240714奥の院案内 



番外ですが、沙羅の説明です。

池田兎余子句碑

池田兎余子句碑は、和歌山県高野山龍泉院にある。
石碑には、次のように刻されている。
来なれては
 高野も近し
  沙羅の花

山陰石楠氏の「高野山の句碑・歌碑 第23回 池田兎余子」には、次のように紹介されている。
雪が降ったと聞けば高野に登り、石楠花が咲いたと聞けば高野を訪ね、今年も沙羅双樹の花に会いたくてお山に来た。
「祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色」と、平家物語にうたわれた無常の花・沙羅双樹。
この花は旦(あした)に咲いて夕(ゆうべ)に散るーといわれている。人の世のはかなさを象徴するような花のいのちである。
今日も小早く大阪を発ってお昼前にお山に着いた。いつの間にかかよい馴れた高野への道である。
池田兎余子(いけだとよし)。昭和二十七年大阪で緑野(りょくや)俳句会を興し俳句と俳画の指導に努めた。
昭和五十五年八月、緑野俳句会によって高野山龍泉院境内に句碑建立。同会松本淳斧(二代目主宰)筆。
              解説 山陰石楠(やまかげせきなん)

沙羅は、釈迦の生涯に深く関わった三つの木(ムユウジュ、インドボダイジュ、サラノキ)である仏教三霊木の一つで、この木の下で釈迦は入滅したと言われる。
平家物語で「沙羅双樹の花の色」と記されるように、涅槃に入ろうとする釈迦の頭と脚の両方向に一本ずつあったとか、背中側と腹側に二本ずつあったとか様々な説から「沙羅双樹」といわれる。
ヒマラヤの山麓、渓谷に自生するが、日本では野外植栽はできない。
そのため、我が国では「和の沙羅双樹」として、ツバキ科の夏に白い花をつける落葉高木のナツツバキ(別名 シヤラノキ)が寺院の庭などに植えられており、6~7月に白い花を咲かせる。
また、高野山では、ナツツバキの仲間で、幹に茶褐色の光沢があって、すべすべしているので、「さるすべり」という方言名をもつヒメシヤラ、ヒコサンヒメシヤラも自生している。
(亀岡弘昭氏「はじめての霊場高野山の植物・動物入門」参照)
→ 高野山麓橋本新聞 「高野の花たち」(28) 釈迦入滅の聖木サラソウジュ


高野山奥の院

高野山奥の院は、一の橋から弘法大師御廟までの聖域である。
一の橋から御廟までは、杉や檜の老木に覆われた石畳の約2kmの参道が続いている。
この参道沿いには、国の史跡でもある20万基以上の墓碑や祈念碑、慰霊碑が並んでいる。
豊臣秀吉や徳川家康などの武将のほか、文化人や企業人の墓石を数多く見ることが出来る。
奥の院前バス停(中の橋駐車場)からの入口には、「虚空盡 衆生盡 涅槃盡 我願盡」と書かれている。
これは、空海が天長9年(832)の万灯・万華会の願文に記したもので、
この宇宙の生きとし生けるもの全てが解脱を得て仏となるまで、私の祈りが尽きることがないとの思いを伝えるものである。
8月13日の夜には、山内に眠る霊を供養する「ろうそく祭」が行われ、暗闇の奥の院に10万本のろうそくが灯される。
南海電鉄高野線高野山駅から南海バス「奥の院口」及び「奥の院前」下車。
自家用車の場合は、山内に無料駐車場がある。



お逮夜 ナイトウォーク

弘法大師が奥の院に入定した旧暦の3月21日に由来し、毎月21日はお大師様の日とされ、前夜を逮夜と称する。
高野山では、(一社)高野町観光協会が主催して、毎月20日の夜に「心の癒し お逮夜ナイトウォーク」が開催されている。
午後7時に高野山一の橋表参道入り口に集合し、奥之院燈籠堂で法話を聞いて、弘法大師御廟に参拝する。
参加費は無料で、当日現地で申し込む。



親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)

親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)は、和歌山県高野山奥の院にある。
中の橋駐車場から弘法大師御廟への参道を約300m北側に入った左手に登り口の階段がある。

親鸞(1173-1262)は、鎌倉時代の僧で、浄土真宗の開祖である。
下級貴族の日野有範の子として京都日野で生まれ、初め綽空(しゃっくう)と称したが、善信と改め、親鸞と併用した。
「親鸞聖人伝絵」によると、親鸞は遺骸を鴨川にいれて魚に与えよと遺言したといわれる。
明治9年(1876)、明治天皇から「見真大師」の諡号が贈られた。
諡号見真は、「大無量寿経」の「五眼讃」の「慧眼見真 能度彼岸(慧眼は真を見てよく彼岸に度す)」を出典とし、東西本願寺の御影堂正面に「見真」の額がある。
親鸞聖人の墓所は、京都の大谷本廟及び大谷祖廟、新潟県上越市の浄興寺にある。

供養塔前に、見真大師御墓 西禅院 との石柱がある。
高野山名所図会の「西禅院」の由緒の項には、次のように紹介されている。
(前略)墓碑の重なるものは即ち、見真大師の碑にして、奥の院にあり、俗に三角石塔と称するものなり、
明治十年四月廿日墓碑大破の際には本願寺より修繕せり、(後略)

西禅院には、親鸞聖人自作の木像があり、親鸞聖人が「六十有三歳」に高野山に登山した際、西禅院第三世泉勝阿闍梨を訪ね、木像を遺したという。
北側の参道入り口には、親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)が建立されている。
高野山奥の院には、親鸞聖人宝篋印塔(親鸞聖人圓證兼実覚信尼墓所)も建立されている。

 

親鸞報恩歌碑 見真大師墓句碑

親鸞報恩歌碑、見真大師墓句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)の前に、2基の石碑があり、手前の低い石碑が親鸞報恩歌碑、すぐ奥の高い石碑が見真大師墓句碑である。

親鸞報恩歌碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面) 報恩 仰へく祖師の御跡をしたひ来て
         御影に逢そ今日のうれしき
                      感中
         大正七年八月七日参拝
(西面) 伊勢松坂眞宗花山寺 沙門 感中
                       六拾九歳

見真大師墓句碑には、次のように刻されている。
(東面) 見真大師御墓 六條御殿御宿坊
                  西禅院
(南面) 法の縁くちぬ      名古屋市塩町
      ちかひや石の文       伊藤萬蔵
(北面) 明治三十八年六月 建之
(西面) 見真大師御自作    石工
        尊像 西禅院    □□泰次郎


親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)

親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)への参道入り口の石階段横に石碑が建立されており、次のように刻されている。

(東面) 見真大師墓参道
(北面) 親鸞聖人 極楽に参らむことのうれしさに 身をは佛にまかせけるかな
(南面) 施主 長崎縣肥前國南松浦郡五島福江村 (氏名 略)
(西面) 見真大師古跡坊 西禅院



山口誓子句碑

山口誓子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
句碑には、「夕焼けて西の十萬億土透く 誓子」と刻されており、
裏面には「昭和三十六年六月建之 金剛峰寺」とある。

「晩刻」に収録された句で、平田永朝氏の解説に次のように記されている。
 山口誓子は、「芭蕉の精神に復帰して、真の伝統の道を俳句に貫ぬく」ことを自らに課し、水原秋桜子と共に現代俳句の出発点を築いた。
俳句は、美しく荘厳な夕焼けに立てば、あたかも十万億土の彼方にあるという西方弥陀の浄土が透き通って望まれるかの様であるーと忘我の心境を詠ったものである。
 誓子は昭和十六年から同二十八年までの十二年間、三重県鈴鹿市富田の海岸で療養生活を送ったが、眼前に炎え拡がる大夕焼をわが身に引き較べてこの句を得た。

当初は、西側がひらけている奥の院英霊殿参道入口に建てられていたが、その後東側の中の橋駐車場御廟間の参道沿いに移設された。

「私の旅日記」の説明では、次のように記されている。
 西の天、真紅に夕焼け、一切空。遥かに遥かに十万億土が見える。透いてありありと見える。
 自分の句だが、高野山にはもってこいの句だ。
 建てるとすれば、(西側の展望が望める高野山)大門の前が最も然る可きであるが、
 そこにはすでに木国の句碑が立っているから、ずっと退いて(奥の院の)脇参道に西を向いて立つことになったのである。
 そこも西に展けている。
 はじめ白象師が建碑のことを云われ、句を求められたとき、私は
  高野より雲加わりて鰯雲
 という句を提出した。
 その句は、採用されなかった。「鰯雲」は「雲」ではあるが、「鰯」は魚扁の生臭い字であるという理由で。
 結局、私が昭和二十一年、伊勢で作った十万億土の句が採用された。
 私のこの句は、ゆかりの地のゆかりの句とは云えぬが、知らぬひとは欺かれる。

山口誓子(1901-1994)は、京都生まれの俳人で、本名は新比古(ちかひこ)といった。
京大三校俳句会に加入し、ついで東大俳句会で、水原秋桜子に兄事、高浜虚子に師事した。
水原秋桜子、阿波野青畝、高野素十とともに、「ホトトギスの4S」と称された。
戦後の俳句復興にも尽くし、昭和45年(1970)紫綬褒章を受章している。



楽書塚   花菱アチャコ句碑

楽書塚、花菱アチャコ句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
楽書塚と書かれた石碑が建てられており、その南の石碑に次のように刻されている。
     らくがきは即ち良久加幾で好いこと
     長く更に活力を増すものまた落我鬼で
     あるから自分の胸より怪しからぬ思いを
     去ってしまうもの   清川虹子
お願い 楽しく落がきの出来る場所を作りました
     大切な場所にむやみに落がきをしないで下さい
     昭和四十三年十月 柳家金吾楼    

花菱アチャコ句碑上部の扇形の石碑に次の句が刻まれている。
  笑われて浮世をおくる顔にで来
花菱アチャコ(1897-1974)は、大正、昭和時代の漫才師、俳優である。
明治30年2月14日、福井県に生まれた。本名は藤木徳郎。
喜劇の鬼笑会から漫才に転向し、のちに吉本興業に入った。
昭和5年横山エンタツとコンビを組み「早慶戦」などのしゃべくり漫才を得意とした。
その後、コンビを解消し、昭和10年にアチャコ劇団を結成し、戦後は喜劇俳優として活躍した。



慈手観世音菩薩 腕塚 大石順教尼之墓

慈手観世音菩薩、腕塚、大石順教尼之墓は、和歌山県高野山の奥之院にある。
慈手観世音菩薩像は、大石順教尼の発願で建てられたものである。
同尼が、両腕を失って81歳の天寿を全うできたのは、有縁の人々から慈悲の手をさしのべていただいたお陰であると同尼が合掌をしている姿である。
大石順教尼没後50年記念冊子に、腕塚の由来が記されている。
同尼の兄が死去した際に、兄嫁から、アルコール漬けの瓶に入った腕を本家の墓から引き取ってもらいたいと言われたという。
高野山に行った際に、当時の管長和田性海猊下に相談したところ、猊下から次のように言われた。
「それは面白い話やな、そのアルコール漬けの手を掘り出して、この高野山の奥の院に腕塚を建てようやないか、高野山にはいろいろな塚があるけど、腕塚というのは一つもない。
多くの手の無い人が悩んでいるだろう。そんな人たちが高野山へ上られたら、弘法大師の心の手を貰われる事がよかろうじゃないか、それは面白いはなしや、早々に腕塚を作ろう」
石碑の文字は、同尼の叔父と親交のあった徳富蘇峰氏が書いたものである。
慈手観世音菩薩像の西側には、大石順教尼腕塚歌碑がある。
南海電鉄高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。中の橋駐車場がある。


大石順教尼腕塚歌碑

大石順教尼腕塚歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
大石順教尼之墓(腕塚)の慈手観世音菩薩像の西側に建立されている。
昭和27年(1952)に建立されたもので、北面には、次の歌が刻されている。
  尚ちからせむ
   すべも
  なきみには
      ただ
  南無佛と
    とう人の
    みこそ
       順教

南面には、大石順教尼について紹介する金山穆韶大僧正の漢文が刻されている。



森白象(寛紹)句碑

森白象(寛紹)句碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前平和橋東詰めにある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 涼しさや奥の院まで坂もなく
(裏面) 高野山真言宗管長 第四百六世金剛峯寺座主
      大僧正 森寛紹 和尚 白象と号す
      弘法大師御入定壱千百五十御遠忌奉修記念建之
         昭和五十九年五月二十日

森白象(もりはくしょう)は、明治32年(1899)愛媛県に生まれ、明治43年に高野山普賢院に入寺している。
昭和47年(1972)高野山第473世寺務検校法印、昭和55年(1980)高野山真言宗管長・第406世金剛峯寺座主となった。
昭和2年(1927)に高浜虚子と出会い、ホトトギス同人となり生涯虚子を俳句の師とした。



土生川正道書 本居宣長歌碑

土生川正道書 本居宣長歌碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前にある。
石碑には、次のように刻されている。
敷島の大和心を人とはゞ 朝日ににほふ山桜花
     土生川 正道 書

この和歌は、江戸時代の国学者 本居宣長(1730-1801)が61歳の時に自画像の簪として書いたものである。
土生川正道(はぶかわしょうどう)は、高野山無量光院住職で平成19年に高野山第五百八世寺務検校執行法印を務めた。→ 高野山の歌碑

上記和歌は、新宮を舞台にした辻原登氏の小説「許されざる者(上)」第六篇でも、次のようにとりあげられている。
  夫人が、水量を湛えたダムの中から、さわやかな風のそよぐような声を汲み上げた。
  「しきしまの やまとごころを人とはば、朝日にひほふ山櫻ばな」
  と口にして、恥ずかしげに付け加えた。
  「亡くなった父は、この歌が好きでした。」
  「本居宣長ですね。朝日ににほふ、としたところがいい。この場合、にほふというのは、輝き映じる、という意味なんでしょうな。」
  了円がいって、別の歌を引いた。
  「明日ありと 思ふこころのあだ櫻 夜半に嵐のふかぬものかは」
  それは? という表情を槇と夫人が了円に向けると、
  「親鸞聖人の御作と伝えられております」 → 和歌出典資料



白猫句碑

白猫句碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前平和橋西北の玉川沿いにある。
石碑には、次のように刻されている。
 消えてくる程
遠からず
  春の鐘
     白猫
     □□葉筆


一福句碑

一福句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
阪神淡路大震災物故者慰霊碑東側の吉田家之墓 墓石前燈籠石塔軸石に次の句が刻されている。
(南側、向かって左)
焼け失せし 過去帳の魂 まつりけり 一福
(北側、向かって右)
祖師の邊に 集い在して あたたかく 一福

山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」には、「一福」は、当地墓碑の吉田卯之吉氏の俳号ではないかと記されている。


奥の院の大杉林と特別母樹林

奥の院の大杉林と特別母樹林は、和歌山県高野山にある。
奥の院一の橋から奥の院御廟までの参道約1.6㎞の両側には、樹齢200~600年の大杉林があり、和歌山県の天然記念物に指定されている。
大杉の総数は1300本を超え、樹高が50mに達するものある。
そのうち、「特別母樹林」の白い標札がつけられているものがある。
特別母樹林とは、樹形材質ともに優れた樹木を保存し、優良な種子穂木確保する目的で農林水産大臣が法律に基づき指定した樹木である。
当地の特別母樹林は、昭和46年に指定され、5haの面積に、700本余りの樹木が指定されている。



崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔

崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院墓石群の中で最も大きい(高さ6.6m)ことから、「一番石」の名で広く知られている。
この供養塔は、徳川秀忠の次男駿河大納言忠長が、母崇源院(江姫)(1573年-1626年)の追善供養のため、寛永4年(1627年)に建立したものである。
地輪正面には、お江の法名「崇源院殿一品太夫人昌誉大禅定尼」が刻まれている。
江姫は、浅井長政と織田信長の妹お市の方の末娘で、豊臣秀吉の側室淀君の妹である。
お江の最初の婚姻相手は、佐治一成で、豊臣秀吉により離縁させられた。
2度目の結婚相手は、秀吉の甥の豊臣秀勝であったが死別した。
その後、徳川二代将軍秀忠の正室として、戦国時代から江戸時代にかけて波乱万丈の人生を送り、寛永3年(1626年)に享年54歳で死去した。
お江は、死後江戸の増上寺で荼毘に付されて埋葬されたが、その荼毘の火は、奥の院燈籠堂の火が使われた。
平成23年のNHK大河ドラマ「江」のヒロインとしてとりあげられている。
菩提所は、高野山の蓮華院で、和歌山県の指定史跡となっている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩約15分。中の橋駐車場を利用できる。



九度山萱野家句碑

九度山萱野家句碑は、和歌山県高野山奥の院31町石南西の段丘にある。
芭蕉句碑の山側奥に位置しており、越後村上 堀家供養塔、下野壬生 三浦家供養塔の前を御廟側に約30m右手に進んだところにある。

五輪塔の地輪には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照) → 高野山の句碑
(南東面)
 明治四十年八月廿日寂
藥王院良景徳翁居士
香德院員操妙正大姉
 昭和十六年八月九日
 俗名 菅野イチノ 行年八十三才
(北東面)
本郡名倉村産
俗名 萱野良景
 行年 七十一歳
(北西面)
寂寞の
 中に聲あり
  呼子鳥
    耕雨
(南西面)
九度山村産
 俗名 萱野正
   行年 八十五才

霊宝館だより第82号の「明治期の高野山と女性 萱野イチノという人」によると、
萱野イチノ(1859-1941)は、女人禁制下の高野山で初めて「居住」した女性として知られている。


芭蕉句碑

芭蕉句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
松尾芭蕉(1644-1694)が、記した俳諧紀行「笈(おい)の小文」の中で詠んだ次の俳句で、池大雅の字で刻まれている。

ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声

芭蕉は、貞享4年(1687)江戸をたち、郷里伊賀上野、伊勢神宮、吉野を経て高野山に参詣した。
郷里伊賀上野では、貞享5年2月18日に亡き父の三十三回忌法要を済ませた。
父は芭蕉十三歳の時に、また母は芭蕉四十歳の時に他界している。
その後、和歌の浦、奈良、明石までの旅を「笈の小文」としてまとめ、宝永6年(1709)に出版された。
旅中の54句が納められており、高野山について次の2句が載せられている。

ちゝはゝのしきりに恋し雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊(芭蕉門人の杜国)

また、「枇杷園随筆」所載の高野登山端書では、芭蕉は次のように記している。

高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈きゆる時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、
一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、
御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。
此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、
此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、
父母のしきりに恋し雉の声

芭蕉は、雉の声に亡き父母への思慕の情をかきたてられ、この句を詠んだ。季語は雉で春である。
俳句歳時記の解説では、雉について、次のように書かれている。
     雉子 きぎす
  日本の国鳥として書画にも多く描かれている鳥である。雄は羽の色彩が華麗で長い横縞のある美しい尾を持つ。雑木林や原野を生息地とするが、排卵中の雌はあまり飛び立たない。
 留鳥であるが、いかにも哀れ深い声で鳴くので、古くから春のものとされている。早春の野焼きのころに、雉の巣も焼かれることが多い。
 野鳥に共通する本能のため、子を守ってともに命を落とすことから、「焼野のきぎす」として、親の情愛の深さに例えられている。

芭蕉句碑は、紀伊名所図会で、「芭蕉墓(づか)」と紹介され、碑の裏面には、次の碑陰銘が記されている。(高野山詩歌句碑攷)

      雉子塚の銘
ほろ々と。鳴くは山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。
おもひしたへる。いにしへの。良辨のかの。ふるうたに。かよふ心の。十(とお)あまり。
なゝつの文字を。石に今。きざみてこゝに。たつかゆみ(弓)。紀の高野(たかの)なる。法の月。
雪にさらして。すゑの世も。朽ちぬためしを。この國に。この道したふ。沂風(そふう)てふ。
人のまことを。かきぞとどむる。右 東武 雪中菴蓼太
     安永四乙未年十月十二日

この俳句は、行基が高野山で詠んだと伝えられる次の歌を踏まえたものと言われている。
「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ 母かとぞおもふ」(玉葉和歌集)
良辨僧都は、「ほろほろと鳴は山田の雉子の聲 父にやあらん母にやあらむ」と詠んでいる。
撰文を記した雪中菴蓼太(大島蓼太)は、江戸時代中期の俳人で、天明期の俳諧中興に尽くした。

句碑の台石には、次のように刻されている。
  宿坊 
  金剛頂院

  南紀日高郡御坊邑
  鹽路沂風
     建之

この芭蕉句碑は安永四年(1775)に、紀州日高郡御坊村の塩路沂風によって建立された。
塩路沂風は、後に滋賀県義仲寺無名庵六世になった俳人である。芭蕉の墓は義仲寺(滋賀県大津市)にある。
山内潤三氏の高野山詩歌句碑攷によると、芭蕉を崇敬してやまぬ弱冠24歳の塩路沂風が、芭蕉の八十回忌にあたり、高野山にこの芭蕉句碑を建立したという。

高野山奥の院中の橋西にある市川団十郎供養句碑には、「雉子啼や 翁の仰せ 有る通り」と詠まれている。

南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩15分。→ 其角句碑




法然上人(圓光大師)供養塔

法然上人(圓光大師)供養塔は、和歌山県高野山奥の院の32町石西にある。
浄土宗の開祖、法然(1133-1212)は、美作国久米(現、岡山県久米郡)の出身で、15歳から比叡山へ入り、出家修行生活を送った。
法然房源空と名乗り、43歳で「専修念仏(南無阿弥陀仏と唱えると極楽往生できる)」を広めようと、比叡山から出て京都の吉水を布教活動の拠点とした。
水原堯榮氏の「高野山金石図説」によると、五輪塔地輪には、梵字と「源空」の文字が刻されている。



扇面句碑

扇面句碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南にある。
安芸浅野家供養塔の北隣に位置している。→ 高野山内の歌碑、句碑、詩碑

扇形石碑と台石には、次のように刻されている。
(参道側)
森田愛子は越前之國の人 その母よしと九頭竜河畔に住む
高濱虚子先生の小説「虹」に顕る
昭和二十二年四月一日歿す
母娘住み
 窓の外には
   浮寝鳥
    柏翆
(東側)
鎌倉の
 夢見て
  さめて
   雪篭り
    愛子
(台石)
昭和四十年五月
 越前之國
小森石材工業所調製

森田愛子(1917-1947)は、福井県坂井市三国町出身の俳人である。
高浜虚子の「虹」のヒロインとして登場する。
昭和14年(1939)鎌倉での療養時代に、高浜虚子門下の伊藤柏翆と出会い、俳句を始めた。
句集として、虹、愛子全句集、森田愛子全句集、森田愛子遺句集、森田愛子選句集がある。
森田愛子の墓所は、寿福寺(鎌倉)、月窓寺(三国)、性海寺(三国、森田家の菩提寺)にあり、
東尋坊荒磯遊歩道(虚子、愛子、柏翆句碑)、瀧谷寺、性海寺、当地奥の院に句碑が建立されている。

→ 高浜虚子 虹 小説集 師と弟子切ない交わり 三国(福井県坂井市)


松平(結城)秀康及び同母霊屋

松平(結城)秀康及び同母霊屋は、和歌山県高野山奥の院の越前松平家の墓所にある。
松平秀康(1574-1607)は、越前福井藩の初代藩主である。
徳川家康の二男で、生母は永見吉英の娘 於万(おまん)の方である。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの講話の際に、豊臣秀吉の養子となって羽柴秀康と名乗った。
1590年下総(茨城県)の結城晴朝(はるとも)の養嗣子(ようしし)に入り10万1000石となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功によって、越前68万石へ加増転封され、慶長12年に34歳で病没した。
向かって右の霊屋が、松平秀康を祀るもので、慶長12年(1607年)に、越前福井藩二代目当主忠直によって建立された。
三方の石壁には、二十五菩薩の浮彫仏像が彫刻されており、内部には、一族5人の宝篋印塔がある。
石廟を建立した結城忠直は、乱行が理由で元和5年(1619年)豊後萩原に流罪となり、竹中采女正に預けられ、慶安3年(1650年)に56歳で死去した。
左側は、秀康自身が母公を祀るため、慶長9年(1604年)に建立したものである。
2棟とも越前の笏谷石が用いられ、幅奥行きとも7.5mの二基の石廟が並んだ形で、瓦、壁、柱、扉に至るまですべて石造りとし、木材はほとんど使用されていない。
国の重要文化財に指定されており、世界遺産にも登録されている。




其角句碑

其角句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
南向きの正面には、「鈴木里見累世(代)之霊 其角堂」と刻され、
東面と西面にはそれぞれ、
「卵塔の鳥居やげにも神無月       其角」
「灯火(ともしび)を浮世の花やおくの院 永機」
の二句が刻されている。
宝井其角(1661-1707)の「句兄弟」所収の句といわれている。
其角は江戸時代中期の俳人で、松尾芭蕉の高弟である。父は本多藩の医師で、のちに宝井氏を名のった。
14,15歳で芭蕉の門下となり、元禄7年(1694)上方の旅の際に、芭蕉他界の前日に大坂の病床に参じて、葬儀万端を済ませた。
豪放闊達な作品が多い半面、師芭蕉、父母、娘などの死に臨んでの作品も知られる。
芭蕉没後の作風は、洒落風と呼ばれ、後に江戸座の祖とされ、江戸文化に大きな影響を与えた。

毎日新聞2001年8月10日の「高野山俳句ウォーク&シンポジウム」には、次の記事がある。→ 其角句碑解説

高野山大学客員教授で、現代俳句協会会員の山陰石楠さん(77)=和歌山県高野町高野山766=は句作のかたわら高野山内の句碑の研究を続けている。
高野山出版社発行の信仰雑誌「聖愛」に1999年1月号から約2年間にわたり、句碑を紹介した。(中略)
2年間の「取材」で山陰さんは、芭蕉の門人の宝井其角のものとされていた句碑は別人によるものであることを「発見」した。
旧参道に建つ「卵塔の鳥居やげにも神無月」の句碑は「其角句碑」として立て札が設けられ、宝井其角とされていた。
しかし、山陰さんが句を調べてみると、其角から約180年後に江戸深川に住んだ江戸座其角堂六世の鈴木義親の作であることがわかったという。

鈴木義親(1777-1852(1849?))は、別名 穂積永機(1)、深川永機、六世其角堂鼠肝ともいわれる。
穂積永機(2)(1823-1904)は、幕末、明治時代の俳人として知られる。本名は善之。父 六世其角堂鼠肝 と、母 里見の間に生まれた。
石碑正面に刻された「鈴木里見」は、この母のことかと思われる。

石碑北面には、明治壬午(明治15年 1882年)卯月 里見田女 山本乕(虎)子 建之 と刻されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩15分。→ 高野山奥の院芭蕉句碑 高野山内の句碑 奥の院の文学碑


豊臣家墓所

豊臣家墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
この墓所には、豊臣秀吉(1537-1598)とその母、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓がある。
現在、石塔が11基並んでいる。
そのうち、中央の1基(303cm)は、昭和15年(1940年)、豊公会によって造立されたもので、京都の豊国廟から霊土を移したという。
五輪塔の正面には、「豊臣太閤秀吉公之墓」と記されている。
この五輪塔の内部には、秀吉の衣冠束帯姿の古い木造が納められている。

紀伊名所図会には、江戸時代の奥の院が描かれており、そこには10基の石塔が描かれている。
また、宝永4年(1707)に描かれた「奥の院絵図」(金剛峯寺蔵)には、下の写真の通り10基の石塔が描かれ、8基には次の通り石塔名が記されている。
大納言殿北方、大光院殿前亜相、太閤秀吉公、春厳貞松、前関白秀次公、石田治部少輔、三位法印、御上臈

「紀伊国金石文集成」「和歌山県の文化財第一巻」「近世大名墓の成立」「高野山金石図説」「木下浩良氏講演資料」によると、次の石塔が説明されている。
①宝篋印塔 総高 四尺八寸
 (銘文)不明(剥落して文字無し)
②三位後室逆修塔(L3) 豊臣秀吉の姉 豊臣秀次の母 「智(とも)の方」123.5cm → 瑞龍寺(村雲御所) 豊臣秀次の墓(高野山光臺院)、瑞泉寺
 (銘文)天正廿年 ア 三位法印後室 逆修 五月七日
③法性院殿五輪塔 総高六尺 水輪以上の四輪は他石
 (銘文)施主生國相刕住 浅野清兵衛 友重立之
     法性院殿 ア 爲 菩提 接譽得授大姉 慶安四天三月廿一日入寂
④北方慈雲院逆修塔(L1) 豊臣秀長の正室 198cm
 (銘文)大納言殿北方慈雲院 ア 芳室紹慶 逆修 天正十九年五月七日
⑤豊臣秀長塔(R1) 豊臣秀吉の異父弟 総高六尺
 (銘文)大光院殿前亜相 ア 春岳紹榮大居士 天正十九年正月廿二 → 大光院 大納言塚
⑥青厳貞松逆修塔(R2) 豊臣秀吉の母堂 170cm
 (銘文)天正十五年 ア 青厳貞松 逆修 六月廿一日
⑦五輪塔地輪の上に不動明王石仏 勝海院殿 → 安芸浅野家供養塔(浅野長勝 勝海院)
 (銘文)法印隆観 泰春房 寶歴廿?辰 六月三日寂
     勝海院殿 ア 金光居士 天正三乙亥九月八日寂     
⑧樹正院殿五輪塔 秀吉養子息女 豪姫(前田利家四女、宇喜田秀家正室) → 金沢市野田山の前田家墓所
 (銘文)前相國秀吉公御養子 息女 樹正院殿 ア 逆修 命室壽光
     慶長廿年卯月十五日
⑨玉厳麟公神童塔(L2) 豊臣秀吉の長男 鶴松 180cm → 京都市妙心寺 塔頭玉鳳院
 (銘文)天正廿秊 ア 玉厳麟公神童 浅野弾正少弼造之 二月時正
⑩御上臈逆修塔(R5) 豊臣秀吉の側室淀殿 (秀吉正室 ねねとの説もあり) 170cm
 (銘文)天正十七己丑 ア 御上臈 逆修 七月初三日 → 淀君 豊臣秀頼五輪塔 太融寺 高台寺

浅野弾正は、浅野長政(浅野長勝養子)である。 豊臣秀吉の正室高台院も浅野長勝養女であった。→ 高台寺
京都市東山区の阿弥陀ケ峰山頂(標高196m)には、豊臣秀吉の墓所豊国廟がある。
例年、豊臣秀吉命日の8月18日には、当地の豊臣家墓所で、豊太閤忌の法要が行われ、読経に続いて、「南無豊国大明神」という神号が唱えられる。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。



本阿弥七基石塔 (七ツ石)

本阿弥七基石塔(七ツ石)は、和歌山県高野山の奥の院の豊臣家墓所北西にある。
紀伊名所図会には、本阿彌七基石塔として次のように記されている。
「此中に一閑紹鴎居士の碑あり。 弘治元乙卯十月廿九日卒とあり。
其外孫今井宗薫、当山一心院谷福生院に寓居し、建つるところという。
塔毎に空、風、火、水、地の漢字を鐫れり。」
一閑紹鴎は、武野紹鴎(1502-1555)のことで、戦国時代の堺の豪商、茶の湯名人である。
女婿の今井宗久、津田宗久。田中宗易(千利休)などが弟子となった。
高野山文書では「七ツ石」として紹介され、向かって右端が武野紹鴎の五輪塔で、地輪中央に「一閑紹鴎居士」と刻まれている。
7基は全て砂岩製で、17世紀前半に建立された。



高浜年尾句碑

高浜年尾句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
石碑は、御廟橋と豊臣家墓所の間にあり、堺中室院墓所の階段南側にある。
石碑前面には、「一水の緑陰に入るところかな 年尾」と刻されている。
裏面には、「昭和五十七年六月六日 総本山金剛峯寺」とある。
山陰石楠氏の解説によると、弘法大師が、奥の院の御廟橋南側のこのあたりを好まれて、ここに納涼房を建てて四時を過ごされたという。
高浜年尾(1900-1979)は、東京神田で高浜虚子の長男として生まれた。
小樽高商卒業後、旭シルク、和歌山製糸で勤務後、昭和10年ごろから俳句生活に入り、ホトトギス関西地方代表として活躍した。
昭和13年(1938)「俳諧」を発行、昭和26年(1951)高浜虚子に替わり「ホトトギス」を主宰した。昭和54年(1979)10月26日逝去。


織田信長墓所

織田信長墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院御廟橋南西にある五輪塔の高さは、230cmで、銘文には次のように記されている。

天正十年六月二日
総見寺殿
(梵字ア)贈大相國一品
泰巌大居士
御宿坊悉地院

織田信長(1534-1582)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で亡くなっている。
この五輪塔の形式は江戸時代中期のもので、後世建立されたものと言われている。
京都市上京区の阿弥陀寺には、織田信長公本廟がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。



筒井順慶供養塔

筒井順慶供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院御廟橋の南西にあり、織田信長墓所の東に隣接している。

高さ162cmの花崗岩製の五輪塔で、地輪には次のように刻されている。
和刕筒井法印順慶
梵字 ア
天正十二秊甲申八月十一日

文政5年(1822)11月の「南山奥院諸大名石塔記」には、御廟橋と遍照金剛御廟所の間に「筒井法印順慶」との記載がある。

筒井順慶(1549-1584)は、戦国時代の大和の大名で、幼名は藤勝(ふじかつ)、藤政と呼ばれ、永禄9年(1566)得度して陽舜房順慶と称した。
永禄2年(1559)松永久秀が大和に攻め込んだため、筒井城を捨てて東山内などに逃れた。
その後、大和の守護として織田信長に仕え、明智光秀の子を養子に迎えるなどして活躍した。
天正10年(1582)本能寺の変で、明智光秀から誘われたが、大和郡山から動かず、光秀には加勢しなかった。
山崎の合戦後に羽柴秀吉に参じて、大和領有を認められた。
「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」で、山崎の合戦の形勢を眺めて、光秀に味方するか秀吉に加勢するかで日和見をしたとの俗説が有名であるが、実際には大和郡山城で軍議を重ねていたという。
その後、豊臣政権下で小牧長久手の戦いなどに参加したが、天正12年(1584)に36歳で病死した。
墓所は奈良県大和郡山市筒井順慶歴史公園の五輪塔覆堂にある。
筒井家は、養子定次が後を継いだが、徳川政権下で豊臣家に内通したとの疑いで、改易された。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。



蕪村玉川句碑

蕪村玉川句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
高野山奥の院の蕪村句碑は、玉川に架かる御廟橋南詰西約10mのところに建立されている。
嘉永元年玉川碑歌碑の手前にあり、紀州有田川産の砂岩製石碑には、次のように刻されている。

 蕪村翁
  玉川に高野の花や流れ去る
 (台石) 金剛峯寺 平成十五年十一月建立

蕪村(1716-1783)は、江戸時代中期の俳人、文人、画家である。
姓は谷口、のち与謝(よさ)と改めた。俳号は宰町、落日庵、紫狐庵、夜半亭など、画号も四明、朝滄(ちょうそう)、長庚、春星など数多い。
享保元年(1716)摂津国東成郡(ひがしなりごおり)毛馬村(現大阪市都島区)で生まれた。→ 蕪村生誕地・句碑
17、8歳の時に毛馬を出て江戸に下り、夜半亭宋阿(早野巴人(はじん))に俳諧を学んだ後、俳諧と絵画の両面で才能を発揮した。
松尾芭蕉、小林一茶とともに江戸の三大俳人として知られ、「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」などの俳句がある。→ 蕪村公園
天明2年(1782)3月、蕪村は吉野の花を見てのち高野山に登り、上記の「玉川に」の句を詠んだ。
そのあと九度山の真田庵を訪ね、「かくれ住んで花に真田が謡かな」の句を残している。
天明3年(1783)に「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」の辞世を残し、京都で没した。(享年68歳)
墓所は、芭蕉庵のある京都市左京区の金福寺(こんぷくじ)にある。→ 与謝蕪村の墓


水向地蔵

水向地蔵は、和歌山県高野山の奥の院にある。
御廟橋(無明の橋)の東側に玉川(御廟川)に沿って、地蔵菩薩、不動明王、弥勒菩薩、聖観音など15体の金銅仏が並んでおり、すぐ横には、玉川の水行場がある。
日野西真定の「高野山民族誌奥の院編」によると、平安時代に常設の橋がなかった頃は、手足を清める場であったが、室町時代以降、この地に石像仏が建てられはじめ、慶安年中(1648-52)には、石水盤が設置された。
これらの像は、先祖の菩提や逆修(生前の法会)を祈願して寄進者が金銅仏等を建立したものである。
水向地蔵と呼ばれるのは、前に置かれた水盤にある水を柄杓で尊像に手向けて供養することに由来している。
奥の院に参詣する多くの人々が、御供所で水向塔婆を求めてこれらの地蔵に納め、水を手向けて冥福を祈る姿が見られる。
南海電鉄高野線高野山駅から南海バス「奥の院前」下車、徒歩20分。自家用車の場合は、中の橋の無料駐車場を利用する。



陸奥宗光供養塔

陸奥宗光供養塔は。和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院燈籠堂の階段下から約20m南の参道西側沿いにある。
総高164cmの小型額縁付き墓石に、次のように刻されている。
(正面)伯爵陸奥宗光墓
(左面)法謚大機院圓應宗光大居士
(裏面)未亡人亮子謹建
(右面)明治三十年八月廿四日薨
    三十二年八月二十四日分骨

許可を得て撮影された供養塔の写真は、文芸ジャンキーパラダイスに載せられている。

陸奥宗光(1844-1897)は明治時代の外交官、政治家で不平等条約の改正に尽力した。
天保15年(1844)7月7日に紀州藩の重臣であった伊達宗弘の第6子として和歌山で生まれた。
父は、紀州藩の勘定奉行、寺社奉行を勤めていたが、嘉永5年(1852)徳川治宝が亡くなると失脚し、田辺等に幽閉された。
宗光はこれらの苦境を乗り越え、江戸に出て勉学に励んだのち、神戸の海軍操練所に入り、坂本龍馬と行動を共にした。
幕末の紀州藩を救い、明治政府の地租改正を推進して財政基盤を整備した後、外交官となり明治21年(1888)に日本とメキシコとの間で初の平等条約締結に成功した。
農商務大臣を経て、第2次伊藤博文内閣で外務大臣を務め、明治27年(1894)イギリスとの不平等条約改正を実現し、欧米列強に認めていた治外法権を撤廃し、国家の独立自尊を護った。
日清戦争、三国干渉の難局を乗り越えた手腕は、「カミソリ大臣」と呼ばれた。
これらの業績を讃え、外務省に4体の銅像や胸像が置かれている。

燈籠堂

燈籠堂は、和歌山県の高野山奥之院にある。
燈籠堂は、弘法大師御廟の拝殿で、創建は弘法大師入定の年の翌年 承和3年(836年)にさかのぼる。
弘法大師の弟子の実恵、真然大徳が方二間の御堂を建てたのが最初である。その後治安3年(1023年)藤原道長によってほぼ現在の大きさのものが建立された。
堂内正面に、醍醐天皇から賜った弘法大師の諡号額、両側には十大弟子と真然大徳、祈親上人の12人の肖像が掲げられている。
堂内には、1000年近く燃え続けているといわれる二つの灯がある。
向かって右が、長和5年(1016年)に祈親上人が、廟前の青苔の上に点じて燃え上がった火を灯明として献じて高野山の復興を祈念したといわれるもので、祈親灯と呼ばれる。
髪の毛を売って献灯した貧女お照の物語に因んで「貧女の一灯」とも呼ばれる。
左には、寛治2年(1088年)に白河上皇が献じた「白河灯」があり、記録では上皇が30万灯を献じたとあり、俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
この他、ある皇族と首相により献ぜられた「昭和灯」のほか、地下を含めた堂内には、参拝者が献じた燈籠と弘法大師の小像が多数置かれている。
現在の建物は、昭和39年(1964年)に高野山開創記念事業として改修されたもので、桁行40.6m、梁間21.9mの大きさである。
また東側には昭和59年(1984年)の御入定千百五十年記念事業として記念燈籠堂が落慶した。

燈籠堂の入口左右の対聯には、次の文の後半が掲げられている。
我昔遭薩埵 親悉傳印明
發無比誓願 陪邊地異域
晝夜愍萬民 住普賢悲願
肉身燈三昧 待慈氏下生

われ昔薩埵(さった)にあひて、まのあたり悉く印明をつたふ
無比の誓願をおこして 辺地の異域に侍(はべ)り
昼夜に万民をあはれんで、普賢の悲願に住す
肉身に三昧を証じて 慈氏の下生をまつ

この文は、弘法大師に大師号が下賜され、勅使中納言資澄(すけずみ)卿と般若寺の僧正観賢が高野山に下向し勅書を奏上した際、
入定中の弘法大師が醍醐天皇への返事として言われた言葉として、平家物語「高野巻」に記されている。

「自分は昔 金剛薩埵に遭って、直接目の前で印明をことごとく受け伝えた。
比類なく貴い誓願をおこして、辺地の高野山におります。
毎日毎夜万民をあわれんで、普賢菩薩の慈悲深い誓願を行おうとしている。
肉体のままで入定し、三昧の境地に入って、弥勒菩薩の出現を待っている。」(日本古典文学全集「平家物語」)

南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。(M.M)(Y.N)

弘法大師御廟

弘法大師御廟は、和歌山県高野山奥之院にある。
奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。
御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。
七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。
その後、11世紀に高野山は一時荒廃するが、祈親上人が復興し、御廟を再興して大師信仰の中心となった。
これは、弘法大師が入定して高野山に留まっているとする入定留身説が広く信者に受け入れられたものである。
御廟の瑞垣内には、東側に二社、西側に一社の小祠が祀られている。
東側は、丹生明神と高野明神で、高野山開創伝承に基づく。
西側は白髭稲荷大明神で、弘仁14年(823年)、弘法大師が嵯峨天皇から東寺を賜った際、密教と国土の安泰を稲荷大明神に契約したという伝承「稲荷契約事(いなりけいやくのこと)」に基づくものである。
紀伊続風土記の「奥院之四」には、白狐の項があり、「額に三鈷を戴く白狐が大峰から毎日参詣する」と記されている。

春日局供養塔

春日局供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。

春日局(1579-1643)は、徳川三代将軍家光の乳母で、名は斎藤福(稲葉福)、通称お福と呼ばれた。
父は、明智光秀家臣の斎藤利三(としみつ)で、母は、稲葉一鉄の娘で稲葉あんである。
天正7年(1579)、丹波国春部荘(現兵庫県丹波市春日町)で生まれた。
父の斎藤利三は、天正10年(1582)の本能寺の変の後、山崎の合戦で敗れ、明智光秀とともに京で首を晒された。
お福は、母方の一族 稲葉重通(しげみち)の養女となり、文禄4年(1595)17歳の時、同養子正成(まさなり)に嫁し、稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利らを産み、将軍家の乳母となるためのち離縁した。
慶長9年(1604)二代将軍徳川秀忠の長男家光出生に際し、京都所司代 板倉勝重の推挙により乳母となった。
乳母に推挙された理由は諸説あるが、春日局の顔にはあばたがあり、当時の天然痘に罹って終生免疫を得ていたため、将軍家の世継ぎを疾病から守るため選ばれたともいわれている。
家光には二歳下の弟 忠長があり、父秀忠と正室お江の方は、忠長を寵愛し、徳川家家臣や有力大名も忠長を次期将軍とみなし始め、世継ぎの序列も逆転するような状況となった。
お福は危機感を強め、慶長15年(1610)伊勢参宮に託して駿府で大御所家康にこの旨を訴えた。
家康は鷹狩と称して江戸に上り、次期将軍は家光と定めた。これは「春日の抜参り」といわれている。
寛永3年(1626)正室お江の方(崇源院)没後は、大奥を統率し、絶大な権勢を振るうとともに、将軍家光に対しても影響力を持った。
寛永6年(1629)紫衣事件で後水尾天皇が幕府の処置に対して譲位の意思を示すさなか、お福は大御所秀忠の内意を受け上洛し、
公卿三条西家の娘として参内する資格を得て後水尾天皇や中宮和子に拝謁し、天盃と「春日局」の称号を賜った。
春日局との縁故で、幕府に登用されたものは多く、夫稲葉正成は大名、子正勝は老中、兄斎藤利宗、三存、娘婿堀田正吉は旗本になっている。
また、正吉の子正盛は、老中を経て家光側近随一の重臣に取り立てられた。
晩年は、湯島に屋敷を賜り、天澤寺(のち麟祥院)を建立し余生を過ごした。
寛永20年9月14日申の上刻(午後3時過ぎ頃)寂(享年65)。法名は麟祥院殿従二位仁淵了義大姉と諡号された。
春日局は次の二首の辞世を残しており、自筆の書付が淀稲葉家文書に伝来している。
  今日までは 乾く間もなく 恨みわび 何死に迷う あけぼのの空
  西に入る月を誘(いざな)い法をへて 今日ぞ家宅を逃れけるかな
墓所は東京都文京区の湯島麟祥院と神奈川県小田原市の紹太寺(稲葉一族墓所)にある。

高野山奥の院にある春日局供養塔は、花崗岩製の五輪塔で、御廟橋と燈籠堂を結ぶ参道東側にある。
五輪塔前に一対の石燈籠と「春日局及佐久間将監墓所」と記した案内柱が建てられている。
木下浩良氏の「戦国武将と高野山奥の院石塔の銘文を読む」によると、地輪に次のように刻されている。
寛永十七年七月十二日
(ア) 麟祥院殿仁淵
義尼大姉
稲葉春日局逆修

寛永17年(1640)に、春日局が生前に逆修供養をして建立したものである。
許可を得て撮影された五輪塔の写真は、文芸ジャンキーパラダイスに載せられている。

佐久間将監実勝(1570-1642)は織豊、江戸時代の武士、茶人である。
豊臣秀吉の小姓を経て、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、作事奉行をつとめた。
横浜市の三渓園にある聴秋閣は、徳川家光の命を受けて幕臣佐久間将監実勝が二条城内に建築し、家光の乳母であった春日局に下賜されたものである。
建築後、春日家の実家である稲葉家に移築された。
佐久間将監は、古田織部に茶道を学び、晩年、京都大徳寺に寸松庵を建てて号とした。
寛永19年10月22日に73歳で死去した。
江戸時代に作られた紀伊國名所図会の奥の院図面では、「イナバ春日」のすぐ北側に「さくま将監」が描かれている。
一方、昭和57年刊行の水原堯榮氏「高野山金石図説」によると、佐久間将監實勝供養塔(高さ七尺五寸)は、御供所西方丘上北向にある。

春日局は金戒光明寺とも縁が深く、寛永5年(1628)2月15日一山供養により、二代将軍秀忠正室お江与の供養塔を建立、同年極楽橋(木造)再建、寛永11年(1634)駿河大納言忠長の供養塔を建立した。
金戒光明寺に春日局供養塔があり、寺の過去帳には、「麟祥院殿月窓崇山大姉」と記されている。→ 高野山の浅井三姉妹ゆかりの地

御供所   嘗試地蔵

奥の院御供所(ごくしょ)は、和歌山県高野山にある。
弘法大師御廟に奉仕するため、小さな庵を建てたのが始まりといわれる。
現在でも、弘法大師に供える日々の生身供(しょうじんぐ)を御供所で作り、毎日午前6時と午前10時30分の2回、僧侶が御廟に運んでいる。
御供所の北側には嘗試地蔵(あじみじぞう)がある。
この地蔵のもとは、愛漫(あいまん)・愛語(あいご)と呼ばれる弘法大師の食事の世話をした二人の弟子が、御廟橋の傍に「御厨明神(みくりやみょうじん)」として祀られていたものだといわれている。
御供所で調理され櫃に入れられた弘法大師の食事は、維那(ゆいな)と行法師(ぎょうぼうし)と呼ばれる僧侶が、嘗試地蔵前に供えた後に、御廟前の燈籠堂まで運ばれる。
これは、現在も御廟で空海が永遠の禅定に入って後世の人々を見守っているという「弘法大師信仰」に基づくものである。
南海電鉄高野線高野山駅から南海バス「奥の院前」下車、徒歩20分。乗用車の場合は、中の橋の無料駐車場を利用する。




高浜虚子句碑

高浜虚子句碑は、和歌山県高野山奥の院御供所南側にある。
「炎天の空美しや高野山」の句が刻されている。
裏面には、「昭和廿六年六月十日 金剛峯寺 第一回高野山俳句大会記念」とある。
昭和2年の句で、昭和26年6月の高野山俳句大会に際して、金剛峯寺境内に建立された。

高浜虚子(1874-1959)は、明治から昭和にかけての俳人、小説家である。
本名は清で、父は旧松山藩剣術指南役の池内信夫である。
松山市に生まれて、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規に師事した。
松山で創刊された「ホトトギス」を東京に移して、俳句と文章の発表を続け、1905年からは夏目漱石の「吾輩は猫である」をホトトギスに連載している。
高浜虚子は高野山を訪れた際に次の句を作っている。
「こなたへと法(のり)の高野の道おしへ」
「月の坂高野の僧に逢ふばかり」
昭和29年文化勲章を受章し、昭和34年(1959)に85歳で没する時に「人の世の今日は高野の牡丹見る」と詠んだという。



浅野内匠頭墓所

浅野内匠頭墓所は、和歌山県高野山奥の院の御供所西約100mのところにある。
浅野長矩(1667-1701)は、広島浅野家の分家で播磨赤穂城主である。
延宝8年(1680)に従五位下内匠頭(たくみのかみ)となった。
元禄14年(1701)に、幕府から勅使の御馳走役を命じられたが、
江戸城本丸の松之廊下で吉良上野介に斬りかかり、切腹して領地も没収された。
中央の墓石は、浅野長矩のもので、「冷光院殿前朝散大夫吹毛玄利大居士」と刻まれている。
家老の大石内蔵助(良雄)が施主となり、元禄15年(1702)6月8日に建立した。
内蔵助は、この年5月に赤穂遠林寺の祐海を高野山に遣わして亡君の法要を行った。
法要には、元赤穂藩士、早水藤左衛門と近松勘六が同行している。
向かって左の墓石は、赤穂四十七士菩提碑で「忠誠院刃宝淨劔居士外四十六士各霊」と刻まれている。
大正13年(1924)に高野山中学校(現高野山高校)の同窓会が建立した。
右の墓は、大石内蔵助の叔父 大石良重のものである。
南海高野線高野山駅から、奥の院前下車、徒歩15分。中の橋駐車場が利用できる。




稲畑汀子句碑

稲畑汀子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院其角句碑と御供所を結ぶ参道の中間地点にある。
石碑には次のように刻されている。
(前面)  萬丈の杉の深さや五月闇  
                   汀子
(裏面)  平成十一年十一月七日
        総本山 金剛峯寺

五月闇は、夏の季語で、梅雨時のころの鬱蒼とした暗さをいう。
稲畑汀子(1931-2022)は、昭和後期から平成時代の俳人である。
高浜虚子の孫、高浜年尾の次女で、稲畑順三と結婚した。
父の高浜年尾没後、昭和54年(1979)から「ホトトギス」を主宰した。
花鳥諷詠をとなえた祖父の作風を引き継ぎ、昭和62年に日本伝統俳句協会を設立し、会長となった。
平成25年「ホトトギス」の主宰を長男 稲畑広太郎(廣太郎)に引き継いで名誉主宰となった。→ 高浜虚子句碑 高浜年尾句碑




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