紀北の女人伝承地を訪ねて
紀北の女人伝承地を巡ります。
恋し野の里中将姫旧跡は、和歌山県橋本市にある。
中将姫の父は、藤原豊成、母は紫の前で天平19年(747年)8月18日に誕生した。
5歳で母と死別し、7歳の時継母の照夜の前を迎えた。
姫は容姿端麗で叡智に富み、何ごとにも優れ、帝から中将の位を授かる。義弟の豊寿丸が誕生した頃から継母は姫を憎み、幾度も姫を殺害しようとするが姫は助かった。
さらに14歳の春、父の留守中に家臣の松井嘉藤太に命じて紀伊と大和の境の雲雀山で殺害させようとしたが、嘉藤太は罪もない姫を助けた。
姫は、十三仏や里人たちの温情に支えられ恋し野の里で二年三か月間様々な苦しみに耐えて、聞くも悲しい生活を送った。そして狩りに来た父と中将倉で涙の再開を果たし、奈良の都に帰った。
17歳の時當麻寺で剃髪し、法如比丘尼(ほうにょうびくに)となって藕糸(ぐうし)曼荼羅を織り、宝亀6年(775年)卯月14日29歳で波乱の生涯を静かに閉じた。
中将倉でさびしい日々を送っていた姫がかの雲雀山に来て、天国の母様を慕い、或いは恋し野の里で里人と戯れ、草花を摘みに去年川(こぞがわ)の渓谷を毎日渡るのに困ってかけた橋である。
この橋は、糸の懸橋であって、昭和初期まで県道の橋であったが、朽ちて流されていたのを中将姫旧跡保存委員会で昭和56年に復元した。
両橋詰に十三仏の中の阿閦如来(あしゅくにょらい)と地蔵菩薩が祀られている。
JR和歌山線隅田駅から徒歩20分。
雲雀山旧跡は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が14歳の時、継母の照夜の前の命令で、家臣の松井嘉藤太(かとうた)が、姫を板張りの輿にのせて、奈良の都からこの雲雀山に連れ出し殺害しようとした。
中将姫は、「これ嘉藤太や、私は日に六巻のお経を唱えている。このお経が終わればどうぞ首を討ちとってください。」と言って、西に向かってお経を唱えた。
松井嘉藤太は、その姫の姿を見て振り上げていた太刀を捨て、姫を守ることを決意した。その故事で雲雀山は、別名「太刀捨て山」と呼ばれる。
嘉藤太は、麓を流れる去年川(こぞがわ)の奥の岩陰に草庵を作って、妻のお松とともに2年3か月間隠れ住んだ。
謡曲「雲雀山」では、「大和紀の國の境なる、雲雀山にて」と、中将姫の物語が謡われている。
現地の去年川橋東詰には、田林義信和歌山大学名誉教授の次の歌碑がある。
「母を恋ひ 中将姫が揚雲雀 聞きけむ山ぞ 秋は紅葉す」
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩20分。
中将倉(中将姫旧跡)は、和歌山県橋本市赤塚の去年川沿いにある。
中将姫は藤原豊成の娘で、成長するにつれ、容姿端麗で英知に富んだことから継母の照夜の前に命を狙われた。
家臣の松井嘉藤太は、照夜の前の命で中将姫を斬ろうとしたが、可憐な姫の姿に心を打たれ、妻のお松と共にこの地に草庵を結んで、隠遁生活を送った。
2年3か月後、狩りに来て山路に迷った父の藤原豊成と、中将姫が涙の再会を果たした場所である。
坂の上には、姫の法名(法如比丘尼)にちなんだ法如池があり、十三仏の釈迦如来が祀られている。
中将倉と彫られた石碑には、次のように刻された銘板がある。
中将倉にさみだれ過ぎて
笹百合香る運堂
糸の細道露踏みゆけば
姫の読経か河鹿の声が
かなし去年川青葉かげ
ひばり山小唄より
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩約40分。
布経の松(別名三本松)と運び堂は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が、三本松の根方に立って手を振ると、五本の指先から五色の糸が出て松の枝から枝に渡され、美しい布が織られた。
天上に居る母に贈り物として合掌すると、布は天高く舞い上がり、紫雲たなびく七霞山の彼方へと消えていったとの伝説が伝わっている。
「布経(ぬのえ)の松」の由来となった松の木は、今は枯れてしまい石碑が残されている。
中将姫がいつも空腹をこらえながら、称讃浄土仏攝受経を読誦しつつ、この峠を訪れるのを里人たちが見て不憫に思い、ここにある辻堂に食べ物を運んだといい、いつしかこの堂を運び堂と呼ぶようになった。
この一帯を運び堂という地名にもなっている。
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩40分。
雲雀山福王寺は、和歌山県橋本市恋野にある真言宗御室派の寺院である。
中将姫が恋し野の里に建立した三の庵(雲雀山庵、滝谷垣内庵、運び堂で各々庵屋敷跡が残っている)を合併して、宝暦8年(1758年)に建立したといわれる。
本尊は木造阿弥陀如来坐像で橋本市の指定文化財となっている。
また脇侍として持国天、多聞天が安置されており、和歌山県の指定文化財となっている。
阿弥陀如来像は、阿弥陀如来九品印(くぼんいん)のひとつ上品下生(じょうぼんげしょう)(来迎印)を結んでいる。
檜材による寄木造、彫眼、漆箔仕上げの像で、ふくよかな頬部とやや彫りの浅い顔部から静かな落ち着きを感じさせる。像高87.2cm、平安時代末期の作品といわれる。
脇侍の天部立像は、甲を身に着けた憤怒武装形に表現され、仏法とそれに帰依する人々の護法神として信仰される。
この2躰の像はいずれも檜材による一木造りで、持ち物は欠損しているものの当初の美しい彩色文様の一部が残り、保存状態も良い。
像高99.0cm、98.0cmで平安時代中期の作品といわれる。
堂内には、中将姫の位牌(中将姫法如大菩薩)が安置されている。
境内には、葉書の木といわれる「タラヨウ多羅洋」が植えられている。
葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されている。
JR和歌山線隅田駅下車徒歩15分。参拝者用の駐車場がある。
貧女の一燈 孝女 お照 ゆかりの地
貧女の一燈お照の墓は、和歌山県かつらぎ町天野の里にある。
高野山奥の院の弘法大師御廟の拝殿は、燈籠堂と呼ばれている。
燈籠堂には、千年近くも燈明が輝いている「貧女の一燈」がある。
お照という少女が、自分の黒髪を売って養父母の菩提を弔うために献じた燈籠で、お照はその後、かつらぎ町天野に庵を結び、生涯を終えた。
天和2年(1682年)妙春尼によって供養塔が建てられ、貞受5年(1688年)天野の僧 浄意が女人の苦しみを救うために代受苦の行を十年間勤め、碑が建立された。その上には、実父母の墓と伝えられる碑がある。
JR和歌山線笠田駅から、かつらぎ町コミュニティバスで「丹生都比売神社」バス停下車徒歩5分。
京奈和自動車道紀北かつらぎインターチェンジから、国道480号線を車で約20分。近くに丹生都比売神社の駐車場がある。→ opera 「お照の一灯」 紀州かつらぎふるさとオペラ「お照の一灯」
むかし、和泉(いずみ)の槇尾山(まきおさん)のふもと横山村坪井に、奥山源左衛門(おくやまげんざえもん)・お幸(こう)の夫婦が住んでいた。
子宝にめぐまれるように、いつも槇尾山の観音様にお参りした帰り道、辻堂の軒下に、浪人の編み笠の中に子どもが捨てられ、声をかぎりに泣いていた。
夢中でかけ寄った二人は、子どもを抱き上げると、りっぱな絹の小そでに美しいたんざくがそえてあった。
千代(ちよ)までも ゆくすえをもつ みどり子を
今日しき捨(す)つる そでぞ悲しき
このとき、乳飲み子を捨てるせつない親心をさとった夫婦は、(きっと仏様が授けてくださったんよ)と喜んだ。
夫婦は、子どもに「お照(てる)」と名付けて大事に育てた。
月日のたつのは早いもので、小さかったお照はすくすくと美しく育ち、村いちばんのやさしい娘になったが、お照が十六歳になったとき、流行病でお幸が亡くなっってしまった。
お照の心のこもった手厚い介抱もむなしく、間もなく、父も後を追うようにこの世を去った。
父が息をひきとる前に、お照を枕元に呼んで、その生い立ちを話して聞かせ、実の親の形見を渡した。
あいついで両親を失ったお照は、一人ぼっちとなってしまったが、両親の墓参りを毎日欠かすことなく続けていた。
そしてお照は、旅人から高野山燈籠堂の話を聞き、両親のあの世の幸せを祈るため、冥土の道を照らすという灯を、「奥の院」にお供えしようと決心した。
けれども、奉公先で貧しいくらしのお照は、手元に燈籠供養料は用意できなかった。
お照はいろいろと考えたすえ、女の命とまでいわれる黒髪を切って、お金にかえることにした。
かもじ職人の家で髪を切り短髪となったお照は、小さな木製の灯ろうを買い求め、形見の品と両親の位牌とともに高野山へ向かった。
お照は、ささやかな一生のうちで、最初で最後の高価な買い物であったが、この燈籠で両親の魂が救われると思うと本当に嬉しかった。
しかし、ようやくたどり着いた神谷(かみや)の里で、高野山の女人禁制の掟てを聞かされた。
一心に思いつめてきたお照は驚いて途方に暮れ、旅の疲れで、その場にうずくまってしまった。
そのとき幸いなことに、高野山から足早に下りてきた若いお坊さんに助けられた。
夢のお告げで一人の娘のことを知らされて、急ぎかけつけて来たという。
お照はお坊さんとともに女人堂まで上り、うれし涙で頬を濡らしながら、燈籠を渡し、お照の燈籠も須弥壇に並べられた。
奇しくもその日は、薮坂の長者が一万基の燈籠を寄進した法会があり、奥の院で新しい一万個の燈籠に灯がともされ、おごそかなお経の声に包まれて、幻想的な光景となった。
長者は先祖の菩提を弔うという厚い信仰から寄進を申し出たが、羨望のまなざしを浴びるうちに、今までに誰もできなかったことを成し遂げたとの気持ちが強くなっていた。
長者は、ふと万灯に目をやったとき、見知らぬ一灯に気付き、
「あの小さな灯ろうは、だれのものか。」
と、僧に尋ねた。
「あれは貧しい娘がささげました。」
と、聞いたとたん、
「いやしい女の、明かりが何になろう。」
と、立ち上がろうとした。
するとにわかに風がふきこんで、数多の燈籠が吹き消され、お堂の中は真っ暗になった。
その暗やみの中に、一つの光明があった。両親の菩提を祈り、乙女の命の黒髪で納めた孝女お照の燈籠だった。
この不思議なできごとに、長者は自分の行いを心からはずかしく思い、両手を合わせたという。
それから、お照のともしびは「貧女の一灯」として、長い年月を一度も消えることなく、今もなお「奥の院」の燈籠堂で清い光を放っている。
その後、お照は長者の世話により、天野の里に庵をつくり、尼となった。
毎日まことのいのりをささげるお照は、いつしか天野の里人にも親しまれるようになっていった。
ある年の冬、粉雪がまう朝、お照は慈尊院への道すがら、行きだおれの老人を見つけた。
お照は、
「御仏(みほとけ)に仕える者です。どうぞ、庵においでください。」
と、抱き起こした。
すると老人は、
「かたじけない、どうかおかまいなく………。人の情(なさけ)にすがることのできない、罪深い男でござる。このたび高野山へ登り、お大師様のもとで一生を送りたいと、ここまで参った。どうか、ざんげ話をお聞きくだされ。」と
老人は長い旅の間に妻に先立たれ、困り果てたすえ槇尾山のふもとで、わが子を捨てたことを話した。じっと聞いていたお照は、源左衛門の話を思い出した。
(もしや、このお方がお父上様では………。)
と、はやる心をおさえながら、あのたんざくの和歌を静かに読んだ。
千代までも ゆくすえをもつ みどり子を…
「そ、その和歌を知っているあなたは、照女(てるじょ)………。」
「………お父上様………。」
両手をにぎる父親と娘は、この不思議なめぐり合わせをなみだを流して喜んだ。
その後、老人は高野山で僧になり、お照は天野の里で穏やかな祈りの一生を送ったという。
かつらぎ町では、お照の墓・庵の跡・父母の墓石の伝説が、ゆかしく語りつがれている。
(参考資料:和歌山の民話、新高野百景)
池内たけし句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂の東隣にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 朝寒や我も貧女の一燈を たけし
(後面) 昭和四十七年十月八日 別格本山普賢院
貧女の一燈は、奥の院燈籠堂にあり、消えずの燈明として知られている。
孝女のお照が、養親のために自らの黒髪を切り一燈を寄進したという。
池内洸(いけのうちたけし)(1889-1974)は愛媛県出身の俳人である。
高浜虚子の次兄池内信嘉の長男として生まれた。
能楽の振興に努めた家風の影響で、拓殖大学の前身である東洋協会専門学校を中退して宝生流の能楽師をめざしたが、師の宝生九郎の死で断念した。
大正2年(1913)頃から叔父の高浜虚子門下に入り、「ホトトギス」発行所につとめて指導を受けた。
昭和7年(1932)から「欅(けやき)」を創刊、主宰し、「たけし句集」「赤のまんま」などを発行している。
昭和49年(1974)に85歳で死去した。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。→ 高野山内の句碑
燈籠堂は、和歌山県の高野山奥之院にある。
燈籠堂は、弘法大師御廟の拝殿で、創建は弘法大師入定の年の翌年 承和3年(836年)にさかのぼる。
弘法大師の弟子の実恵、真然大徳が方二間の御堂を建てたのが最初である。その後治安3年(1023年)藤原道長によってほぼ現在の大きさのものが建立された。
堂内正面に、醍醐天皇から賜った弘法大師の諡号額、両側には十大弟子と真然大徳、祈親上人の12人の肖像が掲げられている。
堂内には、1000年近く燃え続けているといわれる二つの灯がある。
向かって右が、長和5年(1016年)に祈親上人が、廟前の青苔の上に点じて燃え上がった火を灯明として献じて高野山の復興を祈念したといわれるもので、祈親灯と呼ばれる。
髪の毛を売って献灯した貧女お照の物語に因んで「貧女の一灯」とも呼ばれる。
左には、寛治2年(1088年)に白河上皇が献じた「白河灯」があり、記録では上皇が30万灯を献じたとあり、俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
五来重は、著書「増補ー高野聖」において宗教民俗学の立場から、お照の一灯を献じた話は近世の聖が唱導したもので、
祈親上人が弘法大師以来の万燈会を復活することで、燈油皿一杯分の油の喜捨を勧めたとしている。
この他、ある皇族と首相により献ぜられた「昭和灯」のほか、地下を含めた堂内には、参拝者が献じた燈籠と弘法大師の小像が多数置かれている。
現在の建物は、昭和39年(1964年)に高野山開創記念事業として改修されたもので、桁行40.6m、梁間21.9mの大きさである。
また東側には昭和59年(1984年)の御入定千百五十年記念事業として記念燈籠堂が落慶した。
燈籠堂前庭には、昭和天皇御製歌碑がある。
燈籠堂の入口左右の対聯には、次の文の後半が掲げられている。
我昔遭薩埵 親悉傳印明
發無比誓願 陪邊地異域
晝夜愍萬民 住普賢悲願
肉身燈三昧 待慈氏下生
われ昔薩埵(さった)にあひて、まのあたり悉く印明をつたふ
無比の誓願をおこして 辺地の異域に侍(はべ)り
昼夜に万民をあはれんで、普賢の悲願に住す
肉身に三昧を証じて 慈氏の下生をまつ
この文は、弘法大師に大師号が下賜され、勅使中納言資澄(すけずみ)卿と般若寺の僧正観賢が高野山に下向し勅書を奏上した際、
入定中の弘法大師が醍醐天皇への返事として言われた言葉として、平家物語「高野巻」に記されている。
「自分は昔 金剛薩埵に遭って、直接目の前で印明をことごとく受け伝えた。
比類なく貴い誓願をおこして、辺地の高野山におります。
毎日毎夜万民をあわれんで、普賢菩薩の慈悲深い誓願を行おうとしている。
肉体のままで入定し、三昧の境地に入って、弥勒菩薩の出現を待っている。」(日本古典文学全集「平家物語」)
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。
奥之院萬燈会は、10月1日から3日まで燈籠堂で行われる。
午後7時に御供所を出て、燈籠堂で約1時間声明が唱えられる。
学文路苅萱堂(西光寺)は、和歌山県橋本市にあるお堂である。
苅萱道心、石童丸物語の舞台として知られている。
石童丸物語は、中世以来高野聖の一派である萱堂聖によって語られてきた苅萱親子の悲哀に満ちた物語で、
江戸時代には、説経節「かるかや」、浄瑠璃「苅萱桑門筑紫𨏍(かるかやどうしんつくしのいえづと)」(1735年大阪豊竹座初演)や琵琶歌となって、広く世に知られた。
出家した父道心を探して、高野山を目指した石童丸と母千里ノ前は、女人禁制のため母を玉屋旅館に残し、石童丸が一人で高野山に登った。
道心は出家の身で、「あなたの父は、すでに亡くなられた。」と偽って、石童丸を学文路へ帰したが、母はすでに亡くなっていた。
石童丸は再び高野へ上り、苅萱道心の弟子となったが、二人は親子の名乗りをすることなく仏道修行した物語である。
堂内には、苅萱道心、石童丸、千里ノ前、玉屋主人の像が安置され、千里ノ前の遺品とされる人魚のミイラや如意宝珠、石童丸の守り刀などが残されている。
これらは、「苅萱道心・石童丸関係信仰資料」として、橋本市の指定民俗文化財となっている。
平成5年(1993)には、千里ノ前の塚(名号「健泰妙尊大姉(けんたいみょうそんだいし)」)が供養のため旧玉屋屋敷跡から苅萱堂本堂南側に移された。
毎年3月には千里ノ前の法要が行われる。
学文路苅萱堂保存会では、明治40年刊行の「苅萱親子一代記」をもとに、平成8年(1996)に「石童苅萱物語」を発行して、石童丸物語の伝承に努めている。
南海高野線、学文路駅下車、徒歩10分。 → 苅萱堂、苅萱堂跡 石堂地蔵(苅萱地蔵)
旧玉屋屋敷跡は、和歌山県橋本市学文路にある。
玉屋は石童丸物語の千里の前、石童丸母子が止まった宿として知られている。
紀伊国名所図会の(学文路)苅萱堂の項に次のように記されている。
(略)昔の妻 千里の前、(加藤左衛門尉)繁氏の母より傳へ持ちたる石を懐中して、(略)出産ありし男子に石堂丸(石童丸)と名(なづ)け、十四歳のとし、母諸共に(略)此里にきたり。
昔筑紫にて玉田與藤次(たまだよとうじ)といへる浪人の、今は此里にて、玉屋與次(たまやよじ)といへる者の宿にて、病の床に伏し、終に永萬元年酉三月二十四日の朝の露と消失せられしを、健泰妙尊大姉と戒名を授けて葬るとなむ。
南海高野線学文路駅から徒歩約10分。
苅萱堂跡(椎出道)は、和歌山県九度山町にある。
江戸時代に書かれた紀伊国名所図会巻之四には、学文路村にある苅萱堂の絵が大きく描かれている。
大正14年(1925年)に、南海鉄道が九度山駅から高野下駅まで延長され、高野山参詣の人々が高野下駅のある椎出から徒歩で登ることとなった。
そのため、人通りの減少した学文路の苅萱堂を椎出道に移したものである。
しかし、昭和3年(1928年)に高野山電気鉄道が高野下・紀伊神谷間の営業を開始し、翌年極楽橋駅まで延長されたため、椎出から登る人はなくなり、荒廃した建物と苅萱堂と記された石柱が残されている。
建物内は、弘法大師の絵も残されており、往時の様子が偲ばれる。
南海高野線高野下駅下車、徒歩1時間45分。
密厳院は和歌山県高野山往生院谷(蓮花谷)にある真言宗の準別格本山である。
本尊は金剛界の大日如来を祀っている。
密厳院は興教大師覚鑁上人の私坊で、大治5年(1130)の建立と言われている。
覚鑁上人は、密厳上人とも称したので、その寺名が起こった。
天承元年(1131)、覚鑁上人は鳥羽上皇の臨幸を仰いで、高野山に大伝法院を建立した。
長承元年(1132)には、鳥羽上皇臨幸のもとで、密厳院のお堂の落慶供養が行われた。
落慶と同時に紀伊国相賀荘が寺領として、鳥羽上皇から認められた。
しかし、その後高野山衆徒と覚鑁上人との確執で、保延6年(1140)密厳院は焼き討ちにあい焼失した。
上人は根来の豊福寺に退き、根来寺を建立して、後の新義真言宗の基礎を作った。
密厳院は、近世には苅萱堂を中心とした安養寺成仏院の子院となっていた。
現在の建物は、昭和6年(1931)に改築されたものである。
堂内には、興教大師覚鑁像と弘法大師空海像が祀られている。
山門脇の苅萱堂には、石堂丸にまつわる伝説が額で飾られており、山門前には石堂丸の母千里姫の墓が建てられている。
南海電鉄高野線高野山駅からバスで、苅萱堂前下車。
苅萱堂は、和歌山県高野町にあるお堂である。
本尊は親子地蔵尊で、堂の裏手の密厳院が管理している
苅萱堂が有名なのは、中世半ば、高野聖の一派で心地覚心(法燈大師)を祖とする萱堂聖の本拠地となったためで、彼らは唱導文芸をもって全国を遊芸した。
高野聖によって全国津々浦々で語られたのが、「石童丸物語」である。
筑前博多の守護加藤兵衛尉繁昌(苅萱道心)と、石童丸が父子を名乗らないまま対面し、仏道修行した物語を絵にした額が堂内にかけられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「刈萱堂前」下車すぐ。
おしょぶ池は、和歌山県九度山町の勝利寺東側にある。
この池については、次のような伝説が残されている。
江戸時代、慈尊院村におしょぶという手先の器用な優しい娘が住んでいた。
おしょぶは、毎日お針の稽古に通って、着物や帯などを縫うのを楽しみにしていたが、家が貧しく他の娘のようにきれいな布を買ってもらうことができなかった。
そのようなある日、彼女は勝利寺へお針の稽古に行く途中、この池の中にぴかぴかと光る美しい布があるのを見つけ、それが欲しくてたまらなくなり池に入っていった。
すると、突然その布は恐ろしい大蛇に変わって、おしょぶを咥えて池の中に消えたという。
その後、「おしょぶ恋しや勝利寺の池に 帯が欲しさに身を投げた」というわらべうたが歌われるようになった。
また、村人たちは、霊を慰めるため、針供養をしたという。
今でも、この池に針を投げると、裁縫が上手になると言い伝えられている。
女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。
女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉(きのととり)の。五月十五日なりしとぞ。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社
江戸時代に書かれた紀伊名所図会の「女人堂」の項には、高野山の女人禁制について、次のように記されている。
紀伊名所図会 女人堂
〇女人堂
諸国より参詣の女人投宿する所なり。
七口各(おのおの)堂ありといへども、此堂最大なり。
当山の内院に女人を禁ずる事、古(いにしへ)詳論あり。今具(つぶさに)陳ずるに及ばずといへども、いささか女児の為に其一端を述べむ。
惟(おもんみ)るに大師豈(あに)婦女を忌み給はんや。
其「誥記(こうき)」には、「女はこれ萬姓の本(もと)、氏族を廣め家門を継ぐ」とのたまへり。
然れども是と親近する時は、互に視聴の慾に誘われて、貞良如法(ていりょうにょほう)の弟子といへども、意外の過(あやまち)なきにしもあらず。
故(かるがゆえ)に「是を親むこと厚ければ、諸悪の根源嗷々の本なり」と示したまへり。
且弘仁聖主の勅(みことのり)にも、男の尼寺に入り、尼の僧院に赴く事を制したまふ。
迷源を塞ぎ慾根を断つ、聖慮祖意(せいりょそい)の深き所、其辱(かたじけな)きを察知すべし。
若(もし)有信の女子、一度(ひとたび)登詣してこの堂に宿し、遥(はるか)に伽藍を拝礼し、合絲聚塵(がっししゅじん)の微貨に拘らず、随分の功徳を修せば、
其良縁に因りて、忽(たちまち)長夜の迷室を出で、永く一真の覚殿に入らむ事うたがふべからず。
小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠(地蔵堂)である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、
三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で熊と共に生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂口に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、江戸時代に建立されたもので、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。→ 出雲崎散歩 町の話 高野山女人堂
不動坂口は、和歌山県高野山にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、不動坂口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
不動坂口 又京口ともいふ。一心院谷にあり。小田原谷にて大門口より入るものとあふ。神谷辻迄五十町。
此道登山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えてくるものと、
清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり。(後略)
谷上女人堂跡は、和歌山県高野山女人道にある。
高野参詣道の麻生津道・花坂道の女人堂があった場所である。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
谷上 壇場の正北にあり。東は本中院谷につづく。
谷上の義 一の瀧の條下に見ゆ。
壇場より嶽辨天へ通ずるの往還なり。
嶽弁財天は、和歌山県高野山にある七弁天のひとつである。。
高野山の外八葉と呼ばれる山の一つ弁天岳の山頂に祀られている。
高野山大門の北側に登山口があり、女人道参道に建ち並ぶ鳥居をたどっていくと、約30分で弁天岳の頂上(標高984.5m)に到着する。
女人道の杉木立の間からは、根本大塔を見下ろせる場所があり、かつては高野山に参詣した女性が、女人道から手を合わせたといわれている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
相傳ふ 大師 佛法紹隆福田のため 寶珠を此峰に痊埋し 寶瓶を安置して天女を勧請す
其後 妙音坊といふ天狗常に守護すといふ
南海高野線高野山駅からバスで大門前下車、徒歩30分。
龍神口(龍神口跡)は、和歌山県高野山大門南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、龍神口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
龍神口 又湯川口といひ、保田口あるひは簗瀬口ともいふ。
大門の左に通ず。龍神より十三里餘。
此道當山坤(ひつじさる)方の入口にして、
日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると、
新村にて合して大門に入る。
高野七口のひとつ「相ノ浦口」にあった女人堂の跡である。
相ノ浦口は、龍神、有田から高野槙の産地相ノ浦を経由して高野山に至る相ノ浦道ルートと女人道ルートの交差する地点である。
紀伊続風土記の「総分方巻之十二南谷」には、次のように記されている。
女人堂 山の堂ともいふ
本尊 地蔵菩薩 大師の作 南谷六地蔵の其一なり
六時の辻の南五町餘にあり 参詣の女人此所に宿す
當山七口の其一にて相浦口といふ
下乗札あり 花園荘相浦村まで壱里十一町許
大滝口女人堂跡は、和歌山県高野町にある。
高野山への七つの参詣道は高野七口と呼ばれ、女人禁制が解かれるまで女性はそこから山内に入れず、各入口には女性のための籠もり堂として女人堂が建っていた。
それらの女人堂を結ぶ道が当時の女性が歩いた道「女人道」として、現在も残っている。
大滝口女人堂跡は、高野七口の一つ「大滝口」にあった女人堂の跡である。
熊野参詣道のひとつ「小辺路」(こへち)の起点であり、高野山から大滝を経由して熊野につながる。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。(中略)
大瀧口 又熊野口といふ。小田原谷に通ず。此道當山東南の入り口なり。
熊野本宮に詣(けい)し、夫より絶嶮の深山幽谷を経て、凡(およそ)十五里にして高野に至る。(後略)
轆轤峠(ろくろとうげ)は、大滝口女人堂のあった場所で、女人禁制の頃、この峠付近から高野山内を、首を伸ばして見たという女性たちの姿からその名がついたと言われている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
轆轤峠 下乗檄あり
六時鐘の辻より東南へ去る事十町餘 當山七口の一なり
熊野参詣の路にして大瀧村まで壱里餘
円通律寺は、和歌山県高野山の蓮華(れんげ)谷から南へ一山越えた清閑な谷間にある。
本堂・坊舎(庫裏)・鐘楼門・宝庫・鎮守社・所化寮などの建物からなる。
霊岳山律蔵院と号し、本尊は釈迦如来(木造坐像、国指定重要文化財)である。。
古くは専修往生(せんじゅおうじょう)院と称し、高野山の別所のうち教懐によって開かれた小田原(おだわら)別所、覚鑁系の徒によって相続された中(なか)別所、明遍による東(ひがし)別所に対して新(しん)別所(真別処)ともよばれた。
別所とは、念仏聖の集まっているところをいう。
空海の十大弟子の一人智泉大徳の開基と伝え、智泉没後荒廃していたのを、文治年間(1185-89)に奈良東大寺再建の大勧進職をつとめた俊乗房重源が再興、専修念仏の道場としたという。
当時、源空や熊谷蓮生房等が登山して重源と好誼を結んだと言われる。
その後、重源が源頼朝の招請に応じて鎌倉に下向したため衰退したが、江戸時代 慶長17年(1612年)、2代将軍徳川秀忠に仕えていた山口修理亮入道重政(剃髪して「深慶」と呼ばれた)は、玄俊とともに重源の跡を慕って再興を図った。
元和5年(1619年)に再興なって、賢俊房良永を中興として招請した。
以後、真政房円忍・恵深房妙瑞・密門房本初・密乗房龍海など戒律堅固の住持に受継がれて今日に至っている。
江戸時代には末寺は大和国六院、和泉国・下総国各一院、摂津国二院、伊予国七院があった(紀伊続風土記)。
近代に入り、長く大会(だいえ)堂(蓮花乗院)が寺務を兼帯していたが、近年金剛峯寺に移管され、同寺座主が住職を兼ねる。
現在、事相講伝所が開設され、修行専門の道場となっており、拝観はできない。
参道入り口には、「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」「大界外相(だいかいげそう)」の結界石がある。
年に一度、旧暦4月8日に花盛祭が行われ、その時には参拝者も入ることができる。
国指定重要文化財の紙本著色十巻抄・紙本白描不動明王二童子毘沙門天図像がある。
2019年4月に本尊を安置する檀の下から「高野山奉納小型木製五輪塔」が見つかった。
2021年2月に国の文化審議会は、五輪塔と関係資料を登録有形民俗文化財とするように答申した。
南海高野線高野山駅からバスで、苅萱堂前下車、徒歩30分。
大峰口女人堂跡は、和歌山県高野山女人道23ポイント東側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれ、女人禁制が解かれるまで女性はそこから先の山内には入れず、
各入口には女性のための籠り堂として女人堂が建っていた。
当地は大峰口にあった女人堂の跡である。
大峰山から、洞川、天川を経て高野山に至る約59㎞の参詣道が大峰道と呼ばれた。
現地の案内板には、次のように記されている。
女人堂跡
ここには、五大尊堂があり、その脇に東口(大和口又は大峰口)の女人堂があった。
五大尊堂の本尊は、不動明王、大威徳、降三世、軍荼利、金剛夜叉で、明治時代の中頃までこの場所にあった。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩30分。中の橋駐車場から徒歩30分。
高野七口「東口」は、和歌山県高野山女人道にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
東 口
大和口又は大峰口ともよばれ、吉野より大峰山、洞川、天川を通り
高野山へとつながる修験道の道で弘法大師が高野山へと初めて入ったのもこの道です。
吉野から高野山に向かう道は、「弘法大師の道」「高野山発見の道」などと呼ばれる。
「Kobo trail」というトレイルランニングのイベントが行われる。
大峰口は、和歌山県高野山中の橋駐車場南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、大峰口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
大峰口 又東口といひ、野川口ともいふ。蓮花谷に通ず。大峰より凡そ十五里。
此道當山東方の入口にして、大峰山上より洞川に下り、天川を経て天狗木より入る。
俗此道筋を七度半道といふ。一度此道より登詣すれば、功徳七度半にあたるとぞ。
黒河口女人堂跡は、和歌山県高野町にある。
黒河道(くろこみち)は、和歌山県伊都郡にある高野参詣道の一つで、橋本市賢堂(かしこどう)から高野山千手院谷にある高野七口の一つ黒河口まで通じている。
紀伊續風土記の黒河村の項目には、「黒河は暗谷の義にして狭き谷のことなるへし」と書かれている。
橋本から高野山への近道とされ、また大和からの参詣客がしばしば利用することから、大和口とも呼ばれた。
黒河口女人堂は、高野七口にあった女人堂の一つで、現在は跡地に木製の案内板が建てられている。
南海高野線高野山駅からバスで高野山警察前下車、徒歩5分。
高野七口と高野山参詣道、登山路
入谷和也氏の「はじめての高野七口と参詣道入門」によると、
「高野七口」とは、高野山への代表的な参詣道や高野山の出入口または高野山への登山路の総称として用いられた。
七口名称 | 天正治乱記 の七口名称 |
元禄8年地図 の七口名称 |
他の名称 | 参詣道、登山路 | 主な経由地 | 備考 |
大門口 | 麻生津口 | 西口 | 町石道 | |||
矢立(八度)口 | 三谷道 | |||||
花坂口 | 麻生津道 | |||||
若山(和歌山)口 | 安楽川道 | |||||
細川道 | ||||||
不動坂口 | 学文路口 | 不動口 | 京大坂道 | |||
京口 | 槇尾道 | |||||
大坂口 | 東高野街道 | |||||
神谷(紙屋)口 | 西高野街道 | |||||
中高野街道 | ||||||
下高野街道 | ||||||
黒河口 | 大和口 | 黒川口 | 黒河道 | |||
千手院口 | 粉撞道 | |||||
粉撞峠口 | 仏谷道 | |||||
久保口 | 丹生川道 | |||||
太閤道 | ||||||
大峰口 | 大峰口 | 東口 | 大峰道 | |||
蓮華谷口 | 荒神道 | |||||
野川口 | 弘法大師の道 | |||||
大和口 | 高野山発見の道 | |||||
摩尼口 | ||||||
大滝口 | 熊野口 | 大瀧口 | 小辺路 | |||
熊野口 | ||||||
小田原口 | ||||||
相浦口 | 相浦口 | 相浦道 | ||||
龍神口 | 龍神口 | 湯川口 | 有田龍神道 | |||
保田口 | 辻堂口 | |||||
湯川口 | ||||||
梁瀬口 | ||||||
保田口 | ||||||
有田口 | ||||||
日高口 | ||||||
横笛の恋塚は、和歌山県かつらぎ町天野の里にある。
平家物語巻第十で、建礼門院に仕えた「横笛」の悲恋の物語が描かれている。
平重盛の家来 斎藤時頼(滝口入道)は、美しい横笛に心をひかれ、互いに愛し合うようになった。
しかし、時頼の父は、「世にあらむ者(栄えている平家一門)」が「世になき者(身分の低い者)」を思うのは許されないと厳しく諫めた。
そのため、時頼は嵯峨野の往生院で出家して、名前を滝口入道と改めた。
横笛が滝口入道に会いたい一心で、嵯峨野まで行ったが、入道は「ここには、そのような人はいない。」と答えさせ、女人禁制の高野山「清浄心院」に移って、さらに厳しい修行を重ねたという。
横笛は、奈良の法華寺で仏門に入った後、高野山に近い天野の里で庵を結び、19歳の春に亡くなったと伝えられている。
横笛の恋塚は里人が建てたもので、滝口入道と横笛の詠んだ次の歌が紹介されている。
「そるまでは うらみしかども あづさ弓 まことの道に いるぞうれしき」(入道)
(あなたが尼になるまでは、私のことを恨んでいたが、そのあなたも仏道に入ったと聞いてうれしい)
「そるとても なにかうらみむ あづさ弓 ひきとどむべき こころならねば」(横笛)
(尼になったといっても、何も恨む事はない。とても引き止めることのできるようなあなたの決心ではないから)
塚の横にある石碑には、高野山大圓院住職第八世瀧口入道との相聞歌「横笛の歌」が刻されている。
やよや君 死すれば 登る高野山
恋も菩提の 種とこそなれ
JR和歌山線笠田駅から、かつらぎ町コミュニティバスで「旧天野小学校前」バス停下車。
神田地蔵堂は、和歌山県かつらぎ町の神田(こうだ)の里にあり、町石道の112町石の近くのお堂である。
神田の里には、丹生都比売神社に米を献納する神田があった。
この地蔵堂は、平安鎌倉時代の高野参詣の人々の休憩所として使われた歴史があり、堂内には弘法大師像、子安地蔵、応其上人像が安置されている。
紀伊続風土記には、「東高野街道往還にあり」と記されている。
昭和時代初期にも、この堂で参詣者がお茶の接待を受ける習俗が残っていたといわれる。
高野山多聞院の縁起には、滝口入道(斎藤時頼)を慕った横笛が出家し、天野の里に草庵を構えて住んだところと書かれている。
高野山への参詣には、この地蔵堂の前を通るため、横笛は此処まで出向いて、滝口入道に会える機会を願ったといわれる。
その際、横笛が高野山に登る僧に託した次の歌が知られている。
「やよや君 死すれば登る高野山 恋も菩提のためこそなれ」
南海高野線上古沢駅下車、徒歩約1時間。→ 高野山町石道を登る
大円院は、和歌山県高野町高野山にある。
大円院は、光仁天皇の時代、延喜3年(903年)聖宝大師理源(しょうほうたいしりげん)が開いたもので、かつては多門院と呼ばれていた。
理源は、空海の高弟で実の弟であった真雅(しんが)の弟子となり真言密教の門に入り、後に京都醍醐寺を開いた人物として知られている。
そして鎌倉時代に、豊前豊後の守護職を務めた大友能直(よしなお)が帰依して、師檀契約を結んだ。
その後、1600年頃、戦国武将立花宗茂(むねしげ)(福岡柳川藩主)が高野山に登り、住職であった宣雄(せんゆう)阿闍梨に帰依し、宝塔を建立した縁で、宗茂の院号(大圓院殿松隠宗茂大居士)から、「大圓院(大円院)」と寺号を改めた。
寺内には、横笛ゆかりの瀧口入道旧蹟がある。
瀧口入道旧蹟 鶯の井戸は、和歌山県高野山大圓院にある。
平家の嫡男平重盛に仕えていた斎藤時頼という武者が、花見の宴席で建礼門院の雑仕女 横笛と恋に落ちる。
しかし、身分の違いから結ばれることはなかった。
時頼は、未練を断ち切るために出家し、瀧口入道を名乗り、女人禁制の高野山に移り住んで大圓院で修行を重ねた。
一方、横笛も出家し、奈良の法華寺で尼僧となっていたが、病となり高野山の麓の天野の里で亡くなった。
そのとき、横笛は鴬となって瀧口入道の居る大圓院に向かった。
瀧口入道が、梅の木に止まる鴬に気づいたところ、鴬は突然舞い上がり井戸に落ちたという。(「平家物語」巻第十)
大圓院の境内には、その井戸が残され、本尊の阿弥陀如来の胎内には、鴬の亡骸が納められているといわれる。
また高山樗牛は、明治27年に発表した小説「滝口入道」で、瀧口入道が高野山で平重盛の子維盛と再会する場面を描いている。
一方、五来重は、「増補 高野聖」で、宗教民俗学の立場から次のように記している。
ただわれわれは高山樗牛のように、そのセンチメンタリズムに幻惑されて聖の現実の姿を見失ってはならない。
滝口の侍 斎藤時頼も建礼門院の雑司女横笛も、もちろん実在ではない。
しかし「平家物語」が本筋からそれて、こんなフィクションをエピソードしていれるのは、
この文学の成立にあずかった高野聖のすがたを発心物語として出したかったからであろう。
南海高野線高野山駅からバスで小田原通下車すぐ。
丹生山薬師院妙楽寺は、和歌山県橋本市にある真言律宗の寺院である。
弘仁11年(820年)嵯峨天皇の勅願寺で、大森の社の西に七堂伽藍を草創したといわれる。
その後、永仁年間(1293-98)に最明寺時頼が再興して現在地に移したが、寛正4年(1463年)に焼失した。
文明5年(1473年)僧悟阿が諸方に勧進して再建したが、天正年間、織田氏高野攻めの時、高野山の衆徒が焼き払ったといわれる。
当寺は、創建の頃僧空海の姪「如一尼」の居たところで、以後尼寺となり、永仁6年(1298年)関東から祈祷寺三十四箇寺を定めた内、尼寺七箇寺の一つである。
本堂が焼失したため、妙楽寺再建・再興委員会が一石一経による再建を目指している。
本尊の木造薬師如来坐像は、橋本市郷土資料館に保管されている。
また、嵯峨天皇の女御とち姫宮に供奉して当寺に移った青待之衆一二人の記録の写しが残されている。
南海高野線、JR和歌山線橋本駅下車、徒歩7分。
兒滝(ちごのたき)は、和歌山県高野町の清不動堂の北約50mにある。
京大坂道(不動坂)を登ると道標のある左手に、林立する樹木の合間から滝が見え、兒滝(稚児滝)と呼ばれている。
滝の名称については諸説あるが、江戸時代後期編集の「紀伊続風土記」には、
「昔兒の捨身せし所といひ傳ふ」とある。
「紀伊名所図会」には、次のように記されている。
兒滝 花折坂の下にあり。昔兒の捨身せし所といひ傳ふ。
一帯の清泉、積翠萬畳(せきすいばんでふ)の中より流失し、
こ々に至りて直下千尺、珠砕け玉踊る天工、言語の及ぶ所にあらず。
また「遥かに見下せば一条の白布ななめに翠壁にかかる」と古書に記された美しい滝である。
宝永5年(1708)に初演された近松門左衛門作の浄瑠璃「心中万年草」では、
高野山吉祥院の成田粂之助と神谷の雑賀屋の娘 お梅が、この世では実らぬ恋をはかなんで、兒滝を経て、女人堂で心中する様子が次のように浄瑠璃で語られる。
死出の山路を越ゆるかと 心細しや卒塔婆谷。(中略) 今宵散り行く初桜 児が滝とぞ涙ぐむ。
(中略) 一つ回向の水汲めや 手向けの梅の花折り坂 辿り越ゆれば暁の 五障の雲に埋もるゝ 女人堂にぞ着きにける。
(出典 「曽根崎心中 冥途の飛脚 他五篇」 岩波文庫)
南海高野線極楽橋駅下車、徒歩20分。
慈尊院は、和歌山県伊都郡九度山町にある高野山真言宗の寺院である。
空海(弘法大師)が816年に高野山を開山した際、金剛峯寺の建設と運営の便を図るため、慈尊院が山麓の拠点として開かれた。
以来高野山領の発展と共に整備され、高野山の玄関口として「高野政所」と呼ばれていた。
空海の母玉依御前は、この地で亡くなったと伝承されており、その廟所に弥勒菩薩を安置したところとして知られている。
弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。
後世「女人高野」といわれ、女人禁制の高野山に対して、女性の参拝客も多い。
有吉佐和子の小説「紀ノ川」にも、親子二代続けて安産祈願の乳形を奉納する寺として描かれており、現在も信仰は続いている。
本尊の木造弥勒仏坐像は国宝である。
参詣道「高野山町石道」の登り口にあり、参詣者が一時滞在するところともなっている。
境内には、高野山案内犬ゴンの石碑が建てられている。
ゴンは、昭和時代の紀州犬と柴犬の雑種で、いつしか慈尊院をねぐらとして、高野山町石道の約20㎞の道のりを、高野山上の大門まで参詣者を道案内し、慈尊院まで戻っていた。
2002年6月5日にゴンは亡くなったが、境内の弘法大師像の横に石碑が建てられた。
本堂弥勒堂は世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩25分。
山門前と東側100メートルのところに駐車場がある。
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