どうする家康 そぞろ歩き in 高野山

NHK大河ドラマ どうする家康 関係の高野山内ゆかりの地をご案内します。

徳川家霊台

徳川家霊台は、和歌山県高野町にある2棟の霊屋である。
三代将軍家光が、大檀主となり創建されたもので、十数年の歳月をかけ1643年に落成した。
左右同じ二棟の建築物からなり、向かって右が家康霊屋、左が秀忠霊屋である。
建物は、三間四方の一重宝形造で、江戸時代の代表的霊廟建築として重要文化財に指定されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「波切不動前」下車。





伊勢桑名松平家供養塔 奥平信昌夫人 亀姫供養塔

伊勢桑名松平(奥平)家供養塔は、和歌山県高野山奥の院22町石南西にある。
紀州初代藩主 徳川頼宣供養塔の東側にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓域内には、大型五輪塔2基と中・小型五輪塔4基がある。
参道に面したところには、巨大な五輪塔が2基建立されている。
東側の供養塔は、奥平信昌夫人亀姫供養塔である。
亀姫(盛徳院)は、徳川家康の長女で、母は築山御前である。二代将軍徳川秀忠や、紀伊頼宣は、弟にあたる。
徳川家康は、関ヶ原の戦いの翌年、娘 亀姫の婿 奥平信昌を美濃加納に送った。→ 奥平信昌供養塔
加納には織田信長が築いた岐阜城があり、中山道も通る要衝で、家康が重視していた場所である。
西側の低い方の供養塔は、美濃加納藩3代藩主の奥平忠隆供養塔である。
奥平家は、寛永9年(1632)に忠隆が25歳で死亡し、死後に生まれた息子の右京は病弱で家督相続が認められず、改易となった。
奥田信昌の四男忠明を祖とする松平(奥平)家は、転封が続き、伊勢桑名藩を経て、武蔵忍藩主で明治維新を迎えている。
上記の調査報告書によると、当地墓所の奥(南側)には、伊勢桑名藩6代藩主 奥平忠翼供養塔がある。


武田信玄勝頼墓所

武田信玄勝頼墓所は、和歌山県高野山の奥の院22町石の南にある。
武田信玄(1521-1573)は、好敵手上杉謙信とともに乱世を生きた戦国武将である。
性格直情の中にも文を学び、神仏に帰依した。
戦国武将らしく簡素な墓石は、上杉家の霊廟に比べて、却って人の心に迫るものがある。
向かって左が武田信玄、右がその子武田勝頼(1546-1582)の供養塔である。

信玄の五輪塔地輪には、次のように刻されている。
(前面) 俗名 武田信玄
     (梵字ア) 恵林寺殿
(裏面) 天正元酉年四月十二日
                逝去
     天正乙亥年三月六日建立

勝頼の碑面には、次のように刻されている。
(前面) 俗名 勝頼
     (梵字ア) 法泉院殿
(裏面) 天正十年三月十一日逝去

菩提所は、成慶院(せいけいいん)で、和歌山県の史跡に指定されている。
南海高野線高野山駅からバスで玉川通下車、徒歩10分。





淀君、豊臣秀頼五輪塔

淀君、豊臣秀頼五輪塔は、和歌山県高野山奥の院の上杉謙信霊屋西側にある。
淀君(1567年-1615年)は、豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母である。
父は、近江浅井郡小谷城主の浅井長政、母は織田信長の妹 お市の方である。→ 浅井三姉妹ゆかりの地
天正元年(1573年)に信長に包囲された小谷城から、母妹とともに脱出した。
1582年に柴田勝家に再嫁した母に従い、越前北之庄(福井)城に入った。
1583年に北之庄(福井)城が落城し、豊臣秀吉に庇護された。
その後、秀吉の側室となり、鶴松と秀頼を生み、元和元年(1615年)に大坂城落城により、秀頼とともに自刃した。

二基の五輪塔は、大きく欠損していたが、令和5年(2023)に修復された。

淀君五輪塔の総高は295cmで、墓石には、次のように刻されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)大虞院殿英岩大禅定尼尊儀
 慶長貮十乙卯年五月七日
淀君の墓所は、大阪市北区の太融寺にある。

豊臣秀頼五輪塔は、総高302cmで、銘文は、次のように記されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)嵩陽院殿秀山大居士尊儀
 慶長貮十乙卯年五月七日
秀頼の首塚は、京都市の清凉寺にある。 → 高野山奥の院豊臣家墓所




修復前の写真


越後高田榊原家供養塔

越後高田 榊原家供養塔(上州館林 榊原康政墓所)は、和歌山県高野山奥の院23町石西にある。
当地墓所には、康政供養塔を中心に、大型五輪塔5基、中型五輪塔4基などの石塔が建てられている。
中央の五輪塔地輪正面には、次のように刻されている。
上刕舘林城主榊原
式部太輔源朝臣康政
      養(異体字)林院太守職
(梵字)
      上誉見向覚位
施主
孝子榊原遠江守康勝
慶長十一丙午天五月十四日

榊原康政(1548-1606)は、上野国館林藩の初代藩主である。
はじめは酒井忠尚の家臣で、永禄3年(1560)岡崎に帰城した徳川家康に属し近臣となった。
三河一向一揆に初陣し、家康の一字を与えられ、永禄末年に旗本一手の軍団を指揮する武将に取り立てられた。
徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑に数えられ、家康の関東入国時に館林で10万石を与えられた。


井伊掃部頭霊屋

井伊掃部頭霊屋(墓所(廟))は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院23町石北東に位置し、鳥取池田家供養塔(池田恒興)の北側斜面上段にある。
井伊掃部頭霊屋前には、井伊直弼供養塔が建立されている。

史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、内部に宝篋印塔一基があり、建立時期は「江戸中期か」と記されており、次の記述がある。
「(奥の院の)古絵図には現在霊屋が立つ場所を含め、その他の場所にも複数の「井伊掃部頭」と記された墓所(五輪塔及び霊屋)が確認される。
複数の古絵図で現在位置に霊屋が2棟描かれているが、いずれも屋根形式が入母屋造となっており、当霊屋を示すものかどうかは俄に判断できない。
当霊屋が祀る対象を含め、今後の研究が期待される。」
上記報告書の地区平面図には、当地墓所は「井伊直政霊屋」と記されている。

岩堀元樹氏の「高野山奥の院 家康関係者墓碑」によると、霊屋内部の宝篋印塔の写真が掲載されており、井伊直政の墓碑と紹介されている。

井伊直政(1561-1602)は、徳川家康の重臣である。
遠江の名族 井伊氏の嫡子として、井伊谷(いいのや)に生まれた。
父 直親(なおちか)は、織田、徳川氏と通じているとの理由で、主君今川氏真(うじざね)によって謀殺されたが、当時2歳の直政は死を免れ、天正3年(1575)15歳の時に浜松で徳川家康に対面し、小姓に取り立てられた。
以後、家康旗本軍の有力武将となり、政務にも重要な役割を果たして、徳川家臣団の第一人者となった。
直政軍団の主力は武田氏旧臣で兵具を赤色としたので、井伊の赤備(あかぞなえ)と呼ばれ、直政は「赤鬼」の異称があった。
関ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに監軍で諸大名を指示し、戦後は近江佐和山城で18万石を領した。


明智光秀供養塔

明智光秀供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある五輪塔である。
奥の院内24町石から約30m東に参道を進むと、右側に「右光秀公之墓」の石碑があり、約20m先に「明智光秀墓所」「菩提寺恵光院」の表示がある。

江戸時代の紀伊名所図会には、次のように記されている。
  〇明智碑(あけちのひ)
   同上(かみにおなじ) 世俗(せぞく)日向守光秀(ひうがのかみみつひで)の墓といふ。
   梵字のゆがめるを以てその名を負(おふ)せたるならむ。
   是全(これまったく)光秀の碑にはあらざれども、不忠を誡(いまし)むるに足るべし。
明治30年刊の高野山独案内名霊集には、次のように記されている。
  明智光秀墓
   中の橋に程近き。道邊に割れし五輪あり。童子(わらべ)までも云ひ傳ふ。
   主人を殺せし天罰に。その身は土民の手に罹り。最後を遂げしのみならず。
   菩提の為と建てられし。石塔さへも粉な微塵。割れて悪名残すとぞ。

明智光秀(1528?-1582)は、安土桃山時代の武将で、通称十兵衛といわれた。
明智氏は美濃土岐の一族であったが、光秀は越前の朝倉義景(よしかげ)に仕え、のち織田信長の家臣となった。
将軍足利義昭と信長の間を取り持ち、公家との交渉にも手腕を発揮した。
元亀2年(1571)近江坂本城主となり、天正3年(1575)惟任(これとう)日向守と称して丹波攻略に着手した。
丹後平定の後、大和、摂津等の諸武将を束ね、近畿を統率する地位となった。
天正10年(1582)、中国地方征伐を命ぜられ、6月1日夜、亀山から出陣したが、「敵は本能寺にあり」として京都に向かい、翌2日に織田信長を襲い自刃させ、織田信忠を二条城で囲んで敗死させた。(本能寺の変)
しかし、予想外の速さで羽柴秀吉が毛利氏と和して東上したため、山崎の戦で敗れ、敗走の途中、小栗栖(おぐるす)で農民に竹槍で刺され、最期を遂げた。
法名は明窓玄智。(西教寺墓、過去帳は秀岳宗光大禅定門。)→ 明智光秀ゆかりの地 

明智光秀供養塔(総高178cm)は、光秀家臣の津田重久(しげひさ)が、山崎から高野山に逃れ、主君光秀の追善供養を依頼して建立されたといわれる。
菩提寺恵光院の過去帳には、「天正十年七月十四日 大瀧寺殿惟任義盛明鑑光秀大禅定門」という明智光秀と思われる戒名が残されている。

また「寛永三年(1626)六月七日 寶亀院賢室艶顔良英大姉」という女性の戒名の横に「俗名 ヲモン 光秀の子」と添え書きされている。
この ヲモンの過去帳は昭和4年(1929)に縁者の長野県須坂市の久田家が、一族の永代供養に恵光院を訪れた時の記録として記されたものである。
「久田家の口伝として、ヲモンは光秀の娘として四歳の時、高野山より鎧櫃の中に入れ、根来の膳椀百人前を添えて信州墨坂の郷へ落とすものなりと云う添え書きを附して久田家へ来たりしものなり」
昭和4年の記録によると、明智光秀が山崎の戦いで敗れた時、娘のおもんは高野山に逃れたが、豊臣秀吉の力が高野山にも及びだしたため、4歳のおもんが須坂の久田家に落ち延びたことがわかる。
久田家に伝えられた膳椀も、昭和初期に恵光院に納められ、現在も保管されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩15分。奥の院前バス停西側の路側帯駐車スペースを利用できる。




伊勢桑名城主 本多忠勝供養塔

伊勢桑名城主本多忠勝供養塔は、和歌山県高野山奥の院の25町石東にある。
宝篋印塔が2基建てられており、向かって右の高い方が本多忠勝供養塔、左の低い方が本多忠勝夫人於久(おひさ)の方供養塔である。

本多忠勝供養塔には、次のように刻されている。
   生國三刕岡崎住人
       今勢刕桒名城主
    本多中書 藤原朝臣忠勝
   西岸寺殿前中書
   長譽良信居士
    施主藤原朝臣本多美濃守
              忠政敬白
    慶長十五庚戌天十月十八日

本多忠勝夫人於久(おひさ)の方供養塔には、次のように刻されている。
    勢州桒名城主
    藤原朝臣忠勝内室
    見性院殿
    蓮譽光信大姉
   施主本多美濃守忠政
   慶長十八丑歳九月十四日

本多忠勝(1548-1610)は、徳川家康に仕えた武将で、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれた。
父は忠高、母は植村新六郎氏義の女で、幼名鍋之助、通称平八郎と呼ばれた。
武功によって頭角を現し、武田信玄との戦いでも勇敢に戦い、信玄の小杉左近は、
「家康に過ぎたるものが二つあり唐(から)の頭(かしら)に本多平八」とうたったという。
天正18年(1590)上総国(千葉県)大多喜城主(10万石)となり、慶長6年(1601)伊勢桑名(10万石)に移封となり、同地で没した。
墓所は、桑名市清水町の浄土寺にある。

東側に大型五輪塔が2基あり、参道側は大和国郡山新田藩(現在の奈良県)初代藩主本多政信(1634-1662)供養塔である。
忠勝の長男 本多忠政(後に姫路藩の初代藩主)の次男 本多政朝の次男が本多政信である。→ 姫路城主 本多忠政供養塔
西側参道側の五輪塔は、浜田藩二代藩主本多忠盈(ただみつ)(1732-1767)供養塔である。本多忠勝の九代目の子孫にあたる。



信州高遠鳥居家供養塔

信州高遠鳥居家供養塔は、和歌山県高野山奥の院28町石南にある。
鳥居の南側に、五輪塔が東西方向に一列に並んでおり、東から順に次の藩主等の供養塔がある。

 藩主名等  没年等   法名  備考
 高遠藩初代藩主 鳥居忠春  寛文3年(1663)  本光院殿  
 山形藩2代藩主  鳥居忠恒  寛永13年(1636)  孝徳寺殿  
 徳川家康重臣   鳥居元忠  慶長5年(1600)  龍見院殿  
 山形藩初代藩主 鳥居忠政  寛永5年(1628)建立  俊嶽院殿  
 鳥居忠政娘     松月院  慶安2年(1649)  松月院殿  

鳥居元忠(1639-1600)は、三河国渡河内で鳥居忠吉の子として生まれ、幼少より徳川家康の側近として仕えた。
姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦いなどで功をたて、天正18年(1590)徳川家康の関東入国にあたり、下総矢作(やはぎ)城主(4万石)となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前、徳川家康の命により、伏見城の総大将として1800人の家臣とともに残った。
そのため、伏見城は同年7月19日から始まる西軍4万の総攻撃を受け、8月1日に落城し、元忠も自刃した。
墓所は、京都市左京区の知恩寺にある。また、養源院などには、元忠自刃の際の血のついた床板が、「血天井」として残されている。

鳥居元忠の嫡子 鳥居忠政は、出羽山形に24万石を有する大名となったが、元忠の孫 鳥居忠恒で無嗣断絶となった。
しかし、元忠の功績に鑑みた幕府の計らいにより、忠恒の弟 鳥居忠春が信濃高遠に領地を与えられ、改めて大名となった。
鳥居家はその後改易を経て、下野壬生藩で明治維新を迎えている。

天樹院千姫供養塔

天樹院千姫供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
千姫(1597-1666)は、徳川二代将軍秀忠の長女で、母は正室浅井氏お江(崇源院)である。
慶長8年(1603年)7歳の時に、11歳の豊臣秀頼に嫁した。
元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣で、大坂城落城の前夜に坂崎出羽守直盛に救い出され、江戸に送られた。
翌年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁し、忠政が姫路に転封となったので、夫婦で姫路城に移った。
寛永3年(1626年)本多忠刻が病没したので、千姫は江戸城に戻り、落飾して天樹院と称し、竹橋御殿ですごし、墓石にあるように、寛文6年(1666年)に没した。(享年70歳)
五輪塔は、母親の崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔の西側に建てられている。
地輪正面には、次のように刻されている。
 大相國秀忠公御息女也
 天樹院殿栄誉
 源法松山禅定尼
 寛文六丙午天二月六日
千姫の墓所は、東京都小石川傳通院(伝通院)、茨城県常総市天樹院弘経寺、京都市知恩院にある。
大坂城脱出の際、徳川家康は姫を救出したものに千姫を与えると言っていたとして、再嫁のときに坂崎出羽守直盛が騒動を起こし殺害された事件は、よく知られている。
千姫は、大坂城落城の際、豊臣秀頼と側室の間に生まれた天秀尼を助け、天秀尼は鎌倉東慶院で尼僧となり生涯を終えた。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩約15分。中の橋駐車場を利用できる。→ 周辺石塔の案内






崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔

崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院墓石群の中で最も大きい(高さ6.6m)ことから、「一番石」の名で広く知られている。
この供養塔は、徳川秀忠の次男駿河大納言忠長が、母崇源院(江姫)(1573年-1626年)の追善供養のため、寛永4年(1627年)に建立したものである。
地輪正面には、お江の法名「崇源院殿一品太夫人昌誉大禅定尼」が刻まれている。
江姫は、浅井長政と織田信長の妹お市の方の末娘で、豊臣秀吉の側室淀君の妹である。
お江の最初の婚姻相手は、佐治一成で、豊臣秀吉により離縁させられた。
2度目の結婚相手は、秀吉の甥の豊臣秀勝であったが死別した。
その後、徳川二代将軍秀忠の正室として、戦国時代から江戸時代にかけて波乱万丈の人生を送り、寛永3年(1626年)に享年54で死去した。
お江は、死後江戸の増上寺で荼毘に付されて埋葬されたが、その荼毘の火は、奥の院燈籠堂の火が使われた。
平成23年のNHK大河ドラマ「江」のヒロインとしてとりあげられている。
菩提所は、高野山の蓮花院で、和歌山県の指定史跡となっている。
奥の院21町石付近には、源(徳川)秀忠公御台所六角宝塔(崇源院殿墓)がある。
京都市左京区の金戒光明寺には、春日局が建立したお江供養塔駿河大納言忠長供養塔がある。
京都市東山区の養源院には、江姫の五女 東福門院和子が建立した崇源院宝篋印塔がある。

福田千鶴氏「江の生涯」では、江の戒名は「崇源院殿昌誉和興仁清」で、一般に「すうげんいん」(国史大辞典ほか)と読まれているが、
春日局が著したと推定される「東照大権現祝詞」のなかで「そうげんいんさま」と読まれ、「寛永諸家系図伝」仮名本(寛永20年(1643)編纂)において、「そうげんゐんでん」の読み仮名がつけられていることから、
同時代的には「そうげんいん」と称されていたとするのが正しい、としている。

南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩約15分。中の橋駐車場を利用できる。 → 高野山の浅井三姉妹ゆかりの地





浅井長政供養塔

浅井長政供養塔は、和歌山県高野山の奥の院31町石南東にある。
浅井長政(1545-1573)は戦国時代の北近江の大名で、幼名は猿夜叉丸、備前守と称した。
浅井氏の3代目として全盛期を築いたが、姉川の合戦などの織田信長との戦いに敗れて、天正元年(1573)小谷城において29歳で自害した。→ 徳勝寺 浅井三代墓
供養塔は京極高次に嫁いだ次女のお初(常高院)が建立したといわれ、大津籠城戦死者供養塔京極家供養塔、京極高次供養塔の東側にある。
宝篋印塔の銘文は、次のように刻されている。
   江刕浅井備前守殿
   爲天英宗清大居士菩提
   文禄元年九月朔日

なお、浅井長政の長女 淀殿は、天正17年(1589)に鶴松を産み、父母の追善供養(父17回忌及び母お市の方7回忌)を豊臣秀吉に願い出た。
この時に書かれた浅井長政画像とお市の方画像は、高野山持明院に残されている。
そして鶴松の病死後、文禄2年(1593)8月3日に豊臣秀頼を産んでいる。
この年は、亡き父浅井長政の二十一回忌に当たっていたため、淀殿は秀吉に「亡父浅井長政の菩提のために一寺を建立したい」と願い出て、文禄3年5月に養源院が建立された。
浅井長政の三女 お江が、徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍の家光を生んだため、浅井長政は将軍家光の外祖父となり、寛永9年に従二位中納言の官位が授与されている。
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩15分。→ 高野山 浅井三姉妹ゆかりの地



尾張徳川家供養塔

尾張徳川家供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院32町石(安芸浅野家供養塔)東側の玉川沿い参道にある。
徳川義直が母 お亀の方の菩提を弔うために建立した。
墓石地輪には、次のように刻されている。
   寛永十九壬午年(1642)潤(閏)九月十六日
        相應院殿
(梵字)    信譽公安
        大禅定尼
     施主 孝子尾張大納言源義直建立

お亀の方(1573-1642)は、徳川家康の側室である。
天正元年に生まれ、石清水八幡宮の祠官 志水宗清(しみずむねきよ)の養女となった。
竹腰正時に嫁し、夫の死後 徳川家康の寵愛を受けて仙千代(早世)と五郎田丸(後の徳川義直)を産んだ。
家康没後は尼となり、相應院と称した。寛永19年閏(うるう)9月16日死去。70歳。

徳川義直(1600-1650)は、徳川家康の第九子で、徳川御三家の筆頭尾張家の祖である。
関ヶ原の合戦の年である慶長5年(1600)11月28日に、大坂城西の丸で お亀の方(相應院)(1573-1642)を母として生まれた。
慶長12年(1607)に尾張藩主となり、慶長15年新たに築かれた名古屋城主となった。
元和元年(1615)には浅野幸長(よしなが)の娘と結婚した。


松平(結城)秀康及び同母霊屋

松平(結城)秀康及び同母霊屋は、和歌山県高野山奥の院の越前松平家の墓所にある。
松平(結城)秀康(1574-1607)は、越前福井藩の初代藩主である。
徳川家康の二男で、生母は永見吉英の娘 於万(おまん)の方である。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの講話の際に、豊臣秀吉の養子となって羽柴秀康と名乗った。
1590年下総(茨城県)の結城晴朝(はるとも)の養嗣子(ようしし)に入り10万1000石となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功によって、越前68万石へ加増転封され、慶長12年に34歳で病没した。→ 結城秀康公騎馬像
向かって右の霊屋が、松平秀康を祀るもので、慶長12年(1607年)に、越前福井藩二代目当主忠直によって建立された。→ 越前福井(北ノ庄)藩主 松平忠直供養塔
三方の石壁には、二十五菩薩の浮彫仏像が彫刻されており、内部には、一族5人の宝篋印塔がある。
石廟を建立した結城忠直は、乱行が理由で元和5年(1619年)豊後萩原に流罪となり、竹中采女正に預けられ、慶安3年(1650年)に56歳で死去した。
左側は、秀康自身が母公を祀るため、慶長9年(1604年)に建立したものである。
2棟とも越前の笏谷石が用いられ、幅奥行きとも7.5mの二基の石廟が並んだ形で、瓦、壁、柱、扉に至るまですべて石造りとし、木材はほとんど使用されていない。
笏谷石(しゃくだにいし)は、火山灰などが固まった凝灰岩の一種で、鉱物の変性による緑がかった色が特徴といわれる。
越前丸岡城では、屋根が笏谷石で葺かれている。
国の重要文化財に指定されており、世界遺産にも登録されている。




姫路城主 本多忠政夫人(熊姫)供養塔

姫路城主 本多忠政夫人(熊姫)供養塔は、和歌山県高野山奥の院32町石北東にある。
松平(結城)秀康及び同母霊屋の北側に隣接しており、「高野山奥の院の墓碑を訪ねて」(案内図)には、「三河本多美濃家供養塔」と表示されている。
五輪塔地輪には次のように刻されている。
生國三刕岡崎今者播刕姫路之
城主本多美濃守御前方御菩提
      妙光院殿
(梵字)
      快窓祏慶大姉
施主孝子本多甲斐守同能登守建之
  □寛永三丙寅年六月廿五日
(裏面)
宿坊 五之室
大徳院 宥雅

本多忠政(1575-1631)は、徳川家康重臣であった本多忠勝の長男である。→ 伊勢桑名城主 本多忠勝供養塔
父とともに家康に仕え、天正18年(1590)小田原征伐で初陣を果たし、父とともに岩槻城を攻めて軍功をあらわした。
そして、家康の長男 岡崎三郎信康の次女 熊姫を娶っている。→ 姫路城主 本多忠政供養塔

熊姫(妙光院)(1577-1626)は、松平信康の次女として岡崎城に生まれた。母は、徳姫(織田信長長女)である。
天正7年(1579)に父が切腹した後は、祖父徳川家康と側室の西部局に養育された。
本多忠政の正室となった後、3男2女を儲けた。
寛永3年(1626)6月25日に死去し、墓所は姫路の久松寺にある。
当地の五輪塔を建立したのは、次男の本多甲斐守政朝と三男の本多能登守忠義である。


豊臣家墓所

豊臣家墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
この墓所には、豊臣秀吉(1537-1598)とその母、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓がある。
現在、石塔が11基並んでいる。
そのうち、中央の1基(303cm)は、昭和15年(1940年)、豊公会によって造立されたもので、京都の豊国廟から霊土を移したという。
五輪塔の正面には、「豊臣太閤秀吉公之墓」と記されている。
この五輪塔の内部には、秀吉の衣冠束帯姿の古い木造が納められている。

紀伊名所図会には、江戸時代の奥の院が描かれており、そこには10基の石塔が描かれている。
また、宝永4年(1707)に描かれた「奥の院絵図」(金剛峯寺蔵)には、下の写真の通り10基の石塔が描かれ、8基には次の通り石塔名が記されている。
大納言殿北方、大光院殿前亜相、太閤秀吉公、春厳貞松、前関白秀次公、石田治部少輔、三位法印、御上臈

「紀伊国金石文集成」「和歌山県の文化財第一巻」「近世大名墓の成立」「高野山金石図説」「高野山資料ー五輪塔拓影集」「木下浩良氏講演資料」によると、次の石塔が説明されている。
①宝篋印塔 総高 四尺八寸
 (銘文)不明(剥落して文字無し)
②三位後室逆修塔(L3) 豊臣秀吉の姉 豊臣秀次の母 「智(とも)の方」123.5cm → 瑞龍寺(村雲御所) 豊臣秀次の墓(高野山光臺院)、瑞泉寺
 (銘文)天正廿年 ア 三位法印後室 逆修 五月七日
③法性院殿五輪塔 総高六尺 水輪以上の四輪は他石
 (銘文)施主生國相刕住 浅野清兵衛 友重立之
     法性院殿 ア 爲 菩提 接譽得授大姉 慶安四天三月廿一日入寂
④北方慈雲院逆修塔(L1) 豊臣秀長の正室 198cm
 (銘文)大納言殿北方慈雲院 ア 芳室紹慶 逆修 天正十九年五月七日
⑤豊臣秀長塔(R1) 豊臣秀吉の異父弟 総高六尺
 (銘文)大光院殿前亜相 ア 春岳紹榮大居士 天正十九年正月廿二 → 大光院 大納言塚
⑥青厳貞松逆修塔(R2) 豊臣秀吉の母堂 170cm
 (銘文)天正十五年 ア 青厳貞松 逆修 六月(三月)廿一日
⑦五輪塔地輪の上に不動明王石仏 勝海院殿 → 安芸浅野家供養塔(浅野長勝 勝海院)
 (銘文)法印隆観 泰春房 寶歴廿?辰 六月三日寂
     勝海院殿 ア 金光居士 天正三乙亥九月八日寂     
⑧樹正院殿五輪塔 秀吉養子息女 豪姫(前田利家四女、宇喜田秀家正室) → 金沢市野田山の前田家墓所
 (銘文)前相國秀吉公御養子 息女 樹正院殿 ア 逆修 命室壽光
     慶長廿年卯月十五日
⑨玉厳麟公神童塔(L2) 豊臣秀吉の長男 鶴松 180cm → 京都市妙心寺 塔頭玉鳳院
 (銘文)天正廿秊 ア 玉厳麟公神童 浅野弾正少弼造之 二月時正
⑩御上臈逆修塔(R5) 豊臣秀吉の側室淀殿 (秀吉正室 北政所ねね(おね)との説もあり) 170cm
 (銘文)天正十七己丑 ア 御上臈 逆修 七月初三日 → 淀君 豊臣秀頼五輪塔 太融寺 高台寺

浅野弾正は、浅野長政(浅野長勝養子)である。 豊臣秀吉の正室高台院も浅野長勝養女であった。→ 高台寺
京都市東山区の阿弥陀ケ峰山頂(標高196m)には、豊臣秀吉の墓所豊国廟がある。
例年、豊臣秀吉命日の8月18日には、当地の豊臣家墓所で、豊太閤忌の法要が行われ、読経に続いて、「南無豊国大明神」という神号が唱えられる。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。






織田信長墓所

織田信長墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院御廟橋南西にある砂岩製五輪塔の高さは、230cmで、銘文には次のように記されている。

天正十年六月二日
總見寺殿
(梵字ア)贈大相國一品
泰巖大居士
御宿坊悉地院

織田信長(1534-1582)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で亡くなっている。
この五輪塔の形式は江戸時代中期のもので、後世建立されたものと言われている。
当地墓所北東には、織田信長の孫が初代藩主となった上野小幡藩 織田家供養塔がある。
京都市上京区の阿弥陀寺には、織田信長公本廟がある。
後継者の豊臣秀吉が信長の菩提を弔うために建立した大徳寺塔頭 総見院には、信長公一族墓碑がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。参拝者用の中の橋駐車場がある。→ 織田信長墓所周辺の石塔





春日局供養塔

春日局供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。

春日局(1579-1643)は、徳川三代将軍家光の乳母で、名は斎藤福(稲葉福)、通称お福と呼ばれた。
父は、明智光秀家臣の斎藤利三(としみつ)で、母は、稲葉一鉄の娘で稲葉あんである。
天正7年(1579)、丹波国春部荘(現兵庫県丹波市春日町)で生まれた。
父の斎藤利三は、天正10年(1582)の本能寺の変の後、山崎の合戦で敗れ、明智光秀とともに京で首を晒された。
お福は、母方の一族 稲葉重通(しげみち)の養女となり、文禄4年(1595)17歳の時、同養子正成(まさなり)に嫁し、稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利らを産み、将軍家の乳母となるためのち離縁した。
慶長9年(1604)二代将軍徳川秀忠の長男家光出生に際し、京都所司代 板倉勝重の推挙により乳母となった。
乳母に推挙された理由は諸説あるが、春日局の顔にはあばたがあり、当時の天然痘に罹って終生免疫を得ていたため、将軍家の世継ぎを疾病から守るため選ばれたともいわれている。
家光には二歳下の弟 忠長があり、父秀忠と正室お江の方は、忠長を寵愛し、徳川家家臣や有力大名も忠長を次期将軍とみなし始め、世継ぎの序列も逆転するような状況となった。
お福は危機感を強め、慶長15年(1610)伊勢参宮に託して駿府で大御所家康にこの旨を訴えた。
家康は鷹狩と称して江戸に上り、次期将軍は家光と定めた。これは「春日の抜参り」といわれている。
寛永3年(1626)正室お江の方(崇源院)没後は、大奥を統率し、絶大な権勢を振るうとともに、将軍家光に対しても影響力を持った。
寛永6年(1629)紫衣事件で後水尾天皇が幕府の処置に対して譲位の意思を示すさなか、お福は大御所秀忠の内意を受け上洛し、
公卿三条西家の娘として参内する資格を得て後水尾天皇や中宮和子に拝謁し、天盃と「春日局」の称号を賜った。
春日局との縁故で、幕府に登用されたものは多く、夫稲葉正成は大名、子正勝は老中、兄斎藤利宗、三存、娘婿堀田正吉は旗本になっている。
また、正吉の子正盛は、老中を経て家光側近随一の重臣に取り立てられた。
晩年は、湯島に屋敷を賜り、天澤寺(のち麟祥院)を建立し余生を過ごした。
寛永20年9月14日申の上刻(午後3時過ぎ頃)寂(享年65)。法名は麟祥院殿従二位仁淵了義大姉と諡号された。
春日局は次の二首の辞世を残しており、自筆の書付が淀稲葉家文書に伝来している。
  今日までは 乾く間もなく 恨みわび 何死に迷う あけぼのの空
  西に入る月を誘(いざな)い法をへて 今日ぞ家宅を逃れけるかな
墓所は東京都文京区の湯島麟祥院と神奈川県小田原市の紹太寺(稲葉一族墓所)にある。

高野山奥の院にある春日局供養塔は、花崗岩製の五輪塔で、御廟橋と燈籠堂を結ぶ参道東側にある。
五輪塔前に一対の石燈籠と「春日局及佐久間将監墓所」と記した案内柱が建てられている。
木下浩良氏の「戦国武将と高野山奥の院石塔の銘文を読む」によると、地輪に次のように刻されている。
寛永十七年七月十二日
(ア) 麟祥院殿仁淵
義尼大姉
稲葉春日局逆修

寛永17年(1640)に、春日局が生前に逆修供養をして建立したものである。
許可を得て撮影された五輪塔の写真は、文芸ジャンキーパラダイスに載せられている。

佐久間将監実勝(1570-1642)は織豊、江戸時代の武士、茶人である。
豊臣秀吉の小姓を経て、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、作事奉行をつとめた。
横浜市の三渓園にある聴秋閣は、徳川家光の命を受けて幕臣佐久間将監実勝が二条城内に建築し、家光の乳母であった春日局に下賜されたものである。
建築後、春日家の実家である稲葉家に移築された。
佐久間将監は、古田織部に茶道を学び、晩年、京都大徳寺に寸松庵を建てて号とした。
寛永19年10月22日に73歳で死去した。
江戸時代に作られた紀伊國名所図会の奥の院図面では、「イナバ春日」のすぐ北側に「さくま将監」が描かれている。
一方、昭和57年刊行の水原堯榮氏「高野山金石図説」によると、佐久間将監實勝供養塔(高さ七尺五寸)は、御供所西方丘上北向にある。

春日局は金戒光明寺とも縁が深く、寛永5年(1628)2月15日一山供養により、二代将軍秀忠正室お江与の供養塔を建立、同年極楽橋(木造)再建、寛永11年(1634)駿河大納言忠長の供養塔を建立した。
金戒光明寺に春日局供養塔があり、寺の過去帳には、「麟祥院殿月窓崇山大姉」と記されている。→ 高野山の浅井三姉妹ゆかりの地




織田秀信卿の墓

織田秀信卿の墓は、和歌山県高野山の光臺院にある。

愛甲昇寛氏編「高野山史料ー五輪塔拓影集ー」によると、五輪塔地輪には次のように刻されている。
慶長十年
濃刕岐阜前黄門
     圭岩貞松
(梵字)爲大善院殿
     大居士
平朝臣秀信公
七月念(廿の代用字)七日

織田秀信(1580-1605)は、織田信忠の長子で幼名は三法師と呼ばれた。
本能寺の変後、清須会議で豊臣秀吉に擁されて織田家の後継に決まり安土城に入った。
その後岐阜に移り、秀吉から一字を与えられて秀信とした。
関ケ原の戦いで石田三成につき、岐阜に籠城したが陥落し、高野山に幽閉された後、慶長10年7月27日に病死した。
橋本市には、終焉の地の碑が建てられている。
南海高野線高野山駅からバスで交番前下車、徒歩5分。前日までに光臺院に予約すると墓所に参拝できる。







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