高野山案内 女人道 恵光院 壇上伽藍 金剛峯寺
230620
スタート 女人堂 → 女人道 → 高野山大門 → 恵光院(昼食) → 壇上伽藍 → 金剛峯寺
距離 約8km 約4~5時間
不動坂口は、和歌山県高野山にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、不動坂口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
不動坂口 又京口ともいふ。一心院谷にあり。小田原谷にて大門口より入るものとあふ。神谷辻迄五十町。
此道登山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えてくるものと、
清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり。(後略)
女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口(京口)のものだけである。
近松門左衛門は、浄瑠璃「高野山女人堂心中万年草」で、高野山南谷吉祥院の小姓 成田久米之介と神谷の雑賀屋の娘 お梅の心中を描いている。
女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
「お竹地蔵」は、高野山上の鋳堂製仏像として最大のものである。
台座の銘文によると、江戸元飯田町の「横山たけ」が延享2年(1745)5月15日に建立した。
同人が亡くなった夫の供養のため高野山に登山し、女人堂で参籠しているとき、地蔵が夢に現れたことから、地蔵尊の建立を思い立ったと伝えられている。
「高野山独案内名霊集」では、お竹地蔵は「地蔵菩薩大銅像」として次のとおり紹介されている。
施主は舊江戸元飯田町。横山たけ女にて。比翼連理を契りてし。戀(こ)ひしの夫(つま)に死に別れ。
悲嘆の涙やるせなく。弔いさへも懇(ねんごろ)に。すまして亡夫の白骨を。頸に掛けてぞ泣々(なくなく)も。
高野の山に詣で来つ。女人堂に通夜して。地蔵菩薩の示現をば。霊夢の中に蒙むりて。その報恩のしるしにと。
菩薩の像を鋳造し。千代まで朽ちぬ赤心を。残して御山に納めしは。延享二年乙酉(きのととり)の。五月十五日なりしとぞ。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。→ 小杉明神社
小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠(地蔵堂)である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、
三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で熊と共に生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂口に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、江戸時代に建立されたもので、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。→ 出雲崎散歩 町の話 高野山女人堂
巴陵院は、和歌山県高野町高野山の準別格本山である。
「禁裏御所坊」といわれる、皇室ゆかりの格式ある寺院である。
開基は不詳で、大永5年(1525年)後柏原天皇の第三皇子青蓮院宮尊鎮(そんちん)親王が当院に寓居し、以降小田原御所坊と称した。
創建当初は、「福蔵院」と呼ばれていたが、戦国時代から江戸時代にかけて相馬家、高木家、伊達家などの諸大名の菩提寺となった。
そして承応2年(1653年)に相馬義胤(よしたね)の法号にちなんで、「巴陵院」と寺号を改称した。
小田原谷安養院の南にあったが、昭和初期に現在地に移った。
本尊は、鎌倉時代作の阿弥陀如来である。寺宝には、親鸞直筆の「時雨の御影」、日本最古の霊石といわれる本願石などがある。
葛城修験との関係が深く、本堂には役行者像と法螺貝が安置されている。
6月第1日曜日には、紫燈大護摩が行われる。
また、円弁法師が唐船や高麗船などの貿易船の祈祷を行って以来、海上安全の祈願所になっている。
南海高野線高野山駅からバスで一心口下車すぐ。→ 伊達宗重夫妻供養塔 大光寺 しぐれ松
明恵上人供養塔は、和歌山県高野山一心院谷にある。
明恵上人(1173-1232)は、鎌倉時代の華厳宗の学僧で、高山寺を再興したことで知られる。
昭和4年に発行された「高野山のしをり」には、次のように記されている。
明惠上人墓
案内所の後山にあり。上人は栂の尾山の大徳なり。當国有田郡に生れ、舊里内崎山寺を創建して住すること四年。
去りて栂の尾に還る。安貞二年貞暁上人の招請に応じて登山し、此地に住せり。
一夏中観坐せしに、所観の阿字光を放てり。因りて其住坊を阿光院と称す。この地はその舊跡なり。
案内所とあるのは、「参詣人所縁坊取調案内所」で、全国からの参詣客の該当宿坊を調べて案内するところで、不動坂口女人堂から2町離れたところにあった。
南海高野線高野山駅からバスで一心口下車。バス停横の登り口から約30m。
高野山コウヤマキ希少個体群保護林は、和歌山県高野山の女人堂付近にある。
女人堂前の案内板には、次のように記されている。
高野山コウヤマキ希少個体群保護林
Koyamaki Protected Forest
大昔は世界中に広く分布していましたが、約1万年前までにはほぼ滅びてしまって、
今では日本と韓国の一部(済州島)にだけ生えているコウヤマキ。
とくに、これだけの規模のコウヤマキの純林は、世界でここ高野山にしかありません。
コウヤマキ : 高野槙、高野槇 学名 Sciadopitys verticillata
(英文 中略)
ここ(女人堂)から遊歩道で約20分です。ぜひご覧ください。
林野庁 和歌山森林管理署
谷上女人堂跡は、和歌山県高野山女人道にある。
高野参詣道の麻生津道・花坂道の女人堂があった場所である。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
谷上 壇場の正北にあり。東は本中院谷につづく。
谷上の義 一の瀧の條下に見ゆ。
壇場より嶽辨天へ通ずるの往還なり。
嶽弁財天は、和歌山県高野山にある七弁天のひとつである。。
高野山の外八葉と呼ばれる山の一つ弁天岳の山頂に祀られている。
高野山大門の北側に登山口があり、女人道参道に建ち並ぶ鳥居をたどっていくと、約30分で弁天岳の頂上(標高984.5m)に到着する。
女人道の杉木立の間からは、根本大塔を見下ろせる場所があり、かつては高野山に参詣した女性が、女人道から手を合わせたといわれている。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
相傳ふ 大師 佛法紹隆福田のため 寶珠を此峰に痊埋し 寶瓶を安置して天女を勧請す
其後 妙音坊といふ天狗常に守護すといふ
南海高野線高野山駅からバスで大門前下車、徒歩30分。
高野山大門は、和歌山県高野町にある高野山の表玄関である。
慈尊院からの町石道を登りきったところにあり、高野山の壇上伽藍の入り口にあたる。
1140年に建てられたもので、それ以前は約500m下の九折谷に一基の鳥居があり、それが一山の総門になっていた。
現在の門は、1705年に再建されたもので、高さ25m、間口21メートル、奥行き8メートルの5間三門開きの朱塗りの楼門である。
両脇の金剛力士像は、江戸時代の仏師康意、運長の作である。大門前広場には木国句碑がある。
主柱に掛けられた対聯(ついれん)には、「日々の影向(ようごう)を闕(か)かさず」「処々の遺跡を検知せん」と記されている。
この2句は、日日影向文(にちにちようごうもん)とも呼ばれ、寛治年間(1087-94)に東寺の定額(じょうがく)僧正勝実(しょうじつ)という僧侶が、讃岐国善通寺において感得したという「御筆の一筆」の次の文から採られたものという。
「居を高野の樹下に卜(ぼく)し、心神を兜卒(とそつ)の天上に遊ばすと雖も、
日々の影嚮を闕かさず、処々の遺跡を検知せん」
弘法大師は、住まいを高野山奥の院の樹下に選び定め、心は弥勒菩薩が住む兜卒天に赴いているけれども、
毎日姿を現して、縁のある各地に出向き巡検され、衆生の救済に力を注がれている、という意味である。
対聯の書体は、法性寺流(ほっしょうじりゅう)と呼ばれるもので、弘法大師に深く帰依した後宇多上皇の宸筆を写したものといわれている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「大門」下車すぐ。
自家用車の場合は、橋本経由の国道370号ではなく、かつらぎ経由の国道480号の方が運転しやすい。
大門前のT字路を伽藍方向に左折せず直進すると、約300mでお助け地蔵前駐車場がある。
田村木国句碑は、和歌山県高野山大門広場の南隅にある。
石碑には次のとおり刻されている。
山門を出でて秋日の谷深し 木国
高野山大門から西を眺めると、鳴子谷の先に葛城、和泉の山を一望することができる。
特に秋の夕刻には、太陽の沈む姿が美しく、多くの参詣客が静かに見入っている。
木国(もっこく)(1889-1964)は、本名を田村省三といい、新聞記者、俳人として活躍した。
全国高校春夏の野球大会(旧中等学校)創設の功労者として知られる。
田村木国は、明治22年1月1日に和歌山かつらぎ町笠田中で、寺子屋を開いていた文次郎の長男として生まれた。
2歳の時、父の就職に伴い大阪に移り、北野中学から三高に進み、中途退学した。
明治43年(1910)大阪朝日新聞社に入社し、社会部で全国中等学校優勝野球大会を創案し、大正4年(1915)8月18日に豊中球場で第1回大会が開催された。
昭和8年(1933)に大阪毎日新聞社に移り、整理部長、学芸部顧問を歴任した。
俳句においては、大正6年(1917)に高浜虚子に入門し、大正11年創刊の「山茶花(さざんか)」で活躍した。
昭和21年には同名の俳句誌 山茶花を創刊して主宰し、昭和39年に76歳で没した。
毎年夏に開かれる高野山の俳句大会には、選者として37回参加したという。
「秋郊」「大月夜」「山行」などの句集を刊行している。
句碑裏面には、昭和三十二年七月廿一日 総本山金剛峯寺 と刻されている。→ 高野山内の句碑
お助け地蔵尊は、和歌山県高野町にある地蔵で、「助けの地蔵」とも呼ばれている。
高野山大門の南側、女人道に面した高野七口の一つ龍神口の近くに祠が建てられている。
言い伝えによると、高野山に住んでいたおじいさんが、熊野の辻を歩いていると「助けて」と声が聞こえたという。
声のする方向を探すと、道際の小さな谷に地蔵尊が落ち込んでいたので、道まで引き上げて安置した。
しかし、人通りの少ない寂しい場所であったので、地蔵尊を抱えて高野山まで帰り、龍神口近くに祠を建て、毎日お参りを続けたところ、この地蔵尊がみんなの願いをひとつずつかなえてくれるようになったという。
また、願い事は、一生に一度だけ聞いてくださるとか、お礼参りには丸いものをお供えするとよいとも言われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「大門」下車、徒歩5分。道路を隔てた西側に駐車場がある。
龍神口(龍神口跡)は、和歌山県高野山大門南側にある。
高野山の浄域に入る口は、「高野七口」と呼ばれており、龍神口はその一つである。
紀伊國名所図会には、登山七路の一つとして、次のように記されている。
〇登山七路 七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
(中略)
龍神口 又湯川口といひ、保田口あるひは簗瀬口ともいふ。
大門の左に通ず。龍神より十三里餘。
此道當山坤(ひつじさる)方の入口にして、
日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると、
新村にて合して大門に入る。
町石道は、和歌山県かつらぎ町の慈尊院から高野山に通じる総距離24キロメートルの参道である。
金剛峯寺への参詣道は、「高野七口」 (大門口、不動坂口、黒河口、大峰口、大滝口、相浦口、龍神口)といわれるようにいくつかのルートが開かれていたが、このうち最も早く開かれ、その後も主要参詣道として利用されたのが「高野山町石道」である。
町石が建立されたのは、根本大塔から奥の院までの36町と根本大塔から慈尊院までの180町の間である。
1町(約109メートル)ごとに、高さ約3メートル、幅30センチメートル、重量約750kgの五輪卒塔婆形式の石柱がある。
当初木製の卒塔婆であったが、老朽化したため、貴族や御家人などの寄進で1265年から1285年に町石として建立された。
町石の側面には、壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教の金剛界36尊及び胎蔵界180尊の梵字、寄進者の名前、設立の年月日及び目的などが彫り込まれている。
現在は、ハイキングの道として親しまれており、紀ノ川の眺めなどを楽しめる。
第1町石は、高野山根本大塔の道路横にあり、第180町石は、慈尊院内にある。
南海電鉄高野線九度山駅、紀伊細川駅等下車。
西南院は、和歌山県高野山の西院谷にある真言宗の準別格本山である。
寺伝によると、開基は真然大徳で、高野山の南西、坤(ひつじさる)方守護の寺として草創され、空海筆大元帥明王を安置したという。
中世には、平等心院とも称されていた。平等心院は保延元年(1138年)に、図像収集で知られる平等房永厳が高野山に隠退して私堂を構えたのが草創といわれている
本尊の大日如来は、2009年に20年ぶりに霊宝館から移された。
重森三玲作の大石庭は、夜間にライトアップされる。
南海高野線高野山駅からバスで弁天前下車すぐ。
祓川弁財天は、和歌山県高野山の西院谷にある。
弁財天は、仏教における智慧、弁舌、技芸の女神で、略して弁天といわれる。
サンスクリット語サラスバティーSarasvatiの訳で「水を有するもの」を意味する。
もとはヒンドゥー教の神で、仏教では「金光明最勝王経」に弁財天が登場し、この経を説く人や聞く人に知恵や長寿や財産を授けると述べている。
祓川弁財天は、弘法大師が勧請したと伝えられ、その名は開創時に弘法大師が高野山一円の魔性をお祓いしたことに由来する。
弁財天は七福神の一つとされ、水辺に祀られることが多い。
高野山では、古くから山上の水源となる七カ所に弁財天社が祀られ、「高野山の七弁天」として信仰を集めている。
南海高野線高野山駅からバスで弁天前下車すぐ。
湯屋谷弁天は、和歌山県高野山壇上伽藍西側の愛宕谷バス停横にある。
神体が奉安する厨子に享保2年(1717年)の記述があり、元禄期(1688‐1704年)の古絵図にも描かれているため、この時期に勧進されたと考えられている。
神体は、八臂で頭上に鳥居と宇賀神をいただく弁財天である。
湯屋谷は、古い地名でかつて湯屋(共同浴場)があったことからそう呼ばれた。
近代になってから愛宕谷権現があったことから愛宕谷と呼ばれるようになった。
南海高野線高野山駅からバスで愛宕谷バス停下車すぐ。愛宕谷の無料駐車場を利用できる。
宝亀院は、和歌山県高野山西院谷にある真言宗の別格本山である。
本尊は、十一面観音で別名「お衣観音」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。
延喜21年(921年)10月27日、空海に弘法大師の諡号が宣下されたが、
その時夢想によって醍醐天皇から空海に御衣一領が下され、観賢が奥の院御廟の戸を開いて檜皮色の御衣を大師に着せたと伝えられる。
その後、毎年空海の御衣新調にあたる院として観賢が当院を開き、院名は空海生誕年(宝亀5年)の暦名から取られた。
現在も毎年3月17日当院で御衣加持が行われ、3月21日に「御衣替えの儀式」が行われている。
山門をくぐって正面のお堂に入ると、右手に井戸がある。
これは、「御衣井」と呼ばれ、御衣替えの儀式で使われる衣を染めるときに、この井戸から湧き出る水を使い、薬草を煎じて染料が作られる。
寺伝によると、井戸の水は弁財竜王が守護している「生命の水」と呼ばれ、福智円満のご利益があるといわれている。
取り替えられた衣は、切れ端を小さく切って、「弘法大師御衣切」のお守りとなり配られている。
南海高野線高野山駅からバスで金堂前下車、徒歩2分。参拝者用の駐車場がある。
大上春秋、行子歌碑は、和歌山県高野山桜池院前にある。
さくら短歌会主宰 大上春秋(治明)と大上行子の和歌が刻されている。
しろき守宮 かへのすきより 匂ひ出つる 寂れしむらの 陣に馴れたり 春秋
海ふたつ こえてもゆかむ 来よといふ ひとのありせを ためらはよしを 行子
石碑裏面には、次のように刻されている。
南支派遣軍々歌
波濤萬里を□りて衝く
バイヤス湾に月しるく
時、神無月、十二日
奇襲上陸茲に成る
青史を飾るこの朝
勲は永遠に薫るかな
昭和十三年十月二日
第百四師団バイヤス
湾奇襲上陸軍歌第一節
大上春秋作
さくら短歌会主宰
大上春秋 (治明)
平成元年九月三日歿
櫻池院琳珉治達居士
大上行子 (妻)
維時平成二年十月三日建之
中門は、和歌山県高野山の金堂前にある。高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の結界ともいえる五間二階の楼門である。
弘仁10年(819年)の創建と伝えられている。
当初は、鳥居状のものであったが、承和14年(847年)に弘法大師の弟子実恵によって、立派な門が建立された。
その後、焼失と再建が続き、江戸時代には3回焼失したことが知られており、地中には焼失前の礎石が埋まっている。
天保14年(1843年)焼失後は、礎石だけが露出した中門跡としてその痕跡だけが残されていたが、平成27年(2015年)の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として、172年ぶりに8代目の門が再建された。
正面に安置されている多聞天(毘沙門天)、持国天の二天像は、文政3年(1820年)再建時のもので、天保の大火では焼失を免れて、根本大塔内に保管されていた。
2015年の再建に合わせ、二天像が修復され、さらに内側に増長天、広目天が安置され、四天像が揃う形となった。
平成29年(2017)には、高野山開創1200年記念大法会に合わせ、弘法大師との縁を結ぶため檀信徒など6万5044人が記帳した「結縁芳名帳」が、中門二層部の部屋に納められた。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車.。中門前に無料駐車場がある。
蓮池と善女龍王社は、和歌山県高野山の壇上伽藍にあり、国史跡に指定されている。
蓮池は高野山上最大の池であり、平安時代からあったものである。
古くは「金堂池」と呼ばれていたが、江戸時代に蓮が植栽されてからは「蓮池」の名前で親しまれてきた。
昭和初期まで水面を覆う蓮の群生が見られたが、改修工事等で池の環境が変化したため、現在はほとんど植生していない。
蓮池の中央に善女龍王が祀られた社がある。この社は明和8年(1771年)春の旱魃時に、瑞相院の慈光僧正が善女龍王を勧請して雨乞いの法を修したことに由来している。
善女龍王とは、龍神の一種であり、天候や農耕など水に関する信仰に絶大な御利益をもたらすものとされている。
また、弘法大師が天長元年(824年)に京都の神泉苑で雨乞い祈願をした時に、インドの無熱池(むねっち)という池から善女龍王を勧請したことでも知られる。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、徒歩1分。霊宝館前に無料駐車場がある。
勧学院は、和歌山県高野山にある。
本尊は、金剛界大日如来である。
弘安4年(1278)に、源頼朝の勧学の志を受け継いだ北条時宗(1251-1284)が、高野山内衆徒の学道修練の道場として、金剛三昧院境内に建立した。
紀伊国名所図会には、安達泰盛(1231-1285)に造営させたと記されている。
高野山名所図会によると、鎌倉學園寺住僧 道戒上人の勧発に依って、文保2年(1318)後宇多法皇の院宣を賜って、現在の地に移された。
修理料として、肥後国岳牟田荘を賜り、勅願所としたという。
現在でも、高野山内に席をおく僧の学道修行の勧学会が行われる。
南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車すぐ。霊宝館前に駐車場がある。
高野山霊宝館は、和歌山県高野町にある文化遺産の保存展示施設である。
高野山は、816年に弘法大師空海により開かれ、高野山内117の寺院に伝わる寺宝は、膨大なものである。
これらの各寺院に伝わる仏教古美術の貴重な品々を保存、展示するため、大正10年(1921)に霊宝館が開館した。
設計は日光東照宮の修復や明治神宮造営に携わった大江新太郎が担当した。
1961年には大宝蔵(収蔵庫)が増設され、1984年に新館、2003年に平成大宝蔵が建てられた。
霊宝館には、国宝21件、重要文化財148件などの指定文化財約28,000点のほか、50,000点にのぼる絵画、彫刻、工芸品などが収蔵されており、「山の正倉院」とも呼ばれる。
開館当初に建てられた本館は、日本現存最古の木造博物館建築で、1998年に登録有形文化財になっている。
展示品は、順次替えられるが、飛行三鈷杵、弘法大師坐像、孔雀明王像、阿弥陀聖衆来迎図、聾瞽指帰などが展示されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車すぐ。来館者用の無料駐車場がある。
増福院は、和歌山県高野山の霊宝館北側にある真言宗の別格本山である。
本尊は、愛染明王である。
寺伝によると、多田満仲の孫仲光の三男源賢和尚の開基で、寺名は一門の「福祐増進を祈るべし」という請願が由来と言われる。
当院は、華王院(けおういん)、常住光院、上就院を併合してきており、明泉院の名跡を持っている。
華王院(花王院)を開いたのが鎌倉時代初期の僧 覚海(1142-1223)で、門前に「覚海大徳翔天之舊跡」の石碑がある。
無住(1226-1332)が記した沙石集には、高野山第37代検校の覚海が7回の生まれ変わり(七生)を弘法大師に教えてもらったとの伝説が紹介されている。
その七生とは、1ハマグリ、2犬、3牛、4馬、5熊野の柴灯係、6高野山奥之院の承仕、7高野山検校(覚海)である。。
そして覚海は亡くなるときに、次は天狗になって秘密の法を守ると告げられたという。
覚海は亡くなると、高野山中門の扉を翼にして、増福院山門の前にある杉の木から昇天して天狗となり、高野山を守っているといわれている。(「昇天の杉」)
→覚海廟
谷崎潤一郎は、昭和6年(1931)高野山滞在中に増福院を訪れ、鷲峰住職から覚海大徳の話を聞くとともに、古文書を筆写した。
同年、谷崎は、南紀芸術二号に「覚海上人天狗になる事」を掲載している。
南海高野線高野山駅からバスで、霊宝館前下車すぐ。
阿波野青畝(あわのせいほ)句碑は、和歌山県高野山の増福院山門前にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面)牡丹百二百三百門一つ 青畝
(裏面)昭和五十八年十一月廿日 総本山金剛峯寺
かつらぎ主宰 阿波野青畝
昭和25年(1950)5月に南海電鉄の企画で、島根県大根島の牡丹千株が高野山に植樹され、第1回牡丹句会が催された。
石碑の句は、翌年6月に高浜虚子を迎えて開催された第2回牡丹句会席上の作品で、句集「紅葉の賀」に収められている。
「百」「二百」「三百」「一つ」という数字の畳み掛けが、絶妙のリズムを生んでいる。
季語は「牡丹」(夏)である。歩くにつれて牡丹の数が増えていき、振り返ると入って来た門が一つという、写生俳句の達人、青畝の名句である。
阿波野青畝(1899-1992)は、大正、昭和、平成時代の俳人である。
明治32年2月10日奈良県高取町に生まれた。本名は橋本敏雄で、後に阿波野家を継いだ。→ 俳人 阿波野青畝生家
畝傍中学在学中から原田浜人(ひんじん)に俳句を学んだ。
その後、高浜虚子に師事して、昭和初頭、水原秋桜子、山口誓子、高野素十とともに、ホトトギスの四Sと称された。
昭和4年(1929)俳誌「かつらぎ」を創刊して、関西俳壇の重鎮として活躍した。
昭和48年(1973)第7回飯田蛇笏賞、平成4年(1992)日本詩歌文学賞を受賞している。
句集として、万両(1931),、国原(1942)、春の鳶(1952)、紅葉の賀(1962)、甲子園(1972)、不勝簪(ふしょうしん)(1980)などがある。→ 高野山内の句碑
大阪市中央区にある大阪カテドラル聖マリア大聖堂に、阿波野青畝句碑がある。
平成4年(1992)12月22日に93歳で亡くなった。
鷹羽狩行句碑は、和歌山県高野山釈迦文院にある。
石碑には、次のように刻されている。
人界へ流れて高野山の星 狩行
鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)(1930-)は、昭和時代後期から平成時代の俳人である。本名は高橋行雄。
山形県出身で、山口誓子に師事した。
「天狼」「氷海」同人を経て、昭和53年(1978)に「狩」を創刊し、主宰した。
平成14年(2002)俳人協会会長となり、平成27年に長年にわたる俳人としての業績で芸術院賞を受賞した。
南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車、徒歩5分。
高野山大師教会は、和歌山県高野町にある。
大師教会大講堂は、大正14年(1925年)高野山開創1100年記念事業で建設されたもので、本尊は弘法大師、脇仏は愛染明王、不動明王が祀られている。
各種法会、儀式をはじめ、全国詠歌大会などが行われる。
仏教的な教えを授かる授戒の儀式は、大講堂の奥にある授戒堂で行われ、阿闍梨が参加者に「菩薩十善戒」を説く。
教化研修道場は、昭和57年(1982年)に竣工したもので、弘法大師信仰の教化と研修の中心施設となっている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。→ 趙樸初作漢俳碑 志太野坡句碑
宗祖降誕会は、弘法大師の誕生日を祝う金剛峯寺の恒例法会で、6月15日午前9時から大師教会大講堂で行われる。
青葉まつりは、高野町民により組織された高野山奉賛会が主催するもので、各種行事が開催される。
令和2年(2020)以降、青葉まつりの花御堂渡御は、6月第2日曜日に開催されることとなった。
前夜祭では、奉燈行列が行われる。
青葉まつり当日の正午から花御堂渡御が奥の院一の橋を出発し、小学校鼓笛隊や御詠歌隊などが「大師音頭」「いろは音頭」「稚児大師音頭」を踊る人々とともに、金剛峯寺までの約1.5㎞を練り歩く。
花御堂には、弘法大師の幼少時の姿といわれる稚児大師像が奉安され、その前後を「門民苦使(勅使)」「四天王」が守護している。
これは、奈良時代に国民の生活苦を聞いて回る問民苦使が、讃岐に派遣された際に、
他の子供たちと戯れている幼少の大師を敬って四天王が天蓋を奉持している様子を見て、馬から降りて礼拝したという弘法大師行状絵詞巻一の故事「四天侍衛」をもとにしている。
高野山内では、いけばな展、書道展などの奉賛展や奉賛スポーツ行事も行われる。
大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)は、毎年12月10日午前9時から高野山大師教会大講堂で行われる。
大般若経は、「大般若波羅蜜多(はらみった)経」の略称で、全600巻(20万頌640万字)あり、中国唐の玄奘三蔵が訳した。
玄奘三蔵は、順慶5年(660年)の正月1日から大般若経の翻訳に取り組み、竜朔3年(663年)10月末に3年近くをかけて翻訳を完成させた。
ひろさちや著「仏教の歴史」(6)には、翻訳の苦労を物語る次のエピソードが紹介されている。
インドの原典には、繰り返しの表現が多いため、中国人の好みに合うように内容中心の簡潔な翻訳にしようと考えた。
ところが、そのように訳し始めると玄奘は恐ろしい夢を見たという。
それで、玄奘は原文を一字一句も省略せずに翻訳する形に変えた。
すると吉夢を見るようになり、仏や菩薩が眉間から光を放つ夢を見ながら、翻訳を完成させたという。
大般若経は、初期の大乗仏教経典の一つで、この経には、「大品般若経」「小品般若経」「文殊般若経」「金剛般若経」などが含まれる。
何ものにもとらわれない「空観」(くうがん)の立場に立ち、その境地に至るための菩薩の六波羅蜜の実践、とくに「般若六波羅蜜」の体得が強調される。
大般若経には、般若経の読誦(どくじゅ)、書写、思索などによる諸功徳が説かれていることから、除災招福、鎮護国家などに有益とされた。
大宝3年(703)文武天皇のとき、大般若経の転読(経題や経の初中終の数行の略読を繰り返すこと)が行われたことが、「続日本紀」に記されている。
それ以降、宗派の別なくこの転読が行われている。。
高野山大師教会では、山内住職と金剛峯寺の僧侶が出仕し、経本を左手に持ち上げて、大きく広げる様は大変迫力がある。
大円院は、和歌山県高野町高野山にある。
大円院は、光仁天皇の時代、延喜3年(903年)聖宝大師理源(しょうほうたいしりげん)が開いたもので、かつては多門院と呼ばれていた。
理源は、空海の高弟で実の弟であった真雅(しんが)の弟子となり真言密教の門に入り、後に京都醍醐寺を開いた人物として知られている。
そして鎌倉時代に、豊前豊後の守護職を務めた大友能直(よしなお)が帰依して、師檀契約を結んだ。
その後、1600年頃、戦国武将立花宗茂(むねしげ)(福岡柳川藩主)が高野山に登り、住職であった宣雄(せんゆう)阿闍梨に帰依し、宝塔を建立した縁で、宗茂の院号(大圓院殿松隠宗茂大居士)から、「大圓院(大円院)」と寺号を改めた。
寺内には、横笛ゆかりの瀧口入道旧蹟がある。
瀧口入道旧蹟 鶯の井戸は、和歌山県高野山大圓院にある。
平家の嫡男平重盛に仕えていた斎藤時頼という武者が、花見の宴席で建礼門院の雑仕女 横笛と恋に落ちる。
しかし、身分の違いから結ばれることはなかった。
時頼は、未練を断ち切るために出家し、瀧口入道を名乗り、女人禁制の高野山に移り住んで大圓院で修行を重ねた。
一方、横笛も出家し、奈良の法華寺で尼僧となっていたが、病となり高野山の麓の天野の里で亡くなった。
そのとき、横笛は鴬となって瀧口入道の居る大圓院に向かった。
瀧口入道が、梅の木に止まる鴬に気づいたところ、鴬は突然舞い上がり井戸に落ちたという。(「平家物語」巻第十)
大圓院の境内には、その井戸が残され、本尊の阿弥陀如来の胎内には、鴬の亡骸が納められているといわれる。
また高山樗牛は、明治27年に発表した小説「滝口入道」で、瀧口入道が高野山で平重盛の子維盛と再会する場面を描いている。
一方、五来重は、「増補 高野聖」で、宗教民俗学の立場から次のように記している。
ただわれわれは高山樗牛のように、そのセンチメンタリズムに幻惑されて聖の現実の姿を見失ってはならない。
滝口の侍 斎藤時頼も建礼門院の雑司女横笛も、もちろん実在ではない。
しかし「平家物語」が本筋からそれて、こんなフィクションをエピソードしていれるのは、
この文学の成立にあずかった高野聖のすがたを発心物語として出したかったからであろう。
南海高野線高野山駅からバスで小田原通下車すぐ。
成福院 魔尼宝塔は、和歌山県高野山往生院谷にある準別格本山である。
本尊は、大隋求明王木像で、自分の内に秘めている悪い罪障を消滅させ、願い事をかなえてくれる仏といわれている。
紀伊続風土記によると、「藤之坊」とも称し、大永3年(1523年)の火災で全焼した。
天文年間(1532-55)高野山192代検校尭栄重源坊により再興された。
江戸時代は、学侶方に属し、長州清末城主の毛利家、九州肥前唐津城主の寺沢家、対馬領主の宋家、公卿の飛鳥井家などと深いつながりがあった。
魔尼宝塔発願者の上田天瑞(てんずい)前住職は、昭和16年(1941年)に南方仏教修学のためタイに行き、大戦勃発後ビルマに入り悲惨な戦争を体験して、ビルマ僧として修行した。
昭和19年ビルマ国から贈られた釈迦仏像と大蔵経を奉持し奇跡的に生還したのでこれを祀り、ビルマ方面戦没者の霊を慰め、太平洋戦争の犠牲者を供養するため塔の建立を始めた。
昭和33年に建築に着手し、以来26年の歳月を経て、ようやく完成したものである。
その後、日本ビルマ親善のため、、ラ・ネウィン前大統領より釈迦像とビルマ高層ウ・サンディマウンタ大僧正より大理石獅子が贈られ、美術品などとともに展示されている。
塔地下では、戒壇巡りがあり、真っ暗な回廊を進み、本尊の真下にある錠前に触れることで、仏と縁を結ぶことができる。
不動院は、和歌山県高野山にある真言宗準別格本山である。
本尊は、弘法大師が自ら彫ったと伝えられる不動明王(秘仏)である。
不動院は延喜7年(906)済高が西谷に開創した十二坊の一つで、山階宮家の菩提寺として知られ、「山階別院」の称号を得ている。
紀伊続風土記には、嵯峨天皇の皇子が大師堂以下十二坊を建てて、菩提心院と号したのに始まり、東寺長者済高が居住して月上(がつじょう)院と称したと記されている。
境内には、永暦元年(1160)に亡くなった美福門院の陵墓がある。
現在食事処として使われている庫裏は安土桃山時代の創建で、和歌山県の指定文化財となっている。
南海高野線高野山駅からバスで蓮花谷下車、徒歩5分。
美福門院陵は、和歌山県高野山の蓮花谷不動院内にある。
鳥羽天皇皇后得子高野山陵(こうやさんのみささぎ)として、宮内庁が管理している。
美福門院(1117-1160)は、鳥羽上皇の皇后である。
藤原長実(ながざね)の娘で名は得子(とくし)といった。
鳥羽天皇は、皇后待賢門院との仲が不和で、高陽(かや)院を皇后とした。
しかし、期待された男子が生まれず、藤原得子を入内させ皇子(近衛天皇)が生まれた。
永治元年(1141)には、近衛天皇の即位式で皇后となり、久安5年(1149)には美福門院の号を宣賜された。
保元元年(1156)鳥羽上皇の臨終に際して、安楽寿院で落飾し、法名を真性空と称した。
永暦元年(1160)44歳で亡くなり、鳥羽東殿で火葬された。
「山槐記」には、「美福門院御骨奉渡高野御山、依御遺言也」と記されており、皇后の遺令で高野山に埋納された。
南海高野線高野山駅からバスで蓮花谷下車、徒歩10分。→ 美福門院供養墓地(御墓)
苅萱堂は、和歌山県高野町にあるお堂である。
本尊は親子地蔵尊で、堂の裏手の密厳院が管理している
苅萱堂が有名なのは、中世半ば、高野聖の一派で心地覚心(法燈大師)を祖とする萱堂聖の本拠地となったためで、彼らは唱導文芸をもって全国を遊芸した。
高野聖によって全国津々浦々で語られたのが、「石童丸物語」である。
筑前博多の守護加藤兵衛尉繁昌(苅萱道心)と、石童丸が父子を名乗らないまま対面し、仏道修行した物語を絵にした額が堂内にかけられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「刈萱堂前」下車すぐ。→苅萱道心、石童丸、石堂丸ゆかりの地
恵光院は、和歌山県高野山蓮華谷にある真言宗の寺院である。
本尊は阿弥陀如来である。
当院は、弘法大師がこの地に五丈の宝塔を建て、大経王を講習されたのに始まるといわれている。
開基は弘法大師の十大弟子の一人、道昌僧都と伝えられている。
中興は、保延5年(1139年)検校職についた聖仁阿闍梨である。
第二の中興は延慶年間(1308年)東寺から恵燈をささげて当地の法幢院谷を復興した東寺の量調阿闍梨である。
戦国時代には、島津氏との檀那関係があり、永禄6年(1563年)に島津義虎候の逆修碑を当院に納め、ついで義弘候は長兄義久候の供養碑を奥之院に建てると同時に、奥之院に高麗陣敵味方供養碑を琉球石で造った。
奥之院入口の一の橋の近くに位置しており、毎晩「高野山奥之院ナイトツアー」(19:15-20:30)が実施されている。
南海高野線高野山駅からバスで、苅萱堂前下車。
毘沙門堂は、和歌山県高野山恵光院にある。
堂内には、中央に毘沙門天、向かって左に愛染明王、右に不動明王が祀られている。
この不動明王は、弘法大師空海が唐に留学僧として渡った際に航海の安全を守ったことから、「舵取り不動」の名がつけられている。
毘沙門天は、仏教の護法神で、サンスクリット語バイシュラバナの音写から転じて、毘沙門天となった。多聞天、遍聞天とも称される。
インドのベーダ時代からの神で、元は暗黒界の悪霊の主であったが、ヒンドゥー教では、財宝、福徳をつかさどる神となった。
仏教では、四天王の一尊で、後世には武将姿のまま七福神の一つに数えられ、福徳を授ける神として信仰されている。
この毘沙門天は、高野山七福神(熊谷寺ー恵比寿、熊谷寺寺宝院ー布袋尊、恵光院ー毘沙門天、宝善院ー寿老人、宝善院奥の院ー福禄寿、本覚院ー弁財天、本覚院西生院ー大黒天)の一つとされている。
蓮花院は、和歌山県高野山の小田原谷にある真言宗の準別格本山である。
本尊は阿弥陀如来である。
寺伝によると、弘法大師が悪魔降伏のために、軍荼利明王の秘法を修し、結界を結んだ時の草庵が寺の起こりと言われる。
また寺名は、弘法大師が修行中に、白蓮の中に瑞光が現れたことから、蓮花院と名付けられたといわれている。
古くは聖方に属し、五之室谷の徳川家霊台の前に位置し、室町時代には光徳院、江戸時代は大徳院と号した。
徳川将軍家の菩提寺として、歴代宗家の位牌と家康、秀忠の尊像が祀られている。
また、水戸黄門で有名な水戸光圀の位牌や家康の念持仏といわれる薬師瑠璃光如来がある。
徳川家との関係は、永享11年(1439年)当院主が、相模の藤沢寺(現在の清浄光寺)に止宿し、家康の祖先松平太郎左衛門親氏入道徳阿弥と師檀契約を結んだことから始まる。
天文4年(1535年)家康の祖父松平清康の遺骨が当院に納められ、光徳院と改号した。
文禄3年(1594年)家康が豊臣秀吉に随従して高野山に参り、光徳院に止宿し、この時に家康から大徳院の院号が与えられた。
寛永年間(1624-44)に大徳院の後山に東照宮(家康)、台徳院殿(秀忠)の御霊屋(徳川家霊台)が建てられて、徳川家の菩提所となった。
明治時代初期に東京に移ったが、その後現在地に移り、蓮花院と称している。
奥の院にある松平秀康及び同母霊屋、徳川秀忠夫人崇源院供養塔は、当院が管理している。
南海高野線高野山駅からバスで、千手院橋下車、徒歩3分。
川上玉園句碑(金剛峯寺前道しるべ句碑)は、和歌山県高野山金剛峯寺南東の南都銀行高野山支店前歩道上にある。
高さ約170cmの石碑に、次のように刻されている。
(南) 高野山のぼりて
うれし花の笑み
川上 玉園
(東) 右 ふだう阪 京大坂
すぐがらん 大門ぐち
(北) 明治十七年三月吉日周旋方西京 神谷助右衛門 四條大宮
菩提所 自性院 神谷重治郎 西院村信
山崎伊兵衛 上山田村
他力成就 大阪 川上作治郎 大東弥
(西) すぐをくのいん
→ 高野山内の句碑
智泉大徳廟は、和歌山県高野山の壇上伽藍東塔東側(総持院前)にある。
智泉(789-825)は、讃岐出身の平安時代の僧で、空海の甥にあたる。
父は、讃岐滝宮の宮使で、菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉である。
延暦8年(789年)に生まれ、16歳の時に大安寺を本寺として出家した。
大同年間(806-809)に、嵯峨天皇皇后橘嘉智子が皇孫誕生祈願を命じ、
山城国相楽郡報恩寺(現在の岩船寺)で、智泉が普賢菩薩を刻んで祈願したところ、
弘仁元年(810年)皇子(後の仁明天皇)が誕生した。
弘仁3年(812年)高雄山寺の三綱の一、羯摩陀那となる。
以降常に空海の側近として苦楽を共にし、真言宣布の事業を助け、空海十大弟子のひとりとなっている。
弘仁12年(821年)空海の指授で、諸天灌頂神、菩薩灌頂神を図写している。画技に優れ、その画風は智泉様と称せられた。
天長2年(825年)、智泉大徳が37歳で高野山東南院にて入寂した時、空海は次の文を残している。
「亡弟子智泉が為の達嚫(だつしん)の文」
(略)吾飢うれば汝飢う、吾楽しめば汝ともに楽しぶ(略)
哀(あわれ)なる哉、哀なる哉 哀れの中の哀れなり
悲しき哉、悲しき哉 悲しみの中の悲しみなり (略)
哀なる哉、哀なる哉、復哀なる哉
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉(略)
達嚫(だつしん)とは、サンスクリットのdaksinaの音写で、供物を捧げるときに読む文である。
江戸時代寛政8年(1796)に作成された高野全山絵図には、東塔東側に東南院があり、「智詮廟」が描かれている。
(下記写真参照。写真出典 日野西眞定「高野山古絵図集成」))
大正13年(1924年)9月14日一千百年忌に際し、石碑が新造され、昭和43年(1968年)には参道が修築された。
南海高野線高野山駅からバスで金剛峯寺前下車、徒歩5分。
東塔は、和歌山県高野山の壇上伽藍東端にある多宝塔である。
大治2年(1127年)白河法皇の御願によって、京都醍醐三宝院の勝覚権僧正が創建した。
記録によると、白河法皇等身の金色尊勝仏頂尊と不動明王、降三世明王の三躰を安置して落慶供養が執り行われた。
天保14年(1843年)に焼失し、礎石だけが残っていたが、昭和59年(1984年)に141年ぶりに、高さ18m、四方6.4mの塔が再建された。
高野山三昧堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍下の壇北側にある。
延長7年(928年)、金剛峯寺座主の済高が創建した。最初の堂は、本中院谷の親王院の場所にあって、東南院と呼ばれていた。
東南院の名は、済高座主が京都市山科区の勧修寺の東南院に住したことによる。
三昧堂とは、寺院において常住の僧が法華三昧、念仏三昧などの「三昧」(精神集中の修行)をする場所で、済高座主が理趣三昧を修したことで名付けられた。
その後、歌人西行法師が治承元年(1177年)に大会堂とともにこの地に移築造営したといわれる。それを記念して、堂前には西行桜が植えられている。
現在の建物は、弘化5年(1848年)に再建された檜皮葺三間四面の堂である。
本尊は、大日如来坐像で金剛界4仏と四天王像が安置されている。
与謝野鉄幹、晶子歌碑は、和歌山県高野山壇上伽藍の三昧堂前にある。
御影石製の高さ85センチの碑上面に二人の自筆の和歌が刻まれ、側面に次のように刻されている。
板しきの冷たきにゐて朝きくは 金剛峯寺の山内の蝉 与謝野鉄幹
いにしへの三昧堂をくぐりきぬ 法の御山の星の明かりに 与謝野晶子
与謝野鉄幹 与謝野晶子 自筆歌碑
愛媛県王至森寺住職瀬川大秀僧正が平成二十二年五月二十一日、
真言宗御室派宗務総長 総本山仁和寺執行長に就任されました。
徳島県立江寺住職庄野光昭僧正が同時期に同職に就任していたことを奇縁として、
与謝野鉄幹 晶子の墨書を当山に寄贈下さいました。
高野山開創千二百年記念大法会の記念とし、歌碑を建立いたします。
平成二十四年十一月吉日
高野山開創千二百年記念大法会事務局
総裁 高野山真言宗管長 松長 有慶
総監 高野山真言宗宗務総長 庄野 光昭
高野山開創千二百年記念大法会 実行委員会
委員長 太融寺住職 麻生 弘道
副委員長 東光寺住職 松田 俊教
高野山麓橋本新聞によると、瀬川僧正が自坊の先代の遺品の中から鉄幹と晶子の色紙二枚を発見し、
若い頃から親交のある庄野僧正に寄贈したという。
高野山奥の院には、与謝野晶子歌碑が建てられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。→ 高野山内の歌碑
大会堂は、和歌山県高野山壇上伽藍の下の檀にあり、蓮華定院・会堂とも呼ばれる。
本尊は丈六(4.85m)の阿弥陀如来で、脇仏は観音・勢至菩薩が祀られている。
安元元年(1175年)に鳥羽上皇菩提のため、皇女五辻斎院頌子(いつつつじさいいんしょうし)内親王が法幢院谷(ほうどういんだに)に創建したものが最初である。
治承元年(1177年)西行法師が奉行をつとめ、長日不断論議の学堂として檀上の現在地に移し、蓮華定院と称した。後に法会の場所となり、大会堂と呼ばれた。
現在の建物は、嘉永元年(1848年)に再建された五間四面檜皮葺の堂宇で、主として大伽藍の大法会の集会所として使用されている。
愛染堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍下の檀北側にあり、新学堂ともいう。
建武元年(1334年)4月14日の後醍醐天皇綸旨により、「四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)」を祈願し、不断愛染護摩供・長日談義を行うために建立された。
本尊は、後醍醐天皇等身の愛染明王で、一面三目六臂の上段の二臂で弓を持ち矢をつがえ、天に向かって弓を引いているため、「天弓愛染明王」といわれる。
明王は、平安時代後期に登場する仏で、「明かりをもつもの」が原義とされる。
愛染明王のサンスクリット名は、ラーガラージャ(Ragaraja)で、ラーガ(羅我)とは、赤色、情欲、愛染の意味で、ラージャ(羅闍)は、王の意味である。
堂宇は、四度の焼失と再建を経て、現在の建物は天保14年(1843年)に焼失した後、嘉永元年(1848年)に再建され、検校来応を導師に、愛染堂、蓮華乗院(大会堂)、三昧堂の落慶曼荼羅供が行われた。
不動堂(国宝)は、和歌山県の高野山に現存する建物では、最古のものである。
言い伝えによれば、建久8年(1197年)鳥羽天皇の皇女八条院暲子内親王の発願により、行勝上人が創建したという。
創建時には、一心院谷、金輪塔の傍らに位置していたが、明治41年(1908年)に現在地に解体移築された。
鎌倉時代の和様建築であって、それ以前の住宅建築の様式を仏堂建築に応用したものである。
桁行3間、梁間4間の主屋を中心にして、左右に桁行1間、梁間4間と桁行1間、梁間3間の脇の間が付属した檜皮葺の建物である。
屋根の勾配が美しく、堂の四隅は四人の大工がめいめい思い思いに作り上げて一緒にしたとも伝えられる。
本尊は、木造不動明王坐像で、運慶作と伝えられる木像八大童子像(6躯国宝)が安置された。
木造不動明王坐像は、像高87cmで、行勝上人の自作と伝えられている。
八大童子は、不動明王に仕える八人の弟子で、恵光、恵喜、鳥倶婆誐(うぐばが)、清浄比丘、矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)、阿耨達(あのくた)、指徳の各童子の像が、現在霊宝館に収蔵されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。
平成29年11月21日から23日まで、不動堂内部が特別に公開された。堂内には、大変穏やかな表情の不動明王立像(平櫛田中作)が本尊として安置されている。
蓮池と善女龍王社は、和歌山県高野山の壇上伽藍にあり、国史跡に指定されている。
蓮池は高野山上最大の池であり、平安時代からあったものである。
古くは「金堂池」と呼ばれていたが、江戸時代に蓮が植栽されてからは「蓮池」の名前で親しまれてきた。
昭和初期まで水面を覆う蓮の群生が見られたが、改修工事等で池の環境が変化したため、現在はほとんど植生していない。
蓮池の中央に善女龍王が祀られた社がある。この社は明和8年(1771年)春の旱魃時に、瑞相院の慈光僧正が善女龍王を勧請して雨乞いの法を修したことに由来している。
善女龍王とは、龍神の一種であり、天候や農耕など水に関する信仰に絶大な御利益をもたらすものとされている。
また、弘法大師が天長元年(824年)に京都の神泉苑で雨乞い祈願をした時に、インドの無熱池(むねっち)という池から善女龍王を勧請したことでも知られる。
高野山壇上伽藍は、和歌山県高野町にある高野山の諸堂の集まる所である。
伽藍とは、梵語(サンスクリット)のサンガ・アーラーマの音訳で、本来僧侶が集い修行する閑静清浄な所という意味である。
壇上とは、大塔の鎮まる壇、道場という意味である。
空海が、伽藍の建設に着手したのが816年で、完成は寛平年間(889-898)の頃と考えられる。
高野山伽藍は、奈良仏教の伽藍形式と違い、大日経と金剛頂経を象徴する2つの塔、東塔と西塔を左右に配し、根本大塔が中心に建っている。
根本大塔は、真言密教の根本道場として伽藍の中心に建設された。
弘法大師空海が819年に建立に着手し、2世真然大徳の代に落慶したが、以降5回の焼失と再建を経て、現在の建物は1937年に完成した。
高さ49m、約24m四方の一層塔である。
胎蔵界の大日如来を本尊とし、その四方には金剛界の四仏が配置されている。内陣の16本の柱には堂本印象画伯の色鮮やかな金剛界の菩薩絵が描かれている。
金堂は、高野山一山の総本堂で、創建当初は講堂と呼ばれた。後に嵯峨天皇の御願によって完成したことから、御願堂と呼ばれている。
数度の火災を経て、現在の建物は1932年に再建された。秘仏の本尊は薬師如来で、髙村光雲が80歳の高齢をおして復元したものである。
高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の正門は中門と呼ばれている。819年創建で、焼失と再建が繰り返された。
1843年焼失後は、礎石だけが露出した中門跡となっていたが、2015年の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として172年ぶりに再建された。
焼失を免れた持国天、多聞天に、新たに増長天、広目天を加えて、四天王が安置されている。
大塔の鐘(高野四郎)は、和歌山県高野山壇上伽藍の鐘楼堂にある。
弘法大師が、「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文」(性霊集)で鋳造を発願し、高野山第二世真然大徳の時代に完成した。
度重なる火災のため三度の改鋳を繰り返し、現在の銅鐘は天文16年(1547年)に再興したもので、直径2.12m、高さ2.5mの大きさである。
改鋳当時は、東大寺の鐘「南都の太郎」に次ぐ大きさで「高野二郎」と呼ばれたが、その後、知恩院と方広寺の鐘が出来たため、「高野四郎」と呼ばれるようになったという。
この鐘は「時を告げる時」や「法会などの儀式の合図」として鳴らされる。
毎日5回、午前4時、午後1時、午後6時、午後9時、午後11時に鐘が撞かれ、1日に鳴り響く鐘の音は合計108回になる。
対面桜は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある。
平安時代の久安5年(1149年)5月に大塔が落雷で焼失し、修造奉行として平清盛が任命され、保元元年(1156年)4月29日に大塔を再建した。
修造が終わり、清盛が供養のために登山した際、大塔の桜の木のもとに一人の老僧が現れてその功を讃え、二、三町ほど過ぎたところで姿が消えてしまった。
清盛は、「あの人物は弘法大師であったか」と思い、それ以来益々随喜崇敬の念を深めた。
平清盛と弘法大師が対面した場所にあった桜の木は「対面桜」と呼ばれるようになった。
江戸時代に書かれた紀伊国名所図会には、次のように記されている。
「影向桜 大塔の前にあり。清盛登山のとき、此の木の本に明神影向し給うが故に、しかといふなん。又は対面桜ともいふ。」
中門は、和歌山県高野山の金堂前にある。高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の結界ともいえる五間二階の楼門である。
弘仁10年(819年)の創建と伝えられている。
当初は、鳥居状のものであったが、承和14年(847年)に弘法大師の弟子実恵によって、立派な門が建立された。
その後、焼失と再建が続き、江戸時代には3回焼失したことが知られており、地中には焼失前の礎石が埋まっている。
天保14年(1843年)焼失後は、礎石だけが露出した中門跡としてその痕跡だけが残されていたが、平成27年(2015年)の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として、172年ぶりに8代目の門が再建された。
正面に安置されている多聞天(毘沙門天)、持国天の二天像は、文政3年(1820年)再建時のもので、天保の大火では焼失を免れて、根本大塔内に保管されていた。2015年の再建に合わせ、二天像が修復され、
さらに内側に増長天、広目天が安置され、四天像が揃う形となった。
六角経蔵は、和歌山県高野山の伽藍南西部にある六角六面二重塔様式の経蔵である。
鳥羽上皇妃、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために、平治元年(1159年)に建立された。
このとき、美福門院自ら書写した紺紙金泥一切経3575巻が納められ、この経に荒川荘(現和歌山県桃山町)を付けて寄進したため、荒川経蔵、金泥一切経蔵とも呼ばれる。
天正19年(1591年)には、高野山中興の祖応其上人の発願で大規模な修理が行われ、本尊「宝冠釈迦如来坐像」が安置された。
現在の建物は、昭和9年(1934年)に再建されたものである。
紺紙金字一切経(荒川経)は、料紙に銀泥の界を引き、金字で書写した装飾経で、重要文化財に指定され霊宝館に保管されている。
基壇の把手を持って台座を一回転すると、一切経を読んだと同じ徳を得られると言われている。
登天の松・杓子の芝は、和歌山県高野山壇上伽藍の六角経蔵の北側にある。
江戸時代に書かれた「野山名霊集」には、この松と芝の故事について、杓子芝(しゃくしのしば)と題して、次のように書かれている。
「経蔵の前にあり、昔明王院の如法上人、久安五年(1149年)四月十日生身(いきなから)白昼に兜率天に登り給ひけるか、はき玉ふ所の沓(くつ)落ちて明王院の後山の松にかゝれり、
是を沓かけの松と号して今猶彼所にあり、其のとき、弟子皈従(きしう)といふ僧、上人の跡をしたふて手に杓子を持なから天上せしか、
暫して後杓子を此所におとしたりといふ、(中略)生身に弥勒の浄土に往生し、(中略)上人の登天これにあたれり、」
また「西鶴諸国ばなし巻四」には、宝亀院の住職が天に登り、弟子が杓子を持って続いた話(大門の杓子天狗)が載せられている。
高野山では、信仰や伝説に関わる七本の名木があり、「七株(ななもと)の霊木」と呼ばれて大切にされてきた。三鈷の松をはじめ、登天の松も上記伝説とともに語り伝えられているものである。
閼伽井(あかい)は、和歌山県高野山壇上伽藍の六角経蔵東南にある。
紀伊名所図会には、次のように記されている。
「閼伽井(あかのい)
御社の南、林間にあり。大師の鑿開(せんかい)し給ふ処、天竺の無熱池の水を湛ふとなん。
凡(およそ)一山灌頂曼供等の大法会には、必ず是をもって閼伽とす。」
弘法大師空海が自ら掘った井戸で、無熱池の水が湛えられている。
無熱池とは、インドで考えられた理想郷の池で、阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住むという、炎熱の苦しみがない池である。
そこに咲く青蓮華が樒の葉に似ていることから、仏に樒を供えることになるとされている。
また、この池の岸が金、銀、瑠璃、玻璃の四宝で飾られ、冷たい清らかな水が湧き出し流れ出て四大河のもとをなし、世界を潤すと考えられている。
閼伽井の水は、灌頂や曼荼羅供などの高野山の大法会に使われている。
高野山「山王院」は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある御社の拝殿である。
創建は、11世紀中頃といわれ、地主の神を「山の神」と信じることからこの名がついたとされる。
桁行21.3m、梁間7.8m両側面向拝付入母屋造りの現在の建物は、弘化2年(1845年)に再建された。御社とともに国の重要文化財に指定されている
毎月16日、山内の僧侶による「法楽論議」が行われる。
旧暦5月1日、2日の両日には、南院波切不動を勧進して、夏季の祈りの法会が行われている。
弘仁10年(819年)5月3日の高野明神勧請の日に因み、旧暦5月3日に「竪精(りっせい)明神論議」と呼ばれる、論議形式の法会が夜を徹して行われる。
旧暦6月10日、11日には、金光明最勝王経を唱える「御最勝講(みさいしょうこう)」が行われる。
御社(みやしろ)は、和歌山県高野山の壇上伽藍西端にある。
西塔南側の小高い場所に位置しており、北側から一宮、二宮、三扉の総社と呼ばれる三社が並列している。
一宮には、丹生都比売明神、気比明神、二宮には、高野狩場明神、厳島明神が祀られている。
総社には、北の扉に十二王子、中の扉に百二十伴神、南の扉に摩利支天が祀られている。
現在の社殿は、大永2年(1522年)に再建されたもので、一宮、二宮は一間社春日造、総社は三間社流見世棚造である。
御社は、弘仁10年(819年)弘法大師が高野山開創にあたり、地主神として丹生明神と高野明神を勧請したと伝えられている。
地主神の守護のもと、真言密教の道場を築くもので、神仏習合の原点ともいえる。
平安時代の寛治2年(1088年)「白河上皇高野御幸記」には、丹生高野明神に奉幣が行われた事が記されている。
御社の前に、拝殿の山王院が建てられており、御社とともに国の重要文化財に指定されている。
西塔は、和歌山県高野山の壇上伽藍西北にある。
承和元年(834年)に弘法大師空海によって記された「知識を勧進して仏塔を造り奉る書」(性霊集)の「毘盧遮那法界体性の塔二基」は、根本大塔と西塔を指すと言われている。
金堂の東西後方に毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)二基が配置される形で、壇上伽藍が構想された。
そして弘法大師入定後、仁和2年(886年)に第二世真然大徳が光孝天皇の命を受けて、西塔が建立された。
現在の建物は、五度目の再建で、天保5年(1834年)に建立された。
現在の西塔は、高さ九丈(27.27m)で、下層を柱間五間の方形、上層を円形の平面として、上下層ともに四角の屋根を掛けた二重の塔で、頂部には擬宝珠高欄と相輪を載せ、相輪上部と上層屋根の四隅を宝鎖(ほうさ)で繋いでいる。
このような形式の塔を「大塔」と呼んでいる。根本大塔も大塔形式であるが、昭和12年(1937年)に鉄筋コンクリート造りで再建されている。
木造の大塔は、西塔の他に根来寺の大塔が現存するのみである。
大塔形式を小規模にした建物が「多宝塔(たほうとう)」と考えられている。
大塔、多宝塔共に真言宗独特の建物形式であるが、多宝塔は大塔と異なり全国に多数の残存例がある。
大規模のため資金や部材、労力が膨大にかかる大塔に比べ、高い技術が必要なものの比較的手軽に建てられる多宝塔が、大塔に代わり普及したと考えられている。
柱は、外陣に20本、内陣に12本、中心に4本合計36本に中心柱を加えて金剛界37尊を象徴している。
本尊は、金剛界大日と胎蔵界四仏(開敷華王(かいふけおう)如来、宝幢(ほうどう)如来、天鼓雷音(てんくらいいん)如来、無量壽如来)の五仏が安置されており、これにより「金胎両部不二」の教義が示されている。
来迎壁背面には、一対の迦陵頻伽(がりょうびんが 上半身が人、下半身が鳥の想像上の生き物)と蓮池が描かれており、阿弥陀の浄土を表わしていると考えられる。
西塔前の石灯籠には、天保5年の再建時に尽力した正智院第40世良應とその兄である華岡青洲(隨賢)の名前が刻まれている。
孔雀堂は、和歌山県高野山壇上伽藍にあるお堂である。
孔雀明王院、孔雀明王堂とも呼ばれる。
本尊の木造孔雀明王像は、孔雀にまたがる一面四臂の菩薩形で、像高78.8cm。鎌倉時代の名仏師快慶作で、国指定の重要文化財である。
孔雀は、よく毒草や害虫を食するということで、インドで孔雀明王は諸人の罪障を除く神として崇められてきた。
正治元年(1199年)、後鳥羽法皇の御願によって、京都東寺の延杲大僧正が干天に降雨を祈願し成就したことから、法皇の賞賜として、正治2年(1200年)に建立された。
昭和元年(1926年)金堂とともに類焼し仮堂のままとなっていたが、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業の一環として、昭和58年(1983年)に再建された。
准胝堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある。
光孝天皇の御願により、真然大徳が建立したものである。
本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として、自ら造立したものと伝えられている。
この観音は、伽藍建立当時食堂に安置されていた。
准胝観音は、准胝仏母、七倶胝仏母とも呼ばれ、准提とも書く。真言系の六観音の一つで、無数の仏を生み出す女性尊であることから、出家得度の本尊として信仰されている。
現在の建物は、明治16年(1883年)に再建されたものである。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。(Y.N)
伽藍准胝堂において、7月1日に准胝堂陀羅尼会が行われる。
この法会は、明算大徳(1021-1106)の時に始められたと伝えられている。
「尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)」を唱え、日々の罪過を懺悔する法会である。
逆指(倒指)(さかさし)の藤は、和歌山県高野山の壇上伽藍御影堂の北側にある。
平安時代の高野山は、正歴5年(994年)の大火や高僧の遷化により疲弊していたが、
祈親上人が、長和5年(1016年)に高野山にのぼり、高野山の再興を誓って、「願掛け」として藤を地面に逆さに植えたと言われている。
不思議なことに、この藤はしばらくして芽生え始めたという。
現在の藤は、近年になって御影堂北側に植え次がれたものである。
御影堂は、和歌山県の高野山壇上伽藍の金堂北方にある御堂である。
空海在世中、御堂に如意輪観音を安置し、常に念誦していたので、念誦堂、持仏堂または御庵室と呼ばれていた。
空海入定後に弟子実恵が真如法親王筆の弘法大師御影像を安置したため、御影堂と呼ばれるようになった。
数度の焼失を経ており、現在の建物は嘉永元年(1848年)に、紀州藩徳川家を壇主として再建された。
3間4面の檜皮葺、宝形造りで、屋根の勾配の曲線が美しい建物である。
内陣には、大師御影を安置し、中陣には両界曼荼羅、外陣には十大弟子と祈親上人、真然大徳の絵像がかかげられている。
堂前には、空海が唐からの帰途船上から投げた(飛行)三鈷杵が懸ったと伝えられる「三鈷の松」がある。
この松は、葉が3本に分かれた珍しいもので、葉を拾って肌身につけていると御利益があると言われている。
飛行三鈷杵は、全長23.8cmで鋳銅鍍金が施され、把径3.3cmの中央把に厳しく隆起した鬼頭四つを施し、左右に単弁八葉の連把を配した造りで、国の重要文化財に指定されている。
御影堂の周囲には、防火のためのドレンチャーがあり、火災の際には、建物の屋根の高さまで放水されるようになっている。
毎年、新暦及び旧暦3月21日には奥の院と御影堂で正御影供(しょうみえく)と呼ばれる弘法大師の法会が行われる。
旧正御影供前日の御逮夜は、日没前から御詠歌と舞踊の奉納が行われ、午後8時から御影堂で法要が行われる。
法要が終了すると、一般参拝者も堂内外陣を参観できる。また、壇上伽藍各堂の扉が開かれ、各本尊を拝観できる。
三鈷の松は、和歌山県高野山壇上伽藍の御影堂の前にある。
大同元年(806年)、弘法大師が唐から帰国するとき、日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、明州(現在の寧波)の港から密教法具である「三鈷杵」を投げた。
帰国後、その三鈷杵を探し求めると、高野山の松の木にかかっていたという。
こうして高野山は真言密教の道場として開かれることとなった。以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、広く信仰をあつめている。
普通、松の葉は2葉か5葉であるが、「三鈷の松」は密教法具の三鈷杵のように3葉になっており、肌身につけると御利益があると言われて、参拝者が葉を探す姿が見られる。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。
常喜院は、和歌山県高野山南谷の大師教会北側にある。
寺伝によると、空海の十大弟子のひとり道光大師実恵が開基で、その後、保元元年(1156年)仏種坊心覚が、一夜の庵を建てて再興した。
心覚は、奈良東大寺の学僧で小野諸流、保寿院流などの密教事相(修法の仕方)を受け、広沢流の一派常喜院流を開いた。
古くは、往生院谷にある聖の寺であったが、江戸時代は行人方の一院となり、小田原谷の枝谷浄土院谷入口西側に移転、明治3年(1870年)来迎院、三室院を併せて現在地に移転した。現所在地は最勝院の跡地で、同院の名跡は常喜院が管理している。
本尊の木造地蔵菩薩坐像は、国の重要文化財に指定されている。
常喜院校倉は、寛永年間に行人方が造立したもので、興山寺の東照宮の境内にあったものを移築したといわれ、和歌山県の指定文化財となっている。
宝形造りで、内部は内陣、外陣に分かれ、内陣は土蔵で本尊に普賢延命菩薩を安置している。
護摩堂の本尊大威徳明王は、天正19年(1591年)第22世の編覚律師が豊前小倉城内で祈祷し、その喜びで黒田長政が寄進したものである。
山門横の地蔵堂には、恵方地蔵尊(愛称:赤じぞう、紅箔じぞう、玉じぞう)のほか、さすり地蔵などが安置されている。
六時の鐘は、和歌山県高野山金剛峯寺にある。
この鐘楼は、当初福島正則(1561-1624)が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立したものである。
福島正則は、桶屋福島正信の長男として尾張国に生まれた。母が、豊臣秀吉の叔母木下氏であったことから、幼少から秀吉に仕え、柴田勝家との戦いでは、賤ヶ岳七本槍と言われて活躍した。
その後武功を挙げて清須城主となり、秀吉没後は、徳川家康に仕えて安芸広島城主となって、高野山に六時の鐘を建立した。
正則の死後、寛永7年(1640年)に鐘は焼失したが、寛永12年(1645年)に子の福島正利が再鋳した。
「紀伊国名所図会」には、鐘の銘が記されており、山内に「二六時を報ずる聲なし」との文がある。
二六時とは、一日の時間を「子の刻」「丑の刻」など十二刻で表していた時代の使われ方で、一日中を意味していた。
六時の鐘の名は、その文に由来するものと思われる。
「高野山名所図会」によると、その後、宝暦元年(1751)6月鐘楼が傾頽したため修理し、石壇を3尺まで高くした。
明和8年7月に重ねて修理、文化6年7月の火災に罹(かか)り、仮堂を数年置いた後、天保6年(1835)冬旧製に復した。
午前6時から午後10時まで、偶数時に12回ずつ一日計百八回撞かれている。
「野山名霊集」には、「六時堂」と記されており、大納言(烏丸)光広卿の次の歌が紹介されている。
高野山 なき身の数に けふもまた もれて聞ぬる 入相のかね
金剛峯寺は、和歌山県高野町にある高野山真言宗の総本山である。
開創は、弘法大師空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った816年である。その後幾度となく火災で喪失した。
1593年に豊臣秀吉が亡き母大政所天端院を弔うために青厳寺を建立し、その隣に木食応其が興山寺を建立した。
1869年に、この両寺が併合されて、改めて金剛峯寺と名付けられた。
金剛峯寺の名称は、開創以来高野山の伽藍全体の名称としても使われている。
創建当初の様式を伝える現在の建物は1863年のもので、東西54m南北63メートルの大主殿の中に大広間、梅の間、柳の間などがある。
大広間と梅の間には、江戸初期の画家、狩野探幽の作といわれる見事な襖絵が描かれている。
柳の間は、別名「秀次自刃の間」と呼ばれ、豊臣秀吉の甥、豊臣秀次が追放され切腹した所である。
幡龍庭は、石庭としては我が国最大の広さ(2340㎡)があり、雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っているように表現されている。
大主殿の北側には、空海の甥、真然の廟がある。
内談義は、旧暦6月9日、10日の2日間午前10時から行われる。
高野山には古来より「学道」というものがあり、様々な経典や弘法大師が書いた書物を勉強し、またその知識をさらに研鑽するために、
質問する側と答える側にわかれて問答するという行事が行われてきた。
独特の節をつけて問答を行う内談義は、もともとは練学会(れんがくえ)という名で、10日間にわたって行われていたが、
現在は2日間で、前年の堅精の一、二臈が左右学頭となり一日ずつ出仕する精談儀式法会である。
内談義の式場については、「屋内大広間角の間には、学頭机を据え、右の金筒に箸、羽箒、灰ならしを立て、
中央に香炉、左に香箱、両脇に花瓶を据え五段の生花をさす」と定められ、立派な五段花が飾られる。
高野の火まつり 柴燈大護摩供は、例年3月第1日曜日に高野山で開催される。
場所は総本山金剛峯寺前駐車場で、午後1時から金剛峯寺座主高野山真言宗管長による「お清めの儀式」がある。
柴燈護摩は、修験道独自の護摩儀礼で、野外に護摩木や藁などを積み上げ弓や剣で結界を張り、そこへ仏菩薩を招き点火する。
その火により修験者の煩悩を焼き尽くすとともに、天下国家安穏、家内安全、五穀豊穣などを祈願する。
護摩供の後、お守りが授与される。
蟠龍庭は、和歌山県高野山金剛峯寺の勅使門と奥殿の間に造られた石庭である。
面積2,340㎡で、わが国最大の石庭である。
雲海の中で雌雄一対の龍が、金剛峯寺の貴賓室である奥殿を守っている形が表現されている。
龍は弘法大師のふるさと四国産の花崗岩140個が並べられ、雲海には京都の白砂が使われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩5分。自家用車の場合は、表門前に無料駐車場がある。
傳燈國師眞然大徳廟は、和歌山県高野山金剛峯寺主殿の後山、阿弥陀峰の山腹にある。
真然僧正は讃岐国佐伯氏に生まれ、弘法大師の甥にあたる。
高野山第二世として、弘法大師から高野山の経営を引き継ぎ、56年にわたり尽力した。
伝法会のもとを開き、次の時代の覚鑁上人に空海の精神を伝えた。
高野春秋編年輯録によると次のように記されている。
「真然は(891年)秋の9月11日に中院(今の龍光院)において、愛染王の三魔地に住して、病もなく忽然と遷化した。
門人は、中院の東方の原野に埋葬した。(略)八九歳であった。」
紀伊続風土記「青厳寺」の項に、「真然僧正の廟堂」として記されている。
昭和63年11月の発掘調査により真然大徳の舎利器(緑釉四足壺、器高18.1cm)が出土した。
昭和40年4月14日に和歌山県の史跡に指定されている。
毎年、9月11日には金剛峯寺で伝灯国師忌が行われる。
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