碑
 父母の今もこの世にましまさは
  肩なとさすりまいらさんと思う
          妻 菊の詠


聖徳公子歌碑

聖徳公子歌碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
法然上人(圓光大師)供養塔と参道を挟んだ反対側で、参道奥には初代哥澤之歌碑がある。
二人の子供を抱いた地蔵像の台石に、次のように刻されている。

南無阿弥陀仏
やみよりやみえ(江)
   きえはてし
有縁無縁の
みどり子をあはれみ
 給ひて地蔵尊
大悲の御匈にいだきあげ
 なむあみだぶつの
功読にて永遠の浄土に
 住みあそぶ
     聖徳公子
昭和五十七年建之

聖徳公子は、弘龍庵創始者(宗祖) 中村公子のことと思われる。
奥の院34町石西には、弘龍庵御墓所がある。


初代哥澤之歌碑

初代哥澤之歌碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
法然上人(圓光大師)供養塔と参道を挟んだ反対側で、参道から約10m入った所に同型の石碑が2基建立されている。
北側(御廟側)の歌碑には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(西面)
    浅しとてきき流さめや哥澤の
     ふかきこゝろは知る人そしる
 初代哥澤芝三太夫之碑
    建立主 哥澤芝愛
(東面)
  昭和四年八月廿一日建
    菩提所 増福院
南側(一の橋側)の石碑には次のように刻されている。
  哥澤芝幹太夫
           之碑
  哥澤芝亀

うた沢は、邦楽の種目で、うた沢節の略である。安政4年(1857)江戸に起こった三味線小歌曲で、端唄に源を発する。
芝金(しばきん)、寅右衛門(とらえもん)という二つの家元があり、芝派が哥沢、寅派が歌沢と冠名を書くことから、総括した名称を、「うた沢」と表記することが、大正初期から行われている。

水谷三郎氏編著「二世哥沢芝勢以伝」の物故師匠略歴には、石碑に記された人物について、次のように紹介されている。
初代芝愛
名古屋にて三代目の教を受け後東京にうつり、大正元年二月四代目の名取になり、師匠になる。
後に初代芝三太夫と結婚し、糸の名手として大いに活躍す。後年味の素夫妻の一方ならぬお世話になり、昭和三〇年十一月十九日86才の高齢にてガンの為歿す。
芝幹太夫
芝美祢の取立にて大正六年四月十日名取となり、大阪寿司の主人芝亀と結婚して大阪にて師匠となり、関西睦会を作り、師弟を多く送り、芝亀の死後味の素夫妻の保護を受け、味の素鈴木会長宅にて胃ガンのため歿す。
二代目芝亀
明治三十八年四月十九日二代目芝亀として名取、柳橋に哥沢芸者として活躍、後芝幹太夫と結婚し大阪に行きて師匠となり、師弟も多く送り出し、糸の名手として名を残す。



秩父宮妃殿下御歌 石碑

秩父宮妃殿下御歌 石碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
31町石の西北参道沿いに、「大阪北 小林佐兵衛銅像入口」の石柱があり、入口から約30m進んだ左側に石碑がある。
石碑には、次のように記されている。
秩父宮妃殿下 御歌
あらき世の
風にたえつつ
 手ひとつに
  子を
育てゆく母に
  幸あれ


小林佐兵衛翁歌碑

小林佐兵衛翁歌碑は、和歌山県高野山奥の院小林佐兵衛紀念碑南東にある。
碑文は判読しづらいが、山内潤三氏「高野山歌碑句碑攷」によると、次のように刻されている。
  住吉神社宮司正四位男爵津守國美 印
  いつまでもくちせぬものハ世に高く
     いさをこのしてたつるいしふみ

  御世の爲國の
    ためにとつくす身の
     誠そ人のかゝみなりける
            菅原朝臣従長
   明治四十四年十二月

津守國美(つもりくによし)(1829-1901)は、摂津出身で、住吉神社74代宮司、河内枚岡神社宮司、和泉大鳥神社宮司をつとめた。
近衛忠煕(このえただひろ)門下の歌学者として知られる。



筆塚歌碑

筆塚歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
法然上人(圓光大師)供養塔松平(結城)秀康及び同母霊屋との間に位置している。
筆塚碑の前に黒の石碑が建てられ、南面には、般若心経、北面には次の歌が刻されている。
宿願のわが筆塚をまほろばに
  高野の杉の青墨のいろ
            登美子  → 大林堂登美子歌碑



大林堂登美子歌碑

大林堂登美子歌碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
安芸浅野家供養塔(浅野長政ほか)の参道を挟んだ向かい側で、参道から約10m入ったところに位置している。
大林堂(だいりんどう)と書かれた黒板石の北面に次の歌が刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
身におよふうきことゝゝを
         かさね来て
  感謝に生くるのれん
             尊し
                登美子
  名古屋市中区南武平町一ノ八
  大林堂水野満年長女登美子建之
         日展会員 吉田桂秋書




山色天来仏山人歌碑  井村米太郎(真琴)墓歌碑

山色天来仏山人歌碑 (井村米太郎(真琴)墓歌碑) は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
奥之院参道から、法然上人(圓光大師)供養塔北を小林佐兵衛紀念碑に向かう脇参道の北側にある。
墓石(歌碑)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(南面)
好徳院眞琴來佛居士霊
(東面)
山色連天
雪しろきひらをのこして大比叡も
 をひえも空の色に晴たり
            男 義丸記
(北面)
昭和五庚午年一月十一日入寂
 俗名 井村米太郎 行年 七十歳
    昭和六辛申年一月十一日
            男 義丸建之
(西面)
來佛山人墓銘
温其如玉古有斯語今見其人高野山霊宝館主事井村君是也而亡矣
哀哉君諱眞琴称稱米太郎號來佛寡黙彊記有操守多技能少壮通知漢
學最善和歌嘗詠宸題入選遠邇來學甚多居職山門四十餘年利害所
見筆告富塗未敢出諸口常慨名跡舊物之漸淪有著書續高野春秋之
志懸官嘱君考録人跡天物人目君以山門活歴史云所著數種行世昭
和五年一月十一日歿距生文久元年二月二十六日壽七十葬奥院塋
域嗣子義丸君持状嘱余銘  銘曰
 為可知而  不患不知  所謂哲人  措君其誰
     高野山學員 久保雅友撰  嗣子 義丸書


井村真琴氏は、高野山霊宝館主事で、「高野のしをり」を執筆している。

良寛詩歌碑「高野紀行」

良寛詩歌碑「高野紀行」は、和歌山県高野山奥の院にある。
良寛さまのゆかりの中で、碑面と読み下しが記されている。
碑面 
高野道中買衣(不)直銭
一瓶一鉢不辞遠
裙子褊衫破如春
又知蔞中無一物
総為風光謝此身

さみつ坂といふところに里の童の青竹の杖を切りて売りゐたりければ
  こがねもて いざ杖かはん さみつさか

読み下し
高野道中衣をかはんとして銭に直らず
一瓶一鉢と遠きを辞せず
裙子褊衫は破ぶれて春の如し
又た知る蔞中の一物なきを
総べて風光のために此の身を誤る
<注>2句目の「春」は「舂」の誤りとする説がある。

手前の脇碑には次のように刻されている。
良寛高野紀行の碑
 平成十年秋
  全国良寛会
  高野山遍照光院
  須磨寺正覚院
   制作 速水志朗
    碑稿 加藤僖一
(原本 糸魚川市歴史民俗資料館蔵)

「さみつ坂(作水坂)」は、高野参詣道京大坂道の一部で高野町西郷の作水にある。→  高野街道六地蔵 第五


高田慎蔵夫妻供養塔(歌碑)

高田慎蔵夫妻供養塔(歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
豊臣家墓所の北隣平原地に高田慎蔵夫妻供養塔があり、台石上の五輪塔地輪部に次のように記されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面)
徳壽院殿心月浄照居士
徳光院殿心蓮浄覺大姉
(西面)
明治四十三年三月廿一日建之
 東京市本郷区湯島三組町五十八番地
         高田慎蔵
高野山浮世の雲を
  よそにして心しつかに
    月をなかめむ
        相川
(北面)
 勲三等 高田慎蔵
太陰暦 嘉永五年壬子二月二日生
太陽暦 一千八百五十二年二月二十一日
太陰暦 大正十年辛酉十一月月二十八日歿
 生干佐渡國雑太郎相川町天野雪翁次男
(南面)
 慎蔵妻 高田多美
太陰暦 嘉永六年癸丑九月十日生
太陽暦 一千八百五十三年十月十二日
太陰暦 昭和六年辛未九月廿三日歿
太陽暦 一千九百三十一年十一月二日
 生干武蔵國東京市本所區清水町
 池田倉蔵長女

高田慎蔵(1852-1921)は、明治、大正時代の実業家である。
嘉永5年天野孫太郎の次男として佐渡相川で生まれ、4歳で高田六郎の養子となった。
明治3年(1870)から東京でアーレンス商会、ついでベア商会に勤め、明治13年(1880)独立し、ヨーロッパ視察後の明治21年高田商会を設立し、機械輸入販売に従事した。
高野山宝物館設立発起人にもなっている。





慶長十八年歌碑

慶長十八年歌碑(石清水歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院32町石と水向け不動を結ぶ東側参道から約5m東に入った位置で、筑前黒田家供養塔(江龍院他)と和歌山県海外引揚物故者供養塔の北側にある。
高さ130cm幅26cmの細長い石碑で、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」、巽三郎氏「紀伊國金石文集成」及び水原堯榮氏「高野山金石図説」))
高野山たのむこころのふかければ
あさき石井もくみはつくさし
慶長十八年七月廿八日
心月無庵
普請衆各逆修
楞屋(層)宗嚴
石井三丞(助)立之

この石碑については、紀伊続風土記で、法然上人碑に続いて、次のように紹介されている。
石清水
法然上人碑の北に東流するをいふ碑あり 歌に
高野山たのむ心のふかけれは
あさき石井も汲みはつきせし
此石清水てふもの舊きふみに考へす

水原堯榮氏は高野山金石図説で、法然上人供養塔の横から当地に移転したことを紹介した上で、次のように記している。
この碑は察するところ、玉川歌碑の建設に倣って立てられたもので、野山中板碑歌碑の随一で、實に玉川歌碑と倶に、山中歌碑の双(旧字)璧として保存すべき重要なる碑石である。





徳栄講歌碑

徳栄講歌碑は、和歌山県高野山奥の院33町石北東にある。
台石185cm、高さ3mの石碑(大正2年建立)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(西面)
名古屋徳榮講々元 鈴木幸七碑
(東面)
(前半略)
法の為たつるいくさをもたか野山
その名はくちじ末の世迄に
  従七位 大口鯛二書
   名古屋 平松仁兵衛刻

村田順子辞世歌碑

村田順子辞世歌碑は、和歌山県高野山奥の院御供所前にある。
墓石には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(南面)
(家紋)村田順子之墓
(西面)
辭世
あちきなき
 浮世をすてゝ
  極樂の
はちすをわけて
 母をまたはや

龍山院歌碑

龍山院歌碑は、和歌山県高野山奥の院御供所前にある。
奥の院参道から見ると、播磨竜野脇坂家供養塔の北隣に位置する。
「龍山總講中」と刻された台石の上の墓石(歌碑)には、次のように刻されている。
(東面) 家紋 龍山院翁譽大仙禅定門
(北面) 安永7戊戌載七月廿九日
      諸友とこめし契もあしきなく
       うつれはかわる天野むら雲
(東面) 龍山總講中
       先祖代々霊


与謝野晶子歌碑

与謝野晶子歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋公園墓地の親鸞上人供養塔の東側にある。
前面には、みだれ髪(明治34年8月刊)所収の次の歌が刻されている。
  やは肌の あつき血潮にふれも見で 
   さびしからずや道を説く君
裏面には、「昭和二五年五月二九日建之 與謝野晶子顕彰会」と刻されている。
足立巻一氏によると、当地の歌碑は、実際は堺市と南海電鉄が建てたという。
その実務を担当したのは、堺市役所に勤務していた安西冬衛で、安西は高野山で「山上の僧窟に独鈷の如く私は孤愁の虜となっていた」に始まる詩「虎」を書いている。(「文学の旅 10」)

与謝野晶子(1878-1942)は、明治から昭和時代の歌人である。
堺市の出身で、旧姓は鳳、本名は志よう。明星に詩歌を発表し、大胆な官能の解放を歌い、奔放で情熱的な作風は浪漫主義運動に一時代を画した。
与謝野晶子は、「経は苦し春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ」、「春の雨高野の山におん児の得度の日かや鐘おほく鳴る」などの歌を作っている。
高野山壇上伽藍には、与謝野鉄幹晶子歌碑が建てられている。




上野家詩歌碑

上野家詩歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
与謝野晶子歌碑の北東に位置している。
上野家墓石の手前左側に石碑があり、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
白蓮の
 花咲き燃える
     霊山の
慈悲に 煌やく
  法界の廟

弘壇霊樹幾千丈
十萬墳塋香烟芳
蓮峯華台是法界
大師慈悲周遍照

  上野秀一 □
      自筆


母情歌碑

母情歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)の南にある。
歌碑には次のように刻されている。
   母 情
幼な期に
 雪どけと共に
   母は逝き
瞼の面影
 探すむなしさ
昭和六十一年五月吉祥日建之
和歌山市元寺町
高野町富貴   峯 寅次郎

親鸞報恩歌碑 見真大師墓句碑

親鸞報恩歌碑、見真大師墓句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)の前に、2基の石碑があり、手前の低い石碑が親鸞報恩歌碑、すぐ奥の高い石碑が見真大師墓句碑である。

親鸞報恩歌碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面) 報恩 仰へく祖師の御跡をしたひ来て
         御影に逢そ今日のうれしき
                      感中
         大正七年八月七日参拝
(西面) 伊勢松坂眞宗花山寺 沙門 感中
                       六拾九歳

見真大師墓句碑には、次のように刻されている。
(東面) 見真大師御墓 六條御殿御宿坊
                  西禅院
(南面) 法の縁くちぬ      名古屋市塩町
      ちかひや石の文       伊藤萬蔵
(北面) 明治三十八年六月 建之
(西面) 見真大師御自作    石工
        尊像 西禅院    □□泰次郎


親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)

親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)への参道入り口の石階段横に石碑が建立されており、次のように刻されている。

(東面) 見真大師墓参道
(北面) 親鸞聖人 極楽に参らむことのうれしさに 身をは佛にまかせけるかな
(南面) 施主 長崎縣肥前國南松浦郡五島福江村 (氏名 略)
(西面) 見真大師古跡坊 西禅院



大石順教尼腕塚歌碑

大石順教尼腕塚歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
大石順教尼之墓(腕塚)の慈手観世音菩薩像の西側に建立されている。
昭和27年(1952)に建立されたもので、北面には、次の歌が刻されている。
  尚ちからせむ
   すべも
  なきみには
      ただ
  南無佛と
    とう人の
    みこそ
       順教

南面には、大石順教尼について紹介する金山穆韶大僧正の漢文が刻されている。



土生川正道書 本居宣長歌碑

土生川正道書 本居宣長歌碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前にある。
石碑には、次のように刻されている。
敷島の大和心を人とはゞ 朝日ににほふ山桜花
     土生川 正道 書

この和歌は、江戸時代の国学者 本居宣長(1730-1801)が61歳の時に自画像の簪として書いたものである。
土生川正道(はぶかわしょうどう)は、高野山無量光院住職で平成19年に高野山第五百八世寺務検校執行法印を務めた。→ 高野山の歌碑

上記和歌は、新宮を舞台にした辻原登氏の小説「許されざる者(上)」第六篇でも、次のようにとりあげられている。
  夫人が、水量を湛えたダムの中から、さわやかな風のそよぐような声を汲み上げた。
  「しきしまの やまとごころを人とはば、朝日にひほふ山櫻ばな」
  と口にして、恥ずかしげに付け加えた。
  「亡くなった父は、この歌が好きでした。」
  「本居宣長ですね。朝日ににほふ、としたところがいい。この場合、にほふというのは、輝き映じる、という意味なんでしょうな。」
  了円がいって、別の歌を引いた。
  「明日ありと 思ふこころのあだ櫻 夜半に嵐のふかぬものかは」
  それは? という表情を槇と夫人が了円に向けると、
  「親鸞聖人の御作と伝えられております」 → 和歌出典資料


昭和殉難者法務死慰霊碑

昭和殉難者法務死慰霊碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿の南にある。
第二次世界大戦終結後の戦争裁判によって刑死した1068柱を昭和殉難者として慰霊するため建立された。
2基の遺詠の碑が建てられている。

  山下奏文大将遺詠
待てしばしいさを残して散りし友あとな慕いて我も逝きなん
野山わけ集むる兵士十余万かへりてなれよ國の柱と
               築野 政次 書

上峠幸之助主計中尉遺詠
 軽き身に重き罪を負はされて吾は散り逝く紀伊の防人
               添田 隆昭 書

 


中野広三郎歌碑

中野広三郎歌碑は、和歌山県高野山奥の院公園墓地にある。
東日本大震災供養塔前を直進して、100mほど進んだ東側で大阪瓦斯供養塔の奥にある。
歌碑には次のように刻されている。
(西面)
昭和三十七年四月七日
中野廣三郎霊にさゝぐ
   修養団捧誠会総裁 出居清太郎
 みおしえの徳をかしこみ
       常日頃
    迷いもせずに
  徳を積みしか
中野廣三郎碑
   別れ行く
  君の姿ハ
    見えねとも
  徳の光は
   いつの
    世まても
            清堂亀井安之助書
(東面)
墓所は
大阪市東住吉区瓜破霊園にあり
 昭和四十一年八月十日
   廣三郎 妻 小光
        孫 正廣  建之
 堺市(以下略)

生駒家歌碑

生駒家歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院御廟橋西の坂を登り、自然社 金田徳光供養塔の南に位置する。
墓域中央には生駒家宝篋印塔があり、右側の横長石碑に下記のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
生駒明文先生のお歌
思ひたつ心のまゝに
  はつことは
神の扶けの
  あるものと
     知れ
   沙門公雄書

杉苗五千本歌碑

杉苗五千本歌碑は、和歌山県高野山奥の院御廟橋の南にある。
石碑(総高197cm)には、次のように刻されている。
(東面)爲子孫     下總國相馬郡小文間村
     杉苗五千本   施主 井上 濱吉
              法壽院殿信海明雲居士 宿施 金藏院
(北面) 子をおもふ親ほとおやを思ふ子は人の道行人と云へし
(南面) 明治四十一年五月廿一日 自建之
      


嘉永元年玉川碑歌碑

嘉永元年玉川碑歌碑は、和歌山県高野山奥の院御廟橋南西側にある。
弘法大師の 玉川の歌に関する石碑で、奥の院には「玉川歌碑」(舊玉川碑)と呼ばれるものが、二十町石北側にもある。
現地の石碑(高さ180cm)文字の判読は困難であるが、明治37年(1904)刊行の「高野山名所圖會」には、次のように記されている。

  玉川並に其碑
御廟橋下を流るゝ清泉にして、その源(みなもと)三山より出て御廟の後方より西邊(せいへん)を繞(めぐ)りて此處に来る、
是より南姑射(こや)の麓を過ぎ、東流と相合して遂に大瀧に落つ、此河上に「流灌頂」とて先亡追資の功徳を爲すことあり(口絵参照)
此の川即ち本朝六玉川の一にして南岸に玉川の碑あり、左の如し。

  わすれても汲みやしつらん旅人の高野(たかの)のおくの玉川のみづ (弘法大師の御歌也)

      長歌幷短歌         安房國 七六歳 山口志道

  雲霧のはれにし時ゆ高野山 はちすの嶺の白露のしたゞりつたふ玉川の其ふる歌をいつの頃
  誰が衣手のぬれそめて なき名ながるる世となりぬ そこし思はゞ高しるや 天の御蔭天知や
  日の御蔭よはひの末に旅人も いく代ぞ汲ぬその水を くみて我しる白眞弓 今より後はわすれても
  なき名ながすなこの玉川に

    もろ共にくみてこそしれ高野山 蓮のみねのつゆたまみづ

   天保十一庚子歳(1840)八月十五日      前權大納言藤原公説篆額 (歌の上に玉川碑三字の篆書あり)
 
 碑陰 (略)

 蓮の峰露(みねつゆ)のたまがはみなかみは世にありがたきこけのほら哉
   維嘉永元丙申(1848)仲夏念八日                               清堂觀尊誌
 たかの山わかのぼりつるもろ人の むすぶもきよき玉がはの水            皇都 上野志廣

而して此玉川の水を古昔毒水と言ひ傳へたりしを、かの山口志道翁 後人のひがことなりと舊説を駁撃せしの美事、
井村真琴氏編の「高野のしをり」に懇切に傳へたり、左の如し。

  抑々玉川はもと一の橋より二町計り奥なる路傍の小流を玉川とし 千手院谷の秘井をその水源として
  毒水なりと言ひ傳へり 其説全く風雅集のかの歌の前書に基づきし也
  然るを山口志道翁 かの前書を後人の偽作なりとして毒水の舊説を駁撃し此清流を眞の玉川なりと断定せり
  其卓見千載の迷夢を覺破せしは壮快といふべし 
  今其論旨を摘みていへばかの前書の高野の奥の院へ参る道に玉川と云河の水上に毒虫の多かりければ
  此流のむまじき由をしめしおきてとある詞と歌の意味と大に相違せり
  讀人は参詣する人に高野へ登られしならば山は宇内無双の霊山にして其の山の谷々より湧く泉の清浄なるを
  汲玉へ是則眞言秘奥の灌頂等に用うる閼伽などの餘流なり
  此浄流をば玉川とは云なりなど物語りし別れに臨みて讀てつかはせしならん一首の意味は此物語しぬる言葉を
  忘れても正しく山へ登りて仙界浄地の淸淸を見られたぞならば語り聞かせし言ばを忘れても汲みやしつらん
  汲みでこそあらう高野の奥の玉川の水と云意なり 惣じて山内の湧泉清浄なるが中に三山の下より湧出るは
  殊に玉の如き泉にして御廟橋下を通り姑射山の裾を繞りて行 然るを何の比よりか毒流とし千手院谷奥なる
  秘井てふものは玉川の源水なとゝいふ濛説笑止千万なり
  元来かの秘井のある地と奥院とは其間山谷を隔てゝ地脈大に異なり水氣通ふ様なし是亦一證とするに足れり
  諸書に皆毒水の説を傳ふるは全く風雅集の詞書を本據とすればなり 所謂其本亂れて末治らず 信用するに足らず
  因て秘記幷建長年中の御神託 貞觀寺僧正の圖記 眞然大德の奏聞 其外契沖阿闍梨 
  上田秋成の膽大小心録等の毒水にあらずといふ諸精説に基づきて長歌を詠ず云々
  九度山不動院觀尊師翁の志を繼ぎて此碑を建て 尚捃玉集を著はして其説を述べたり
  爾来復た毒説を含みし詩歌を詠ずるものなし
  

南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。


弘龍庵歌碑

弘龍庵歌碑は、和歌山県高野山奥の院34町石西にある。
御廟橋南西にある嘉永元年玉川碑歌碑横の小道を約10m登った平地に弘龍庵御墓所の標石が建てられている。
中央の墓石(歌碑)には、次のように刻されている。
(南面)南無阿彌陀佛
(東面)ありがたや南無阿弥陀仏の喜の
     供養の塔に身を納めなん
(西面)弘龍庵供養塔
     昭和二十七年九月二十一日
     和歌山県日高郡切目村 修道会

大中臣弘泰歌碑(日本最古の歌碑)

大中臣弘泰歌碑(日本最古の歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
「正和元年板碑」とも呼ばれ、奥の院御廟橋の北側、参道から約20m東側にある。

「紀伊國金石文集成」によると、総高250cm、幅35cmで、正面には次のように記されている。
  (梵字)出天地間五十七年
      清風迊空十音一聲
      南無阿弥陀佛
  いにしへハ はなさくはるに むかひしに
   にしにくまなき 月於ミるかな
  右頌歌者正和元(年)四廿七午尅
  大中臣弘泰法師沙弥心浄
  臨終之刻誦之率畢
    正和元年壬子六月 日
    大施主比丘尼心恵 敬白

木下浩良氏によると、大中臣弘泰が正和元年(1312)に亡くなる前に、
「古へは 花咲く春に 向かいしに 西に隈なき 月をみるかな」 と辞世を詠み、
妻と思われる大施主比丘尼心恵が造立したという。
板碑左側面には、沙弥道恵の筆になる梵字光明真言と無量寿経の四十八誓願の十八願が刻まれている。

紀州の文学碑・一二〇選には、次の解説がある。
「むかしは 花の咲く春に心が向いていたけれども 今は西の方にむかい、満月を仰ぎ見ていることだ」
(私は若い頃は華やかなもの、権勢のあるものにあこがれ、それを手に入れることが生甲斐だと思っていたが、
高野山にのぼった今は、西方浄土の仏陀をおがみ、満月のように澄み切った心をひたすら求めていることだ)といった意味。

板碑右側面には、建立に至る経緯が記載されている。
川勝政太郎氏によると、鎌倉幕府に属した大中臣弘泰という武家が、生前から高野山を慕っており、
同僚武家の藤原朝広沙弥西蓮と僧教圓が、尼心恵の依頼で建立したという。

愛甲昇寛氏によると、この塔婆は、辞世の和歌を刻んだ本邦最古の金石文として、
また真言道場である高野山に密教の梵字と浄土教の偈文を並べて表した卒塔婆として貴重であるとしている。



研暢、観広、本雄、友情の歌碑

研暢、観広、本雄、友情の歌碑は、和歌山県高野山奥の院35町石南にある。
御廟橋と燈籠堂の間にあり、みろく石の北西約10mに位置している。
高さ104cmの歌碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(南面)
(花紋) 研暢
      観広
      本雄
(西面)
嘉永七年 甲寅五月下旬建焉
(北面)
おもてにしるせるハ友のましはりを萬代まてもとむすひ
をきけるしるしにとて  高祖のつきせぬ苔の洞のほとりにかくして
たてをけるものなり

                    降魔場 研暢
ちきりおく御法の花の種なれハ匂ひもふかくこゝに咲らむ
                    降龍臺 觀廣
誓ひあるその暁はとをくとも花のにほへる春にあはまし
                    龍華閣 本雄
世々經とも猶友としてあかつきの法の教を我もきかなむ


(写真撮影禁止地域のため、現地の写真はありません。)

鶴澤清六歌碑

鶴澤清六歌碑は、和歌山県高野山奥の院35町石南にある。
御廟橋と燈籠堂の間にあり、みろく石の北側、陸奥宗光供養塔の北西にある。
四代目鶴澤清六の墓所内南側に次の歌碑(高さ49cm)がある。
(表面)
うつし身は
 ここにねむれど
  絃のわざ
妙なる音色
  永久に残らん
(裏面)
大野伴睦 松村謙三 (他)

同墓所内北側には、別の歌碑がある。
すめらぎと
ともに聴けるは
清六の
ちからこめたる
撥おともよし
     □□

日本の文学碑サイトでは、吉井勇 作と紹介されている。

(写真撮影禁止区域のため、現地の写真はありません)

昭和天皇御製歌碑

昭和天皇御製歌碑は、和歌山県高野山奥の院燈籠堂前庭にある。
昭和天皇皇后両陛下は、昭和52年(1977)4月18日19日に高野山を訪問した。
高さ2.76mの石碑には、次のように刻されている。
(前面)  御 製        侍従長 入江相政 謹書
 史(ふみ)爾(に)見る おくつきところを 越(を)可(か)みつつ
  杉大樹(おおき)並(な)むやま のほりゆく
(裏面)
  天皇 皇后両陛下には昭和五十二年四月十八日の両日高野山へ行幸遊ばされました
  その御砌特に御心を奥の院におとどめ遊ばされこの御製を賜りました
  文字は侍従長入江相政氏の謹書によるものであります
                  総本山 金剛峯寺

御製とは、天皇、皇族が作った詩文や和歌を指し、現在では特に天皇のものに限って用いられる。
「おくつきどころ」(奥津城所、奥都城所)とは、墓場、墓所をいう。
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。


(出典:天皇陛下皇后陛下高野山行幸啓記念 総本山金剛峯寺)

渡辺浩歌碑

渡辺浩歌碑は、和歌山県高野山大霊園にある。
石碑には、次の歌が刻されている。
  とむらへば 亡き子の墓も 雪積みて
   高野しづけき 季となりけり 
                     浩




(歌碑はありません)

谷崎潤一郎の歌

龍泉院

龍泉院は和歌山県高野山五の室谷にある真言宗の別格本山である。
本尊は藤原時代末期作の薬師如来(国指定重要文化財)で、西国薬師霊場第十番札所となっている。
開基は真慶律師で、承平年間(931-938)に開創されたと伝わる。
寺名は、かつて弘法大師空海が雨乞いの祈祷を行った「善女竜王の池」が側にあったことに由来している。
寺伝では、安和年間(968-970)に奈良興福寺の学僧仲算上人が再興し、寛喜年間(1229-1232)に小野流の頼賢によって興隆したといわれる。
毛利元就、佐々木高綱、楠正成といった武将が当院に帰依し、源氏や織田家との檀縁もあった。
以前隣接していた宝蔵院、西蓮院、泰雲院などを合併しており、泰雲院蔵の弘法大師作と伝わる木造竜猛菩薩立像は、「弘仁仏」と呼ばれ、国指定の重要文化財となっている。
宿坊として、檀信徒のみを受け入れている。

小滝圭三氏「高野ゆかりの文人たち」によると、谷崎潤一郎は37歳と46歳の時に高野山に滞在した。
昭和6年には、龍泉院の泰雲院で「盲目物語」を執筆したほか、次の歌を残している。
 南無大師遍照金
 剛おそろしや 
 高野の山のはる
 のいかつち
   潤一郎

 朝な夕なひゞきて
 六時の鐘のお
 とに添へてすゝ
 しき槙の下風
   於高野山
    潤一郎
 
南海高野線高野山駅からバスで高野警察前下車、徒歩3分。





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